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[[室町時代]]と並び、現代の日本を形作る原型となった時代。現在の日本の問題点を考える上でも見習うべき点が驚くほど多くあり、再評価が待たれる。 |
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=== 江戸時代初期 === |
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[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、ここに[[江戸幕府|徳川幕府]]が誕生する。豊臣政権崩壊後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の役|大阪の陣]]により豊臣氏とそれを担いで騒乱を期待する勢力を一掃。長く続いた政局不安は終わった。 |
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[[江戸幕府|徳川幕府]]は徹底的な政局安定策をとり、[[武家諸法度]]の制定や[[禁中並びに公家諸法度]]など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷いた。大名の多くが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施した。 |
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「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く世界史的にも驚異的な長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。 |
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また、農本主義的に思われている家康だが、実際には信長、秀吉と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、成長重視の経済振興派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土・桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。 |
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また[[江戸時代]]には、対外的には長崎[[出島]]以外で外国との交流を禁止する[[鎖国]]政策を採った。バテレン追放令は、既に豊臣秀吉が発令していたが、[[鎖国]]の直接的契機となったのは島原・天草の乱で、キリスト教と百姓一揆が結び付いたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたためであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどの旧教国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を[[海禁]]政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の[[倭寇]]をも含む海賊からの防衛及び海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の[[鎖国]]と事情が異なる面もあった。しかし日本の[[鎖国]]も中国の[[海禁]]と同じとして鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。 |
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鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、[[東南アジア]]に多くの[[日本町]]が形成された。またタイに渡った[[山田長政]]のように、その国で重用される例も見られた。 |
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しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策が採られ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため[[三都]]を中軸とする全国経済と各地の[[城下町]]を中心とする[[藩]]経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物が主に大坂に集中し、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、[[井原西鶴]]の[[浮世草子]]、[[松尾芭蕉]]の[[俳諧]]、[[近松門左衛門]]の[[浄瑠璃]]、[[菱川師宣]]の[[浮世絵]]など見るべき成果があった。 |
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=== 江戸時代中期 === |
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いわゆる江戸時代の暗い停滞イメージのもとになるのは18世紀終盤であり、有名な8代将軍「[[徳川吉宗]]」の[[享保の改革]]以降である。土地資本を基盤とする(土地所有者ではない)支配者層である武士の生活の安定と、安定成長政策とを上手く融合できずに、金融引締め的な経済圧迫政策のみを打ち出した結果であり、その結果の出口の見えない不況が社会停滞の原因である。また、増えすぎた人口を農業のみでは養っていけない東北地方等では不作が発生した際に「飢饉」にまで事態が悪化してしまうという不幸が、特に江戸時代後半には多くなったことも、続く明治時代から見たこの時代の印象と評価を不当に下げているものと思われる。 |
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実際には、超長期の安定政権は、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、日本に空前の繁栄をもたらし、その後の日本の誇りとなるような学問・文化・芸術・商法等あらゆるジャンルで様々な才能が花開き、確立され、現在へと引き継がれているのである。 |
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ただ一点、「武家政権」と言いながら、それまで数世紀に渡って蓄積された軍事的ノウハウは全く失われ、人口の1割にもなろうとする膨大な人数の「武士」とその家族は、すでに軍人でも土地資本家でも無くなり、行政官としてのみ存在することになった。特に失策により経済成長の止まった江戸時代後半にはその雇用問題自体が大きな政治課題となった。 |
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また失われた軍事能力は、嘉永年間のペリーの黒船騒動以降の騒乱のなかで、「武士」の存在意義そのものを疑われる遠因になると同時に、明治以降現在に至るまで、日本にいびつな「軍事観」と「平和観」をもたらしているものとも無縁ではないであろう。 |
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だが実際の江戸時代は町人文化や伝統芸能、娯楽、芸術、経済、物流と言った物が非常に活発になった時代でもあり、日本の[[ルネサンス|ルネッサンス]]期に相当する。 |
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また非常に環境に配慮された社会構造や整った教育制度が出来上がっており、現代日本にとっても参考に出来る時代で江戸時代への評価は高まっている。 |
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=== 江戸時代末期 === |
