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アンティオケイア(ギリシア語: Αντιόχεια)は、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、後にローマ帝国の各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオケイアが有名。
シリアのアンティオケイアは、古代の西シリア、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア州の州都として栄えた。シルクロードの出発点として知られる。「アンティオケイア」は古典ギリシャ語読みで、一般的にはヘレニズム時代以降のギリシャ語発音である「アンティオキア」で呼ばれることが多い。なお現代音では「アンディオヒア」。
セレウコス朝シリア王セレウコス1世ニカノルが、父アンティオコスを記念して建てた16の都市のうちの1つ。イプソスの戦いに勝利した後、紀元前300年に開基された。アンティオケイアはセレウコス朝の首都となり、最も栄えたヘレニズム都市となった。
セレウコス朝がローマに滅ぼされた後も、ローマ、アレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市として栄えた。初期キリスト教の時代には、パウロの異邦人布教の拠点となった都市であり、キリスト教がギリシア文化の影響を受けて発展した地でもある。使徒行伝によればクリスチャン(クリスティアニン)の呼称はこの街で初めて用いられ、マタイによる福音書には、西シリアで成立したとの説がある。
後にキリスト教がローマ帝国に公認されるようになって以降は、アンティオケイア総主教座がローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドレイア、エルサレムと並ぶ五大総主教座となり、シリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地として栄えた。現在も東方教会にはアンティオキア正教会とアンティオキア総主教の名称を持つ教会が複数あるが、実際の活動はシリアのダマスコスや他の都市に移されている。
しかし、526年5月29日の大地震で壊滅的な打撃を受け、25-30万人にも上る犠牲者を出した。その後再建はなされたものの、かつての偉容は甦らず、サーサーン朝ペルシアに度々攻撃されるなどしたために衰退がはじまった。7世紀に東ローマ帝国がイスラム帝国に敗れてシリアを喪失した後には、北シリアの地方都市となった。
969年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が奪還するが、1084年に再びムスリム(イスラム教徒)の王朝セルジューク朝に征服された。1096年に派遣された第1回十字軍はアンティオキアを征服し、この地にアンティオキア公国を建設するが、1268年にマムルーク朝に奪われた。
1516年、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてこの町を征服すると、オスマン帝国アレッポ州の一地方都市となった。第一次世界大戦後フランス委任統治領シリアに編入されたが、トルコ系住民がシリアからの分離運動を起こし、1939年にトルコ共和国に編入された。
現在はトルコのハタイ県の県庁所在地であり、アンタキヤと呼ばれる。