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「国鉄103系電車」の版間の差分

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* 主電動機および電動発電機冷却風取入口は、電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用した。
* 主電動機および電動発電機冷却風取入口は、電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用した。
* 正面行先表示器を拡大した。
* 正面行先表示器を拡大した。
* 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約した。電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形とはせずに独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'(モハ102形)に搭載した。
*制御車のテールライトが当初から外嵌め式になっている。
*前面のジャンパ栓受けの形状・施工位置が違う。また、101系で2つだったものが1つ(クハ103-500番台は無し)に減っている。
* 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をクモハ102形・モハ102形に集約した。
* [[自動ドア|ドアエンジン]]を変更し、1台のドアエンジン(TK4形)と連動ベルトで構成される、[[西武建設]]<!--西武鉄道←所沢車両工場が西武鉄道の所有になるのは1973年からで、この当時は西武建設の所有である-->所沢工場が[[西武451系電車]]用として開発したST式戸閉装置を採用した。
* [[自動ドア|ドアエンジン]]を変更し、1台のドアエンジン(TK4形)と連動ベルトで構成される、[[西武建設]]<!--西武鉄道←所沢車両工場が西武鉄道の所有になるのは1973年からで、この当時は西武建設の所有である-->所沢工場が[[西武451系電車]]用として開発したST式戸閉装置を採用した。



2007年9月14日 (金) 02:43時点における版

国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車

国鉄の通勤形電車としては前作に当たる101系を基に、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で、経済性を最重視して再設計され、1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

また、本項ではインドネシアジャボタベック)に譲渡された元・103系についても記述する。

国鉄103系電車
ファイル:103-248.jpg
(量産冷房車・延命N40改造車、大阪環状線)
主要諸元
軌間 1,067
電気方式 直流1,500V
最高運転速度 100
設計最高速度 100
起動加速度 2.0*1~3.3*2
減速度(常用) 3.5
減速度(非常) 5.0
編成定員 48(席)+88(立)=136名 *3
54(席)+90(立)=144名 *4
最大寸法
(長・幅・高)
20,000×2,832×3,935 mm
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
出力 主電動機 MT55
110kW×4基 / 両
制御装置 抵抗制御
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
備考 *1 : 4M4T編成
*2 : 8M2T編成(1000番台)
*3 : 先頭車
*4 : 中間車
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歴史

開発

101系における全電動車化計画とその中止

1958年から中央線を皮切りに量産車の導入が開始された101系は、特急形や急行形などと共通設計の低出力モーターの歯数比を変更して使用し、これによる全電動車方式で高加速性能を実現することを前提に設計され、当時の典型的な高性能通勤電車の一つであった。しかし、その設計理念は、通勤五方面作戦など緊急性の高いラッシュ対策に追われ、この理念が要求する変電所容量や架線設備の強化にまで手が回らない、当時の国鉄の財政状況およびスケジュールに適合せず、中央線においても変電所容量の不足から、全電動車方式での運用を断念し、電動機を装備しない付随車の挿入が実施されることとなった。

本来、全電動車で運用することが前提の101系の設計においては、付随車の挿入による電動車(M)と付随車(T)の比率(MT比)変更は、性能の大幅な低下を招いた。しかも、特に財政上要求が強かったMT比1:1での運用は、定格出力100kW/hのMT46形を主電動機とする101系の場合、その出力曲線と減速歯車の歯数比の関係で事実上不可能[1]であり、MT比1:1を実現してより低コストに、そして大量に新型通勤電車を量産するには、主電動機の設計を変更し、定格出力を強化して特に低速域での牽引力を向上する必要があった。

新形通勤電車の要件

101系が設備面で能力低下を強いられた事から国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を上げた。カルダン駆動による新性能車では初期の全M車を前提とする101系に代表されるグループを高性能車、MT比1:1を目指して経済性を追求する103系に代表されるグループを高経済車と呼ぶことがある。私鉄各社でも高性能車から高経済車への移行が見られ、日本の鉄道史での大きな流れの一つであった

電動機の設計

そのような状況下1960年1月には101系の電動機出力を120KW/hに増強した試験車による試運転を実施し、高出力・高回転型の電動機を検討した他、1960年3月には回生ブレーキ付の101系910番台を試作製造している。 これらの試験結果と新形通勤電車の投入予定線区(1959年当時で山手・京浜東北・総武緩行・中央緩行・城東・阪和)の線区特性を考慮した結果、高回転型のMT46形の出力増強型では目標とする性能が得られない事から新形通勤電車用の低回転型のMT55形が開発される事になった。

MT55型電動機は、

  • 4両ないし8両の運転を想定し、MT比1:1程度
  • 駅間距離が短く平均速度が比較的低い路線に適合するような設計となっている。

また、投入予定線区で8両運転をする事を前提にして当時の主電動機を用いてシミュレーションを行った結果、MT55形は新形通勤電車用の電動機として最大の目標であった低消費電力を達成できたこと以外に、駆動時の発熱に余裕があるため将来のスピードアップにも耐えうること、一パンタグラフあたりの集電電流が小さいので架線の温度上昇も防げること、などの利点が認められ以後の通勤電車の主電動機として大いに採用されることになった。

切迫した電力供給事情

中央線の101系は全電動車方式で投入されたが変電所等の能力が追いつかず限流値を480アンペア(A)から350Aに下げて運転した。6M4T運転になり限流値を420Aまで戻す事ができたが、M車比率が高い場合は電力事情以外にも架線温度上昇などの問題も発生していて架線増強も併せて行う必要があった。

そのような苦労もあり、1961年春に首都圏での次の101系投入先は変電所能力が他線に比べて大きかった山手線に決定される。その山手線ですら電力事情から限流値を300Aに設定しなければならない他、主電動機の温度上昇を抑えるため電気ブレーキも未使用にしなければならず、山手線一周は旧形車よりも時間がかかった。 101系による新性能化を進めるためには、変電所設備等の増強をセットにする必要があり多大な費用がかかること、線区ごとで細かな設定が必要になるため経済的で運転に関して制約のない通勤車への要望が高まってゆく。

103系の投入先

新形通勤電車の概要がまとまってくると103系をどの線区に投入するかが焦点となった。1962年6月頃には103系を山手線に投入するのかどうか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきであるという議論がなされている。1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、更に限流値を350A、480Aにできるような変電所増強が計画されていた。

しかし103系4M4Tの限流値415Aで使用した場合、1962年秋の変電所増強分で101系6M2Tの限流値480Aでの運転と一周の所要時間で、ほぼ同等な運転を行うことができた。そのため103系を山手線に入れることを早急に決めなければ不要な変電所増強を行うことになる事から1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新形通勤電車の投入線区について」がまとめられ103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ1962年11月5日の常務会にて103系電車は山手線に、山手線で使用中の101系は総武緩行線に転用することが決定された。

1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われたが、電動車比率が上がった事から限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧形車よりも20秒短縮できたに過ぎなかった。このように変電所の増強が完了するまで新性能化がなされていながらも旧形車なみの運転速度に甘んじなければならなかったのが当時の首都圏の電力事情であった。

試運転

1963年3月25日先行試作車1編成が落成し9か月にわたる試運転を繰り返した後12月28日より営業運転に入った。試運転ではいくつか問題が発生していたものの早急な新車投入が求められていたことから最低限の手直しで量産車を発注している。

量産

1964年以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより、日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、昭和40~50年代(1970~1980年代)の東京大阪など日本大都市圏の通勤輸送を支えた。

最初の投入先

1964年5月より103系の量産車が山手線に配置され1964年度だけで202両が製造された。山手線に使われていた101系は当初の予定通り総武緩行線に転出し別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で使用された。

駅間距離の長い区間への進出

量産が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異なる路線にも103系が使われ始めることになる。実は1962年の新形通勤電車の投入線区には常磐線(平均速度52.8Km/h)と京阪神緩行線(同56.7Km/h)も含まれていたが、103系の仕様決定に関してはこれらの路線を除いた対象線区での平均速度が参考にされている。103系が駅間距離の短い線区向けという特徴がある以上、駅間距離の長い線区に対しては何らかの改善または新形式の設計が必要と考えていたからで、1964年には京阪神緩行線の新性能化に対して関西支社に103系で良いのか新形式を必要とするのか検討させている。事実、現在の105系とは無関係の仮称105系が4扉クロスシート車で検討されていた。

しかし、具体的な答えが出ないまま首都圏各線の通勤改善の課程において、1967年末から常磐線に103系が投入され実績を作ってしまったこともあり、京阪神緩行に対しても103系が投入された。その後は駅間距離の長短にかかわらず103系を用いた新性能化が進むことになる。これは、付随車のブレーキをディスクブレーキに変更するなどの投入に必要最小限の条件をクリアしていたからである。

運転速度向上による問題点

駅間距離の長い区間での運転が増えると、様々な問題点が発生することになる。京阪神緩行線に投入された3年後の1972年3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかる事から保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキがオフになり故障と紛らわしいため運転士から苦情が多く、さらに保護回路が作動する際に衝動が大きく乗り心地にも影響を与える等の問題が出ることがわかった。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため101系に取り付けられていた減圧継電器は取り付けていなかった事も原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し1972年度中に過電圧を防止する対策が講じられた[2]

車体構造

車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。そのため、101系とは外観は前面以外においてほとんど差が無いが、床下構造が大きく変わっている。また、製造が進むにつれどんどん近代化していき、初期製造車と最終増備車を比べてみるとかなり違っている。

基本性能

MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離1.36km程度の通勤線区にて運用されることを前提に、主電動機を、低回転数時のトルク特性重視で定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形(定格出力110kW/h)とし、85%界磁での定格速度を36.5km/hに設定して電力消費量を抑えた経済車である。加速度は4M4Tで2.0(6M4Tでは2.3)km/h/sとなるように設定されていた[3]

比較的駅間が短く速度の低い路線への使用を目的として設計されているため、継続して高速運転を行う線区には不向きとされる。また高速運転時を配慮して弱界磁を35%として設計したが、実効値は40%程度で100km/hまでの所要時間は2分以上かかっていた。京阪神緩行線など一部の線区では設計通りの35%になるように小改造を行い高速性能を改善した車両もある。

本形式の設計は地下鉄東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本となったほか、地方電化路線用の105系にも応用された。また、一部の部品が飯田線用の119系121系にも使われている。

新造車3,447両の他、20両が72系から、36両が101系からそれぞれ編入され、総数は3,503両となっている。ただし奈良線和歌山線の電化開業および可部線新性能化用として0・1000番台から61両(JR化後、事故廃車補充用として更に1両)、仙石線在籍車両のうちの4両が105系に改造され、また事故廃車となった車両も数両あったため、3,503両が同時に存在したことはない。

