「もつ煮」の版間の差分
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屠場の整備に伴い、畜肉加工のうち、牛一頭当たり約8.5%を占める<ref>[http://www.jlba.or.jp/bui_ushi.html 体重600kgの牛における部位別割合]</ref>食用の内臓も一定量は供給されるようになった。 |
屠場の整備に伴い、畜肉加工のうち、牛一頭当たり約8.5%を占める<ref>[http://www.jlba.or.jp/bui_ushi.html 体重600kgの牛における部位別割合]</ref>食用の内臓も一定量は供給されるようになった。 |
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[[1882年]](明治26年)ごろの東京の低所得者の生活を記録した文学である、[[松原岩五郎]]の「最暗黒の東京」<ref>松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.145</ref>には「煮込み」の記述が記されており、<blockquote> これは労働者の滋養食にして種は屠牛場の臓腑、肝、膀胱、あるいは舌筋等を買い出してこれを細かに切り-</blockquote>と書き出され、[[味噌田楽|田楽]]のように串に刺して、醤油に味噌が混ざった汁で煮込んだものと記されている。 |
[[1882年]](明治26年)ごろの東京の低所得者の生活を記録した文学である、[[松原岩五郎]]の「最暗黒の東京」<ref>松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.145</ref>には「煮込み」の記述が記されており、<blockquote> これは労働者の滋養食にして種は屠牛場の臓腑、肝、膀胱、あるいは舌筋等を買い出してこれを細かに切り-</blockquote>と書き出され、[[味噌田楽|田楽]]のように串に刺して、醤油に味噌が混ざった汁で煮込んだものと記されている。もつ煮の具体的な調理法や味付けについて明確に触れられている文献としては最古ではないかと思われる。 |
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価格は一串あたり二厘(そばが一銭から一銭二厘程度の物価)で二十串くらいを平らげるものもいると続き、腥臭がひどく一般人には向いていないとされている。もともとこの文学の成り立ちがいわゆる[[スラム|貧民窟]]といわれていた場所への潜入ルポの体裁であり、煮込みを食べる人々の職業として、肉体労働である[[人力車]]の車夫が挙げられている。また同書には夜業車夫相手に[[屋台]]のメニューにも煮込みがあると記されている<ref>松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.123</ref>他、鶏の臓物を蒲焼にしたものとして[[焼き鳥]]に関する記述もあり<ref>松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.146</ref>、これは三厘から五厘の価格となっていることから牛の臓物よりも高級品であったことが見て取れる。 |
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⚫ | 「焼き鳥」と称するとき、材料が鶏肉以外のものが含まれるのは、鶏肉の価格が他に比較して高かったことが影響している。30年ほどの開きがあるが、[[1911年]](明治44年)の時点から1950年(昭和25年)頃までは、鶏肉、豚肉、牛肉の順で高価であり<ref>佐々木道雄 著 「焼肉の文化史」p.280</ref>、内臓肉の流通と価格についてははっきりした資料がないものの、1940年頃までは内臓も同様の価格順であったことが推察され、[[第二次世界大戦後]]に[[ブロイラー]]を[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から導入するまでは価格差はそれほどなかった。そのために「最暗黒の東京」では串に刺さったもつ煮の価格よりも焼き鳥のほうが高く、永井荷風の記述における、焼き鳥という名前でありながら牛や豚の臓物が材料であるという理由が、高級食材である鶏肉に見立てていたことがうかがえる。 |
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大正から昭和にかけての文献では、[[今東光]]や[[古川緑波]]の記述として[[牛丼]](カメチャブ)について触れられており、材料には牛肉だけでなく牛のもつが使用されていたとある<ref>佐々木道雄 著 「焼肉の文化史」p.276 </ref>。 |
