「サウィン祭」の版間の差分
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|holiday_name = サウィン {{En|Samhain}} |
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|type = 歴史的な祝日 |
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|longtype = 文化的<br/>[[ペイガニズム]](Celtic polytheism, Celtic neopaganism, [[ウイッカ]]) |
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|caption = 現代のアイルランドでサウィンに行われる篝火の準備風景 |
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|observedby = 歴史的:[[ゲール人]]<br/>現在:[[アイルランド人]]、[[スコットランド人]]、{{仮リンク|マン島人|en|Manx people|label=マン島人}}、[[:w:Celtic neopaganism|ケルティック・ネオペイガン]]、[[ウイッカン]]、[[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム|UU]] |
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|celebrations = [[篝火]]、[[宴会]]、[[仮装]]、[[占い]] |
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|relatedto = [[ハロウィン]]、[[諸聖人の日]]、[[死者の日]]、[[ガイ・フォークス・ナイト]]、[[聖マルティヌスの日]] |
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'''サウィン祭'''{{Sfn|エリュエール|1994|p=150}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}また単に'''サウィン'''{{Sfn|松田|2005|p=129}}<ref name=kimura/>{{Sfn|モートン|2014|p=10}}{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}([[ゲール語]]: {{lang|ga|Samhain}}{{Efn|アイルランド語における発音:{{IPA|ˈsˠəunʲ}}、[[スコットランド・ゲール語]]における発音:{{IPA|ˈs̪ãũ.ɪɲ}}、英語における発音:{{ipa|ˈsɑːwɪn}} ''SAH-win'', {{ipa|ˈsaʊɪn}} ''SOW-in''、{{lang-gd|Samhuinn, Samhainn}}(古い表記)}}、{{lang-gv|Sauin}}{{Efn|{{IPA|ˈsoːɪnʲ}}}})は、[[ケルト]]における1年の最初の[[祝日]](祭日)であり{{Sfn|船戸|1989|p=899}}{{Sfn|後藤|2000|pp=185–205}}、[[10月31日]]夜から[[11月1日]]にかけて行われる祭りである{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|グリーン|2000|p=55}}。サウィンはケルトにおける最も大事な祭りであるとされる{{Sfn|船戸|1989|p=899}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}。収穫を先祖の霊に供える[[収穫祭]]であるとともに、この世とあの世の境界がなくなり、冥府が人間に見える日であるとされていた{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|船戸|1989|p=899}}。 |
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[[File:Beltane_Bonfire_on_Calton_Hill.JPG|[[焚き火]]はサーウィンの祝祭の一環(ただし写真はベルティーンのかがり火)|thumb]] |
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'''サーウィン、サウィン'''<ref name=matsuda/><ref name=kimura/> [[英語|英]]: [[Samhain]]([https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Samhain&oldid=1253711379 英語版])(/ˈsɑːwɪn/ ''SAH-win'', /ˈsaʊɪn/ ''SOW-in'',)、{{lang-gd|Samhuinn, Samhainn}}。サーオィン、サーウェン<ref name="imura">[[井村君江]]『妖精の国の扉』95-111ページ</ref>、サマイン<ref name="storl">ヴォルフ=ディーター シュトルル『ケルトの植物』「ケルトの一年と木の暦」105-108ページ</ref>、サムハイン<ref>[https://kotobank.jp/word/サムハイン祭-1325442 世界大百科事典 第2版 - サムハイン祭の用語解説]</ref>とも。サーウィンは{{仮リンク|ケルト暦|en|Celtic calendar}}で1年の始まり、すなわち夏の終わりと冬の始まりにあたる10月31日の前夜祭と<ref name="kimura" />と11月1日の祝祭<ref name="imura" /><ref name="kimura" /><ref name="arnold">[https://people.uwm.edu/barnold/2001/10/31/halloween-customs-in-the-celtic-world/ Halloween Customs in the Celtic World] Bettina Arnold UWM Hefter Center, October 31, 2001</ref>([[ケルト人]]は1年を夏=光と冬=闇に二分する<ref name=kimura>[[木村正俊]]『ケルトの歴史と文化』179-180ページ</ref><ref name=goto/>)。 |