101系からの変更点

  • 車輪径の拡大に伴い台枠底面の高さがやや上昇した。
  • パンタグラフを高圧引通線の短縮化などを目的にM'車からM車(クモハ103形、モハ103形)に設置した。
  • 運転中の乗務員が軌道の流れによる圧迫感を感じるのを防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小した。
  • 運転台機器は、視認性を重視したメーター類の配置、操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられたマスコンとブレーキハンドル、扱いやすさの点から制御卓にまとめられたスイッチ類、疲労軽減を図った運転士座席など人間工学を駆使したものに改められた。
  • 運転台下部正面中央にも外気導入口を追加した。
  • 主電動機および電動発電機冷却風取入口は、電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用した。
  • 正面行先表示器を拡大した。
  • 電動空気圧縮機を2倍の能力があるC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約した。電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形とはせずに独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'(モハ102形)に搭載した。
  • ドアエンジンを変更し、1台のドアエンジン(TK4形)と連動ベルトで構成される、西武建設所沢工場が西武451系電車用として開発したST式戸閉装置を採用した。

形式

写真は車両塗装の項も参照。 本系列は電動車にユニット方式を採用しており、モハもしくはクモハの103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は過去からの慣例に準じて記述する。なお、車両の方向は東海道本線基準で奇数は東、偶数は西を表す。

クモハ103形(Mc)

モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器など、主回路を構成する機器群を中心に搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期に限られた。103系は編成の半数以上が電動車でなければならないことから、3両または5両を組成する場合にはこの形式が必要となる(製造初年度:1965年)。

クモハ102形(Mc')

モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機空気圧縮機など、補助的な機器を中心に搭載する。偶数向き専用。国鉄が車種が増えることを嫌ったために1200番台の5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性から多数のモハ102形と3000番台の片側先頭車がこれに改造されている(製造初年度:1970年)。

モハ103形(M)

クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様に、パンタグラフと主制御器を搭載する(製造初年度:1962年)。

モハ102形(M')

クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に、電動発電機と空気圧縮機を搭載する(製造初年度:1962年)。

クハ103形(Tc)

103系の制御車。75~91と500番台・1200番台および線区の事情で方向転換した車両以外は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される(製造初年度:1962年)。

サハ103形(T)

運転台のない付随車である(製造初年度:1964年

車種分類

103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や後述する番号の重複を避けるために番号区分が行われた。そのため、車番によりおよその仕様の判別が可能である。

0番台

0番台
鶴見線で運用されていた初期車
主要諸元
起動加速度 2.0 km/h/s
保安装置 ATS-SW.P.Ps
ATC-6(1974年以降製造の一部、すでに消滅)
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1964年から1984年まで製造された[4]、103系の基本形式である。非常に長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年度ではなく製造年による区分である。

1964年~1967年製造車

  • 最初の量産車グループである。山手線向けを皮切に、順次首都圏各線区へ導入された。
  • クモハ103-1~133、モハ103-1~159、モハ102-1~292、クハ103-1~114・501~616、サハ103-1~225がこれに該当し、試作編成に存在しなかったクモハ103形サハ103形が追加されている。
  • 山手線に先行投入されていた試作車は、後にこのグループに合わせた仕様に改造されている。
  • 1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」では、同時製作の910番台と同様に客用ドアがステンレス製になり、それ以前に製造された鋼製ドアの車両も一部を除いてステンレス製のものに交換されている。また、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用された車両も存在した。

1967年~1970年製造車

  • 上記に続いて製造された量産車グループである。1967年に「昭和42年度本予算追加車」として常磐線に、そして続く「昭和42年度第3次債務車」として阪和線に、と高速運転中心の路線への投入が開始され、103系の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループである。
  • クモハ103-134~155、モハ103-160~278、モハ102-293~433、クハ103-115~177・617~638、サハ103-226~305がこれに該当する。クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、このグループで製造が打切られた。
  • 高速運転対策として、クハとサハの付随台車がそれまでの踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更された。
  • 1次車と2次車については、先頭車の前照灯は101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、1975年大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-544、同じく1977年に大井工場で事故復旧工事を施工されたクハ103-4を始め、1979年からは本格的にシールドビーム2灯に改造されるようになった。2000年11月6日に廃車された、京葉電車区のクハ103-562が、未改造のまま白熱灯で残された最後の車両であった。

試作冷房車(1970年製造)

  • 1959年名鉄5500系電車を皮切りに私鉄において冷房を取付けた通勤型電車が登場したのに呼応し、私鉄とのサービス格差の改善する目的で試作冷房装置を搭載して、山手線に10両編成1本が試験投入されたグループである。
  • 冷房方式の比較・検討のため、異なるメーカーが製作した3種の試作冷房装置が取付けられ、冷房電源用のMGは別途、編成両端のクハ103形に210kVAのものが各1台ずつ取付けられ、それぞれ5両給電とした。
  • 編成は、クハ103-179-モハ103-279-モハ102-434(以上三菱電機製「AU75X形」搭載)-サハ103-306-モハ103-280-モハ102-435-サハ103-307(以上日立製作所製「AU74X形」搭載)-モハ103-281-モハ102-436-クハ103-178(以上東芝製「AU73X形」搭載)となった。番号は従来車の続番である。これらは同じ冷房装置を搭載する車両でも各車で送風ダクトの本数、室内通風口の位置といった風洞構造や扇風機の有無などの差が付けられていた。なお、冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental)を意味するサフィクスである。
  • AU73X形とAU74X形は1つの冷房装置の内部に3つの小型ユニットクーラーを集約し、AU75X形は1つの冷房装置の内部に2つの大型ユニットクーラーを集約するという構造の相違があり、1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2者の方が有利であったが、製造・保守コストの点ではAU75X形の方が有利であった。後に東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を製作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定され、AU75X形を基本に冷房装置と扇風機を併用したAU75系として翌年以降これら3社の手で量産が開始された。
  • このグループは冷房搭載の他、客室窓が製造工数低減と気密性向上のためにユニットサッシに変更され、運転席下の通風口は省略されていた点も特徴である。また、103系としては最後の白熱灯式前照灯を採用したグループでもある。本グループは試験の終了後、1978年に量産冷房車と同じ仕様に改造された。
  • 本グループから客室座席が人間工学に配慮した新型になり、背もたれの角度が増大するとともに座面も低く奥行きのあるものに変更された。あわせて座席下にある客室ヒーターとその設置方法も改良され、従来7人掛け中央に1基のみ設置されていたものが、U字型の取り付け幅の広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置する形に変更され、暖房放射面積の増大と暖房能力の強化が行われた。
  • 当初は上記の編成として池袋電車区に配置されていたが、山手線のATC化に伴う転配により、1979年以降は各車がばらばらに転属を繰返すようになった。2000年4月3日に当時習志野電車区に配置されていた4両より廃車が始まり、2005年11月22日に当時京葉電車区に配置されていたサハ103-307をもって全車廃車となった。

1971年~1972年製造車

  • 発注の時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたグループである。
  • モハ103-282~330、モハ102-437~486、クハ103-180~212、サハ103-308~323がこれに該当する。
  • 客室窓がユニットサッシに、先頭車の前照灯が新造時からシールドビーム2灯にそれぞれ変更されており、また主制御器がCS20A形からCS20D形に改良されるなど、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が見られることから、俗に「1次改良車[5]」とも言われる。冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口は復活した。
  • 冷房化に際してはグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されてはおらず、軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する。冷房改造時に通風口は埋込まれており、現存車両は全て後述の1973年製造車と同一の前面形状となっている。
  • 京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区に新製配置されており、特に先頭車はクハ103-188が松戸電車区に新製配置された以外は全て関西に配属・JR西日本に承継されたのも特徴である。

1973年製造車

  • 前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載[6]して製造されたグループである。
  • モハ103-331~413・モハ102-487~569、クハ103-213~268、サハ103-324~359がこれに該当する。
  • 上述の通り冷房装置としてはAU75系が採用されたが、これに電力を供給する電動発電機はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な大容量品(160kVA)を搭載して、一括給電するように変更された。これは本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定されたものである。これに併せて、車体2・4位側[7]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。
  • 室内も座面拡張、蛍光灯の増設が行われ、居住性の改善が図られている。先頭車前面窓下の通風口は再び廃止された。
  • 後位側面に電動行先表示器を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更した。また、これに併せて前面の行先表示器を電動化し、位置も若干変更している。この行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓が埋められている。客室内3位側妻窓上部には配電盤が設置され、その下の妻窓上段が固定化された。
  • 終端駅での折返しによる長時間停車を考慮し、半閉回路[8]を新設した。
  • 当初山手線・中央快速線および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して、関東配属の先頭車の多くは1年足らずの間に1974年新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属している。よって、「低運転台+新造時からシールドビーム」の形態の車両は関東地区では極めて少数派となった。
  • 中央快速線に残った先頭車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼(→習志野)電車区に転属し、さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。

1974年~1981年製造車

  • 踏切事故対策や視認性向上のために先頭車が高運転台構造に変更され、窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯が設けられるなど、前面デザインが大きく変化したグループである。
  • モハ103-414~786、モハ102-570~899・2001~2043、クハ103-269~499・701~844・846・848・850[9]、サハ103-360~503がこれに該当する。この内、クハ103-797・799~808・810~815・817~844・846・848・850がATC非装備で製造された。クハ・サハの製造はこの製造分をもって終了した。
  • 山手線と京浜東北線ATC化のため、運転台後部にATC装置(ATC-6形)の設置スペースが設けられ、同部分の戸袋窓が廃止された。機構的には、運転台のブレーキ弁がME40A形からATC対応として非常抜き取り化されたME48形に変更されたのが特徴である。
  • 後に中央快速線や福知山線などのATC非設置線区にも投入され、該当車両のうちクハ103形についてはATCの省略と戸袋窓の復活、旧式のME40形ブレーキ弁装備という5次車以前との折衷仕様で製造[10]されている。
  • このグループ以降、北陸トンネル列車火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、後述の1000番台等地下鉄乗入車と同じA-A基準に対応しているのも特徴である。これに伴い、妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。ただし、地下線運用は考慮しないため、前面貫通扉は非設置である。
  • 1973年製造車で設置が開始された半閉回路は、有効に使われないまま本グループの途中(クハ103-317他以降)から廃止されている。

