「天皇制廃止論」の版間の差分
君主制廃止論に分割します。 |
|||
1行目: | 1行目: | ||
⚫ | |||
'''天皇制廃止論'''(てんのうせいはいしろん)とは、日本は[[天皇制]]([[天皇]]を中心とする国家体制)を廃止し、主として[[共和制]]へ移行すべきだとする主張である。 |
'''天皇制廃止論'''(てんのうせいはいしろん)とは、日本は[[天皇制]]([[天皇]]を中心とする国家体制)を廃止し、主として[[共和制]]へ移行すべきだとする主張である。 |
||
65行目: | 64行目: | ||
*[[徳田球一]] |
*[[徳田球一]] |
||
*[[福田歓一]] |
*[[福田歓一]] |
||
== 君主制廃止論 == |
|||
'''君主制廃止論(くんしゅせいはいしろん)'''とは、[[王制]]を廃止し、[[共和制]]等、新たな政治体制に移行すべきとの考えのことである。 |
|||
</br>日本での『天皇制廃止論』が、これに相当する。 |
|||
=== 君主制廃止や反発への動き === |
|||
反君主制運動の高まりの要件を世界的に見ると、[[ネパール]]のように政情不安な場合、反政府勢力や[[共産主義]]を含む勢力が勢いを増している場合、[[君主制]]の歴史が浅いなどの理由により[[国民]]が君主制を重視していない場合、[[君主]]自体が大いに批判要素を含む場合、王室がおこす不祥事が相次いでいる場合等が挙げられる。 |
|||
'''[[ネパール]]''' |
|||
: 2001年に、[[ネパール王族殺害事件]]が起こり、新たにネパール国王に就任した[[ギャネンドラ|ギャネンドラ国王]]は議会を解散し、自分に忠誠を誓う者のみを主要閣僚に任命し、専制政治を行った。そのため、ネパールの主要各政党は国王に反発し、各地で抗議行動を行ったほか、[[ネパール共産党毛沢東主義派]](中国政府は一切の関わりはないと否定している)が各地でテロを行うなど、政情が混乱した。このため、ギャネンドラ国王は議会の復活と新憲法制定を約束し、事態を収拾させた。 |
|||
'''[[オーストラリア]]''' |
|||
: [[イギリス連邦]]の一員である[[オーストラリア]]では、イギリス女王の統治による[[立憲君主制]]から共和制への移行の是非を問う国民投票が実施されたものの、結果は現状維持が多数だった。なお、オーストラリア自体には君主はいないため、オーストラリアの共和制移行は王室の廃止にはつながらない(イギリス連邦傘下であり、王に相当するのは[[総督]]。連邦からの独立を目したものと見られる)。 |
|||
'''[[イギリス]]''' |
|||
{{出典の明記}} |
|||
: 近年、不祥事などで王制廃止論が唱えられ、最近の世論調査でも王制を廃止すべきという人が半数を超えることがある。しかし現在王政廃止が政治上議論はされていない{{要出典}}。<!--ここで言う「政治上」の概念が不明。前文と著しく矛盾。-->仮に王制が廃止された場合、ドメイン名にもなっている United Kingdom (連合王国)の略語のUKがUR(←United Republic=連合共和国)に変わることも考えられる。 |
|||
'''[[ベルギー]]''' |
|||
: 近年王制廃止論が唱えられ、主に[[フランデレン地域圏|フランデレン]]人の右翼によって行われている。 |
|||
===君主制が廃止された国=== |
|||
'''[[イタリア]]''' |
|||
: [[第二次世界大戦]]後の1946年に、サヴォイア王家が[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]独裁を許した責任を問われ、ほんのわずかの差であったが、国民投票で王政廃止が決まり、[[ウンベルト2世]]はポルトガルへ亡命した。その後、イタリア共和国憲法でサヴォイア王家直系男子のイタリア再入国禁止が決まり、2002年の憲法改正を経て、2003年までウンベルト2世の息子[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア]]は、イタリアへ帰国することができなかった。 |
|||
'''[[ギリシャ]]''' |
|||
: かつて軍事政権期には政情が不安定であったが、[[1973年]]に王制が廃止されて国王が亡命してからは政情が安定している。国王が亡命中の1973年、王制廃止の是非を問う国民投票が行われた結果、共和制派が多数を占めた。 |
