「震電」の版間の差分
対談番組を元に内容の充実と個人的な意見・研究を訂正した大規模改定。 |
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|出力||2130 [[馬力|HP]]<br />1590 [[ワット|kW]]<!--my資料では2,030 hp /Marsian--> |
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|巡航速度||425 km/h |
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'''震電'''(しんでん)は |
'''震電'''(しんでん)は[[第二次世界大戦]]末期、[[大日本帝国海軍]]が開発していた単発単座の試作局地戦闘機である。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した野心的な機体形状は「[[エンテ型飛行機|前翼型]]」と呼ばれるもので、[[B-29 (爆撃機)|B-29]]迎撃の切り札として期待されていた。昭和20年6月に試作機が完成、同年8月に数度の試験飛行を行った所で終戦。実戦には間に合わなかった。<br /> |
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機体略号は「J7W1」。 |
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日本の戦闘機としては異例の革新性を持つ機体だが、主機として搭載する予定であったハ-43型発動機の開発が大幅に遅れていたこともあり、戦争が昭和20年8月以降も継続されていたとしても、震電が量産されて実戦に投入されたかどうかには疑問の声もある。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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当時、高度10,000mを凡そ570km/hで飛行する米国の[[B-29]]に対して、同高度で十分な速力を発揮できる日本の迎撃戦闘機は無かった。 |
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昭和19年([[1944年]])6月に[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[B-29 (爆撃機)|B-29]]迎撃を目的に[[海軍航空技術廠|空技廠]]と[[九州飛行機]]に共同開発を命じた。[[MXY6]]等を利用しての基礎研究が既に行われていたとはいえ、わずか1年後の昭和20年([[1945年]])7月には初号機が完成し、8月12日に試験飛行にも成功した。実は、これ以前にも試験飛行を試みたが、離陸時に[[プロペラ]]を地面に接触させて失敗している。そのため、[[翼|主翼]]についている垂直安定板の下端に海軍機上作業練習機白菊の[[尾輪]]を取り付けるなどして対策された。 |
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そこで震電は、[[B-29]]迎撃の切り札として、また[[P-51]]を圧倒する性能を目的とし最大速度400[[ノット]](約740 km/h)以上を目標として開発された。また、将来的には陸海軍で共用される予定であった<ref>Webサイト「[http://www.geocities.jp/jp_j7w1_shinden/index.html#new 「震電」日本海軍十八試局地戦闘機 九州飛行機 J7W1]」への開発関係者親族からの[http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/2631/oldbook.html 投稿(04/02/17 16:30:11)]に海軍を交えた合同会議(昭和20年春)の様子として「海軍の震電への期待 は想像以上で、最優先して震電の完成を切望し、いずれは、陸、海軍共使用の予定でした。」とある。</ref>。 |
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[[B-29 (爆撃機)|B-29]]の迎撃の切り札として、また、[[P-51]]を圧倒する性能を目的とし最大速度400[[ノット]](約740 [[時速|km/h]])以上を目標とされた。 |
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実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機関砲4門を正射。更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた。<ref name="tv_tsuruno">九州地方局で放映された対談番組内における鶴野正敬氏談話による。<!--放送局・番組名不明。「あの頃わたしは」というタイトルだとの話もあり。外部リンクのサイト(http://www.geocities.jp/jp_j7w1_shinden/)に動画有り--></ref> |
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この機体には、「将来[[ジェット機|ジェット]]化する構想」があったという説がある。元九州飛行機設計部第1設計課副課長の清原邦武氏は航空雑誌への寄稿で1944年6月5日、空技廠で開かれた“試製「震電」計画要求書研究会”上かその後に「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ」との空技廠発動機部員からの指示を受けている<ref>清原邦武「<small>九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機</small> 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4873570492 p51、初出:酣燈社『航空情報』1955年2月号)</ref>。