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[[ケルト人]]は1年を「暗い日々(闇の季節)」である[[冬]](ギアモン)と「明るい日々(太陽の季節)」である[[夏]](サモン)とに二分し{{Sfn|エリュエール|1994|p=150}}{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}{{Sfn|カンリフ|1998|p=182}}<ref name=kimura>{{Cite book|author=木村正俊|author-link=木村正俊|title=ケルトの歴史と文化|pages=179–180}}</ref>、更にそれぞれを二分して、1年を4つに分けた{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|カンリフ|1998|p=182}}。古代アイルランドでは、その節目ごとに祝日が設定され、4つの大祭が行われた{{Sfn|松田|2005|p=126}}{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|グリーン|2000|p=55}}{{Sfn|エリュエール|1994|p=150}}。サウィンは{{仮リンク|ケルト暦|en|Celtic calendar}}で1年の始まり、すなわち夏の終わりと冬の始まりにあたる{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|モートン|2014|p=16}}{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。11月1日のサウィンに対し、残りの3祭は2月1日の[[インボルグ]] ({{lang|ga|Imbolc}})、5月1日の{{仮リンク|ベルティナ|en|Beltane}} ({{lang|ga|Bealtaine}})、そして8月1日の{{仮リンク|ルーナサ|en|Lughnasadh}} ({{lang|ga|Lughnasadh}}) である{{Sfn|船戸|1989|pp=899–900}}{{Sfn|グリーン|2000|p=55}}{{Sfn|エリュエール|1994|p=150}}。 |
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[[ハロウィン]]の原型と考えられており<ref name=johnson/>、ハロウィンはサーウィンの前夜に当たる<ref name=storl/>。 |
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また、ケルト人は夜によって日を数え{{Efn|つまり、1日の始まりは日没であった{{Sfn|モートン|2014|p=16}}。}}、節目の祝日の前夜祭は華やかに行われた{{Sfn|船戸|1989|p=899}}。サウィンの前夜祭である[[10月31日]]には<ref name="imura" /><ref name="kimura" /><ref name="Arnold">{{Cite web|url=https://people.uwm.edu/barnold/2001/10/31/halloween-customs-in-the-celtic-world/ |title=Halloween Customs in the Celtic World |author=Bettina Arnold|date=2001-10-31|accessdate=2024-11-05}}</ref>、捧げものをし、篝火を焚いて魔物を近付けないようにする風習があり{{Sfn|船戸|1989|p=899}}<ref name=storl/>、これが[[アングロサクソン]]の国々における現代の[[ハロウィン]]の原型と考えられている{{Sfn|船戸|1989|p=899}}{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}。 |
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サーウィンは一年の最期の収穫を祝う行事であり<ref name=johnson>[http://blogs.fresno.edu/academics/2007/10/15/halloween-misinformation-abounds-confuses/ Halloween misinformation abounds, confuses] Pam Johnston October 15, 2007</ref>、余剰分の作物や屠殺された[[家畜]]が[[共同飲食|共食]]に供される<ref name=arnold/><ref name=goto/>。死者の[[魂]]が現世に帰ってくる日ともされた<ref name=santino>[https://www.washingtonpost.com/opinions/five-myths-about-halloween/2014/10/24/b9b60800-5939-11e4-8264-deed989ae9a2_story.html Five myths about Halloween - The Washington Post] By Jack Santino October 24, 2014</ref>。帰ってきた先祖への御供えなども行われたが、稀に悪霊なども招き入れてしまう恐れがあったとされ、それが現在のハロウィンに行われる[[トリック・オア・トリート|トリックオアトリート]]の原型になったと言う説がある。 |
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日本語への転写には[[表記揺れ]]があり、サーウィン<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1882/|author=James Owen|title=ハロウィーンの原型、古代ケルトの祝祭|date=2009-10-29|website=ナショナルジオグラフィック日本版|accessdate=2024-11-05}}</ref>、サーオィン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.niseko.lg.jp/resources/output/contents/file/release/1636/19623/10.pdf|author=デリク・モール|title=国際交流員コーナー:「ハロウィーンジャック・オー・ランタンの起源|website=ニセコ町国際交流新聞 第17号|publisher=[[ニセコ町]]|date=2017-10-01|accessdate=2024-11-05}}</ref>、サヴァン{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|カンリフ|1998|p=120}}、サウァン{{Sfn|カンリフ|1998|p=120}}、サーウェン<ref name="imura">{{Cite book|和書|author=井村君江|author-link=井村君江|title=妖精の国の扉|pages=95–111}}</ref>、サマイン<ref name="storl">{{Cite book|和書|author=ヴォルフ=ディーター シュトルル|title=ケルトの植物|chapter=ケルトの一年と木の暦|pages=105–108}}</ref>、サムハイン{{Sfn|モートン|2014|p=10}}{{Sfn|船戸|1989|p=899}}<ref>{{Cite kotobank|word=サムハイン祭|encyclopedia=世界大百科事典 第2版|accessdate=2024-10-31}}</ref>、サムヘイン<ref>{{Cite book|和書|author=マドレーヌ・P・コズマン|title=ヨーロッパの祝祭と年中行事|translator=加藤恭子・山田敏子|page=174|publisher=原書房|date=2015-08-28|isbn=978-4-562-05198-4}}</ref>とも表記される。 |