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発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも「太平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。 |
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加えて18世紀後半の近代産業革命とその果実を得た西洋諸国は急速に「近代化」し、それぞれの政治経済的事情から前時代の「冒険」ではなく、みずからの産業のために資源と市場を求めて世界各地に「進出」をはじめた。 |
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遠い極東の地に彼らが到達するに従い、当然日本近海にも西洋船が出没する回数が多くなっていったが幕府はこれら外国船や日本との外交ルートを模索する使節の接触に対し、[[異国船打ち払い令]]として知られる拒絶政策により「鎖国政策」を再確認しており、在野の世論もこれに同意していた。 |
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しかし[[1854年]]、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に強行上陸した[[アメリカ合衆国|米国]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]とやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えをみせたペリー艦隊の威力に屈し[[日米和親条約]]を締結、その後米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。 |
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下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」<!--誰の説?-->であるという説に反したとされた、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。 |
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「世論」が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、[[京都]]の帝(みかど)の存在が500年ぶりにクローズアップされる。 |
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このため永い間、幕府の方針もあり政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となり、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。 |
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一時は井伊大老の強行弾圧路線([[安政の大獄]])もあり不満「世論」も沈静化するかに思われたが、[[桜田門外の変|井伊の横死]]後、将軍後継問題で幕府がゆれる間に事態は急速に変化する。 |
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藩内改革派と保守派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行し、翌年相手国4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠されたり、京都における主導権争いから薩摩藩らとの間に市街戦(禁門の変)を演じたりするなど、エポックメイキングな事件を連発し、一躍幕末政局の中心的存在に躍り出る。 |
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列強各国から強烈に苦情を申し入れられた幕府は長州藩を罰するため「長州征伐」を行うが[[高杉晋作]]らの組織した[[奇兵隊]]などの庶民軍の活躍に阻まれ2度にわたって失敗してしまう。折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威はこの敗北によって急速に無くなっていった。 |
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薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩はこの機を逃さず一転同盟を締結([[薩長同盟]])、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、反政策キャンペーン<!--意味不明-->であった「攘夷」を、折から巻き起こっていた国家元首問題としての尊王(勤皇)運動と融合させ、「[[尊皇攘夷]]運動」へと巧妙にすり替え、これを更に「倒幕」の世論へと誘導していく。 |
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新将軍[[徳川慶喜]]は起死回生で[[大政奉還]]を実行する。武力によって完全に[[幕府]]を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を失ったため先手を取られた形となったが、薩長倒幕派は太政官制度を復活させ、天皇を中心とした新政府を樹立し政権の交代を宣言する。この体制変革と制度改革から[[明治維新]]へと続いていく。 |
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=== 戊辰戦争 === |
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新政府は、徳川将軍家を一藩に降格させ[[天領]]は政府直轄領とすることを決定。[[徳川慶喜]]には天領の返還と3世紀前の旧領である駿河(静岡)への立ち退きを要求した。しかし応諾の回答は無かったため、[[板垣退助]]を総司令官とする官軍を江戸へ東征させることを決定。[[戊辰戦争]]と呼ばれるこの[[内戦]]は、越後長岡藩や会津藩等各地で大規模な戦闘が行われたものの、[[江戸城]]は無血開城されるなど、大都市を巻き込んだ大きな戦争とはならなかった。最後は[[榎本武揚]]等が函館に立てこもって抗戦したが短期間で終結した。 |
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江戸幕藩体制は黒船騒動以降急速に衰え、いわゆる幕末の動乱を経て終焉を迎え、明治近代化に至るが、明治以降現在に至るまで、その真価が不当に低く評価されている傾向がある。また江戸幕府崩壊後に出来た明治政府は、その正当性を民衆に主張する為「江戸時代は暗黒時代であった」と喧伝する。その為、日本史において江戸時代はしばらく暴虐と圧制の暗黒時代ととらえられ、否定的な評価を受けてきた。 |
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== 明治時代 == |
== 明治時代 == |
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[[明治天皇]]が即位、[[天皇]]は[[江戸]]に[[行幸]]し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。そして新たに[[江戸]]を[[東京]]と改め日本の新しい政治の中心にすえる。(この[[遷都]]については諸説ある。) |