|||
'''[[イラク]]''' |
|||
:[[ファイサル家]]の王制であったが[[バース党]]のクーデターによって王族が虐殺され、王制が廃止となった。 |
|||
'''[[イラン]]''' |
|||
:[[1978年]]に[[イラン革命]]が起こり[[パーレビ朝]]が廃され、[[イスラム共和制]]になった。 |
|||
'''[[エジプト]]''' |
|||
:[[ナセル]]ら青年将校によるクーデターが起こり、王制が廃止となった。 |
|||
'''[[アフガニスタン]]''' |
|||
:国王が外遊中に軍部のクーデターが起こり、王制が廃止となった。 |
|||
'''[[モルディブ]]''' |
|||
:1965年、[[イギリス]]の植民地から独立し、1968年、国民投票により[[スルタン]]制を廃止し共和制に移行した。 |
|||
'''[[エチオピア]]''' |
|||
:[[1973年]]、政情不安から陸軍の反乱が起こり、最後の皇帝である[[ハイレ・セラシエ1世]]は[[1974年]]9月、軍部によって逮捕・廃位させられた。軍部は翌年帝政を廃止し、社会主義国家建設を宣言して戒厳令を敷き、[[1987年]]には労働者党一党独裁のエチオピア人民民主共和国を樹立した。 |
|||
=== 君主制支持の動き === |
|||
'''[[タイ王国|タイ]]''' |
|||
: 政治家同士の対立によって流血騒動が起きたとき、[[ラーマ9世|プミポン国王]]の鶴の一声によって騒動が一気に鎮静化したため、タイ国民の国王に対する信頼は以前にも増して高まっており、タイでは王制廃止はほとんど唱えられていない。但し、タイで王政廃止の主張が展開されない理由として、タイでは王制廃止を目指す[[共産主義]]政党が最近まで非合法政党とされていたことや、[[不敬罪]]規定により王室批判は事実上不可能であることも指摘されている。2007年3月には、[[ユーチューブ]]に投稿された、プミポン国王の顔への落書き映像が“不敬である”として、政府が削除要請を拒否したユーチューブへの接続を遮断した([http://www.asahi.com/international/update/0406/TKY200704050439.html アサヒコム記事])。 |
|||
'''[[リヒテンシュタイン]]''' |
|||
: ヨーロッパ最後の絶対君主制国家と言われているが、ナチズムの台頭を君主大権の発動によって封じ、その結果中立を保つことができたためであるとされている。 |
|||
=== 君主制復活への動き === |
|||
'''[[カンボジア]]''' |
|||
: 内戦が激しく、そのため政情が極めて不安定になったため、国民を統合する象徴として、[[ノロドム・シハヌーク]](いわゆるシハヌーク(シアヌーク)殿下)の人気が高く、シハヌークを国王とするため、新たに立憲君主制国家としてスタートした。 |
|||
'''[[スペイン]]''' |
|||
: 独裁政治を行っていた総統[[フランシスコ・フランコ|フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ]]の死後、[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]が国王の座に就任したが、カルロス1世は国内の民主化を進め、1978年に立憲君主制国家に移行させた。立憲君主制が、民主主義の側面を打ち出しているケースの一例。ただ、共和制を目指すカタルーニャ共和党も存在する。 |
|||
== 君主制と共和制との関連 == |
|||
君主制と共和制では一般に後者の方がより民主的とする風潮が強い。理由としては君主という特権的存在による統治は必然的に腐敗や不透明さ、君主への不敬などを理由とした抑圧等を生むという長い歴史に基づく経験があり、それを批判する形で立憲制・更には共和制が登場したからである。しかし君主制にも憲法を立て君主権を制限した立憲君主制と絶対君主制との違いがあり、前者では[[不敬罪]]などが存在せず国民の合意によって君主制が支持されている場合充分民主的運営がなされうる。共和制は一般に最も民主的と思われているが、ジャコバン派統治下のフランス・旧ソ連・中国・北朝鮮・フセイン政権下のイラクなど共和国においても独裁的な政治が行われる例がある。また、共和制自体に対する理念が国民にとって十分な理解が得られているかいないかによって運用が成功するか失敗するかが決まり、実際このような理解の欠如からドイツのヒトラーの様に独裁を生んだ事例がある。<br> |