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[[冥界]]と通じるとされる時期であることを利用し、[[降霊術]]などを用いた[[占い]]が行われる<ref name="arnold" />。また大きな[[焚き火]]を焚く事が祝祭の一環でもある<ref name="arnold" />。火には浄化と再生の意味があり、集団で火を囲む事で共同体の結束を強めた。 |
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== 語源 == |
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サーウィンは、[[インボルク]]、[[ベルテン]]([[メーデー祭]])そして [[ルーナサ]]と共に、ゲール人(ケルト人)達の季節の祭りのうちの1つである。 |
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[[File:Coligny-closeup.jpg|thumb|200px|サモニオスが記述されているコリニー暦。]] |
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サウィン (Samhain) の名称は [[古アイルランド語]]の sam(夏) + fuin(終わり) に由来すると考えられ<ref>{{Cite web|url=https://www.digitalmedievalist.com/opinionated-celtic-faqs/samain/|title=Celtic Studies Resources|accessdate=2024-11-09}}</ref>、「夏の終わり」を意味するとされる{{Sfn|モートン|2014|p=10}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。語源となっている[[アイルランド語]]の {{lang|ga|samrad}} や[[ガリア語]] {{lang|xcg|samon}} はケルト暦で暖かい季節を意味する{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。 |
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[[古アイルランド語]]では'''サヴァン'''(Samain)と呼ばれた{{Sfn|松田|2005|p=129}}。フランス[[アン県]][[ブール=カン=ブレス]]郡の[[コリニー]]で出土した[[青銅]]板に書かれた暦({{仮リンク|コリニー暦|en|Coligny calendar}})には{{Sfn|グリーン|2000|p=59}}{{Sfn|エリュエール|1994|p=150}}、「サモニオス {{lang|xcg|Samonios}}」という言葉が書かれていた{{Sfn|グリーン|2000|p=60}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}<ref name="Arnold" />。これはアイルランドのサウィンと同じもので、サウィンはケルト社会で広く行われていたものであると考えられている{{Sfn|グリーン|2000|p=60}}。 |
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また[[ゲルマン人]]地方、特に北方ゲルマン人達の季節を祝う祭りのオスタラ([[春分]])、リーザ/ミッドサマー([[夏至祭]])、メイボン([[秋分]])、[[ユール]]([[冬至|冬至祭]])と共に1年を区切る8つの祝祭・サバトの一つである<ref name="imura" />。 |
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10月31日のハロウィンの日は、[[アイルランド語]]で {{lang|ga|Oíche Shamhna}}<ref>{{Cite book|和書|author1=前田真利子|author2=醍醐文子|title=アイルランド・ゲール語辞典|publisher=[[大学書林]]|date=2003-11-20|isbn=4475001528|page=508}}</ref>、[[スコットランド・ゲール語]]で {{lang|ga|Oidhche Shamhna}}、[[マン島語]]で {{lang|gv|Oie Houney}} といい、「11月の夜」を意味する。11月1日や祭り期間のことは、同順に Lá Samhna、Là Samhna、Laa Houney と「11月の日」を意味する。 |
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これら8つの祝祭・サバトを[[ホィール オブ ザ イヤー]]([[:en:Wheel_of_the_Year|英語版]])/一年の輪や一年の車輪と呼ぶ。 |
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== 行事と意味 == |
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'''万霊節'''とも<ref>[[鶴岡真弓]]『ケルト 再生の思想』2017, p7</ref>。 |
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[[File:Beltane_Bonfire_on_Calton_Hill.JPG|thumb|250px|サウィンの祝祭では、篝火が炊かれる(ただし写真はベルティナのもの)]] |
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ケルトの4つの大祭は[[農事暦]]中の重要な区切りであった{{Sfn|グリーン|2000|p=55}}{{Sfn|エリュエール|1994|p=150}}。農作と家畜の成長を神に祈願するとともに、季節の区切りを明確にして人々の集中的な農作業の後の息抜きをもたらすものであった{{Sfn|グリーン|2000|p=55}}。 |
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サウィンが来ると、農作物が収穫されて貯蔵された{{Sfn|モートン|2014|p=16}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。[[家畜]]は野原から囲い込んで集められ、繁殖のために残された数頭を除いて[[屠殺]]され、冬の[[保存食]]として備蓄された{{Sfn|モートン|2014|p=16}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。サウィンでは、10月31日の日没に終えたばかりの収穫を祝い、饗膳が並べられた{{Sfn|モートン|2014|p=16}}。最良の収穫物と屠殺された[[家畜]]がそれぞれ持ち寄られ、[[共同飲食|共食]]に供された{{Sfn|モートン|2014|p=16}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。ケルト人が[[酒|アルコール]]を十分に味わえたのはこの日だけだったとも言われる{{Sfn|モートン|2014|p=17}}。 |
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==語源== |