搭載予定のエンジンはネ130型(推力900kg:計画値)と推測されるが(九州飛行機側への搭載エンジンの説明は無い)、「地上静止推力900kg、ほぼ3000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう」と発動機部員より聞かされていたという。清原氏は「震電の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている」と記している。だが、日本海軍におけるタービンロケットの開発が本格化したのは1944年の春以降、戦局と燃料事情の極端な悪化による「起死回生の兵器」と認識された後、最後の訪独潜水艦([[伊号第二九潜水艦]])が1944年7月14日にシンガポールへ帰還してドイツのジェットエンジンの資料を入手してからであり、ネ130の開発計画はネ20の実用化に注力するために放棄されており、仕様の定まらないジェットエンジンを元に機体構造を設計することは不可能である。<ref>本気であればまず発動機の選定を行わねばならないが、1944年12月にネ12搭載を前提に出した「試製橘花計画要求書」を、翌45年1月にネ20搭載に改めている状況で、震電用のタービンロケットについて研究する余裕はなかった。</ref>当時、実用に最も近かったネ20(推力475kg)でも推力が圧倒的に足りない上に、1号機の完成は昭和20年6月であり、設計者の鶴野正敬技術少佐自身がジェット化は考えていなかったとの関係者の話もあるため、震電のジェット化構想自体が個人の思いつきの範囲を超えるものではなかった。 |
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なおアメリカ軍が大戦末期に部隊配備した[[P-80]]は震電と重量はほぼ同等でありながらアリソンJ33-A-17の推力は2tもあって最高速度は966km/hを発揮しており、仮にジェット化して、なおかつネ130が計画通りの出力を発揮したとしても、震電は目標速度を発揮してこれらに太刀打ちすることは到底困難だった。 |
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前翼型の機体形状も特徴的ではあるが、生産性を重視したことも注目に値する。以下のような工夫が見られた: |
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* 動力:単発、[[推進式 (航空機)|推進式]](プッシャ) |
* 動力:単発、[[推進式 (航空機)|推進式]](プッシャ) |
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* プロペラ:VDM 定速、6翅(量産型では4翅に簡略化予定) |
* プロペラ:VDM 定速、6翅(量産型では4翅に簡略化予定) |
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* 構造:全金属製、応力外皮構造、主翼・層流翼型、前翼・開閉式スロット翼 |
* 構造:全金属製、応力外皮構造、主翼・層流翼型、前翼・開閉式スロット翼 |
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* ランディングギア:引き込み脚、前輪式 |
* ランディングギア:引き込み脚、前輪式 |
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; 推進式プロペラ :直径を増さずに高空での大馬力を活かす為、6翅の[[プロペラ]]が採用された。しかしながら可変ピッチ機構が複雑で合った為量産型では4翅プロペラへ変更する予定であった。 |
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; 生産性に対する工夫 :その後の多量生産を睨み生産性を重視した構造・工法の採用も特徴的であり、以下のような工夫が見られた。 |
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性能諸元に関する計画値は別表に記載する通りである。実際の試飛行では水平飛行中に最大速度293.5km/hを記録しているが、これはランディングギアを出したままの状態で、また動力の全開テストも行っていない。 |
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=== 現存する機体 === |
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=== 構想と研究 === |
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昭和17年から18年頃、[[海軍航空技術廠]](空技廠)飛行機部の鶴野正敬少佐(当時大尉)は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想。研究を行っていた。 |
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[[エンテ型飛行機|前翼型飛行機]]とは、水平尾翼を廃して、かわりに[[翼|主翼]]の前に(水平な)小翼をつけた形態の飛行機の事を指す。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配す事で機体容積を有効に活用でき、同じ重量の武装であれば機体をより小型にする事が可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少する事となり、従来型戦闘機の限界速度を超える事が可能となる、というのがその基本理論であった。<ref name="tv_tsuruno" /> |
