「武王 (百済)」の版間の差分
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2008年2月17日 (日) 02:08時点における版
武王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 무왕 |
漢字: | 武王 |
発音: | ムワン |
日本語読み: | ぶおう |
ローマ字: | Mu-wang |
武王(ぶおう、580年? - 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 - 641年)であり、先代の法王の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋(余は百済王の姓)の名で現れる。先王が600年5月に死去したことにより、王位についた。
最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。
治世
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年には隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋がいよいよ高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、602年8月には新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には椵岑城(忠清北道槐山郡)を奪い、616年にも母山城(忠清北道鎮川郡)に攻め入った。618年には椵岑城は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。
隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年には<帯方郡王・百済王>に冊封されている。この後626年には高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せたものの、新羅との争いはやまなかった。
先代の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を634年に完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。
在位42年にして641年3月に死去し、武と諡された。この後に使者を派遣して唐に報告したところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には<光禄大夫>の爵号が追贈された。
薯童説話
『三国遺事』紀異・武王条には、武王についての異説が薯童説話として収められている。ここでは武王は古朝鮮の武康王と混同されているほか、第24代東城王の新羅との通婚、第25代武寧王が即位前に益山地域を治めたこと、武王時代の弥勒寺創建縁起説話、など、多くの時代の言い伝えが複合して形成されたものと考えられている。詳しくは薯童説話を参照。
参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 『三国遺事』一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
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