1983年~1984年製造車

  • 赤羽線の10連化及び山手線輸送改善の件名で新製された、103系の最終新製車グループである。
  • モハ103-787~793、モハ102-2044~2050計14両がこれに該当する。なお、これらの車両をもって103系の新製が終了した。
  • これらの車両は、5ユニット(モハ103-787~791とモハ102-2044~2048)がカナリヤ色で埼京線開業前の赤羽線用として、2ユニットが(モハ103-792・793とモハ102-2049・2050)ウグイス色で205系投入直前の山手線用としてそれぞれ池袋電車区に配属された。
  • 201系の製造が開始されてからのリピートオーダーであったため、これに準じて以下の変更が実施された。
  1. 屋根のゴム布張りから塗屋根への変更
  2. クーラーとパンタグラフの横のランボードの形状を201系と同一に
  3. 各窓支持ゴムを白Hゴムから黒Hゴムに
  4. 側扉開口部周囲を完全溶接化
  • その後カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年9月末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため川越電車区に転属し、そのまま埼京線で運用された。
  • JR化後205系の増備に伴い1988年度に山手線用だった2ユニットが、1989年にモハ103-791・モハ102-2048を除く4ユニットがそれぞれ浦和電車区へ、1990年にモハ103-791・モハ102-2048が豊田電車区へ転属した。
  • 1996年3月の八高線の電化に伴い、浦和電車区に所属していたモハ103-790・モハ102-2047は1995年12月に3500番台に改造され古巣の川越電車区に戻った。
  • 1996年8月~9月に3500番台に改造されたユニットを除く10両が豊田電車区へ転属となり、ここでそれを除く12両が揃ったが2002年にモハ103-792・793とモハ102-2049・2050が廃車となった。廃車前の休車期を除くとこの4両の使用期間は実質17年半であった。
  • さらに2004年に残った10両が京葉車両センターへと各区所への転配属を繰り返し、最後にJR東日本の103系全廃計画により2005年をもって新造から21年で全車廃車されている。

500番台

  • 1965年に京浜東北線に103系が投入されることになった。しかし、当時の車両基地の構内有効長などの関係で3+7(当初2+6)に分割可能とする必要があったことから、クモハ103形連結編成の反対側先頭に連結される、偶数向専用の制御車として設計された。なお、クモハ103形と同じく、製造は1968年までしか行われていない。0番台クハとの外見上の違いは、前面ジャンパ栓受けの有無である。617以降では、台車がディスクブレーキのTR212に変更されている。

試作車

900番台

  • 1963年に山手線に先行試作車として新造された車両である。4両編成2本が製造された。当初は1~を名乗っていたが、量産車とは台車の構造が異なる(電動台車 DT26C形 付随台車 TR62X形を採用)、引き通し線もジャンパ栓(19芯のKE58形×2本)も異なるため混結ができない、などの理由から、1964年3月31日付で番号を901~に変更して区別された。製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(以降の車両は黒文字)で書かれていた。引き通しや台車など量産車と異なる仕様については、1967年2月に量産車に合わせる改造が施された。
  • 晩年はクハが青梅・五日市線、モハが埼京線に転じ、他の量産車と混用されていたが、老朽化により、最後まで冷房化されることなく1992年までに全車廃車された。
  • 車番の対応は以下の通り
モハ103・102-1・2→モハ103・102-901・902
クハ103-1~4→クハ103-901~904
  • 上記のため、現存しているクハ103-1・2、すでに廃車されているクハ103-3・4・モハ103・102-1~4は「2代目」の電車である。

910番台

  • 空転防止の観点から1967年に制御段数を大幅に増やした超多段バーニア式制御器の試作車として製造された車両である。試作されたCS30形制御器を搭載するモハ103-911~913と、これらとユニットを組むために引通線の一部を変更したモハ102-911~913の中間車のみ合計3ユニット6両が製造された。
  • これらを用いた試験の結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用されたが、精密なバーニア機構は製造コストが高く、保守にも手間がかかることから、結局1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。
  • 山手線が10両運転を開始した後、910番台は1つの編成に集約されて使用されていたが、205系化により他線区に転出させる際、冷房改造され冷房用MGを搭載したモハ102-911・913以外については電装解除の上サハ103形800番台に改造された。また、このとき相方を失ったモハ102-911は浦和電車区に、モハ102-913が豊田電車区に転属となり、ほぼ同時期に保全工事を施工されていた両区のモハ103非冷房車(モハ103-107、モハ103-62)とユニットを組み直し、捻出されたモハ102-172、62は後述のサハ103-800番台に改造された。1994年に913が、1995年に911が廃車となり、現在は区分台消滅している。

地下鉄対応車両

地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と平行して製造された。乗入先各線は全て保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。かっこ内は対応する地下鉄路線を示す。

1000番台

1000番台
常磐快速線を走る1000番台。前面に貫通扉を持つ(2003年4月撮影)
起動加速度 3.3km/h/s
重量 29.1t(クハ103)

~37.2t(クモハ102)

保安装置 ATS-B.P
ATC-4(1000番台)

常磐緩行線帝都高速度交通営団東京地下鉄千代田線

  • 1970年より10両編成16本160両が製造された。千代田線用ATC機器を搭載したため、乗務員室後部の戸袋窓が製造当初からないことと、地下鉄乗入基準(A-A基準)に従って前面貫通路が設けられ、車両部品は全て不燃・難燃材料が使われているのが特徴である。営団から要求された加速性能を実現するため、編成中両先頭車以外の全車を電動車(MT比8:2)とした上でモーターの限流値を上げ、制御器は910番台の項で記述した改良型のCS40形を搭載している。
  • 塗装については灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯が入れられた。
  • 乗入協定に従い、前照灯はシールドビーム2灯化され、前面窓下へは警戒の意味で太帯が配された[11]
  • 国鉄車であることを示すため、前面の運行番号表示器上方と車両上方側面には国鉄マーク(JNRマーク)が掲げられた。
  • 登場から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。
  • 騒音防止の観点から、主抵抗器は自然通風式が採用された。しかし、営団が新造したチョッパ制御車の6000系より電力消費量が格段に多いことや、トンネル内において抵抗器からの排熱によってトンネル温度が上昇するという問題が起こったことから、203系への置換えが開始され、これは1986年3月までに完了した。これについては常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照。
  • 余剰となった車両のうち、56両は105系に改造され奈良線桜井線和歌山線和歌山列車区)と可部線広島運転所)へ転属した。残った車両はATC機器など千代田線乗り入れ機器を撤去し、塗装を青緑1号一色に変更のうえ常磐快速線と成田線松戸電車区)に転用された。さらに、1990年には10両編成1本が営団東西線用のATC-3形(色灯式信号用ATC)およびデッドマン装置付マスコンハンドルを取付け、塗色変更を実施した上で東西線乗入用(三鷹電車区、詳細は国鉄301系電車を参照)に転用された。
  • 廃車は比較的遅い2002年からで、松戸区の車両は常磐快速線へのE231系0番台の投入によって2004年3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台への投入によって2003年5月30日に、それぞれ運行を終了し、全車廃車となった。

1200番台

国鉄301系電車を参照。

1500番台

1500番台
ファイル:JNR EC Tc103-1513.jpg
クハ103-1513
クハ103-1514 車内
起動加速度 3.3km/h/s
重量 34.1t(クハ103)

~42.2t(クモハ102)

保安装置 ATS-SK
ATC-9

唐津線筑肥線福岡市地下鉄空港線

  • 全車が6両編成として9編成54両が製造された。ただし編成番号は3両ずつに分かれており、小倉工場に回送する際も3両ずつに分割される。後に4編成が先頭車化改造により2分割されて3連化されたので、現在は13編成54両となっている。唐津鉄道事業部唐津運輸センター所属。
  • 製造当時、常磐緩行線用として203系電車を発注していたが、筑肥線用としては国鉄の財政事情と列車密度の低さから103系とされた。機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、保守低減のため、制御器は超多段式のCS40形ではなく0番台と同じCS20形になっている。また電動発電機や空気圧縮機についても、コスト削減のため急行形の廃車発生品を利用している。ただし、車体や内装は201系、先頭部は105系とそれぞれ同様のスタイルを採用し、イメージアップを図っている。塗装もスカイブルーにクリーム色の帯というオリジナルのものが用意された。国鉄車を示すJNRマークが正面に入っていた。また、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない。
  • 3両編成は限定運用、6両編成は303系の代走としての運用も持つ。乗入先の地下鉄空港線内でのワンマン運転には対応しておらず、同線内のホームドアとの連動もできない。このため、地下鉄線内で運転されるときは車掌が乗務し、ドア扱いの際は車掌スイッチ操作と共にホームドア開閉リモコンを手動で操作している。
  • 折返時等の長時間停車での車内保温のため4ドアのうち3ドアを締切る機能を装備している。
  • クハ103-1504は1度脱線事故を起こし車体が大破していたが、現在は復帰している。

改造車

新造費用を軽減する目的で、他の系列からの編入車が存在する。また、民営化後には本来対応していない閑散路線での使用に適応させるために改造を受けた車両もある。

国鉄時代

サハ103形750番台

  • 1972年以降101系サハ101形をサハ103形に改造・編入した形式である。
  • 元々103系は101系の構造を基本に設計されているので、車体の改造点は連結のために形状が異なるジャンパ栓受けや引き通し線、それに幌などを103系と同一のものに交換した程度である。ただし、103系よりやや低い車高や形式の違う台車(DT21T形またはTR64形)もそのまま残されたので、外観での大きな相違点となっている。
  • 特に前後に干渉する番号がなかったにもかかわらず、750番台というやや半端な番台区分となっているのは、サハ100形も同様に改造して700番台とする計画があったためである。しかし、こちらは実現することはなかった。
  • JR化後に延命工事を施された車両や台車を103系と同一のTR212形に交換した車両もあったが、2002年のサハ103-765の廃車をもって番台消滅している。
  • 種車の形態、改造の内容によって以下の5種が存在する。
    • 751~767:非冷房のサハ101形を改造したグループ。改造時に冷房(AU75形)と側面行先表示器の設置がなされている。
    • 768~770:AU75形で冷房改造されていたサハ101形を改造したグループ。側面行先表示器は設置されなかった。
    • 771・772:AU75形で冷房改造されていたサハ101形200番台を改造したグループ。搭載していたMG・CPは改造時に撤去されている。側面行先表示器は設置されなかった。また、この2両は試作冷房改造車を種車とする関係で、車体中心からずれた位置に冷房装置が設置されている。
    • 773~776:非冷房のサハ101形を改造したグループ。冷房、側面行先表示器共に設置されなかった。後年、775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車されている。また、774は豊田→中原→松戸と転属したため、101系車体でエメラルドグリーンに塗装された唯一の例となっている。
    • 777~780:AU75形で冷房改造されていたサハ101形を改造したグループ。改造時に側面行先表示器が設置されている。777・778・780の3両は平成5年に台車がTR212形に交換された。
  • なおこれに先立つ1970年大阪環状線103系の8両編成化にあたり、車両需給上森ノ宮電車区の101系サハ101・100形55・58の4両にジャンパ連結器交換(KE57形からKE70形へ)などの併結改造工事が吹田工場で施工された。この4両は支社改造工事で施工されたため形式番号はサハ101・100形のままで103系には編入されず、1979年に全車通常形態に復元されている。