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=== 内臓肉の栄養価と保存性 === |
=== 内臓肉の栄養価と保存性 === |
2008年9月15日 (月) 01:59時点における版
もつ煮(もつに)とは豚または牛の内臓を煮込んだ料理の総称である。表記や呼称はもつ煮込み、もつ煮込などがあり、モツをカタカナ表記する場合もある。またより料理として親しみやすく、食欲をそそりやすい印象を持たせるためか、単に「煮込み」と呼び、臓物(ぞうもつ)= 内臓を表す「もつ」という語句を省くことがある。この項では主にその歴史的な成り立ちと日本の関東地方で食されるもつ煮を中心に記述する。
概要
居酒屋のメニューとして、また定食のおかずとしても知られている料理ではあるが、料理レシピをネット検索した結果によれば[1]、下茹でした豚または牛の小腸と生姜を臭みが取れるまでさらに茹で、具材に大根、人参、牛蒡などの根菜類とコンニャクや豆腐などを加え、醤油および味噌で味付けし、盛り付けの際に長ネギを粗みじん切りにしたものを乗せたものが一般的なイメージになっているといえる料理である。しかしながらラーメンなどと同様に、料理は民間伝承で材料も味付けも時期や地域によって差が生じるものであり、根幹となる「もつを煮込む」以外の枝葉の部分は枚挙に暇がない。
地域差
肉食文化において内臓は概ね安価であるが独特の臭いがあり、それを押さえるため、ワインやトマト、ニンニク等で煮込まれることが多い。そのため、もつ煮に類した料理は、大衆料理や郷土料理として、伝統的に世界中で食されている。
イタリア
イタリアには「トリッパ」(trippaという語句自体が胃という意味がある)というトマトをベースにした味付けで牛の内臓を煮込む料理がある[2]。
フランス
フランスでは内臓全般をトリップと呼び、一般的な食材とする。アンドゥイエットのように豚の腸に詰めてソーセージのようにするほか、カン風トリップのように煮込み料理にもされる。
スペイン
スペインにはカジョスもしくはカロス(callos)と呼ばれる牛の胃を赤ワインで煮込んだ料理がある。
アメリカ
アフリカ系アメリカ人の伝統文化として、豚や牛の内臓を煮込んだ料理がソウルフードとして食べられている。チタリングスは豚の腸のことであるが、煮込み料理そのもののことも指す。
日本
大まかな日本各地のもつ煮、およびそれに類する料理を挙げていくと、北海道では赤平炭鉱において馬のナンコウ鍋と呼ばれる料理が、江戸時代中期ごろより存在した。このナンコウ鍋は基本的には馬肉を煮込んだ料理であるが、その出自からもともとは内臓肉を含むとされている。[3]「なんこ鍋」とも呼ばれ、秋田県の鉱山坑夫の間で始まったものが北海道に渡り、歌志内市など北海道各地の郷土料理として残っているとされる[4]。また上記文献の著者自身の実体験談として、実家が秋田県で博労(馬喰とも表記する)をしていたせいもあり母親が豚の内臓を煮込んで食べた経験があるとしている[5]。
中部地方のもつ煮は八丁味噌を使用した「土手煮」(単に「どて」と呼ばれる場合もある)が主流であり、関東のもつ煮込みと比較するとより味が濃く甘辛いものが多い。具材にはゆで卵が加わることもある。長野の郷土料理には馬の腸を使った「おたぐり」がある。
関西地方には「北∞ホルモン」という語句を1937年に出願し1940年に商標登録(登録0334852)した北極星という洋食店[6]があり、とくに小腸と大腸についてはコテッチャン、テッチャンと称され、焼いて食べる調理方法がより馴染み深い。(「ホルモン料理」の語源として「ほうるもん(捨てるもの)」から転じたとされる説があるが、これは誤りである)。しかしながら食文化の発展が著しい大阪を中心にしていることもあり、「もつ煮うどん」などの料理、またおでんの具材としての牛すじ煮込みも、もつ煮の亜流のひとつとして考えられる。
九州地方にはもつ煮よりも、博多を中心としたもつ鍋の文化のほうが定着しており、にんにくをスライスした醤油ベースのスープに、キャベツ、ニラなどを具材とした鍋として食する。郷土料理と言ってもいいほどの存在である。
豚を余すことなく工夫して食べられてきた沖縄では、琉球王朝時代からの伝統料理として、中身汁(中味汁)が主として正月や慶事の代表料理として親しまれてきた。豚の小腸・大腸・胃を丁寧に洗浄し、長時間煮込むなど手間と時間をかけて下ごしらえした中身(豚の内臓)と、こんにゃくやシイタケを具にして煮込んだ一種の吸い物。具だくさんの煮物として供される場合もある。鰹節・昆布・鶏肉で出汁をとる場合もあり、また沖縄そばに具として入れた中身そばなど、他の料理にも応用されている。