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尊皇攘夷思想に基づき、天皇は、親政を行い人民を直接統治するとしたが、政治体制は[[大日本帝国憲法]](明治憲法)が制定されるまで、様々に変化した。中国明朝などに準じ[[一世一元制]]を定め[[天皇]]の謚号は[[元号]]とし、それまでの陰陽道的改元を廃止した。大日本帝国憲法第3条は、「[[天皇]]ハ神聖ニシテオカスヘカラス」と定め、他国の君主制度と異なることを明示した。 |
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=== 明治維新 === |
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新政府は[[大政奉還]]が行われた後、[[王政復古 (日本)|王政復古]]の大号令を発し、元号を[[慶応]]から[[明治]]に改め[[五箇条の御誓文]]を示し新しい政治方針を打ち出した。 |
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新政府は江戸時代のすべてを改革し、[[天皇]]を中心とした[[中央集権国家]]の構築を目指していった。[[1869年]](明治2年)には各藩に[[版籍奉還]]を命令し、[[1871年]](明治4年)には、<!--すべての藩を解体し-->[[廃藩置県]]を行った。国民には、江戸時代の自由の制限をなくし、身分の撤廃を行い[[四民平等]]とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由や、散髪帯刀の自由など様々なことを改革していった。 |
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一方、[[富国強兵]]、[[殖産興業]]の2つを国の重要政策とし、[[製鉄所]]の建設、[[鉄道]]の敷設、輸出産業の育成など、欧米列強に対抗するため一刻も早い近代化を目指し国力の邁進に努めた。また[[徴兵制]]を実施し、列強に対抗するために近代的な[[軍隊]]の創設にも取り組んだ。 |
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財政面では[[地租改正]]を行い、従来の米年貢を廃止して金納地租の確保を目指した。 |
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[[征韓論]]をめぐって政府部内で対立を生じ、強硬派の[[江藤新平]]・[[西郷隆盛]]・[[副島種臣]]・[[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]の5人は[[参議]]を辞任した。江藤や西郷はその後、[[明治維新]]によって特権を失った不平士族をも巻き込んで[[佐賀の乱]]、[[西南戦争]]などの士族反乱を起こしたが平定された。他方、[[板垣退助]]らは[[民選議院設立建白書]]を政府に提出、議会開設を主な要求とする[[自由民権運動]]を起こした。 |
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[[自由民権運動]]の発展に対し、明治14年、政府は政府部内で即時国会開設を唱えた急進派の[[大隈重信]](佐賀藩出身)を追放しつつも、明治22年に議会を開設することを国民に約束した。[[1885年]](明治18年)には[[太政官制]]を廃止し、[[内閣制]]を導入し、初代[[総理大臣]]には[[伊藤博文]]が就任した。[[1889年]](明治22年)には[[大日本帝国憲法]]が制定され立憲国となった。翌[[1890年]](明治23年)に第1回[[帝国議会]]が開かれ、日本は、[[立憲君主制]]国家として出発した。<br> |
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しかし[[帝国議会]]は[[国民]]に責任を負うものではなく、[[天皇]]に対して責任を持つもので、名目上[[イギリス|英国]]などの[[国民主権]]の[[国会]]とは性格を異にしていた。[[議会]]は[[天皇]]の意見機関という位置づけであり、[[天皇]]の威を借りる形で政府や軍部は[[議会]]に左右されずに絶対的な権力を有する仕組みになっていた。 |
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[[1879年]](明治12年)には[[沖縄県]]を設置した。 |
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=== 日清・日露戦争 === |
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植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、[[1894年]](明治27年)には[[イギリス|英国]]と条約改正をなしとげ、江戸時代末期以来の[[不平等条約]]の解消を果たした。 |
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また南下する[[ロシア]]に対抗するため、[[朝鮮半島]]の近代化を推し進めたが、これをめぐって朝鮮の属国を維持したい[[清]]と対立し、[[日清戦争]]が生じた。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて[[清]]の方が優位であったが勝利。そして、[[下関条約]]によって当時としては莫大な[[賠償金]]を獲得し、領土として[[遼東半島]]、[[台湾]]、[[膨湖諸島]]を割譲させた。この内、[[遼東半島]]は露仏独の[[三国干渉]]により返還させられ、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた。しかしこの戦争によって日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなった。他方、「眠れる獅子」と言われた[[清]]が敗戦したことから、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速されることとなった。 |
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[[1902年]](明治35年)には、[[ロシア]]の南下政策を牽制するという利害一致から[[日英同盟]]が締結された。当時世界第一の大帝国で「栄光ある孤立」を貫いていた[[イギリス|英国]]が初めて同盟を締結したということと、アジアの新興国家である日本が相手ということから世界の注目を受けたが、ヨーロッパでは、極東において成り上がりの日本を手先にして火中の栗(中国)を拾うものとする風刺も見られた。その後、満州、朝鮮半島の利害が対立したロシア帝国相手に[[日露戦争]]が勃発。大国ロシア相手に日本は[[日本海海戦]]でロシアの[[バルチック艦隊]]を撃滅した。ロシアはなお陸軍は維持していたが、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が発展していたため講和に傾いた。日本も長期戦には耐えうる経済発展を達成していなかったので、講和に応じた。[[日露戦争]]を終結させた[[ポーツマス条約]]により、[[樺太・千島交換条約]]によって放棄した[[樺太]]の南部の獲得に成功した。さらに大韓帝国の外交権を奪い、日本の監督下に置いた。1905年、[[韓国統監府]]初代統監には[[伊藤博文]]が任命された。伊藤は1908年に辞任し、[[ロシア]]との会談を行うため渡満し、[[ハルピン]]に到着した際、大韓帝国の独立運動家[[安重根]]に暗殺された。しかし日本は[[朝鮮]]を併合し、ここに諸列強と並ぶ[[帝国主義]]国家にのし上がった。大国[[ロシア]]に対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の[[黒船ショック]]と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もある。 |