仙石線向け改造車

  • 1979年より、ATC車の投入で余剰となった首都圏各線(山手線、京浜東北線、横浜線、青梅・五日市線)の車両が入線している。当時仙石線タブレットを使用していたので、それがぶつかることを考慮して乗務員室直後の戸袋窓が破損防止のために埋込まれていた、客用扉の半自動化などの特徴があった。なお、1984年72系アコモ車置換え用として追加投入された時は自動閉塞化されたため、戸袋窓の埋め込みは省略された。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#103系前期車参照。

クハ103形0番台の1000番台電動車併結対応化改造

  • 常磐線用103系電車は、1983年度に車両需給上、クハ103形0番台2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要を生じ、クハ103-93・188・627・636に1000番台併結改造を施工した。この際188は奇数向きへの方向転換も併せて行われている。
  • 乗務員室に非常用ブザーの取付、非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付が施工され、施工車は、他車との識別のために車体外板車号下部に白線を表記して区別した。

川越線向け改造車

3000番台(拝島駅)
  • 以下の4形式が改造された。
    • クモハ102形3000番台
    • モハ103形3000番台
    • クハ103形3000番台
    • サハ103形3000番台
  • 1985年川越線の全線電化開業の際、、大宮駅川越駅高麗川駅間の区間運転用の車両として川越電車区(→川越車両センター)に配置されたグループである。
  • 国鉄は1974年に仙石線の国鉄72系電車4両編成5本計20両に対し、車体を当時製造されていた103系0番台と同一の車体に載替える改造を行った(モハ72形970番台・クハ79形600番台)。 この72系20両は車体だけは103系とほぼ同一であったことから、1980年までに同線の未更新の旧型車両が置換えられた後も使用されていたが、1984年に同線の車両を103系に統一するために首都圏から転入した103系初期車により置換えられ、運用を失った。
  • しかし、製造後年数の浅い車体を川越線用として転用する事となり、1985年に集中台検[12]の廃止および工場の予備品見直しにより捻出した103系のMT55形主電動機とDT33形動力台車、101系の廃車で発生したDT21T形付随台車をそれぞれ組合わせて新性能化改造がなされ、継続使用されることとなった。
  • 機器改造の理由として、足回りの老朽化が進んでいたこと、車体は新形であるが下回りは旧性能電車と同じで検査周期が短く費用がかさむことの他に、当時埼京線が開通する際に投入予定であった元山手線の103系が同じ路線を走行する際に、機器が旧性能のままではダイヤ編成上の障害となる恐れがあったためとされる。
  • 仙石線時代の編成はクハ-モハ-モハ-クハであったが、当時は3両編成で使用する計画であったので、クハ103形-モハ103形-クモハ102形の編成に変更された。一般的な103系の3両編成は制御電動車がパンタグラフ、制御器を搭載するクモハ103形、中間電動車が補器類を搭載するモハ102形となるが、中間車にパンタグラフが取付けられていた種車の車体構造を極力活かす目的で、制御電動車が補器類を搭載するクモハ102形、中間電動車がパンタグラフ、主制御器を搭載するモハ103形に改造された。車端部につけられた製造銘版には改造種車の製造年である昭和29年製造と記載されており、オリジナル103系よりも10年も早くから存在していた事になっている。
  • 主電動機は台車(DT17形→DT33形)とともにMT55形に変更されている。種車のモハ72970番台は車体側に風洞を設けて主電動機の冷却風を採風する方式を採用していたが、クハ79600番台を改造するクモハ102形では車体側の改造工事が大掛りとなるので、モハ103形も含め、主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式とされた。なお風洞と取入口は103系化改造時に埋込まれている。また、クモハ102形に搭載のMG(種車のモハ72970番台から流用)についても同様の方式とされた。
  • 上記の改造に漏れたモハ72形5両は無改造のまましばらく保留車となっていたが、1986年11月のダイヤ改正青梅線の3両編成を4両化するため、電装解除の上サハ103形3000番台に改造され(機器類は他3車種と同様流用品)、同線のクモハ103形連結編成に連結された。そのため屋根上にパンタグラフを取外した跡が残るなどの特徴がある。
  • その後、全車がAU712形冷房装置を搭載して冷房化され、サハ103形3000番台が八高線電化・1996年3月16日ダイヤ改正に伴い川越区の編成に組込まれるという変化があったが、同線への205系等投入に伴い2005年10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運行を終了した。その後もハエ53編成(クハ103-3003以下4両)が予備車扱いで残存し、実際に車両故障で運行に入ったこともあった(これが本当の最終運用となった)が、同年11月中旬までに全車が廃車された。
  • 3000番台独自の装備としては、高運転台+先頭電動車+AU712形クーラーの組合わせ、付随台車が103系でDT21T形を装備していたことや、種車の機器配置を極力活かしたためにパンタグラフがユニットの外側に設置されたこと、72系時代からの半自動扉機能[13]を残していたことが挙げられる。また、最前部の戸袋部は窓が無く、クハ79形時代は保護板が取付けられていたが、一部の車両は103系化時に撤去され、ATC車と類似した外観であった。


関西方面向け改造車

  • 以下の2形式が改造された。
    • クハ103形2000番台
    • クハ103形2050番台
  • 1986年関西本線(大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加[14]で不足した先頭車を余剰となっていた101系の先頭車を改造・編入することで賄ったグループである。
  • クハ100形から4両が2000番台に、クハ101形から2両が2050番台に改造された。改造点はサハ103形750番台と同様で、車体にはほとんど手が加えられていない。全車非冷房の車両を種車としており、改造後も冷房や側面行先表示器は設置されなかった。
  • 2000番台が主に関西本線(奈良電車区)で、2050番台が主に阪和線(日根野電車区)で使用された。その後、1991年にクハ103-2052が阪和線のATS-P形化に対応させずに明石区に転用されて、晩年は教習車代用として使用されたものの、全車1991年および1992年に廃車・解体されている。
  • 車番の対応は以下の通り
    • クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001~2004
    • クハ101-78・83→クハ103-2051・2052

冷房化改造

  • 「昭和47年度民有車両」以降、一部を除き冷房装置を搭載して落成したが、在来車についても1975年以降冷房装置取付改造が施工されている。
  • 主な改造施工内容は、構体を補強のうえで冷房装置および側面行先表示器取付、モハ102形の電動発電機を制御電源用の20kVAから制御・冷房電源兼用の160kVAに交換等、新製冷房車に準じたものになっている。
  • 一方、1975年夏に関西地区で両端のみ非冷房の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように各区で施工している。
  • その後関東地区にも同様の事例が発生したが、より本格的に両端の乗務員室内に冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を工場施工で取付けた。また1981年度からは中京地区でも冷房改造が始まり、非冷房先頭車全車に冷房制御スイッチの取付が施工された。

JR東日本

サハ103-800番台

  • 山手線の同一編成内に連結されていた910番台が、他線に転属するのにともない電装解除されたグループである。910番台の全6両のうちモハ102-911・913以外の4両と、それら2両と交換でユニット解除された0番台モハ102形2両が改造を受けた。
  • 改造点は電装関係機器の撤去、旧モハ103形のパンタグラフの撤去とベンチレータの設置、および台車のTR201形への交換などで、床下機器配置などに一般のサハ103形と異なる部分があった。全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載する。
  • 改造後は全車が常磐快速線に投入された。廃車は2段階に分けて行われ、国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が1993年に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が2003年に廃車され消滅した。
  • 車番の対応は以下の通り。
    • モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→順にサハ103-801~806

3500番台

  • 以下の3形式が改造された。
    • モハ103形3500番台
    • モハ102形3500番台
    • クハ103形3500番台
  • 1996年(平成8年)3月の八高線八王子駅高麗川駅間の電化開業に伴う必要編成数増加に伴い、0番台4両編成1本に半自動扉機能を取付けて投入されたグループである。配置基地は川越電車区(現・川越車両センター)である。
  • 改造にあたり、元京浜東北線浦和電車区)のモハユニット1組と元京葉線京葉電車区)の高運転台クハ2両が用意された。同線に投入されていた3000番台は手動で開閉する方式であったが、本番台は押ボタンで開閉する方式とされた。なお、モハユニットは1983年(昭和58年)に製造され池袋電車区(現・池袋運転区)に配備された103系の最終新製グループの内の2両である(前述の「0番台:1983年~1984年製造車」を参照)。
  • 2005年3月に運行終了。のちに解体されて区分消滅した。
  • 車番の対応は以下の通り。
    • モハ103-790→モハ103-3501
    • モハ102-2047→モハ102-3501
    • クハ103-725→クハ103-3501
    • クハ103-738→クハ103-3502

モヤ102形

JR西日本

JR西日本では、様々な改造車が誕生している。

関西本線関連

国鉄時代に引き続き、編成短縮と編成数増加を行うのにともない、1988年に不足した先頭車を余剰となった中間車の改造でまかなったグループである。

  • 以下の2形式が改造された。
    • クハ103形2500番台(モハ102-387・388・398・399→クハ103-2501~2504)
    • クハ103形2550番台(モハ103-233・242・243→クハ103-2551~2553)
  • 2500番台はモハ102形からの改造車で偶数向専用で4両改造。2550番台はモハ103形からの改造車で奇数向き専用で3両改造された。新設された運転台形状は高運転台登場後にもかかわらず、JR西日本の方針で低運転台・シールドビームの「1次改良型」仕様とされた点が特徴である。なお、2500番台の方が1両多いのは、羽衣線に転用されたクハ103-194の補充分を含むため。
  • 前面以外の改造は電装解除と旧モハ103形のパンタグラフの撤去にとどめられ、パンタグラフ脇の歩み板や、一部の車両は側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口が存置された。またパンタグラフ撤去跡にグロベンを新設しなおした車両も存在した(2551・2552)。台車も種車のDT33形を小改造(改造後の形式はWDT33T形)したのみで使用している。
  • 全車が集約分散式WAU102形冷房装置を搭載する改造を受けたものの、2500番台は3500番台への運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は状態の良い他の103系に置換えられて2006年3月1日までに廃車されている。

