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「御霊神社 (鎌倉市)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年7月4日 (水) 01:54時点における版

御霊神社
権五郎神社社殿
所在地 鎌倉市坂ノ下4-9
主祭神 鎌倉権五郎景政
創建 不明(平安時代後期と推定)
例祭 9月18日(本文参照
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権五郎神社(ごんごろう じんじゃ)は神奈川県鎌倉市長谷坂ノ下にある神社。通称は御霊神社。

由緒

権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏梶原氏・村岡氏・長尾氏大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一体のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。

鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。

境内

  • 祖霊社 — 日清日露および第二次世界大戦で戦没した氏子の霊を祀る。
  • 御嶽神社
  • 石上神社 — かつて権五郎神社前浜沖にあった巨石に多くの船が座礁し、人命がたびたび損なわれたという。人々は巨石の一部を引き上げて御神体として祀り、海上安全・豊漁の守護神として崇敬した。境内の小社ながら例祭がある。詳細は祭事の節を参照。
  • 金毘羅社

タブノキ

社務所の前にそびえるタブノキは、樹高20m、推定樹齢350年に達し、冠状に広がった樹枝が見事である。鎌倉市指定天然記念物、および神奈川県選定「かながわの名木100選」(1984年12月選定)。

分社

神奈川県内には本社と同系列の神社が多数存在する。詳細については各項目参照。

  • 御霊神社 (鎌倉市梶原)
  • 御霊神社 (川崎市)
  • 川名御霊神社
  • 宮前御霊神社
  • 御霊神社 (茅ヶ崎市)
  • 御霊神社 (藤野町)
  • 御霊神社 (横須賀市)
  • 御霊社 (横浜市)
  • 御霊神社 (横浜市栄区)
  • 御霊神社 (横浜市泉区)

祭事

  • 1月1日 元旦祭
  • 7月25日に近い日曜日 石上神社例祭 — 御供流し神事(ごくながししんじ)と呼ばれる。海神の霊を鎮め、海難の犠牲者の霊を慰めるために御供(神前に供えた赤飯)を献げる。例祭当日に先立つ7月20日に神幸祭を執り行う。権五郎神社の前浜(現在の由比ガ浜)の海中に御供を捧持した若者たちが泳ぎ出て、船に乗せた神輿を拝してから、海中に御供を流す。
  • 9月17日 敬老祭
  • 9月17日 例祭 — 宵宮祭 (よいみやさい)
  • 9月18日 例祭 — 面掛行列神奈川県指定無形民俗文化財)、鎌倉神楽、神幸祭

交通機関

参考文献

関連項目

外部リンク