このように日本の食文化においてはその出自や、鮮度保存、調理の手間、材料の入手経路、見た目の敷居の高さがある動物の内臓を使う料理であることから、ひとつの決まった確固たる調理方法、味付けが決まっているわけではない。
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中身汁
日本・沖縄の郷土料理。豚の内臓を、椎茸、こんにゃくとともに出汁で煮込んだもの。
歴史
食肉と内臓食の歴史について
日本人は農耕民族であるという固定概念があるが、農業技術の発展が伴わない時代には、採取と漁、及び狩猟による食文化を持っていたと考えられる。縄文時代にはそれが主食ではないものの、獣肉を食べていた形跡として、猪などを捕らえるための落とし穴が遺跡に残っており、獣骨が出土している。弥生時代に入り稲作が整備されても当然のことながら肉食は継続していた。「『三国志』魏書東夷伝倭人条」いわゆる「魏志倭人伝」には喪中のときは肉は食べないという記述もあることから、逆説的に肉食は続いていたと考えられる。
大阪府生野区の猪甘津の橋は、文献上は日本最古の橋として日本書紀に記されており、この猪甘津という語句は猪(この場合の猪は豚を指す)を飼う猪飼と同様の意味である。この地域はその後、百済野、百済郡といった呼ばれ方をされており、仁徳天皇の時代に百済からの渡来人によって豚を飼育するという文化がもたらされ、地域として割り当てられていたと考えられる[7]。鶴橋駅周辺がコリア・タウンと呼ばれ、駅のホームにも漂ってくるといわれる焼肉の香りとともに文化として残っているのはこういった歴史的な背景によるものである。
万葉集の16-3885には乞食者詠(ほかひびとのうた)二首に「吾美義波 御塩乃波夜之(我が肝も み膾はやし)」とあり鹿の肝を食用として大王に献上する祝い歌が記録されている。現存している文献ではおそらくこれが最も古い内臓食に関する記述であろう。
牛馬の屠殺はその歴史的なイメージから、被差別階級の人々が専ら行ってきたという解釈がされることが多いが、儀礼における(いわゆる生贄なども含め)祝いをあらわす「祝(はふり)」という語句と、「屠る(ほふる)、屠り(ほふり)」という語句は語源が同じであり、もともとは犠牲を供して穢れ祓い清める役割の人物が行っていた。つまり神職及びそれに近い役割の人々が行っていたと思われる。その後の食肉に必ず伴う屠畜についても、時代背景や地域条件による差別、被差別で一概に語られるべきものではない。日本では平安中期から獣肉などに携わることを穢れとする見方が広がり、大正11年の水平社宣言に至るまで印象が一人歩きしている。
肉食の禁止令
庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 鶏之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之 『日本書紀』
これは牛、馬、犬、猿、鶏を食べることと、猟をすることなどを禁じているもので、鹿と猪を禁じていないのは農地を荒らす害獣とみなしての措置であったとも言われている。欽明天皇13年 (552年)の仏教の伝来および浸透に伴って殺生に対する意識が投影されたものであり、
- 牛は農業において田畑を耕すことに使われる。
- 馬は軍の移動、運搬に使われる。
- 犬は夜に吠えることで、夜警の役割をする。
- 猿は人間に似ている。
- 鶏は朝、時を知らせる。
という涅槃経の戒律に倣ったものだとされる。この勅令を逆の側面から見ると、勅令で禁じなければならないほど肉食は文化として根付いていたという解釈も可能である。またこの勅令の対象には期間が(4月から9月まで)定められていることからも全面的に肉食が禁じられていたわけではないことが見て取れる。
その後も養老5年(721年)「殺生禁断、放鳥獣」、神亀2年(725年)「殺生禁断」、天平8年(736年)「牛馬の屠殺禁止」、天平勝宝4年(752年)「殺生禁断」と時の天皇によりたびたび令が出された事実が残っているが、近年では675年の天武天皇の肉食禁止令そのものが政治的背景による勅令であったとする研究もあり[8]食文化的な側面では「獣の肉を食してこなかった日本人」という印象は一概には言えないことが伺える。また、滋養の面で肉食は体力をつける上でに優れていることもあり、その時々の実質的な支配者が、戦いのときに優位になるためといった説もある。[9]