|||
故にその国が憲法を持ち、ある程度以上の民主的統治機構を持っている場合、君主制と共和制のどちらがその国にとって適切かは社会状況や歴史的経緯、また民衆の国家体制に対する認識の違いなどと関連するものであり、どちらの側が優れているかは一概には言いがたいのも事実である。 |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
138行目: | 71行目: | ||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
⚫ | |||
* [[共和制]] |
* [[共和制]] |
||
* [[国民主権]] |
* [[国民主権]] |
2007年5月27日 (日) 23:57時点における版
天皇制廃止論(てんのうせいはいしろん)とは、日本は天皇制(天皇を中心とする国家体制)を廃止し、主として共和制へ移行すべきだとする主張である。
経緯
戦前
戦前における天皇制廃止論の原点ともいうべきものは、日本共産党や講座派による二段階革命論である。これは天皇制をロシアの絶対君主制ツァーリズムになぞらえ、封建勢力である寄生地主とブルジョアジーの結合が天皇制を形づくっているとし、ブルジョア革命の後に社会主義革命を起こすという理論であった。しかし、当時の大日本帝国憲法下では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とされ、天皇制廃止論を主張することは不敬罪という犯罪に当ることがあったため、戦前には公然と議論することすらできない状態が続いていた。
占領期
戦後の1945年10月4日、GHQは日本政府へ「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書を発した。この覚書は主要命題の一つとして「皇室問題特にその存廃問題に関する自由なる討議」を含み、治安維持法など弾圧法令の撤廃、特別高等警察の廃止、また山崎巌内務大臣の罷免(前日の3日に「これからも天皇制廃止を主張するものはすべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と発言)などを指令している。
同月20日、米トルーマン大統領が「天皇制の存廃は日本人民の民意によって決定されるべき」と発言すると、国内の大手新聞はこれを紹介するとともに、以後天皇制の存廃についての記事や投書を多く掲載するようになった。なおこの問題について、当時の朝日新聞の報道姿勢は中立、読売新聞は左派、毎日新聞は右派であった。
国内の大手新聞による天皇制論議は1946年1、2月を境に「天皇制の是非」から「天皇について」へと変化し、それすらも同年6月をもって後退していった。
現在
戦後、日本国憲法によって思想・信条・言論の自由が保障されているため、天皇制廃止論によって罪に問われることはなくなった。
廃止論の種類
- 進歩派の観点からの廃止論
- 戦後の一時期、丸山真男らいわゆる戦後の進歩派は、ヨーロッパの市民革命思想への共感から、当面は天皇の政治的権能を縮小し、将来はフランスの共和制(ここでは第四共和制を指す)の議会制民主主義による象徴大統領制を実現すべきだと主張した。また、高野岩三郎は天皇制を封建制の遺物であるとし、日本共和国憲法私案要綱を作成するなどした。
- 昭和天皇の戦争責任の追及
- 明治憲法において、天皇は「陸海軍を統帥す」と規定されていたことから、天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行するべきとするものがある。ただし、この種の意見は天皇制に対する批判と昭和天皇個人の戦争責任追及とを混同してしまうことが多く、必ずしも天皇制廃止論に結びつくものではない。そのため、1989年に今上天皇が即位すると、昭和天皇の戦争責任追及とそれを根拠とした天皇制廃止論とが分離し、戦争責任論からの廃止論は下火になった。
- 法の下の平等および人権との矛盾