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しかし[[賠償金]]は全く取れなかったため、日本国内では国民の怒りが爆発し、日比谷焼き打ち事件が起こった。また[[堺利彦]]・[[片山潜]]らの[[反戦運動]]や[[与謝野晶子]]や[[キリスト教]]の立場からする[[内村鑑三]]の[[非戦論]]も唱えられた。 |
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== 大正時代 == |
== 大正時代 == |
2005年5月25日 (水) 14:04時点における版
{{記事統合|日本の歴史|日本史詳説]]、若しくは[[ノート:日本の歴史}}
日本史詳説(にほんししょうせつ)では、日本史を年代に沿って詳しく解説する。簡略な記述は日本の歴史にある。また、各時代の項目も参照。
日本列島の形成
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旧石器時代
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縄文時代
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弥生時代
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古墳時代
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飛鳥時代
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奈良時代
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平安時代
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鎌倉時代
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南北朝時代
建武の新政
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南北朝
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室町時代
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戦国時代
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安土桃山時代
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江戸時代
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明治時代
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大正時代
- (詳細は大正時代の項を参照。)
1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。 しかし1917年にはロシア革命が起こり、ソ連が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬が首相となった。政友会でも、西園寺公望が薩摩藩閥と結び付きが強かったのに対し、原敬は長州藩閥と結び付きが強かった。原敬の祖先は南部盛岡藩の藩士であったが、大正10年、東京駅頭で一青年に暗殺された。 この当時、社会問題の深刻化が見られ、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で社会局の創設が相次いだ。
1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。
大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作(俳優の加山雄三の曽祖父)が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、シーメンス事件で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(第二次大正政変)。加藤内閣は、1925年(大正14年)、身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙法を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治が定着するようになった。この後、昭和7年に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉し、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。
このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文芸春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。
昭和時代
- (詳細は昭和時代の項を参照。)
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものまでを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。
項目名=== 昭和初期 ===
第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に昭和2年には、関東大震災の手形の焦げ付きが累積し、それをきっかけとする銀行への取り付け騒動が生じ、金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。
一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利害を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、一つもよしことなかったと揶揄された。
田中内閣はもともと前の大正政変で生まれた護憲三派内閣、特に幣原外交の中国内政不干渉政策を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、昭和3年、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇制をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至って批准された。また田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、昭和3年に3・15事件、翌年に4・16事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行なった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。
一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、昭和7年には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。
そんな中1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた浜口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満州は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因となった。
各国が世界大戦後の財政負担に耐えかねている状況で米国や英国が中心となりワシントン軍縮条約が提案された。日本は英国・米国・フランス・イタリアと共に五大軍事大国としてこれに調印し、いわゆる列強になった。しかもワシントン条約の戦艦保有率を米英の5に対して日本が3を保持したことは、世界3位の国になったことになる。この軍縮条約では、日本の中国進出を牽制する内容や日英同盟破棄も含まれていたため、軍部や官僚の中でも激しい意見対立があった。