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日本では初となる前翼型戦闘機の試みであったが、当時の各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な物として米国のXP-55アセンダー([[:en:XP-55 Ascender]])、イタリアのアンブロシーニS.S.4([[:de:Ambrosini S.S.4]])、英国の[[マイルズ リベルラ|マイルズ・リベルラ]]等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった<ref>実際には、シャロビプテリクス([[:en:Sharovipteryx]])という小型飛行爬虫類の古代生物が存在する。</ref>。しかし、米国新型機への対抗という至上命題の中にあって、原理的に間違いの無いものであるならと大方の賛同を得ていた。<ref name="tv_tsuruno" /> |
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昭和18年8月、空技廠にて風洞実験が行われる。昭和19年1月末、実験用小型滑空機([[MXY6]])を用いて高度凡そ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた<ref>本人談話によれば、「(グライダーで)30cm浮いたら(試作機開発を)やる」という冗談めいた話も受けていたと言う。</ref>。既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時[[東海 (航空機)|陸上哨戒機「東海」]]の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手隙きであった[[九州飛行機]]を選定した。 |
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=== 開発 === |
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昭和19年5月、B-29の迎撃、及び将来的には主力戦闘機となる事を目的として、十八試局地戦闘機「震電」が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は昭和19年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよとのものだった。この為、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本等からも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった。<ref name="tv_kiyohara">九州地方局で放映された対談番組内における清原邦武氏談話による。<!--放送局・番組名不明。「あの頃わたしは」というタイトルだとの話もあり。外部リンクのサイト(http://www.geocities.jp/jp_j7w1_shinden/)に動画有り--></ref> |
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昭和19年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。震電開発チームは撃墜機を実地見学。 |
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昭和19年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業を半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポール氏が訪問。同氏所見をもとに多量生産的見地にたった改造図面の作成に着手。 |
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昭和19年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、M8.3の東南海大地震及び震災直後から断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。 |
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昭和20年3月、福岡市近郊大刀洗飛行場への爆撃を受けて、九州飛行機は筑紫野市原田に工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に運ばれた。 |
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昭和20年6月、1号機が完成し蓆田(現板付)飛行場へ運搬。翌7月完工式。滑走試験中、搭乗した鶴野氏の僅かな操縦ミスによりプロペラ端を地面に接触。試験中には気づかれなかったが、試験後プロペラの破損を発見<ref name="tv_tsuruno" />。この後、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に[[白菊 (航空機)|機上作業練習機「白菊」]]の車輪が付けられた。 |
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昭和20年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。 |
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== ジェット化構想 == |
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震電には将来ジェット化する構想があったと言われており、現在ではゲームや架空戦記において頻出している。この改良機はしばしば「震電改」という命名によって登場するが、実際にはその様な名称の機体が企図された記録は無い。 |
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現実の震電のジェット化構想について、現在知られている唯一の根拠は元九州飛行機設計部第1設計課副課長、清原邦武氏の証言のみである。清原氏は航空雑誌への寄稿<ref>清原邦武「<small>九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機</small> 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4873570492 p51、初出:酣燈社『航空情報』1955年2月号)</ref>で以下のように述べている。 |