片町線 長尾~木津間電化関連

1989年3月11日に片町線(学研都市線)が全線電化されたが、その際に開設された松井山手駅以西は7両編成で運行できたものの、以東の各駅はホームなどが短く、そのままでは入線できなかった。そこで、松井山手駅以西から来た電車は松井山手駅で京橋方4両を切離し、木津方3両のみを木津方面に入線させるという運用を行うことになり、同線の車両に連結・解放に備えた整備が施された。その後、翌年に、木津方基本編成を4連に、京橋方附属編成を3連に変更した。

  • クモハ103形5000番台→クモハ103-2500番台(5001のみ原番号復帰)
    • 上記の分割・併合を行うために電気連結器と電気空気開閉器を装備した制御電動車である。5001はクモハ103-48からの改造であるが、5002~5016の15両はモハ103形に運転台を設置する改造でまかなわれた。新設された運転台は、上記のクハ103形2500・2550番台と同様1次改良型タイプであるが、やや広いため、運転台直後の戸袋窓がない。
    • 新造207系投入やATS-Pの導入で1993年~1995年に同線から撤退するのに伴い、順次電気連結器関連の装備を撤去し、5001は原番復帰、5002以降は2500番台に再改番(5000番台時の車号-2501)された。
    • 1997年~1998年には9両が3500番台に改造され、2007年3月現在では広島に48・2501・2502、奈良に2505、日根野に2503・2504・2507が配置されている。
  • モハ102形5000番台→原番号復帰
    • モハ102形に電気連結器、電気空気開閉器、尾灯掛を装備した車両である。一部体質改善工事を受けた車両もあるが妻面の尾灯掛は残っている。
  • サハ103形2500番台
    • 基本編成4連化に伴い不足する車両を、モハ103形の電装解除により補った車両であったが、2年で廃車になっている。
  • サハ102形5000番台→サハ102形0番台
    • サハ103形を改造した付随車である。電気連結器等の設備を取付ける際、床下機器が干渉する関係で、車両の向きが方向転換されて前後逆になった。通常のサハ103形と取り扱いが異なることから、区分番台ではなく別形式が起こされ、計13両が改造された。
    • 車体が反転しているため、通常は車両の西端(東海道本線基準で神戸側)に取付けられている行先表示器が偶数向きクハ103形同様東端(東海道本線基準で東京側)に付く。のちに編成パターンの変更にともない電気連結器を撤去のうえ0番台に改番され、機能面でサハ103形と差はなくなった。2006年から廃車が進行している。

クハ103-モハ103-モハ102-サハ102-クモハ103-モハ102-クハ103となっていた。

のちにクハ103-モハ103-モハ102-クモハ103-モハ102-サハ102-クハ103と組成変更された。

播但線・加古川線電化関連

播但線加古川線が電化された際に、2両編成・ワンマンでの運行を行う目的で改造が行われたグループである。試験走行を除けば、103系では初の2両を最小単位とする編成となった。両番台とも比較的分割・併合が多い路線に配置されるが、ともに電気連結器などは未装備である。

3500番台
3500番台
103系3500番台先頭車化改造車
起動加速度 2.5km/h/s
重量 42.0t(クモハ103)

~42.6t(クモハ102)

保安装置 ATS-SW
  • 以下の形式が改造された。
    • クモハ103形3500番台
    • クモハ102形3500番台
  • 1997年3月14日の播但線姫路駅寺前駅間の電化開業に伴い用意されたグループである。改造費を抑制するため、クモハ103形+モハ102形のユニットのモハ102形に運転台を追加してまかなわれた。種車はクモハ103形2500番台を含むユニットで比較的経年の浅いものから9ユニットが選ばれた。
  • 新設された運転台は、上記3種類の先頭改造車同様1次改良型タイプで、一部の機器は当時廃車されたクハ103形から移植されている。改造と同時に体質改善40N工事が施行された。一部の車両は延命N40工事車から再改造されている。
  • ワンマン運転を実施することから運転台から車内が良く見えるように運転台背面および車両連結面の窓が他の103より拡大されている。また客用扉付近に出入口を明示するLED表示器が設置され、運転台直後にバスタイプの運賃表示機とワンマン未使用時は運転台背面に格納できる運賃箱が設置された点が特徴である。現在、クモハ103形のうち、3503には乗務員用の開閉装置のすぐ横にサウンドジェネレータが設置され、3503と3509には屋根に冬季の架線霜取用パンタグラフの増設準備がなされている。
  • 登場当初はトイレ非装備であったが、2005年から2007年にかけてクモハ102形に後述の3550番台と同型のトイレが設置された。
  • JR東日本にも同じ番台区分が存在したが形式が違うので番号は重複していない。
3550番台
3550番台
加古川線の3550番台
起動加速度 2.5km/h/s
重量 42.0t(クモハ103)

42.3t(クモハ103 2パンタ車)
~42.6t(クモハ102)

保安装置 ATS-SW
  • 以下の2形式が改造された。
    • クモハ103形3550番台
    • クモハ102形3550番台
  • 2004年12月19日の加古川線全線電化開業に伴い用意されたグループである。完成が電化より早く、登場からしばらくは網干駅などに留置されていた。
  • 3500番台と同じワンマン運転対応車で、側面の表示器などの構造も同一であるが、すでに体質改善40N工事が終了していたため、工事済の森ノ宮区および奈良区の中間電動車ユニットを先頭車化改造した点、先頭部に貫通扉を取り付けた点、そして寒冷地対策として霜取用にパンタグラフを2基備える編成(以下2パンタ車と表記)が造られた点が異なる。また、クモハ102形にはJR西日本103系で初のトイレ[15]が設置されている。
  • 下関車両センター改造分と吹田工場改造分では床面ビニールクロスの色や妻面部分化粧板の固定方法など細かい部分での仕様差がある。
  • 前面は、事業用車を除くと1500番台以来となる窓下2灯のヘッドライトに、高運転台車と低運転台車の中間程度の高さに窓が配された、独特な形状となった。デザイン的には同時期に改造されたクモハ115形1600番台との共通点が見られる。

JR九州

  • 以下の2形式が改造された。
    • クモハ103形1500番台
    • クモハ102形1500番台

JR九州の直流区間の一部で3両編成での運転がされることになり、必要な車両が改造された。元々6両編成であった編成を2分割して中間運転台を取付ける改造を実施したため、元の先頭車の向きにより「クハ103形-モハ103形-改造クモハ102形(奇数編成)」「改造クモハ103形-モハ102形-クハ103形(偶数編成)」の2通りの編成パターンが存在する。クハの前面貫通路が非常用なのに対し、改造先頭車は併結時に通路となるため105系仕様の前面が取付けられた。また、自動幌や電気連結器が取付けられている点とATCが設置されていない点に相違点がある。

現在は全編成が駅収受式ワンマン改造を行っている。先述のATCの関係から、西唐津筑前前原間でワンマンの3両編成として運行し、地下鉄空港線に乗入れる際は筑前前原でクモハを中間に封じ込めるように奇数編成+偶数編成で6両編成を組んでから入線するという運行形態になっている。

105系への改造

103系の中には改造によって105系となったものがある。それについては国鉄105系電車#改造編入車グループを参照のこと。

車両塗装

101系と同様に、103系では車両塗色にラインカラーが制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は修正マンセル記号である。また、JR設定色は塗料も含め全て公式な呼称が存在しないため最も一般的と思われる呼称で紹介している。

この書体(一部のブラウザ(ieなど)では斜体)はすでに定期運用から撤退、もしくはすでに当該路線用の車両配置のなくなったことにより当該塗色の車両が見られなくなった路線・所属区。すでに撤退した所属区に関しては撤退時の名称を示す。

  • なお、一部に車両の転属などで各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。
    • この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。

国鉄設定色

地下鉄対応車両

JR設定色

1995年10月からシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)というカラーリングに変更された。また2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという303系に準じたカラーリングの車両も登場している。
塗装が2回変わっている。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両を参照。
  • 東海色
    • 中央西線・関西線(最終配置:神領電車区)
リフレッシュ工事(後述)施工車に塗られた塗装。それまでの青22号から変更された。クリーム色をベースに、窓下にオレンジと緑色(「湘南色」、または「JR東海色」ともいう)の帯が入る。床下機器もグレーー色に塗装された。
  • マスカット色
    • 山陽本線岡山地区[16]
薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というものだった。薄緑はマスカット岡山県の名産品の1つであることに由来している。
前面行先表示器は撤去。側面行先表示器も入線当初は使用せず、サボを使用していた。現在は行先表示器を使用している。
クリーム地(クリーム1号)に青帯(青20号)が1本入る。
  • 播但色
ワインレッドに客用扉上部と運転台直後にダークグレーのアクセントが入る。運転台直後の戸袋のグレー部分には「JR WEST JAPAN BANTAN103」の文字が入る。
エメラルドグリーンに播但色同様のアクセントが入る。前面貫通扉下部と運転室直後の戸袋のグレー部分には「JR WEST JAPAN KAKOGAWA103」の文字が入る。前面窓周りは黒色で塗装。

ラッピング・イベント塗装

  • USJ用
    • 桜島線(JRゆめ咲線)(森ノ宮電車区)
沿線にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパンの広告車。同線専用の4本がそれぞれ違ったテーマのラッピングを施されている。ラッピングは時折変更があり、張替時は一時的に白1色になる。
  • 加古川線用
    • 加古川線(加古川鉄道部)
横尾忠則デザインで3551(M1)編成は2004年12月の運用開始時から「目のある電車」としてチェックに目玉の(題名は「見る見る早い」)、3552(M2)編成は2005年12月から宇宙の(題名は「銀河の旅」)、3555(M5)編成は2006年3月からマーブル模様(題名は「滝の音、電車の音」)のラッピングが施されている。
  • アニメ・ドリームトレイン1999用
イベントに合わせて車体を旧型客車を模したぶどう色2号に塗装した。
  • 関門・海峡物語

JR分社後の状況と改番を伴わない改造

103系は元々通勤形電車という大量輸送に特化した形態や国鉄の「標準型」とされていたため、性能・設備面では陳腐化が目立ったが、1983年7月に201系に置換えた中央快速線1986年3月に203系に置換えた常磐緩行線以外、置換えが進まなかった。