1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされ、政府の戦争不拡大の方針を軍が無視する形で1932年の満州事変に発展し、終戦まで15年もの間繰り広げる日中戦争に突き進んだ。このことで中国での権益、南方資源地帯の利権を巡り、欧米諸国との対立は深まっていった。また1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年に皇道派の青年将校が斉藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。日本の満州建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいった。
1936年には、盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争(支那事変)が始った。ヨーロッパでは1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、ヨーロッパ戦争が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。かえって米国の反発を買い、最大の石油輸入国であった米国の石油禁輸を招くにいたった。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。
国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になって行った。
太平洋戦争
日中戦争開始後、日本では近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年10月、大政翼賛会が結成された。
米・英・中・蘭は、それぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ばれる対日強行策を実施した。それにより対外的な孤立を一層深める日本では、対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘を行った際、ソ連の戦車部隊に大敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ドイツに対し完全な劣勢であった英国が米国の参戦を望んでいたこともあってコーデル・ハル国務長官より日本のすべての植民地(特に満州)を帰結として返還するよう通告され(通称ハル・ノート)、逆に最後通牒を突きつけられてしまうことになる。これに対し軍が受け入れるはずもなく、このことで対英米蘭開戦が決定された。このような経緯で太平洋戦争(大東亜戦争)が始まり、第二次世界大戦となった。
1941年12月8日(現地時間12月7日)、日本は、外務省の手違いで数時間宣戦布告の通告が遅れる中、米国ハワイの真珠湾米海軍基地を奇襲攻撃した。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六は一年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃した。日本軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦を主力とする航空機を巧みに使用した新しい戦法を用いて、史上初めて航空機によって戦艦を沈めるなど、米英蘭相手に連戦連勝であり、国民はこの最初の大勝利に酔いしれた。
当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きも多かったが、日本軍の強硬な占領政策に日本への反発は大きくなっていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは、事後の「理屈付け」発想であり、実態は全く無かったとの批判があった。
そして、これまで劣勢だった米国はミッドウェイ海戦を皮切りに巻き返し、次第に戦況は傾いていった。ミッドウェイ海戦では最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北した。しかしこの時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、数百万の大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵勢力を把握しない稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しかった。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。
1944年7月にはサイパン島が陥落し、このことで日本本土は連日のように空襲に晒され、すでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。それに対して、各種和平工作が企図されるが、国際社会との窓口を自らすべて放棄した日本にはこの時点ではすでに降伏する以外の選択肢はなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答せず、米国によって広島と長崎に原子爆弾が投下された。そして御前会議の場において、直接関与による英断を昭和天皇に仰いでようやく政府として降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。
日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソ連の仲介での和平工作を行ったが、ソ連は満期の来る日ソ中立条約を更新しないことを日本政府に通告し、連合国の申し合わせに従って対日宣戦布告し、満州に進撃した。関東軍は総崩れとなり、こぞって日本へ逃亡しようとした。今日にも波紋を引く在中孤児問題はこの時に生じた。これにより日本の無条件降伏は決定的となった。日本降伏の事実は翌8月15日正午、天皇自らのラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。
連合国軍占領時代
敗戦後、日本はそれまで占領していた、台湾・朝鮮・南樺太、南洋群島・千島列島を失った。このうち、千島列島については、各種の議論があり、1875年の樺太・千島交換条約で平和的に獲得されて日本の領土となったため、日本は千島列島全島の領土権を主張できるとの考え方もあるが、日本政府は、千島列島のうち、南千島の北方4島についてのみ日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明している。
1945年から1952年までの7年間にわたって、有史以来初めて外国(連合国軍最高司令官総司令部、多くの職員の国籍はアメリカ合衆国)に占領され、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇稔彦内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は戦時中の政治の継続を行っただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また旧治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放及び被選挙権の停止措置が採られた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。
連合国 (Allies) の日本占領は、事実上のアメリカ合衆国の単独占領であったが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの占領下に置かれた。
この点、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にリッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったとされるが、「占領」下のこととて当然とはいえ、全ての法令、文書は占領軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年に日本国憲法が公布され、1951年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。