こうした宗教的な側面などの流れに沿い、肉食は表向きは禁止されているものの、その反面、食文化として根強く残って行った。獣肉の隠語として「牡丹=猪」「紅葉=鹿」「桜=馬」「柏=鶏」という語句が残っているのも、密かに食していたことが背景にあるといわれている。明治維新までは庶民がおおっぴらに肉食をすることはためらわれていたが、「薬食(くすりぐい)」と称し、脈々と受け継がれていた。
与謝蕪村は、
- 薬喰隣の亭主箸持参
- 客僧の狸寝入やくすり喰
- しづしづと五徳居ゑけり薬喰ひ
などの句を残し、人の目を避けている要素と、宗教的な背景も詠みこんでいる。なお「薬食」は冬の季語である。
彦根藩は、後の近江牛の発端である味噌漬けにした牛肉を将軍家に献上していた。そこまでにはポルトガル人により一旦は肉食が広められ、その後の鎖国を経て、再び肉食が禁止された経緯があるが、[10]将軍家で使用する太鼓の皮を彦根藩が献上していたことから、唯一牛の屠殺が認められており、牛肉を加工し食用及び薬としていた。井伊直弼が藩主になり仏教の教えから牛を殺すことそのものを禁止したため、一時的に歴史は途絶えているが、水戸藩主、徳川斉昭は、牛肉の到着を待ちわびていたとも言われており、安政7年(1860年)の桜田門外の変の遠因とも言われている[11]
享保3年(1718年)、江戸に最初のももんじ屋[12]が開店し(おおっぴらな)肉食文化の解禁は幕末に向けて加速していく。福沢諭吉はその自叙伝である福翁自伝[13]において、安政4年(1857年)に「もらった豚の頭を解剖してから煮て食べた」と残している。安政5年(1858年)の日米修好通商条約に伴い、下田に領事館が建設されたことにより、静岡県下田市に屠殺場が作られた。文久2年(1862年)横浜で最初の牛鍋屋が開店[14]、慶応3年(1867年)には現在の港区白金に東京で最初の屠殺場が作られた。徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜は豚肉が大好物であったがゆえに「豚ー」と呼ばれた(徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の実子)。江戸時代が終わり、明治元年(1868年)、東京での牛鍋屋の第一号となった「中川屋」が開店[15]、明治2年(1870年)に日本海軍が栄養食としての牛肉を認め、明治4年(1872年)に明治天皇が公に牛肉を試食することにより、実質的な解禁に至った。
明治以降の内臓肉食ともつ煮の誕生
仮名垣魯文の「牛店雑談 安愚楽鍋」(1871年)などの刊行背景もあり、畜肉が滋養食として浸透していくとともに、屠畜の施設や環境、技術にも大きな動きがあった。1869年、築地に公営屠場が開設され1877年(明治10年)までに芝七曲、神田護持院ヶ原、麻布本村町、三田小山町、千住、浅草千束町に、次々と屠場が開設され[16]、需要の伸びを垣間見ることができる。しかしながら獣肉の処理に伴う腥臭の問題もあり、大量の水が確保できる条件と、その保存の必要性が隣り合わせであることから、前述「中川屋」の主人である中川屋嘉兵衛は函館からの天然氷を切り出して関東まで運ぶ商売も平行して行っていた[17]。
屠場の整備に伴い、畜肉加工のうち、牛一頭当たり約8.5%を占める[18]食用の内臓も一定量は供給されるようになった。
1882年(明治26年)ごろの東京の低所得者の生活を記録した文学である、松原岩五郎の「最暗黒の東京」[19]には「煮込み」の記述が記されており、
これは労働者の滋養食にして種は屠牛場の臓腑、肝、膀胱、あるいは舌筋等を買い出してこれを細かに切り-
と書き出され、田楽のように串に刺して、醤油に味噌が混ざった汁で煮込んだものと記されている。もつ煮の具体的な調理法や味付けについて明確に触れられている文献としては最古ではないかと思われる。
価格は一串あたり二厘(そばが一銭から一銭二厘程度の物価)で二十串くらいを平らげるものもいると続き、腥臭がひどく一般人には向いていないとされている。もともとこの文学の成り立ちがいわゆる貧民窟といわれていた場所への潜入ルポの体裁であり、煮込みを食べる人々の職業として、肉体労働である人力車の車夫が挙げられている。また同書には夜業車夫相手に屋台のメニューにも煮込みがあると記されている[20]他、鶏の臓物を蒲焼にしたものとして焼き鳥に関する記述もあり[21]、これは三厘から五厘の価格となっていることから牛の臓物よりも高級品であったことが見て取れる。
また永井荷風は1942年(昭和18年)の「断腸亭日乗」第二十七巻に
深川門前仲町あたりの屋台店にて煮込と言ふ物の材料は牛豚等の臓物を味噌で煮たるもの。焼鳥の材料も同様なり。
と書き、松原岩五郎が記したものと一致することから、明治中期から戦前に至るまでもつ煮の歴史はあまり変化がなく続いており、偶然にも同様に焼き鳥の記述が続いている。