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昭和19年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。<br /> |
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震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。<br /> |
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石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。<br /> |
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「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。<br /> |
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結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。 |
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</blockquote> |
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他に、ドイツよりエンジンの設計図を持ち帰った震電発動機部門技術者の証言として「震電にはツインエンジンの計画があった」との説もあるが、これがジェットエンジンの計画か否かは定かでない<ref>Webサイト「[http://www.geocities.jp/jp_j7w1_shinden/index.html#new 「震電」日本海軍十八試局地戦闘機 九州飛行機 J7W1]」への開発関係者親族からの[http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/2631/oldbook.html 投稿(04/04/05 13:47:26)]に「祖父 は当時ウラジオストックからシベリア鉄道にてドイツに向かい、エンジンの設計図を受け取り,その後Uボートに乗りインド洋で日本の輸送船に乗り換え帰国したそうです。帰国後九州飛行機で震電の開発に携わったのです。(中略)私が大学入学直前の春休みに最初で最後、祖父と酒を飲み交わした時のことです。震電について直接聞い たのも、その時が最初で最後なのです。祖父いわく「震電にはツインエンジンの計画があったんだよ」」とある。</ref>。 |
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いずれにしても、実際に製造された震電についてはジェット化を考慮して設計されたという具体的な記録がない。また、当時第一設計主任であった小沼誠氏の「私は構造関係だからそのような話はききませんでしたね」という証言<ref>Webサイト「[http://www.geocities.jp/jp_j7w1_shinden/index.html#new 「震電」日本海軍十八試局地戦闘機 九州飛行機 J7W1]」への熊本工業大学(現在の崇城大学)構造工学科航空コース元在籍生からの[http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/2631/oldbook.html 投稿(03/01/31 01:45:14)]に「在校中、震電の設計にかかわった、大戦末期当時、震電の第一設計主任の小沼誠先生がおられ、一度お話を伺ったことがあります。青焼きの設計デザインの図面を貸していただき、コピーもさせていただきました。いろいろと話をして頂き、その中で先生にジェット化の計画等があったのですか?とたずねましたが、「私は構造関係だからそのような話はききませんでしたね」といわれておりました。」とある。</ref>もあり、ジェット化構想がその後具現化へ向けて進展していたか否かも不明である。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* [[航空用エンジンの一覧]] |
* [[航空用エンジンの一覧]] |
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* [[航空用エンジンメーカーの一覧]] |
* [[航空用エンジンメーカーの一覧]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2007年7月2日 (月) 07:47時点における版
震電 | |
概要 | |
用途 | 試作局地戦闘機 |
乗員 | 1 名 |
初飛行 | 1945-08-3 |
運用開始 | 運用に至らず |
メーカー | 九州飛行機 海軍航空技術廠 |
寸法 | |
全長 | 9.76 m |
全幅 | 11.114 m |
全高 | 3.55 m |
主翼面積 | 20.50 m2 |
重量 | |
空虚 | 3,525 kg |
運用 | 4,950kg |
最大離陸 | 5,272 kg |
滑走距離 | |
離陸 | 560 m |
着陸 | 580 m |
動力 | |
エンジン | 三菱製 ハ-43-42(MK9D改) 星形複列18気筒 (延長軸・強制空冷・フルカン継手過給機) |
出力 | 2130 HP 1590 kW |
性能(計画値) | |
最大速度 | 750 km/h @高度8,700 m |
巡航速度 | 425 km/h |
航続距離 | 1000~2000 km (装備によって変化) |
実用上昇限度 | 12000 m |
上昇率 | 750 m/min |
武装 | |
機関銃 | 17試 30 mm 固定機銃一型乙(機銃一門あたり弾丸60発携行、発射速度は毎秒6発から9発) ×4
訓練用 7.9mm 固定機銃×2 写真銃×1 |
爆弾 | 60 kg×4 30 kg×4 いずれか or 混載 |