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サーウィン (Samhain) の名称は [[ゲール語]] sam-fuin (「夏の終わり」の意味)に由来するとの説が有力<ref name=johnson/><ref name=goto>[https://cir.nii.ac.jp/crid/1390577818147350144 季節と祭り : 自然及び社会環境の視点からの考察]</ref>。 |
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ケルトでは祖先崇拝が行われていた{{Sfn|グリーン|2000|p=48}}。サウィンは死者の[[魂]]が現世に帰ってくる日ともされ<ref name=santino>[https://www.washingtonpost.com/opinions/five-myths-about-halloween/2014/10/24/b9b60800-5939-11e4-8264-deed989ae9a2_story.html Five myths about Halloween - The Washington Post] By Jack Santino October 24, 2014</ref>、死者たちを迎えるための祭りであった{{Sfn|松田|2005|p=129}}。そのために家の門や扉、窓の施錠が外され、通路には灯が点されて死者が自由に入場できるようにされた{{Sfn|後藤|2000|p=192}}。逝去した人の席を用意して、帰ってきた先祖のような良い死者をもてなすための御供えが行われ、晩餐を共にする風習があった{{Sfn|後藤|2000|p=192}}{{Sfn|松田|2005|p=130}}。また、サウィンは[[異界]]と通じるとされる時期であることを利用し、[[占い]]が行われた<ref name="Arnold" />。正しい言葉を発し、正しい行いをすれば未来を占うことができると考えられた<ref name="Arnold" />。これは死者たちの知恵の恵みを期待したものである{{Sfn|松田|2005|p=130}}。サウィンの一部として[[競馬]]が行われることもあった{{Sfn|モートン|2014|p=94}}。 |
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古代アイルランド語では'''サヴァン'''(Samain)と呼ばれた<ref name=matsuda>後藤 信 [http://id.nii.ac.jp/1452/00002222 古代ケルト人の宗教性 : Druidismを中心にして]</ref>。 |
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また大きな[[篝火]]を焚く事が祝祭の一環でもある<ref name="Arnold" />{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。インボルグを除くケルトの大祭には篝火が焚かれた<ref name="Arnold" />。日没を迎えた前夜祭には全ての家の炉端の火が消され、[[ドルイド]]により「清めの火」である篝火が{{仮リンク|トラクトガの丘|en|Hill of Ward}}の近くで灯された{{Sfn|モートン|2014|p=17}}。篝火には去り行く太陽の季節を惜しみ、冬の太陽の再来が念じられた{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。この火は各家庭の火の再生源であり、隣人や親戚に依存して生きていたケルト人にとって、共同体の重要性を示すものである<ref name="Arnold" />。炎の中には屠殺された家畜の骨 "{{en|bone}}" が投げ込まれたため、篝火は英語で {{En|bonfire}} と呼ぶとされる{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。[[スコットランド]]では、篝火はサムハナグと呼ばれた{{Sfn|モートン|2014|p=42}}。 |
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10月31日のハロウィーンの日は、[[アイルランド語]]で Oíche Shamhna、[[スコットランド・ゲール語]]で Oidhche Shamhna、[[マン島語]]で Oie Houney といい、「11月の夜」を意味する。 |
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11月1日や祭り期間のことは、同順に Lá Samhna、Là Samhna、Laa Houney と「11月の日」を意味する。 |
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サウィンは行政的にも重要な日であり{{Sfn|モートン|2014|p=17}}、大きな[[タラの丘|タラ]]の集会が行われた{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。饗宴の合間に年次集会が開かれ、借金の返済や裁判が行われた{{Sfn|モートン|2014|p=17}}。ここで重罪とされた者は3日間のうちに処刑された{{Sfn|モートン|2014|p=17}}。 |
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==キリスト教とサーウィン祭== |
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キリスト教から見たサーウィン祭は、キリスト教が布教される以前の土着宗教の祭りになるため、異教徒(ペイガン)の祭りである。 |
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サウィンの起源は、冬のための間引き、飼料の用意、および繁殖のために放牧中の家畜を集める行事と関連があると考えられている{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}{{Sfn|マルカル|2002|p=79}}。 |
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古代ケルト人の信仰を含む土着宗教では、主に自然を崇拝する傾向があり、キリスト教徒達は自分達とは違う神を崇拝している異教徒(ペイガン)達は、祭りを通して[[悪魔]]や[[サタン]]と契約しているに違いないと信じ「死者の王」のための祝祭だと考えていた<ref name="santino" /><ref name="johnson" />。 |
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=== ケルト世界とサウィン === |
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これは土着宗教を野蛮と見なし、悪魔になぞらえようとした[[カトリック教会]]によって広められたものである<ref name="santino" /><ref name="johnson" />。 |
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[[File:Owenagcat.jpg|thumb|200px|異界への入口とされる[[クルアハン]]の洞窟]] |