「焼き鳥」と称するとき、材料が鶏肉以外のものが含まれるのは、鶏肉の価格が他に比較して高かったことが影響している。30年ほどの開きがあるが、1911年(明治44年)の時点から1950年(昭和25年)頃までは、鶏肉、豚肉、牛肉の順で高価であり[22]、内臓肉の流通と価格についてははっきりした資料がないものの、1940年頃までは内臓も同様の価格順であったことが推察され、第二次世界大戦後にブロイラーをアメリカから導入するまでは価格差はそれほどなかった。そのために「最暗黒の東京」では串に刺さったもつ煮の価格よりも焼き鳥のほうが高く、永井荷風の記述における、焼き鳥という名前でありながら牛や豚の臓物が材料であるという理由が、高級食材である鶏肉に見立てていたことがうかがえる。
大正から昭和にかけての文献では、今東光や古川緑波の記述として牛丼(カメチャブ)について触れられており、材料には牛肉だけでなく牛のもつが使用されていたとある[23]。
内臓肉の栄養価と保存性
冒険家として名高い植村直己は「やっぱり内臓がすごくうまい」と発言しており[24]、肉食動物のほとんどは傷みやすいという理由と栄養価が高いという理由でまず獲物の内臓から食べはじめる。これに対し正肉と呼ばれる部位については、牛の場合死後硬直を経て1週間から3週間くらい経過してからのほうが美味となるとされている[25]。有史以来、獣肉を食べるという文化に、内臓肉の存在は必ずついて回るものであるが、鮮度に左右され流通しにくいことからその調理方法に関する文献はほとんど残っていない。
内臓肉はビタミンAやB群、鉄分などの補給が容易でありながら、食肉卸売業のセリを通らずに供給されることや、鮮度の問題のため保存性が低いことから[26]価格は比較的安定している。
近代東京のもつ煮
早稲田大学の文学部カフェテリアには、もつ煮に関する伝説が残っているようであるが[27]、学食や定食屋、居酒屋に至るまで「もつ煮」あるいは「もつ煮込み」は安価で栄養価が高いメニューとして広く認知され、前述の通りモツ以外の材料や味付けも多岐にわたっている。
太田和彦の著書「ニッポン居酒屋放浪記 疾風篇」には東京三大煮込みとして、足立区千住の「大はし」、江東区森下「山利喜(やまりき)」、中央区月島「岸田屋」としており、葛飾区立石「宇ち多゛(うちだ)」、江東区門前仲町「大坂屋」を加えて五大煮込みが挙げられている。また私家版ではあるもののクドウヒロミの著書「モツ煮狂い」(第一集、第二集)には東京近郊における名店が紹介されており、もつ煮の歴史やレシピについても言及がある。
参考文献
- 大塚滋『食の文化史』中公新書 1975年 ISBN 4121004175
- 太田和彦『ニッポン居酒屋放浪記 疾風篇』1998年 新潮文庫 ISBN 4101333327
- 宮塚利雄 『日本焼肉物語』光文社 知恵の森文庫 2005年 ISBN 4334783880
- 松原岩五郎『最暗黒の東京』岩波文庫 1988年 ISBN 4003317416
- 佐々木道雄 『焼肉の文化史』明石書店 2004年 ISBN 4750319562
- クドウヒロミ 『モツ煮狂い』2006年 第一集、2007年 第二集 平成烏有堂発行 私家版
脚注
- ^ 2008年6月現在、Googleでの検索による
- ^ トリッパ
- ^ 宮塚利雄 著「日本焼肉物語」p.39-p.43
- ^ 歌志内名物「なんこ料理」
- ^ 宮塚利雄 著「日本焼肉物語」p.49-p.50
- ^ 「北∞ホルモン」の商標登録検索画面
- ^ 猪甘津猪飼野1600年
- ^ 『日本霊異記』から見る律令国家の王土思想(PDFファイル)
- ^ 食肉の歴史 「食肉禁止令と畜産」
- ^ 大塚滋 著「食の文化史」p.8-p.9
- ^ 「近江牛肉」の歴史
- ^ 山くじら すき焼 ももんじや
- ^ 福翁自伝
- ^ 大塚滋 著「食の文化史」p.10
- ^ 宮塚利雄 著「日本焼肉物語」p.33
- ^ 東京市におけると場の消長
- ^ 宮塚利雄 著「日本焼肉物語」p.34
- ^ 体重600kgの牛における部位別割合
- ^ 松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.145
- ^ 松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.123
- ^ 松原岩五郎 著 「最暗黒の東京」p.146
- ^ 佐々木道雄 著 「焼肉の文化史」p.280
- ^ 佐々木道雄 著 「焼肉の文化史」p.276
- ^ Number 38号 1981年11月5日号
- ^ 食肉の熟成について
- ^ 中央畜産会 副生物がお店に並ぶまで
- ^ 男爵ディーノ_早稲田大学文カフェおすすめメニュー