その他 |
震電(しんでん)は第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍が開発していた単発単座の試作局地戦闘機である。機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した野心的な機体形状は「前翼型」と呼ばれるもので、B-29迎撃の切り札として期待されていた。昭和20年6月に試作機が完成、同年8月に数度の試験飛行を行った所で終戦。実戦には間に合わなかった。
機体略号は「J7W1」。
概要
当時、高度10,000mを凡そ570km/hで飛行する米国のB-29に対して、同高度で十分な速力を発揮できる日本の迎撃戦闘機は無かった。
そこで震電は、B-29迎撃の切り札として、またP-51を圧倒する性能を目的とし最大速度400ノット(約740 km/h)以上を目標として開発された。また、将来的には陸海軍で共用される予定であった[1]。
実戦での戦術としては、震電の快速を活かしB-29の前方に展開、高度12,000mから30mm機関砲4門を正射。更に速力差を活かし再びB-29の前方に進出、2度目の攻撃を行うという手法が計画されていた。[2]
形式
- 動力:単発、推進式(プッシャ)
- プロペラ:VDM 定速、6翅(量産型では4翅に簡略化予定)
- プロペラ直径:3.40 m
- 主翼:低翼、単葉
- 動翼:前翼型式
- 構造:全金属製、応力外皮構造、主翼・層流翼型、前翼・開閉式スロット翼
- ランディングギア:引き込み脚、前輪式
技術的特徴
- 推進式プロペラ
- 直径を増さずに高空での大馬力を活かす為、6翅のプロペラが採用された。しかしながら可変ピッチ機構が複雑で合った為量産型では4翅プロペラへ変更する予定であった。
- プロペラ離脱装置
- 震電は推進式の動力プロペラが操縦席より後方に来るため、緊急脱出する際にパイロットがプロペラに巻き込まれる恐れがあった。そこで試作2号機からはハブ内に火薬爆破式のプロペラ離脱装置を備える予定であった。
- 生産性に対する工夫
- その後の多量生産を睨み生産性を重視した構造・工法の採用も特徴的であり、以下のような工夫が見られた。
3. は彩雲に倣ったものである。彩雲は厚板を採用することで零戦の1/2以下のリベット本数で組み立てられている。
性能
性能諸元に関する計画値は別表に記載する通りである。実際の試飛行では水平飛行中に最大速度293.5km/hを記録しているが、これはランディングギアを出したままの状態で、また動力の全開テストも行っていない。
現存する機体
終戦後、震電の設計図は全て焼却された。機体も解体され保管されていたが米国進駐軍の命により復元、米国へ運ばれた。現在、唯一現存する機体はアメリカの国立航空宇宙博物館の復元施設であるポール・E・ガーバー維持・復元・保管施設にて分解状態のまま保存されているが、2006年現在復元の予定はない。
開発経緯
構想と研究
昭和17年から18年頃、海軍航空技術廠(空技廠)飛行機部の鶴野正敬少佐(当時大尉)は従来型戦闘機の限界性能を大幅に上回る革新的な戦闘機の開発を目指し、前翼型戦闘機を構想。研究を行っていた。
前翼型飛行機とは、水平尾翼を廃して、かわりに主翼の前に(水平な)小翼をつけた形態の飛行機の事を指す。従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部位が無駄なスペースとなっていた。これに対し前翼機では武装を前方、エンジン及びプロペラを後方に配す事で機体容積を有効に活用でき、同じ重量の武装であれば機体をより小型にする事が可能となる。従って機体が受ける空気抵抗も減少する事となり、従来型戦闘機の限界速度を超える事が可能となる、というのがその基本理論であった。[2]
日本では初となる前翼型戦闘機の試みであったが、当時の各国でも前翼機の試作は行われていた。代表的な物として米国のXP-55アセンダー(en:XP-55 Ascender)、イタリアのアンブロシーニS.S.4(de:Ambrosini S.S.4)、英国のマイルズ・リベルラ等が挙げられるが、いずれも実運用に至ったものはなかった。震電の開発に当たっても中には「自然界に無い様な形状のものには何かしらの欠点があるはずだ。鶴野はそれに気づいていないのだ。」という様な意見をもつ者もあった[3]。しかし、米国新型機への対抗という至上命題の中にあって、原理的に間違いの無いものであるならと大方の賛同を得ていた。[2]
昭和18年8月、空技廠にて風洞実験が行われる。昭和19年1月末、実験用小型滑空機(MXY6)を用いて高度凡そ1000m程からの滑空試験に成功し基礎研究を終えた[4]。既に米国爆撃機の本土来襲を予測していた海軍は、翌2月には試作機の開発を内定。実施設計及び製造を行う共同開発会社として、当時陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手隙きであった九州飛行機を選定した。
開発
昭和19年5月、B-29の迎撃、及び将来的には主力戦闘機となる事を目的として、十八試局地戦闘機「震電」が正式に試作発令される。当初、海軍の要求は昭和19年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよとのものだった。この為、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、熊本等からも多くの女学生、徴用工を動員し体制を整えた。その数は最盛期には5万人を超え、量産に移った際には月間300機の生産を可能とする目算が立っていた。また資材については、将来的に比較的余裕のある鉄で作る事を考えよとの要求もあった。[5]
昭和19年6月16日未明、本土北九州方面八幡に初のB-29来襲。震電開発チームは撃墜機を実地見学。
昭和19年11月、技術者を集結させた九州飛行機は通常1年半は掛かる製図作業を半年で完了。約6000枚の図面を書き上げる。同月ヘンシェル社のドイツ人技師、フランツポール氏が訪問。同氏所見をもとに多量生産的見地にたった改造図面の作成に着手。
昭和19年12月から1月にかけて、震電への搭載が予定されていた「ハ四三」四二型発動機の開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場が、M8.3の東南海大地震及び震災直後から断続的に行われたB-29の空爆により再起不能の壊滅的な被害を受ける。開発の大幅な遅延に繋がる。
