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'''ヴァイキング'''('''Viking''')は[[8世紀]]から200百年以上に渡って[[西ヨーロッパ]]沿海部を侵略した[[スカンディナビア]]の武装船団である。中世西欧の歴史に大きな影響を残した。 |
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異教時代のスカンディナビアは多妻制で出生率が高く、人口増加が激しかった。その反面、寒冷な気候のため土地の生産性は極めて低く、食料不足が生じた。山がちの[[ノルウェー]]では狭小な[[フィーヨルド]]に平地は少なく、海上に乗り出すしかなかったし、[[デンマーク]]では平坦地はあったが、土地自体が狭かった。[[スウェーデン]]は広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北は[[ツンドラ]]地帯だった。このため豊かな西ヨーロッパへの略奪、交易、移住が活発になったものである。 |
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== ヴァイキングの舟 == |
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ヴァイキングは「ロング・ボート」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロング・ボートは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出奇没といえる。このため、[[アングロサクソン]]諸王国や大陸の[[カロリング王国]]も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を蒙ることになる。 |
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== 初期のヴァイキング == |
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西暦[[700年]]頃からヴァイキング集団は[[ブリテン諸島]]や[[フリースラント]]への略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。[[793年]]には北部イングランドの[[リンデスファーン修道院]]、[[795年]]には[[ヘブリデス諸島]]の[[アイオナ修道院]]を略奪している。だが、[[9世紀]]半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いつくかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。 |
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== デンマークのヴァイキング == |
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デンマークのヴァイキングは[[セーヌ川]]河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地の略奪へと出撃した。[[851年]]にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、[[866年]]にはノーサンブリアからイースト・アングリア一帯に[[デーンロウ]]が成立している。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史は[[アングロサクソン]]諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。[[911年]]にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に永久的に定住し、[[ノルマンディー公国]]を形成することになる。 |
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== ノルウェーのヴァイキング == |
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ノルウェーのヴァイキングは外洋に出て行き、8世紀には[[オークニー諸島]]や[[シェトランド諸島]]、9世紀には[[ファーロー諸島]]や[[ヘブリデス諸島]]、東[[アイルランド]]を占領した。 |
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[[988年]]には[[ダブリン]]が創建された。[[874年]]には[[アイスランド]]に定住を始め、さらに[[グリーンランド]]を発見し、おそらく赤毛のエリックは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと呼んだ。 |
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== スウェーデンのヴァイキング == |
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スウェーデンのヴァイキングは[[バルト海]]を横断して、[[ロシア]]に入り、[[ノヴゴロド]]を創建した。さらにリガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、[[9世紀]]にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは[[東ローマ帝国]]の都[[コンスタンティノープル]]にまで姿を現している。 |
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== ヴァイキング後裔国家 == |
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ルーリクとその息子たちは東スラブ民族を服従させ、[[860年]]から[[880年]]にかけてノブゴロド公国や[[キエフ]]公国を樹立した。[[11世紀]]のデンマーク王族カヌートはイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(1016年~1035年)と呼ばれる。ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは[[1059年]]、南イタリアに渡り、その子孫たちはノルマン朝[[シチリア王国]]を築くことになる。ノルマンディー公ギョームは[[1066年]]にアングロサクソン・イングランドを征服し、[[ノルマン王朝]]を築いた。 |
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[[en:Viking]] |
2004年12月7日 (火) 06:08時点における版
ヴァイキング(Viking)は8世紀から200百年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナビアの武装船団である。中世西欧の歴史に大きな影響を残した。
背景
異教時代のスカンディナビアは多妻制で出生率が高く、人口増加が激しかった。その反面、寒冷な気候のため土地の生産性は極めて低く、食料不足が生じた。山がちのノルウェーでは狭小なフィーヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなかったし、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな西ヨーロッパへの略奪、交易、移住が活発になったものである。
ヴァイキングの舟
ヴァイキングは「ロング・ボート」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロング・ボートは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出奇没といえる。このため、アングロサクソン諸王国や大陸のカロリング王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を蒙ることになる。
初期のヴァイキング
西暦700年頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。793年には北部イングランドのリンデスファーン修道院、795年にはヘブリデス諸島のアイオナ修道院を略奪している。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いつくかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。
デンマークのヴァイキング
デンマークのヴァイキングはセーヌ川河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地の略奪へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、866年にはノーサンブリアからイースト・アングリア一帯にデーンロウが成立している。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に永久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。
ノルウェーのヴァイキング
ノルウェーのヴァイキングは外洋に出て行き、8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはファーロー諸島やヘブリデス諸島、東アイルランドを占領した。 988年にはダブリンが創建された。874年にはアイスランドに定住を始め、さらにグリーンランドを発見し、おそらく赤毛のエリックは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと呼んだ。
スウェーデンのヴァイキング
スウェーデンのヴァイキングはバルト海を横断して、ロシアに入り、ノヴゴロドを創建した。さらにリガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している。
ヴァイキング後裔国家
ルーリクとその息子たちは東スラブ民族を服従させ、860年から880年にかけてノブゴロド公国やキエフ公国を樹立した。11世紀のデンマーク王族カヌートはイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(1016年~1035年)と呼ばれる。ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは1059年、南イタリアに渡り、その子孫たちはノルマン朝シチリア王国を築くことになる。ノルマンディー公ギョームは1066年にアングロサクソン・イングランドを征服し、ノルマン王朝を築いた。