しかし、JR化後は各社で新車の投入が進み、急速に廃車が進行していった。特に、JR東海では103系の定期運用が完全に消滅している。

JR東日本

東日本旅客鉄道(JR東日本)管内では、民営化当初2,418両という一大勢力を誇っており、ATSのATS-P形化に際しては、ME40形搭載車の大半についてブレーキ弁のME48形への交換工事が実施されるなど、アップデートが図られてきた。また、南武、鶴見線用全車両および常磐、武蔵野線用車両の一部は外幌取付に伴う妻窓閉鎖が行われた。また、京葉線用車両はクハ103形にスカートが取付けられた。常磐線用車両は運行番号表示器がLED式に変更された。

しかし、1990年代からは205系209系E231系などの量産とこれらへの置換えが進んだことにより急速に廃車が進んだ。2006年3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱し、4月8日の常磐快速線でのさよなら運転と、その翌日の車両展示会を最後に、JR東日本の首都圏における103系の営業運転が、完全に終了した。

冷房化改造

数多くの非冷房車は、当初は新造車と同じAU75系冷房装置によっての冷房改造であったが、非冷房車は冷房搭載を前提とした設計ではなかったため搭載には構体の補強工事が伴い、多額の費用と時間を要した。

そこで1987年から屋根上に複数の冷房装置を搭載し、重量を分散することで補強を不要とする集約分散式冷房装置を使用しての冷房改造に移行した。最初に先行改造されたサハ103-128は後述するJR東海のC-AU711系冷房装置に類似したもの(メーカー形式日立FTUR-300-102形)が設置されたが、その他の車両は独自開発のAU712形での改造となった。

冷房電源は当初はモハ102形のMG容量を増強して対応していたが、1988年後期からは工期・費用をさらに削減するために別取付のSC24形補助電源装置(SIV)も同時に取付けたタイプも登場した。しかし、これらの車両は元々車齢が高い上に冷却能力が低く、AU75系の車両と混結した場合に冷房電源の関係から冷房が使用できないケースも発生するなど編成組成上の制約があり、2005年のモハ103-185・モハ102-340(武蔵野線)の廃車により、営業運転を行う車両では消滅した。

初期型(左)と後期型(右)の並び。初期型の前面運行番号表示窓が埋込まれている(南浦和駅

クハ103形への電気連結器の取付

1989年から分割併合運用の多い京葉電車区(→京葉車両センター)の基本編成の下り方Tc車と付属編成の上り方Tc車、豊田電車区の4両編成Tc車、松戸電車区(→松戸車両センター)の基本編成の下り方Tc車と付属編成の上り方Tc車に自動分併装置取付工事を施工している。このうち松戸車では、従来の編成では基本編成の下り方先頭車の一部にMc車が入っていたが、Mc車に同工事を施工すると工事が煩雑となってしまうので、他区からの転用車を組合せて基本編成からMc車を外してTc、Tc'車だけの工事とした。

車両更新改造

国鉄時代から施工されていた特別保全工事に代わる、より一層徹底した施工内容による延命工事で、1988年から行われた。

対象は、施工当初は1967年1972年製の車両とされていたが、のちに1972年以降に製造された車両に対しても施工されている。

主な施工項目は

  • 屋根鋼板の補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化
  • 雨樋取替
  • 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺など)
  • 側窓枠取替
  • 外板塗装更新
  • 空気配管取替と除湿装置取付
  • 主回路配線引替
  • ジャンパ連結器の引替と片栓車の両栓化
  • 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替)
  • 室内化粧板とカーテン取替
  • 腰掛脚台、け込板とモケット取替(フットライン入り)
  • 握り棒、荷物棚のステンレス化吊手の取替
  • 各ゴム類の黒ゴム化(戸先、戸当り、Hゴム、押えゴム)
  • 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式:一部車両はドア自体を金属押え方式のものに交換)

これらの工事は多くの工場が担当しており、化粧板の柄や腰掛モケットが微妙に異なるなど、いくつか仕様に差異が見られる。また、一部の工場では袖仕切の追加が施工されている。

仙石線リニューアル改造

復活に向け試運転中の仙石線103系(陸前赤井駅にて)

在来形の103系置換え用として仙石線に入線した車両は、窓を上段下降・下段固定のユニット窓に交換、ドアを窓が大きいものに交換、前面窓を2枚窓化、運行番号表示器を列車愛称表示器化された。ただし、車両更新を終えてから転入した3編成は窓とドアの交換が省略されている。後にベンチレーターの撤去も実施された。詳細は仙台車両センター宮城野派出所#過去の配置車両を参照。

前面強化工事

成田線踏切事故運転士殉職したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事を1995年3月末までに行った。113系などでは電車区で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、当系列では主に検査入場の際に工場にて鋼板を取り付ける工事を行った。なお、1974年以降に製造された高運転台の先頭車は製造当初から前面が強化されているため改造対象にはなっていない。また、1993年12月までに大宮工場(当時)にて施工された車両は標識灯上部の足掛けが外側にズレて設置されているが、インドネシアに渡った初期先頭車は全車がこの形態となっている。

各線からの撤退

201系・205系・209系・E231系等の投入・転用により下記の通り撤退した。時期は運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。

現存車・保存車

現在、東日本には以下の車両が存在する。

  • 仙石線用の4両編成1本は2004年7月の運用終了後も廃車されず東北本線郡山駅構内に留置されていたが、2006年11月にトイレ設置・床下機器のグレー塗装化や103系で初となるシングルアームパンタグラフ設置といった追加改造が施工された。これは同線多賀城駅付近の立体交差化事業により、本来多賀城まで運転されていた列車を東塩釜まで延長運転することになったため、編成不足を予測しての予備編成確保のためである。仙台への回送後試運転を重ねていたが、2007年4月現在、平日のみ特定の運用に限って営業運転に復帰している。
  • 埼玉県さいたま市の某運動場には、1990年5月まで京浜東北線で使用されていたクハ103-560が保存されていた。ただし、盗難や落書などの被害にあったり、戸袋部の外板の腐食が進むなど、状態はかなり悪くなっていて、2007年の夏頃に姿を消した。なお、この運動場は私有地につき関係者以外立入禁止である。
  • 東芝の府中工場内には、同社がJR東日本から譲受したクモハ103-58+クハ103-525が機器をインバータ制御対応のものに改造された状態で留置されている。車体は前面窓以外に田園風景が描かれ、クーラーはAU720形に交換されている。また、クハ103形には走行のためにモハ102形相当の機器が増設されていると見られる。
  • 大宮総合車両センターには元京葉線のクハ103-713の廃車体が置かれていた。2006年5月の車両センター一般公開の時点で、廃車済みであるので意味をなさないが、同所を表す「宮オオ」の配置表記が書き込まれていた。その後2007年2月中旬、車体が2つに切断され、運転台側8m程度を残し、後位側は解体された。そして残った車体を整備し、同年5月中旬に鉄道博物館内に搬入され、館内の教育ゾーン1Fで原理・仕組みや技術、安全・安定輸送システムを学ぶ為にこれを使う予定である。
  • 常磐線で使用されていたクモハ103-147は廃車とともに個人に売却された。
  • 東大宮操車場(大宮総合車両センター車両検査科東大宮センター)内にあるJR東日本の乗務員訓練所には、元豊田電車区のクモハ103-100+モハ102-224に元浦和電車区のクハ103-332の先頭部を接合した2両編成が配置されている。無車籍の訓練車で、クハ103-332が装備していたATC機器も模擬ATCとして稼動している。外観では山手線時代の205系をイメージしたオリジナルの塗装の他、閉鎖されたクモハ103形の運行番号表示窓、改造クモハ102形の、新造車には存在しない非ユニット窓+高運転台の組合せ、AU712形冷房装置が特徴である。
  • 横須賀線久里浜駅構内と武蔵野線新秋津駅構内にある訓練所にも、103系から105系を経て訓練車となった無車籍の車両が存在する。これについては国鉄105系電車および仙台車両センター宮城野派出所を参照のこと。

JR東海

国鉄時代から70両を承継したが、後述するように初期車両が多かった事から冷房車を含む20両が更新工事など一切受けずに廃車され、残った50両には以下の改良工事が施された。

  • 塗色変更
首都圏へのATC設置に伴い、京浜東北線でATC設置改造できないクモハ編成や、今後落成するATC車に捻出されたATCのない低運転台車が神領電車区へ転属したため、JR東海の103系はスカイブルーになった。のちに豊田電車区のオレンジ色の103系が転属してきた際にスカイブルーに塗り替えられたことからも、国鉄が名古屋地区のラインカラーをスカイブルーに統一しようとしていたと取れる。このため、JR東海が引継いだ車両は全てスカイブルー一色であったが、民営化後にリフレッシュ工事を施工した車両(後述)は、同社のイメージカラーであるクリームにオレンジと緑の帯に塗替えられた。車両塗装の項も参照。
  • 冷房化改造
国鉄時代はAU75形冷房装置にて改造されたが、民営化後は冷房装置を2個にして冷房改造時の車体補強等の関連工事を簡略化した集約分散式のC-AU711A形を用いて改造された。また冷房用の電源としてモハ102に補助電源装置(SIV)を取り付けた。
  • リフレッシュ工事
JR化後は室内のアコモ関係で他の車両との格差が目立つようになった。そこで、特別保全工事に室内のリフレッシュ工事を併施することになった。側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化、側扉・妻扉取替、握り棒・荷物棚のステンレス化、腰掛袖仕切取付、腰掛のバケットシート化、塗色変更などが施工された。

これらの改造が行われた車両は、朝夕を中心に中央西線(名古屋瑞浪間)で3両+7両の10両編成を組みラッシュ時の輸送を行ったほか、関西本線でも3両編成が単独で運用された。しかし、老朽化とともに他形式が高速化するにつれてダイヤ上の足枷となり、313系の導入に伴い1999年に定期運用から離脱し、2001年までに全車が廃車された。

現在はクモハ103-18の1両のみが美濃太田車両区に留置されているが、屋外に置かれているため状態はかなり悪い。相方は既に解体されているためコンプレッサなどを持たず、自走できない。

なお、JR東海にはクハの高運転台車は存在しなかった。

JR西日本

894両を国鉄から承継した西日本旅客鉄道(JR西日本)には、初期~中期型の車両が多く在籍していたことから、以下の工事を行い、積極的に延命を図っている。

冷房化改造

ファイル:P1000148.JPG
阪和線(WAU102搭載車)