- 天皇および皇族は、職業選択の自由や居住および転居の自由、言論の自由など自己決定権にかかわる多くの人権を制限されており、またプライバシーを侵害されることもあることから、これら非自然人的立場から解放するためにも天皇制そのものを廃止すべきだと主張する立場。このことで皇室は治外法権という指摘もある。平成期の廃止論はこれが最も主流である。天皇制を含め君主制は人権侵害だという批判の例として以下が挙げられうる。天皇・皇族はマスコミに追い回されて仮にいやな思いをしても笑顔を絶やさない、イギリス王室の子息はスパルタ教育の寄宿生学校に入れられる、またエリザベス女王は王位継承権第1位に決まったとき人前で笑うことや泣くことが禁じられた(「世界ふしぎ発見」で扱われた)などである。さらにフィクションではあるが「ローマの休日」の王女が過密スケジュールと自由のない生活でヒステリーを起こしたことも、このような例を象徴している。
- 封建制・身分制の名残への反発
- 特定家系への敬意の押し付けは、国民を明治憲法下での臣民とさほど変わらぬ位置に置くのと等しく、時にはそのために批判が行いにくい状況が発生することを危惧する立場。また、日本国憲法において天皇の地位は「日本国及び国民統合の象徴」であると規定されているが、日本国民の平均的な生活とおよそ懸け離れた生活を送っている天皇を「日本国の象徴」とするのは疑問とも考えられている。「天皇」という身分だけが今も世襲で存続していることを疑問としている立場。
- 平等性の観点
- 国民が就職に苦労し、常に失業の危険に脅かされているのに比べ、天皇が生まれながらにして一定の職務と生活水準とを保障されているのは不平等であり、また税金の活用方法として有効でない、また天皇一族のためのみに存在する宮内庁は、公務員の地位について定めた憲法第15条違反であると批判する立場。
憲法の問題
天皇・皇族に、適用を欠いているとされる憲法の条文。総合すると、基本的人権はない。
- 第14条:法の下の平等
- 「社会的身分または門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。」、2項の「華族その他貴族の制度は認めない」という条文がありながら、第1章「天皇」で特別な地位に置かれ、皇室典範を適用していることは明らかに矛盾している。単に“皇族”というだけで乳幼児にまでも最上級敬称・敬語(最高敬語)が使われ、下にも置かぬ扱いを受け、また女性も皇族との婚姻により“**さん”から一夜にして一挙手一投足に最上級敬語が用いられる“**さま”と化す。もっとも、これに関しては敢えて最高敬語を使わない媒体もあり、保守派の批判対象になったり(『朝日新聞』など)、時にはそれを理由に右翼のテロ被害を受けた媒体もある(『噂の眞相』など)。
- 第15条3項:国民の公務員選定罷免権、普通選挙の保障
- 「政治関与の禁止」から参政権が認められず、あらゆる物事について“政府に白紙委任”となる。
- 第18条:奴隷的拘束及び苦役からの自由
- 第20条:信教の自由
- 第21条:集会・結社・表現の自由、通信の秘密
- 発言は宮内庁によって“品位・品格あるもの”が常に求められ、自らの意思で縦横に語る事が許されない。
- 第22条:居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由
- 第24条:婚姻、個人の尊厳と両性の平等
- 第32条:裁判を受ける権利
天皇制廃止にかかる憲法上の手続き
日本国憲法第96条2項の「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」と規定されているとおり、憲法改正によって天皇制が廃止される場合も同様に、天皇が改正憲法を公布するものと解釈される。憲法改正・公布から施行までの期間に天皇制廃止が実行されるものと考えられる。
著名な天皇制廃止論者(故人)
参考文献
- 竹田昭子「アメリカの占領期メディア政策と放送 ―天皇制論議解禁―」『学苑』666号、1995年。
- 竹田昭子「「天皇制論議」解禁とマスメディア ―新聞の天皇制論議―」『学苑』673号、1996年。
- 『教科書・日本国憲法』一橋出版、2004年
関連項目
- 君主制廃止論
- 共和制
- 国民主権
- 市民革命
- 天皇機関説
- 昭和天皇の戦争責任
- 日本人民共和国憲法草案
- 女系天皇
- 皇位継承問題 (平成)
- 人格否定発言
- 共和演説事件
- 菊タブー
- 絶対王政
- 日本シャンバラ化計画
外部リンク
- 憲法に関するアンケート調査 調査報告書 (Internet Archiveによる; かつて自民党サイト内に掲載されていたもの)