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[[1922年]]([[大正]]11年)に[[アメリカ]]に留学。3年後に[[ホイートン大学]]を卒業し、[[1929年]](昭和4年)に[[ミシガン大学]][[大学院]]で美学を学び哲学博士の学位を取得した。ミシガン大学大学院哲学部助教授、[[ホリンス大学]]哲学部助教授を務めた後、[[アメリカ議会図書館]]日本課長に就任し、日本文化に関する書籍・資料の収集に当たった。 |
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戦時中は[[外務省]]の嘱託や[[日本放送協会|NHK]]の論説委員等を務めアメリカの国情についての解説や分析に当たった。終戦は疎開先の[[千葉県]][[我孫子市|我孫子町]]で迎えたという。 |
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[[第二次世界大戦]]終結後は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に勤務した後、[[外務省]]や[[参議院]]の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、[[国家公安委員会]]委員、[[憲法調査会]]委員、日本[[ユネスコ]]国内委員、放送番組向上委員会委員長、[[立教大学]]講師を務めるなど、[[立法]]、[[行政]]、[[教育]]の分野において積極的に発言した。 |
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晩年暮らした[[神奈川県]][[大磯町]]の大磯町立図書館に蔵書が寄贈され「坂西文庫」と名付けられている。 |
晩年暮らした[[神奈川県]][[大磯町]]の大磯町立図書館に蔵書が寄贈され「坂西文庫」と名付けられている。 |
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*『坂西志保さん』編集世話人会編『坂西志保さん』(国際文化会館、1977年) |
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*春名幹男 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』(共同通信社、2000年) |
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2007年10月31日 (水) 11:26時点における版
坂西 志保(さかにし・しほ、女性、1896年(明治29年)12月6日 - 1976年(昭和51年)1月14日)は、昭和の学者、作家、評論家。なお、名についてしおとする資料もある。
東京市神田生まれ。幼い頃、キリスト教の洗礼を受けた。北海道小樽市で育ち、横浜山手の捜真女学校を卒業後、東京女子大学に入学。中退後に東京学院中等科(現在の関東学院中学校高等学校)の教師となる。
1922年(大正11年)にアメリカに留学。3年後にホイートン大学を卒業し、1929年(昭和4年)にミシガン大学大学院で美学を学び哲学博士の学位を取得した。ミシガン大学大学院哲学部助教授、ホリンス大学哲学部助教授を務めた後、アメリカ議会図書館日本課長に就任し、日本文化に関する書籍・資料の収集に当たった。
その一方、坂西は日本海軍の優秀なスパイでもあり、「米国における日本のベストの要員の一人」(アメリカ海軍情報将校エリス・ザカライアス大佐による評価)として、アメリカの情報当局からマークされていた。そのため、1941年(昭和16年)12月7日の日米開戦と同時に、在米日本人女性としては唯一のケースとして拘束・抑留され、翌1942年(昭和17年)6月に日米交換船で日本へ強制送還された。そして帰国後は、外務省の嘱託やNHKの論説委員等を務めアメリカの国情についての解説や分析に当たった。終戦は疎開先の千葉県我孫子町で迎えたという。
第二次世界大戦終結後はGHQに勤務した後、外務省や参議院の専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、国家公安委員会委員、憲法調査会委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員会委員長、立教大学講師を務めるなど、立法、行政、教育の分野において積極的に発言した。
晩年暮らした神奈川県大磯町の大磯町立図書館に蔵書が寄贈され「坂西文庫」と名付けられている。
参考文献
- 『坂西志保さん』編集世話人会編『坂西志保さん』(国際文化会館、1977年)
- 春名幹男 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』(共同通信社、2000年)
外部リンク
- 神奈川県図書館協会会報(大磯町立図書館の紹介で坂西文庫に言及)