JR西日本の冷房改造は、当初他の2社同様、国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、途中から改造コスト削減のためにダクトを用いない分散式のWAU102形を1両あたり3基搭載する方法に改められた。外キセは製造メーカーにより3種類の形状があり、複数の形状のものを混載している車両も多く見られた。

WAU102形が設置された車両は近年まで各地に広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから優先的に廃車が進められ、2007年3月現在で残存しているのは日根野電車区の4両編成1本(クモハ103-77+モハ102-186+サハ103-282+クハ103-545)計4両と広島運転所の3両編成3本(順にクモハ103-48・2501・2502+モハ102-145・403・404+クハ103-86・171・170)計9両のみとなっている。なお、廃車時に取外されたWAU102形や電源用SIVは105系の体質改善工事の際に一部が再利用されている。

ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換

ATS-P形の導入に伴い、JR西日本でも対象線区で運用される本系列について、その運転台に装備されているブレーキ弁の改修が実施されている。ただし、電源投入方式がJR東日本のそれと異なるため非常抜取対応のME48形は導入されず、従来のME40形の電気接点部分の改造で対処されたほか、その後117系などに採用されたME49系への交換が開始されている。

広島支社転入整備

山陽本線下関地区(下関運転所)に103系が投入されることになり、その転入整備が吹田工場鷹取工場で施工された。主な整備内容は同線用ATS-S形列車無線の取付、同線標準の瀬戸内色への塗装変更、方向幕不使用のために行先表示板(サボ)受けの設置などである。なお、サボ受け設置位置に弱冷車表記があり、干渉したために移設された。

1992年5月から順次運行を開始したが、トイレを持たなかった事が不評であったため、115系などのトイレ付き近郊型電車に置き換えられる形で下関地区から撤退し、同線広島地区(広島運転所)に順次転用された。転入時、広島地区でも方向幕は使用されていなかったが、後に使用が開始され、現在では行先表示板は使用停止されている。ただし、現在でも前面方向幕は使用されていない。

車両需給の関係で広島地区から関西地区に再転属した車両も存在し、一部はサボ受けが存置されているため、サボ受けがついた車両を関西地区でも見ることができる。やはり、使用はされていない。

窓閉塞

関西本線(大和路線)のクハ103形高運転台車。戸袋窓が閉塞されている

雨水の浸入を防いで車体の腐食を遅らせたり、窓の清掃を簡略化するため、1990年より戸袋窓の閉鎖工事が、1997年からは妻面窓の閉鎖工事が開始された。2007年7月現在で戸袋窓が残存しているのは日根野電車区、岡山電車区、広島運転所に4両編成1本ずつ(順にクモハ103-109・110+モハ102-237・242+サハ103-317・8+クハ103-546・567、クハ103-161+モハ103-239+モハ102-394+クハ103-160)計12両のみである。また、妻面窓についてはオリジナルの2段開閉式から、固定式一枚ガラスに交換された車両も存在する。2005年にJR東日本から売却された8両もこれらの閉鎖工事は施工された。

扉交換

腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製からステンレス製に交換された。現存するほぼ全車が施工済みである。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、ごく少数に限られている。

スカート設置

201系などと共に、衝撃への耐久性を高める目的で設置された。すべての先頭車が施工済みである。

前面金属支持化

「鉄仮面」の103系(播但線)

窓を支持するHゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆われた。この工事は体質改善工事施工車(金属枠支持のため)、広島運転所所属車、和田岬線専属車(網干総合車両所明石品質管理センター)およびクモハ103形2500番台は対象外となっている。

この工事を受けた車両は鉄道ファンの間で「鉄仮面」とも呼ばれている。なお、広島運転所には2003年に金属支持化工事施工済みの先頭車を含む編成が転属し、一時的に同工事施行車が2両在籍していた事があるが、下記の脱線事故に関連して2005年に関西地区に再転属したため、現在は存在しない。

延命工事

国鉄時代の「特別保全工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。試験的なものを除くと、内容によって以下の4種に分かれる。

  • 延命N
製造から30年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換および内壁の張替が行われた工事で。1972年までに製造された車両の大半が該当している。
  • 延命NA
国鉄時代に特別保全工事を受けた車両に内壁の張替など前述の延命N工事と同等の工事が追加された工事。重複する部分は省略された。
  • 延命NB
初期車(窓がユニットサッシでない1970年以前の車両)が延命N工事と同時にWAU102形による冷房改造と、側窓の延命N40工事で使用される物と同等の黒サッシへの交換が行われた工事。この工事を受けた車両は11両にとどまり、2006年4月までに全車が運用を終了し廃車となっている。
  • 延命N40
延命N40車(低運転台、大阪環状線)。側面の黒色サッシが特徴。
延命N40車の車内(大和路線)。妻部はドア交換、窓の固定化がなされている。
新造から40年の使用を目指し、外板整備・機器の一部更新・配管の交換・内壁の張替および窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など、上記3種よりも徹底した内容の工事が行われた工事である。主に1973年~1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも実施された。なお、この工事で採用された黒色サッシは取り付け部の枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少している。


体質改善工事

1996年以降、後継車両の207系との落差改善と延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした、リニューアル工事が実施された。これらの工事を受けた車両の車両番号標記は、国鉄時代の丸ゴシック体から、JR西日本独特の書体に変更されている(ただし、森ノ宮区所属車に見られる制御車前面の車番表記は国鉄書体である)。

体質改善40N
体質改善40N車(高運転台、大阪環状線)。車体が大幅に改造されている。
体質改善40N車の車内(桜島線)。冷房風洞がラインデリア(1本風洞)化されている。窓はUSJのラッピングシールが貼られているために通常より暗くなっている。
体質改善40N車の車内(桜島線)。左写真の車両と同じ編成に組成される車両だが、こちらの風洞は改造品。妻面は窓が閉塞され、ドアは体質改善車専用品に交換されている。
カバーが取り付けられた扇風機。ラインデリアを持たない車両の一部に取り付けられ、乗客に直接風が当たるのを防いでいる。
老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため、屋根の張上化・一部外板のステンレス化・屋根上通風器の撤去・側面ルーバー形状、方向幕形状の変更・運転台の整備・運転台、ドア窓支持の変更(私鉄のような金属枠)・窓サッシの交換(ドア間は下段固定・上段上昇の3分割バス風逆T字サッシ、車端部は固定1枚)・運行番号表示器、行先表示器、前灯部分の内支持化(初期は金属枠)・内壁、床の張替・座席クッションの更新・荷棚のパイプ化・照明へのカバー取付・風洞の交換が実施された。
この改造を最初に受けた1本は、ドアエンジンが戸袋下部に設置された旧形国電以来のTK4形からドア上部設置の直動式に交換され、座席は全交換(207系と同一の、下部が空洞の片持ち式座席)、前灯は原型のままなど、やや特殊な内容となっている。これらの工事内容は次第に簡略化が進み(風洞が交換から改造に変更など)、2002年からは後述の30N工事に移行した。


体質改善30N
体質改善30N車(低運転台大阪環状線)。前面は改造されているが、側面は原型に近い。
体質改善30N車の車内(阪和線)。窓が原型で、照明カバーが無い以外は左の体質改善40N車両に準じた内装となっている。
2002年以降新車投入ペースが速まり、種車となる103系の車齢も高まっていた事から、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小されたものである。特に直接保守面、接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡素化され、体質改善40Nに比べてドア・側窓・屋根樋等が原形のままとされている。1973年以降に製造された車両のうち、上記の5種類の更新工事を全く受けずに残っていたクハとモハが対象とされ、2005年までにそれに該当するクハ全車と1ユニット(M405-M'561)を除くすべてのモハが実施されて終了した。


座席モケット交換

イメージアップの一環として、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分が入ったものに交換された。その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。優先席も青地にピクトグラムの入ったものに交換されており、こちらは現存する全車が施工済みである。なお、JR東日本から売却された8両のうち、広島運転所に投入された先頭車2両は現在もJR東日本仕様のままで残っている。

ワンマン改造

過疎路線での使用を考慮し、広島運転所所属の3両編成3本9両、日根野区の阪和線東羽衣支線で運用される7両(駅収受方式)、3500(播但線)・3550(加古川線)番台の全車(車内収受方式)に対して行われた。

現状

以上のような改造を受けつつ大半の車両が今も運用を続けているが、置換えも進んでおり、短編成化で余剰となったサハをはじめWAU102形搭載車や老朽化した初期車、さらにはユニット窓の1971~1972年製造車の一部にも廃車が発生している。

片町線(学研都市線)東海道・山陽本線(JR京都・神戸線)福知山線(JR宝塚線)は、JR東西線への入線対応や高速化のために207系に置き換えられて既に消滅している。山陽本線岡山地区もロングシートである点やトイレがない点が不評であったために、213系などに置き換えられて一旦は消滅したが、2006年に入ってから日根野電車区および奈良電車区の余剰車(すべてクモハ編成)がそれぞれそのままの塗装で転属(前面・側面の行先表示幕は岡山仕様に変更)し、岡山支社管内の電化区間で運行を再開している。

2006年時点では、JR京都・神戸・宝塚線系統に新型通勤形電車の321系を投入する関係で大阪環状線桜島線(JRゆめ咲線)関西本線(大和路線)201系阪和線の一部を205系の捻出車にそれぞれ置き換えられており、西日本全域で大規模な103系の転属と廃車が行われている。ただ、JR西日本では今後もしばらく103系を使用する方針のため、JR東日本の場合と異なり、置き換えと同時に編成替えや塗色変更、103系同士の置き換えも行われている。

以上のように置き換えはある程度の速度で進んではいるが、2007年現在でも初期の車両も在籍し営業運転に就いている。車内化粧板が緑のままであったり、妻窓が固定化されていない車両、塗り屋根化されていない車両も多く存在する。

森ノ宮電車区などリニューアルの有無を問わず前面窓下またはスカートに車番を書き込む区所も存在する。

福知山線脱線事故による救済編成

2005年4月25日の福知山線脱線事故により被災した207系の一部廃車および既存車両の帯色の変更、117系ATS-P形非装備による同線からの撤退などの事象が重なり、一時的に車両が不足するようになった。この頃は既に網干総合車両所113系宮原総合運転所の103系が廃車または他路線へ転出してしまったあとだったため、必要車両をJR東日本から購入し、8両を同年7月28日付で譲り受けた。これらの車両は広島地区と関西地区に分かれて使用されている。