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古代アイルランドの世界観は[[多神教]]的であり、ケルト人は形ある自然界の事物に霊的生命を与えているのは目に見えない[[超自然]]の力によるものであると考えていた{{Sfn|松田|2005|pp=126–128}}{{Sfn|グリーン|2000|p=38}}。そして、自然界と超自然界は自由に交通できると考えられ{{Sfn|船戸|1989|p=899}}、ケルト人は多様な超自然の霊たちが住む世界と共存し、霊との交流が行われていた{{Sfn|グリーン|2000|p=47}}。ケルト人は死後の世界や魂の[[転生]]を信じ、霊が旅をしてあの世(ティル・ナ・サウラ、Tír na samhradh「夏の国」)へ行くと考えていた{{Sfn|モートン|2014|p=16}}。サウィンは霊的エネルギーが最高潮に達する時期であり、時空の境界が一時的に取り払われ、異界の霊が生者と自由に交流ができるようになると信じられていた{{Sfn|モートン|2014|p=16}}{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。開かれた異界から湧き出てくる超自然エネルギーのコントロールには、ケルトの司祭である[[ドルイド]]による仲介者としての力が必要であった{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。 |
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またケルトでは、「光と闇」、「善と悪」、「豊穣と破壊」、「勇気と恐怖」、「合理と不合理」のような対立要素があり、そういったもので一切が説明できると考えられていた{{Sfn|松田|2005|p=128}}{{Sfn|カンリフ|1998|p=120}}。これは例えば、[[アイルランド神話]]におけるすべての技術の擬人化である主神[[ダグダ]]と、大地・肥沃の女神であるが人間に害を与えることもある[[モリガン]]の関係に代表される{{Sfn|カンリフ|1998|p=120}}。これは生命においてもこういった対立する生命原理の相互作用により生じると考えられていた{{Sfn|松田|2005|p=128}}{{Sfn|カンリフ|1998|p=120}}。そして、これらは一方が他方を完全に打ち破ることはないとされていた{{Sfn|松田|2005|p=128}}。マカロックやP.W.ジョイスなどによると、サウィンには、様々な対立概念が含まれているとされる{{Sfn|松田|2005|p=129}}。サウィンの日には、万民の利益のために対となる対立要素の境界が希薄になり、互いに結び付けられた{{Sfn|カンリフ|1998|p=120}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。 |
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==出典== |
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1つ目の対立概念は、自然界の生命の循環と農作業の周期に関わるものである{{Sfn|松田|2005|p=129}}。ケルト暦では、サウィンとベルティナを境として闇が光を、光が闇を圧倒する{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。サウィンでは作物の成長や実りが終わり、冬枯れの「暗い日々」が現れる{{Sfn|松田|2005|p=129}}{{Sfn|後藤|2000|p=191}}。しかしこれは生命の終末ではなく、収穫の喜びの思い出と、のちに始まる新たな生命の芽生えに対する期待を含んだものである{{Sfn|松田|2005|p=129}}。同時に農民にとっては労働が終わり休息の始まりでもある{{Sfn|松田|2005|p=129}}。 |
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2つ目の対立概念は、過ぎ行く旧年の穢れを祓い、衰弱した生命に新たなエネルギーを注入して新しい年を復活させようとする祈りが込められたものである{{Sfn|松田|2005|p=129}}。サウィンでは聖なる篝火が焚かれ、それが各家庭の[[暖炉]]や[[竈]]に分けられた{{Sfn|松田|2005|p=129}}。これはエネルギーの象徴でもあり、同時に家畜たちを悪疫から守るための清めの意味も持っていた{{Sfn|松田|2005|p=129}}。 |
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そして、サウィンは3つ目の対立概念は、あの世とこの世、自然界と超自然界の境界がなくなることである{{Sfn|松田|2005|p=130}}。旧年と新年が入れ替わる10月31日の深夜には、通常の時空間の枠組みが崩れ、地下の[[シー (アイルランド神話)|シー]]{{Efn|name=sidh|シー{{Sfn|松田|2005|p=128}}({{lang|ga|sídh}}<ref name="Britannica">{{Cite web|url=https://www.britannica.com/science/sidh|title=sídh|website=Britannica|accessdate=2024-11-13}}</ref>、シード{{Sfn|マルカル|2002|p=81}})はゲール語で「安らぎ」を意味する語であるとされる{{Sfn|マルカル|2002|p=81}}。アイルランドの先住民族でありアイルランド神話では神の一族とされる[[トゥアハ・デ・ダナーン]]が[[ミレー族]]([[ゲール人]]の祖先)に追われて[[墳丘墓|丘]](塚)に隠れ住み、この丘がシーと呼ばれた{{Sfn|大内|1940|p=214}}{{Sfn|松田|2005|p=128}}{{Sfn|金光|2002|p=184}}。丘は異界に通じる場所であるとされ{{Sfn|金光|2002|p=184}}、トゥアハ・デ・ダナーンがこの世からあの世に移り住み、霊的存在として生き続ける[[異界]](地下世界)も「シー(シード)」とされる{{Sfn|マルカル|2002|p=81}}{{Sfn|松田|2005|p=128}}。トゥアハ・デ・ダナーンは権力の座を奪われ「妖精」になったという信仰があるが{{Sfn|川西|1989|p=907}}、これはキリスト教の[[修道士]]によるものである{{Sfn|大内|1940|p=214}}。また転じて、複数形の {{lang|ga|sídhe}}(および {{lang|ga|aos sídhe}})はこの「妖精」を指す語としても用いられるようになった<ref name="Britannica"/>{{Sfn|松田|2005|p=130}}{{Sfn|川西|1989|p=907}}。}}が地上に出没するようになる{{Sfn|松田|2005|p=130}}。サウィンの夜には死者がこの世に戻ることも、シーが悪魔に魅入られた人間に乗り移ることも可能とされた{{Sfn|モートン|2014|p=16}}。邪悪な霊の振舞いを鎮めるため、ケルトの司祭[[ドルイド]]によって祈禱が捧げられ、ときには動物を生贄とすることもあった{{Sfn|松田|2005|p=130}}。 |
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== アイルランド神話におけるサウィン == |
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[[File:Heroes of the dawn (1914) (14750481494).jpg|thumb|200px|サウィンの度にタラの町を焼いたアイレンと戦う[[フィン・マックール]]。]] |
