「唯識」の版間の差分
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2004年12月19日 (日) 12:14時点における版
唯識(ゆいしき、(skt.)vijJapti=maatrataa विज्ञप्तिमात्रता)とは、大乗仏教の学説の一つで、一切の存在はただ自己の識心より作り出された仮のもので、識のほかには事物的存在はないと説く。単に「唯識」と言った場合、唯識宗・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。
唯心と唯識
華厳経では、集起の義について唯心という。唯識論では、了別の義について唯識という。その体は一つである。詳しく弁別すると、「唯心」の語は因果に通じるが、「唯識」と称するときには、ただ因位にある。「唯」とは簡別の意味で、識以外に法がないことを簡別して「唯」という。「識」とは了別の意味である。了別の心に略して3種、広義には8種ある。これをまとめて「識」といっている。この3種とは、初能変(第八識)、二能変(第七識)、三能変(前五識)のことである。また、8種とは「眼耳鼻舌身の前五識」「第六意識」「第七未那識」「第八阿頼耶識」である。
- 識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。分別了達の根本であるから論に唯識という。あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。識は了別の義であり、因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定しているのである。意味的には二つのものではない。『二十論』には、心と意と識と了名とはこれ差別なり、と説く。 義林章 一末
識と諸法
「唯識」といって、唯八識のみであるというのは、一切の存在現象がこの八識を離れないということである。八識のほかに存在がないということではない。おおよそ分別して五法としている。(1)心、(2)心所、(3)色、(4)不相応、(5)無為である。この前の四つを「事」として、最後を「理」として、五法事理という。
- 心…識の自相
- 心所…識の相応法
- 色…心と心所の所変
- 不相応…心と心所と色の分位の差別
- 無為…前四法の実性
「唯」の語は遍計所執性を遮遣して、「識」の語は依他起性、円成実性の二性をとる、と説く。併せて三性という。
- 梵に毘若底と言うのは、これを翻訳すると識となる。識とは了別の義である。識の自相と、識の相応と、識の所変と、識の分位と、識の実性と五法の事理はみな識を離れず。これによって唯識と名づける。 義林章一末
- (弥勒菩薩が言う)「我、十方唯識を諦観するをもって、識心円明なり。円成実に入りて、依他起および遍計執を遠離して、無生忍を得る。これ第一と為す。 楞厳経五
三性説
諸法三性説は、唯識学派を特徴付けており、般若経由来の諸法の相を、迷いから悟りへの心の動きとして体系的に整理した考え方である。初めに摩訶般若波羅蜜経にみられる三性説に該当する部分を以下に引用する。
遍計所執性
- 舎利弗、仏に言(ことば)を白(もう)せり。
- 「世尊。諸法の実相、云何(いかん)が有なるや」
- 仏言わく。
- 「諸法は有る所無し。是の如く有り、是の如く有る所無し。
- 是の事を知らざるを名づけて無明と為す」 摩訶般若波羅蜜経相行品第十
依他起性
- 「名字は是れ因縁和合の作れる法なり。但だ分別憶想、仮名を説く。
- 是の故に菩薩摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず。。
- 見ざるが故に著せず」 摩訶般若波羅蜜経奉鉢品第二
円成実性
- 「復た次に舎利弗。菩薩摩訶薩、諸法の如・法性・実際を知らんと欲さば、当に般若波羅蜜を学すべし」 摩訶般若波羅蜜経序品第一
解深密経
以上の如く、この段階では三性としてまとめて整理記述しているわけではない。時代を下って解深密経(玄奘訳)では、諸法に三種の相があると説く。これは法が三種類あるということではなく、法は見る人の境地によって三通りの姿かたちが顕れているということである。該当箇所を引用すれば下記のとおりである。
- 「謂く、諸法の相に略して三種有り。
- 何等か三と為すや。
- 一者は遍計所執相、二者は依他起相、三者は円成実相なり。
- 云何が諸法の遍計所執相なるや。
- 謂く、一切法の名、仮安立の自性差別なり、乃至言説を随起せ令むるが為なり。
- 云何が諸法の依他起相なるや。
- 謂く、一切法の縁の生ずる自性なり。則ち此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずる故に彼れ生ず。
- 謂く、無明は行に縁たり、乃至純大の苦蘊を招集す。
- 云何が諸法の円成実相なるや。
- 謂く、一切法平等の真如なり。此の真如に於て諸の菩薩衆、勇猛・精進を因縁と為すが故に、如理の作意・無倒の思惟を因縁と為すが故に、乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修集し、乃至無上正等菩提を方(ま)さに証すること円満なり」 一切法相品第四
すなわち、相は自性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されている。
成立と発展
唯識は弥勒によって唱導されたとされ、無着・世親の兄弟によって組織体系化された。とりわけ世親が唯識三十頌を著して、教義が体系化された。その後、この書をめぐって、多くの論師たちによって論議がたたかわされた。
中国では、それら多くの諸説のうち護法の解釈を正統とする立場で玄奘が解深密経、成唯識論等を漢訳して礎を固め、弟子の慈恩大師が法相宗を開いた。
法相宗は奈良時代に日本に伝えられ、以後現代にいたるまで、唯識は単に法相宗の教義としてだけでなく、広く仏教の基礎学として学ばれた。
特色
- 心の種類として、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八識を立てる。
- 三性説を新たに打ち出したこと。全存在を心のなかに還元し、しかもその全存在のあり方を、遍計所執性(分別された非存在)と依他起性(因と縁という他なるものに依って生起した仮の存在)と円成実性(完成された真に存在するもの)の3種類に分類した。
- ヨーガを実践することによって唯識観という具体的な観法を教理的に組織体系化したこと。
- 法華経などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説くこと。
般若経の空を受けつぎながら、まず識は存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行の実践を通して悟りに到達しようとする教えである。この学派を瑜伽行唯識学派あるいは瑜伽行派とよぶ。vijJaptiとは「知らしめる」という意味。唯識とは語義的には、自己と自己を取り巻く自然界との全存在は自己の根底の心である阿頼耶識が知らしめたもの、変現したもの、という意味である。唯識説によれば、ただ心のみがあり、外界には事物的存在はないとみる。
これは西洋思想でいう唯心論ではない。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその存在性も否定されるからである。