姫路駅高架化に伴う播但線での運用

姫路駅の高架化工事の際、一時的に山陽本線と播但線の線路が分断されることになり、221系電車を朝ラッシュ時に播但線で使用した後山陽本線に戻すという運用方法が不能になった。これに伴い、京阪神緩行線からの205系転入で車両数に余裕ができた日根野電車区からクハ103-15+モハ103・102-15+モハ103・102-16+クハ103-16の編成が網干総合車両所へ転属し、スカイブルー6連のまま朝ラッシュ時に播但線内での運用につくことになった。2006年3月からこの運用に使用されていたが、検査期限が切れるためダイヤ改正で余剰となった113系に置き換えられ、車齢のことなどもあり2006年12月15日付けで全車廃車されている。

JR九州

九州旅客鉄道(JR九州)では国鉄時代に踏切事故対策として一部の先頭車にスカートを取付けたが、JR化後に全車取付を完了した。また2002年度下期より103系としては初めてとなるトイレ設置を行った。全編成の唐津側先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部に身体障害者対応の大型洋式トイレを設置し、トイレ設置部分の側窓・妻窓は埋込まれ、車椅子スペースとされたトイレ向いも側窓が4分の1ほどに縮小されている。この改造でJR九州の電車編成のトイレ設置率100%が達成された。

現状だが、腐食対策も他番台より徹底されていて車両の状態は良いものの、ATOに対応しない点などから本来の製造目的であった地下鉄区間への乗入は1日18往復と減少している。しかし、VVVFインバータ制御の303系に比べて、抵抗制御で回生ブレーキを持たない103系は停止・起動を繰返さない方がエネルギー効率の点で有利という理由で、快速列車には303系ではなく本形式が充当されている。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。また、3両のワンマン運転も本形式のみが対応しており、しばらくは置換えとはならない模様である。

その他

特殊用途・試験改造車両

103系には、特殊な用途に使用されたり、車両試験を行うために改造された車両がある。

北海道へ渡った103系

北海道旅客鉄道(JR北海道)では元々、電化区間札幌近郊の交流電化区間のみで、かつ札幌都市圏における国鉄の輸送シェアも本州に比べ著しく低かったことや、車両自体も耐寒・耐雪構造ではないため、国鉄時代から1両も103系が配置されていなかったが、1998年8月にJR東日本の廃車体が8両入線している。電動車はなく、クハとサハのみでスカイブルーとエメラルドグリーンの混成編成を機関車牽引で北海道まで運び入れている。

ただし、この譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、この北海道への移動自体、偶然列車を目撃した複数の者がネット上の掲示板および交友社鉄道ファン』の1998年11月号 No.451のP120に掲載された「103系が北海道へ」に津軽海峡線ED79形50番台に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたため明らかになった。これらの車両が何の目的で北海道に集められたのかも分からないが、8両すべてが鉄道総研の所有物であったらしい。

『鉄道ファン』誌掲載の写真を見ると、大半の車両が窓、扉等の大幅な埋込、車体の延長または各部の欠取、クーラーの撤去、車番のRTRI-××への変更、密連から自連への換装などが行われている。また、この改造は東急車輛で行われた。

その後は苗穂工場内に留置されていた。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。その後、同時期に廃車され、運転席などの窓が鉄板で塞がれた状態に改造された711系3両編成2本と実験で衝突させたとの話であるが、これらの車両から集められたデータが何の役に立ったのかも公にはされていない。

参考:北海道へ渡った車両(所属は廃車直前のもの)
  • クハ103-396・454・481・482・719・724
  • サハ103-230・417

クハ103-396とサハ2両は松戸電車区所属でエメラルドグリーン塗装、他の5両は浦和電車区所属でスカイブルー塗装。

その他の試験
  • VVVF試験:JR東日本のクモハ103-87が東芝府中工場でVVVFインバータ装置を搭載する改造を行い、JR大船工場で試験が行われた。また、JR東海でも自社でクモハ103-4を改造してVVVF試験を行った。
  • DDM試験(モハ103-502):JR東日本が開発中だったダイレクトドライブ・モーターの試験搭載車。同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子のVVVFインバータ化され、ACトレイン(E993系)との比較実験に用いられたが、実験の終了にともない廃車されている。また、同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。
  • AU720形冷房装置搭載:松戸電車区(→松戸車両センター)所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのものに交換した。効果の程は不明だが、結局一般車と区別なく廃車されている。また、JR西日本の日根野電車区奈良電車区森ノ宮電車区でも同様の工事を施工された車両が運用されている。

インドネシアへの売却

2006年現在、本系列の国内私鉄各社への売却実績はないが、2004年にJR東日本の下記の16両がインドネシアPT KAIに売却された。

  • クハ103-815-モハ103-752-モハ102-2009-クハ103-822
  • クモハ103-105-モハ102-231-サハ103-246-クハ103-597
  • クハ103-359-モハ103-654-モハ102-810-クハ103-384
  • クモハ103-153-モハ102-321-サハ103-210-クハ103-632

これらの売却車は現地での長期使用を考慮し、すべて後期製造車か車両更新工事施工車が選ばれた。その他の編成も売却する計画であったが、その後103系より状態が良く、オールステンレス車で保守面で有利な東急8000系に変更されたため、103系の売却は16両で打切となった。

現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート(排障器)が設置され、元東急8000系や元都営6000形とともに日本のODA・政府開発援助で建設された首都ジャカルタ近郊の電化路線で有料急行用として使用されている。

当初、塗装は武蔵野線のオレンジのまま使用されていたが、その後窓周りが黄色のツートンに塗られた。現在はさらに新たな塗装に変更されている。また、現地でも103系と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している模様である。ただし「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。

また、行先表示は都営・東急車と共に前面窓に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用していない。またJR時代の表示を掲げたまま走行していることもある。この他、車内には東京・首都圏の路線図がそのまま掲出されているなど、JR時代の遺物を至るところで散見できる。また、前面窓に投石対策として金網が取り付けられた。現在では主としてジャカルタ-タンゲラン(Tangerang)方面の運用に使用されている。

関連商品

国鉄103系電車はNゲージ鉄道模型として関水金属(KATO)から、低運初期車(生産休止・基本5色+東海色)・高運非ATC車・高運ATC車(基本5色+仙石線色)、およびTOMIXトミーテック)から後期型の基本5色が、グリーンマックスから中期型と後期型および体質改善車のキット(大阪環状線・阪和線・大和路線)がそれぞれ発売されている。マイクロエースからは常磐線や鶴見線など年代や路線を特定した商品が数タイプ製品化されている。また、Bトレインショーティーでも数タイプ製品化されている。プラレールでも主に限定セットによる商品化もなされており、単品3両の販売は大阪環状線バージョンの限定発売があった。

参考文献

通史

  • 福原俊一・永尾信幸・前納浩一『103系・301系通勤形直流電車』(車両史編さん会、2000年)
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年5月号 No.447 特集:103系通勤形電車
  • 交友社『鉄道ファン』1993年4月号・5月号 No.384・385 特集:103系通勤形電車(1・2)
  • 「103系が北海道へ」(読者投稿)/交友社『鉄道ファン』1998年11月号 No.451 p120
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集:103系電車
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年8月号 No.764 特集:惜別 JR東日本103系
  • 斎藤幹雄「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 p107~p112
  • 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集:101系 その顔の世界
  • 大熊孝夫「103系通勤形電車 誕生までのはなし」/交友社『鉄道ファン』2006年4月号 No.540 p83~p105
  • 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集:究極の標準形通勤電車103系
  • 特集:究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 p152~p153
  • 来住憲司「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 p32~p49
  • 岡本祐次「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 p50~p53
  • 編集部「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年8月号 No.478 p52~p61

地下鉄対応・他形式からの改造番台

  • 中村新一・野元 浩「103系3000番代通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 p65~p67
  • 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 p96~p103
当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。
  • 久保 敏「旧形国電から103系に変身したウグイス色電車 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 p105~p109

関連項目

外部リンク(abc順)

脚注部

  1. ^ 試験の結果、4M4T編成では力行時における主電動機の電機子および界磁の温度上昇が著しく、4M3Tが上限と判断され、実用上は4M2Tが望ましいとされた。
  2. ^ 交友社「電車」1973年7月号に明石区と吹田工場の方の記事があります
  3. ^ 1000・1200・1500番台を除く
  4. ^ 1982年は製造なし
  5. ^ これ以降の製造分が「○次改良車」と呼ばれることはない。
  6. ^ 京浜東北線に配置されたモハ103-373~382・モハ102-529~538は、既存の非冷房車編成に組み込まれることから例外的に非冷房車として製造された。
  7. ^ 東海道本線基準で山側
  8. ^ 各車両の両端2ヵ所の側引戸を閉、中央2ヵ所を開とする
  9. ^ クハ103形とモハ102形の車番がそれぞれ701~、2001~と途中から飛番号になっている。これは、それまでに製造されていた500・900・1000番台などとの干渉を防ぐための措置であり、飛番に伴う仕様変更はない。
  10. ^ クハ103-811・818は1984年2月のダイヤ改正に伴う山手線増発用としてATC設置工事を施工、池袋電車区へ転属している。
  11. ^ 帝都高速度交通営団『東京地下鉄道千代田線建設史』(1983年刊)より
  12. ^ 予備品の台車をあらかじめ整備しておき、台車検査を受ける車両の台車を整備済品と交換してすぐさま検査を終了させる方法。検査を受ける車両から抜取られた台車は整備の後、次に検査を受ける車両の交換等としてストックしておく。検査期間が短くなるという利点があるが、常時各形式の予備台車をストックしておかなければならないという欠点がある。
  13. ^ 停車中、乗客が客用扉を1枚単位で自由に開閉できるようにする機能。主に冬季の車内保温の目的で装備される。3000番台の場合はドアに取手が付いており、手動で開閉するものを装備。このため、3000番台の戸閉装置は72系時代から半自動扱の容易なTK8形を装備している。
  14. ^ 国鉄では1980年代より1列車あたりの編成両数を減らし、代わりに運転本数を増やすことでサービス改善をする政策(広島シティ電車方式)を実行していた。具体的には長編成からモハユニットを抜取り、そこに新たに先頭車を連結するという方法が取られたので、この時期、全国的に先頭車が不足する傾向にあった。1984年2月1日国鉄ダイヤ改正1986年11月1日国鉄ダイヤ改正も参照。
  15. ^ 洋式であるが、車いす対応ではない
  16. ^ 岡山電車区電車センター配属車の専用色であったが、現在は3本が広島運転所に転用され、瀬戸内色の車両と共に使用されている。