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サウィンは霊的エネルギーが最高潮に達する時期であったため、大きな出来事がよく起こった{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。 |
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サウィンの日には、供物や生贄が捧げられた。『[[アイルランド来寇の書|来寇の書]]』によると{{Sfn|金光|2002|p=174}}、[[アイルランド]]は凶暴な巨人の先住民族(魔族)[[フォウォレ族]]に支配されており、生き残った人々は毎年サウィンの日に[[トウモロコシ]]、[[牛乳]]、子供の3分の2を[[税]]として課されていた{{Sfn|モートン|2014|p=17}}。『[[マグ・トゥレドの戦い|マグ・トゥレドの第2の戦い]]』でサウィンの日に半神の一族[[トゥアハ・デ・ダナーン]]がフォウォレ族を打ち負かし、フォウォレ族は放逐された{{Sfn|モートン|2014|p=17}}{{Sfn|金光|2002|p=174}}。 |
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また、サウィンにはロマンチックな側面もあった{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。サウィンはケルトの主神である[[ダグダ]]が女神[[モリガン]]と[[結婚]]([[交接]])する日であるとされる{{Sfn|船戸|1989|p=899}}{{Sfn|グリーン|2000|p=58}}。『[[オェングスの夢]]』では、ダグダの息子[[オェングス]]は、1年間毎晩夢の中で若く美しい少女の訪問を受けて、恋に落ちる{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。彼女が現れなくなると、オェングスは衰弱し始める{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。父ダグダが少女探しに力を借りようと、シード(sidh、妖精の丘){{Efn|name=sidh}}を訪れる{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。2年後、銀の鎖を付けられた150人の乙女の中にその少女がいることが突き止められる{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。少女は{{仮リンク|エタル王|en|Ethal}}の娘{{仮リンク|カエル (アイルランド神話)|en|Caer Ibormeith|label=カエル}}{{Efn|湖の妖精[[エーダイン]]ともされる{{Sfn|金光|2002|p=185}}。}}であったが、王は娘を嫁がせるのを拒んだ{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。そこでダグダと同盟軍はエタル王の宮殿を破壊したところ、実はカエルは魔法にかけられていて毎年サウィンの日に[[変身|変化]]し、1年は人間、次の1年は白鳥になることを繰り返すということが明らかにされた{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。オェングスは白鳥の姿になったカエルを見つけに湖を訪れた{{Sfn|モートン|2014|p=18}}{{Sfn|金光|2002|p=185}}。現れた白鳥は、湖へ帰すと約束してくれるなら一緒に行っても良いと言い、オェングスは承諾する{{Sfn|金光|2002|p=185}}。オェングスはカエルを抱きしめると、自身も白鳥に変化した{{Sfn|金光|2002|p=185}}。 |
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[[アルスター]]の英雄である[[クー・フーリン|クー・ホリン]]が異界と接触したのはサウィンであったとされる{{Sfn|グリーン|2000|p=57}}。同様に、[[フィン物語群|フィン神話]]における超人的な戦争の指揮官である[[フィン・マックール]]もサウィンに異界と接触している{{Sfn|グリーン|2000|p=58}}。フィンはサウィンの日にで覇王が議長となって開かれるタラの年次集会を訪れる{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。王は屈強な会衆に、妖精族の人間{{仮リンク|アイレン|en|Aillen}}の討伐を持ちかけた{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。サウィンには毎年、アイレンがタラの町にやってきて[[ハープ]]を演奏し、音色を耳にした人間を魔法にかけて眠らせてしまう{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。またアイレンは口から火の柱を吹いて王宮を焼き払うため、町は9回破壊された{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。そこでフィンはアイレンの討伐を請け負い、味方から与えられた魔法の槍の先を使って魔法の音色を断ち切り、[[外套]]を使って炎を撃退した{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。アイレンは異界の入口を通り逃げようとするが、フィンが槍を投げつけて絶命させる{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。フィンはアイレンの首を落とし、王に献上して褒美を得た{{Sfn|モートン|2014|p=18}}。 |
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またアイルランド神話には、異界ではこちらの世界と時の流れ方が異なるというテーマの物語が知られるが、これは後に[[ハロウィン]]の物語にも受け継がれている{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。『[[ネラの異界行]]』では、[[ネラ]]がサウィンの日に国王{{仮リンク|アリル|en|Ailill mac Máta}}から[[絞首刑]]にされた[[死体]]の[[足首]]に輪をかけてくるという課題を与えられ、首尾よくこれを果たす{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。このときネラは、死んでいるはずの囚人に喉が渇いているから水を飲ませてくれとせがまれる{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。そこで死体を下ろして、水を飲ませるための家を探し、水を与えた{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。しかし囚人は水をもらった家の者に水を吹きかけ、その人々は死んでしまった{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。ネラは死体を[[絞首台]]に戻し、国王の要塞へと引き返すが、要塞は妖精軍の放った炎に包まれていた{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。ネラはクルアハンの丘を抜ける妖精軍を尾行して異界に入り、そこで妻を娶った{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。ネラは妻から、以前見た炎に包まれる要塞は[[幻影]]であったが、国王アリルに警告しなければ次のサウィンに幻影は現実となってしまうことを知らされる{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。異界とは違い、現世では時間が経っていなかった{{Sfn|モートン|2014|p=19}}。結局妖精軍の侵攻を阻止するが、ネラは異界の家族の元に戻って一生を過ごした{{Sfn|モートン|2014|p=19}}{{Sfn|マルカル|2002|p=109}}。 |
