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「東国史略 (権近)」の版間の差分

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編纂にあたっては、『[[三国史記]]』のほか、『[[三国遺事]]』、『[[[[冊府元亀]]』、『[[隋書]]』などが参照されている<ref name="kci" />。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2024年12月11日 (水) 01:12時点における最新版

東国史略』(とうごくしりゃく、朝鮮語: 동국사략)は、高麗末期、李氏朝鮮初期の学者であった河崙朝鮮語版権近などが編纂した歴史書檀君朝鮮から後三国時代までの朝鮮半島の古代史をまとめた本で、『三国史略』とも呼ばれ、計8冊からなる。ただし、現存するのは巻三から四の1冊だけである[1]

特徴としては、性理学名分論の立場をとることと、三国時代を重点的に記述し、特に新羅を中心とし、新羅の年期の下に新羅・高句麗百済の順に事件を述べる編年体の方法をとったことが挙げられる[2][3]。新羅を三国の主人に設定した『東国史略』は太宗世宗の公認を受けた。

新羅の正統性を重視する記述は、以降の歴史書に影響を与えた[1]。他方では、『三国遺事』に見える楽浪夫余帯方沃沮伽耶渤海などの諸国への言及は乏しい[2]

編纂過程

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1402年6月、太宗の王名によって河崙権近李詹朝鮮語版がともに『三国史』の編纂に着手し[4]、翌1403年8月に『東国史略』を完成して、これを献上した[5]

一般的には、権近の撰によるものとされている[1]

編纂にあたっては、『三国史記』のほか、『三国遺事』、『冊府元亀』、『隋書』などが参照されている[3]

脚注

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  1. ^ a b c 桜沢亜伊「『東国史略』の諸本について」『資料学研究』第3巻、新潟大学大学院現代社会文化研究科プロジェクト「大域的文化システムの再構成に関する資料学的研究」、2006年、28-29頁、CRID 1050845764162548224 
  2. ^ a b 동국사략 (東國史略)” (朝鮮語). 한국학중앙연구원. 2024年11月22日閲覧。
  3. ^ a b 전덕재 (2024). “『동국사략(東國史略)』의 편찬과 권근(權近)의 고대사 인식”. 태동고전연구 (한림대학교 태동고전연구소) 52: 39-98. https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART003099202 2024年11月22日閲覧。. 
  4. ^ 태종실록》 태종 2년(1402) 6월 8일조
  5. ^ 태종실록》 태종 3년(1403) 8월 30일조

関連項目

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外部リンク

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