占領下の制定とはいえ、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、平等権・自由権・社会権・参政権・請求権などの権利を保障する基本的人権の尊重を明記した常識的な憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた3大原則でなりたっている。日米安保条約や自衛隊が日本国憲法の平和原則に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。またこの憲法によって婦人の選挙権が初めて認められた。
15年戦争と敗戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷のきわみにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは日本占領当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年には早くも現れ始めていた。その上、1949年に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を行ったところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行われ、小中高及び大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。
文化面においては、映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語の問題についても昭和21年の現代かなづかい・当用漢字の制定や、新聞の検閲などが行われた。
講和後 - 昭和後期
自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、大阪万国博覧会の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。
この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄ではこうした問題がしばしば起こった。また核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。
急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職した彼らの豊富な労働力が日本経済を支えた。
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校・大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にした彼らはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、戦後に横行した左翼思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。彼らの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代には、公害の激化や社会問題の深刻となる中で、社会党・共産党の革新統一協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都・大阪・神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。
戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。
一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行われたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。
大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。 しかしオイル・ショックを境に、円高問題の深刻化と言った新たな問題に直面し、もはや高度成長時代は終わり、低成長からデフレ(マイナス成長)時代へと変化しつつある。そのような転換の中で平成を迎える。
平成時代
- (詳細は平成時代の項を参照。)
1991年にソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国のすべてが独立し、解体された。その後、新たな世界構造を模索する状態が続き、日本は、国際連合に協力して海外で国際連合平和維持活動部隊を展開するようになったり、米国主導の湾岸戦争に資金援助をしたりするようになったが、新しい外交の方針は定められずにいる。
冷戦期を通じて整備されていった自衛隊は、ついには驚異的な経済力に比例して金額ベースでは世界屈指になったにも関わらず、行政が合憲と解釈し、裁判所も憲法判断を避けるという、明治憲法下の統帥権の解釈にも似ているとされるものが続いていたが、21世紀をむかえるころになって、湾岸戦争、国連平和維持活動、イラク戦争などの現実に直面し、憲法改正の議論が前よりは高まってきたといわれている。
世界屈指の豊かな国となった日本は、表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、自由と平等を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなった。しかし1980年代後半からの異常な好景気が平成の幕開けとともに崩壊し、その後10年の間に経営の建て直しができなかった数多くの企業が倒産、もしくは欧米系企業に買収された。企業の国際化によって人的な国際流動が活発になり、また低賃金で働く発展途上国出身者を肉体労働者として雇うなど、社会の国際化がいっそう進んだ。価値観の多様化、個人主義という流れの中、戦後に確立した日本の社会価値観は変化した。家族の多様化に伴う共通価値観の変化、少年による凶悪犯罪の増加、長期不況に伴う窃盗・強盗の増加、国際化に伴う異文化接触と外国人犯罪の増加など、繁栄の負の側面に触れる機会も増えてきた。 そうした中で、経済の行き詰まりとも見られる現象も見られ、マイナス成長すら記録されるようになった。そのため「構造不況」の克服、「構造改革」の必要が各方面から叫ばれるようになった。 一方、アジアでは中華人民共和国や大韓民国、マレーシア、ベトナムなどの経済発展が目立ち、そのように大きく変化しつつあるアジアにおける日本の位置についても考え直す必要も指摘されている。少なくとも今日、日本のみがアジアで唯一経済的に繁栄することに成功した国ではなくなる可能性が高くなっている。それどころかこのままでは、近い将来、日本の成功ならぬ「日本の失敗」について語らなくてはならなくなるかもしれない。中華人民共和国の「四つの近代化」、マレーシアなどアセアン(ASEAN)諸国の共同体形成と近代化、ベトナムのドイモイなども現代の経済発展システムとして発展途上国では、より自らに近似的な経験として、日本の経験以上に注目されるようになっている。その意味では日本についても内側から見るだけではなく、外側から見る視点も必要となっていると言えるし、アジアについてより多元的な視点から考えることも必要となろう。
終戦後60年を経て、30歳を超えても自分探しを求める未成熟さ、個人が家庭のあり方と対立してしまう不自然さ、日本人としてのアイデンティティーの喪失感は、占領体制下で財閥解体、農地改革などの社会構造の変革と併せて行われた、日本の教育制度の変革によってもたらしたものであるという声も聞かれるようになった。しかし、それは敗戦後の占領よりも、その後の高度経済成長によって極端な効率性、合理性が必然と求められるようになったせいであるとする考え方も少なくない。
時代区分
各時代の関係を対照するために、日本史時代区分表がある。
- 日本の先土器時代
- 日本の古代
- 日本の中世
- 日本の近世
- 日本の近代・現代