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== 異文化との関わりと変遷 == |
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=== 外界から見たケルト文化 === |
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[[鉄器時代]]のケルト人は文字を持たなかったため、古代ギリシア・ローマの著述家による記録またはアイルランドと[[ウェールズ]]の民間伝承神話、そして[[考古学]]的資料を基にケルト文化が解釈されている{{Sfn|グリーン|2000|p=39}}。しかし、[[ケルト神話|民間伝承神話]]には[[キリスト教]]化による影響や、中世の[[修道士]]による創作が含まれている{{Sfn|グリーン|2000|p=40}}。また、古代ギリシア・ローマ人によるケルト文化の記述は「野蛮人」という[[ステレオタイプ]]による偏見が含まれている{{Sfn|グリーン|2000|p=39}}。 |
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=== サウィンのキリスト教化 === |
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現代の[[イギリス]]におけるキリスト教では、10月31日に前夜祭(Vigil)、11月1日に[[万聖節]]、11月2日に[[死者の日|万霊節]]と3日間連続して行われるが、これはサウィンを引き継いだものであるとされる{{Sfn|櫻庭|1989|p=285}}。 |
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ケルト人によるサウィンはペイガン{{Efn|異教徒を意味する「[[ペイガン]]」は古代ローマのパグス(行政単位、田舎)に住んでいた人々を指すパガヌス ({{la|paganus}}) に由来するが、ローマ帝国がキリスト教化されてから、キリスト教に改宗せず土着信仰を信じた人々を指す言葉となった{{Sfn|河西|2012|pp=626–627}}。}}の祭りとされる。7世紀にはヨーロッパ全域に[[カトリック教会]]が広まり、[[宣教師]]たちは異教徒であるケルト人を改宗させていた{{Sfn|モートン|2014|p=20}}。この際、カトリック教会では暦にある祝祭日を消す代わりに、キリスト教の目的のための祭に置き換えようとした{{Sfn|モートン|2014|p=20}}。 |
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まずカトリック教会は紀元[[609年]]にローマの[[パンテオン (ローマ)|パンテオン]]を聖母マリアと殉教者のための聖堂とし、5月13日に「サンタ・マリア・ロトンダ "{{La|Santa Maria Rotonda}}"」と改称した{{Sfn|モートン|2014|p=20}}。5月13日はもともと霊を祭る[[ローマ帝国]]の[[レムレース|レムリア]]最終日で、これが[[万聖節]]の端緒となった{{Sfn|モートン|2014|p=20}}。8世紀半ばにはローマ教皇[[グレゴリウス3世]]が殉教者の祝祭を11月1日に移し、「全ての聖人の日」つまり万聖節(諸聖人の日)とした{{Sfn|モートン|2014|p=22}}。これはケルト人が断ち切り難かった異教の祭りであるサウィンを取り込もうとする意図があったのかもしれないともされる{{Sfn|モートン|2014|p=22}}。 |
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また紀元[[1000年]]ごろ、カトリック教会は11月2日を[[死者の日|万霊節]] ({{En|All Souls' Day}}) とした{{Sfn|モートン|2014|p=23}}。これはカトリック教会では[[煉獄]]にいる死者の霊のために祈りを捧げる日だと説明される{{Sfn|モートン|2014|p=22}}。これもサウィンを[[キリスト教]]へ取り込もうとしたものとされ{{Sfn|モートン|2014|p=23}}、サウィンが'''万霊節'''と呼ばれることもある<ref>{{Cite book|和書|author=鶴岡真弓|author-link=鶴岡真弓|title=ケルト 再生の思想|date=2017-10-04|page=7|isbn=978-4-480-06998-6}}</ref>。これはローマ帝国の[[レムレース|レムリア]]がカトリックに取り込まれ[[万聖節]]となったのと同様である{{Sfn|モートン|2014|p=20}}。1550年頃には既に、サウィンは万聖節および万霊節の2つのカトリックの祝祭に取り込まれたが、依然として異教的特徴は維持されていた{{Sfn|モートン|2014|p=24}}。 |
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=== サウィンと現代のハロウィン === |
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前夜祭は現代の[[ハロウィン]] ({{en|Halloween}}) であり、これは万聖節({{En|All Hallows}})の前夜祭({{En|even}}、縮約形は {{En|e'en}})が約まってできた語である{{Sfn|後藤|2000|p=191}}{{Sfn|櫻庭|1989|p=285}}。ハロウィンの形成には、1346年からヨーロッパで猛威を振るった[[黒死病]]による死のイメージ{{Sfn|モートン|2014|p=24}}、また、1480年ごろからの[[魔女狩り]]が影響を与えた{{Sfn|モートン|2014|p=26}}。また、1509年に王位を継承した[[ヘンリー8世]]やその娘の[[エリザベス1世]]は、[[英国教会]]を[[ローマ教皇庁]]から分離しようとし{{Sfn|モートン|2014|p=26}}、(教皇側の祝祭である)万聖節を抑制する宣言を発布した{{Sfn|モートン|2014|p=27}}。特にエリザベス1世は、「万聖節および万霊節、その前後2晩に鐘を打ち鳴らす迷信」を禁じた{{Sfn|モートン|2014|p=27}}。また、1590年の{{仮リンク|ノース・バーウィックの魔女裁判|en|North Berwick witch trials}}以降、ハロウィンは[[魔女]]、[[猫]]、[[箒]]や[[悪魔]]と結び付けられることとなった{{Sfn|モートン|2014|p=27}}。 |