昭和20年3月、福岡市近郊大刀洗飛行場への爆撃を受けて、九州飛行機は筑紫野市原田に工場の疎開を決定。部品の運搬は牛車で夜中に運ばれた。
昭和20年6月、1号機が完成し蓆田(現板付)飛行場へ運搬。翌7月完工式。滑走試験中、搭乗した鶴野氏の僅かな操縦ミスによりプロペラ端を地面に接触。試験中には気づかれなかったが、試験後プロペラの破損を発見[2]。この後、機首上げ時にプロペラが接触しないよう側翼の下に機上作業練習機「白菊」の車輪が付けられた。
昭和20年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。
ジェット化構想
震電には将来ジェット化する構想があったと言われており、現在ではゲームや架空戦記において頻出している。この改良機はしばしば「震電改」という命名によって登場するが、実際にはその様な名称の機体が企図された記録は無い。
現実の震電のジェット化構想について、現在知られている唯一の根拠は元九州飛行機設計部第1設計課副課長、清原邦武氏の証言のみである。清原氏は航空雑誌への寄稿[6]で以下のように述べている。
昭和19年6月5日、空技廠で開かれた『試製「震電」計画要求書研究会』上かその後の指示で、空技廠発動機部員より「ガスタービンの使用を考慮して設計を進めよ。」というのがあった。
震電に取付けるのは地上静止推力900kg、ほぼ3,000HP相当のもので速度は420kt(780km/h)程度になるだろう。ただし離陸補助ロケットが必要だが、これは過荷重としたいということだった。
石川島芝浦タービンで試作中のネ-130ジェットエンジンだったようだ。いよいよトモエ戦時代も終るなと思った。
「震電」の発動機配置からすれば、ジェットエンジンに換装することはそれほど難しくないように思われた。ぜひ早く実現したいものだと興奮を感じたことを覚えている。
結局、これは実現しなかったが、中島飛行機で設計された双発ジェット攻撃機「橘花」は九州飛行機でも試作し、1号機がほとんど完成したときに終戦となった。
他に、ドイツよりエンジンの設計図を持ち帰った震電発動機部門技術者の証言として「震電にはツインエンジンの計画があった」との説もあるが、これがジェットエンジンの計画か否かは定かでない[7]。
いずれにしても、実際に製造された震電についてはジェット化を考慮して設計されたという具体的な記録がない。また、当時第一設計主任であった小沼誠氏の「私は構造関係だからそのような話はききませんでしたね」という証言[8]もあり、ジェット化構想がその後具現化へ向けて進展していたか否かも不明である。
脚注
- ^ Webサイト「「震電」日本海軍十八試局地戦闘機 九州飛行機 J7W1」への開発関係者親族からの投稿(04/02/17 16:30:11)に海軍を交えた合同会議(昭和20年春)の様子として「海軍の震電への期待 は想像以上で、最優先して震電の完成を切望し、いずれは、陸、海軍共使用の予定でした。」とある。
- ^ a b c d 九州地方局で放映された対談番組内における鶴野正敬氏談話による。
- ^ 実際には、シャロビプテリクス(en:Sharovipteryx)という小型飛行爬虫類の古代生物が存在する。
- ^ 本人談話によれば、「(グライダーで)30cm浮いたら(試作機開発を)やる」という冗談めいた話も受けていたと言う。
- ^ 九州地方局で放映された対談番組内における清原邦武氏談話による。
- ^ 清原邦武「九州飛行機が作った前翼式の快速戦闘機 18試局地戦闘機“震電”」付録・海軍航空本部『試製「震電」計画要求書』(抜粋)の解説より(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4873570492 p51、初出:酣燈社『航空情報』1955年2月号)
- ^ Webサイト「「震電」日本海軍十八試局地戦闘機 九州飛行機 J7W1」への開発関係者親族からの投稿(04/04/05 13:47:26)に「祖父 は当時ウラジオストックからシベリア鉄道にてドイツに向かい、エンジンの設計図を受け取り,その後Uボートに乗りインド洋で日本の輸送船に乗り換え帰国したそうです。帰国後九州飛行機で震電の開発に携わったのです。(中略)私が大学入学直前の春休みに最初で最後、祖父と酒を飲み交わした時のことです。震電について直接聞い たのも、その時が最初で最後なのです。祖父いわく「震電にはツインエンジンの計画があったんだよ」」とある。
- ^ Webサイト「「震電」日本海軍十八試局地戦闘機 九州飛行機 J7W1」への熊本工業大学(現在の崇城大学)構造工学科航空コース元在籍生からの投稿(03/01/31 01:45:14)に「在校中、震電の設計にかかわった、大戦末期当時、震電の第一設計主任の小沼誠先生がおられ、一度お話を伺ったことがあります。青焼きの設計デザインの図面を貸していただき、コピーもさせていただきました。いろいろと話をして頂き、その中で先生にジェット化の計画等があったのですか?とたずねましたが、「私は構造関係だからそのような話はききませんでしたね」といわれておりました。」とある。
参考文献
- 渡辺洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録』(文春文庫、2000年) ISBN 416724909X
- 前翼型戦闘機「震電」 p277~p331
- 碇義朗 ほか『日本の軍事テクノロジー 技術者たちの太平洋戦争』(光人社NF文庫、2001年) ISBN 4769823231
- 碇義朗「究極のレシプロ機「震電」開発物語」 p7~p36
- 野原茂『日本陸海軍試作/計画機 1924~1945』(グリーンアロー出版社、1999年) ISBN 476633292X p234~p241
- 九州飛行機『試製震電計画説明書』の全文
- 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む9 日本海軍戦闘機編』(酣燈社、2005年) ISBN 4873571588 p132~p139
- 鶴野正敬 写真提供、秋本実 解説「本土決戦用/異形の高速局戦「震電」全機影」
- 潮書房『丸』1994年10月号 No.582 p35~p47