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1605年の[[火薬陰謀事件]]から、[[ガイ・フォークスの日]]が[[11月5日]]に行われるようになったが{{Sfn|モートン|2014|p=30}}。1647年にはイギリス議会は、万聖節や万霊節の伝統が既にガイ・フォークスの日に組み込まれていることから、ガイ・フォークスの日以外の祝祭を禁じた{{Sfn|モートン|2014|p=31}}。現代でもガイ・フォークスの日は「焚火の夜」として親しまれる{{Sfn|モートン|2014|p=31}}。また、1582年にカトリック教会では[[グレゴリオ暦]]への切り替えが行われ{{Sfn|モートン|2014|p=34}}、イギリスでも[[1752年]]に新暦が採用された{{Sfn|モートン|2014|p=35}}。しかし既にこの時点で11日の誤差が生じており、ハロウィンは新暦の10月31日に行う人も、「旧サウィン前夜祭」として旧暦の10月31日に当たる新暦の11月11日に行う人も現れた{{Sfn|モートン|2014|p=35}}。[[北アイルランド]]では、[[20世紀]]初頭まで旧サウィン祭を「オールド・ハレーヴ」と呼んで祝っていた{{Sfn|モートン|2014|p=35}}。この11月11日は収穫の守護聖人である[[トゥールのマルティヌス|聖マルティヌス]]を祝う[[聖マルティヌスの日|マルティヌス祭]]と同一視され、[[ヨーロッパ大陸]]や[[イギリス諸島]]で祝われた{{Sfn|モートン|2014|p=35}}。[[イングランド]]では[[ガイ・フォークスの日]]が中心的祝祭として残されたが、ケルトの影響が根強い[[スコットランド]]・[[アイルランド]]・[[ウェールズ]]・[[マン島]]では、日が近いこれらの祝祭とは異なり、依然としてサウィン前夜祭を引き継いだ10月31日の夜にハロウィンが祝われた{{Sfn|モートン|2014|p=36}}{{Sfn|モートン|2014|p=38}}。 |
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=== ヴァランシーの誤謬 === |
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イギリス軍の測量技師である{{仮リンク|チャールズ・ヴァランシー|en|Charles Vallancey}}は、[[アイルランド]]に関することを多数記録したが、大部分は誤っていた{{Sfn|モートン|2014|p=10}}。[[1786年]]にヴァランシーは『[[謎のアイルランド人についての抜粋集]]』("Collectanea de Rebus Hibernicis")を発表し、「サウィン {{lang|ga|Samhain}} はケルト人の神のことで、別名「バルサブ」という死の主を意味する」という誤った説明を行った{{Sfn|モートン|2014|p=10}}{{Efn|ガリアの神のうち、真に「主」を意味するのはエススである{{Sfn|グリーン|2000|p=44}}。}}。ヴァランシーは野蛮な人々が残忍神々に人身御供を捧げ、激しく燃え盛る篝火の下で邪悪な霊を撃退して秋を過ごしたと夢想した{{Sfn|モートン|2014|p=13}}。しかし、実際にはケルトの伝承にはそのような語は登場しない{{Sfn|モートン|2014|p=10}}。 |
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それにもかかわらず、ヴァランシーのサウィンに関する説明は信じられ続け、1950年の『20の世紀を超えたハロウィーン』(''Halloween Through Twenty Centuries'') などには「Samhain、死の主」と言及されていた{{Sfn|モートン|2014|p=12}}。さらに1990年代初頭にはアメリカのキリスト教団体がハロウィンは「捧げものとして人間を焼くことで死の主サウィンを宥め、その歓心を買おうとする祝祭」であり、子供たちに祝わせないよう父兄への呼びかけがなされた{{Sfn|モートン|2014|p=12}}。 |
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== ネオペイガニズムとサウィン == |
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[[File:Wheel of the Year.png|thumb|300px|「年の車輪」]] |
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ケルトの元来の宗教としての[[ドルイド教]]は近代初期にアイルランドのドルイドがいなくなることで消失した{{Sfn|グリーン|2000|p=31}}。しかし、16世紀に[[古代ギリシア]]および[[古代ローマ]]文献が再発見され、ドルイドへの関心が復活した{{Sfn|グリーン|2000|p=31}}。鉄器時代のケルト人は文字を持たなかったため{{Sfn|グリーン|2000|p=38}}、ケルトの宗教的風俗はほとんどがローマ人の文献に限られて未知の部分が多く{{Sfn|グリーン|2000|p=262}}{{Sfn|船戸|1989|p=897}}、そのため懐古的ロマンティシズムや{{仮リンク|ケルト文化再興|en|Celtic revival}}の運動を強く刺激した{{Sfn|船戸|1989|p=897}}。 |
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現代のドルイド教は[[ウイッカ]]や[[シャーマニズム]]と同様、[[ネオペイガニズム]](新異教運動)の一つとされる{{Sfn|グリーン|2000|p=237}}。ドルイド教はケルト文化再興運動とも重なる{{Sfn|河西|2012|pp=626–627}}。ウイッカの祭祀は、[[サバト]]と呼ばれる年8回の季節の祭に行われる{{Sfn|グリーン|2000|p=241}}。月崇拝を行うウイッカは太陽崇拝を主とするドルイド教とは異なるものであるが{{Sfn|グリーン|2000|p=241}}、季節の祭を行う点はドルイド教と共通している{{Sfn|グリーン|2000|p=242}}。 |
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ネオペイガニズムのうちウイッカやドルイド教は、ケルトの4つの節目の大祭に加え、ゲルマンに由来する4つの祭り([[小サバト]]){{Efn|オスタラ([[春分]])、リーザ/ミッドサマー([[夏至祭]])、メイボン([[秋分]])、[[ユール]]{{Sfn|グリーン|2000|p=243}}([[冬至|冬至祭]])}}を加えた8回の季節の祝祭(サバト)を祝う、「{{仮リンク|年の車輪|en|Wheel_of_the_Year}}{{Sfn|グリーン|2000|p=243}}(年の輪{{Sfn|河西|2012|pp=626–627}}、{{en|Wheel of the Year}})」が行われる{{Sfn|河西|2012|pp=626–627}}{{Sfn|グリーン|2000|p=243}}。また、周期や循環という考えはドルイドの信念や行動の中心をなし、命や年、1日も循環であるとされる{{Sfn|グリーン|2000|p=256}}。また、1年におけるサウィンは、一生における老年から死に相当するとされる{{Sfn|グリーン|2000|p=257}}。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|editor1=安東伸介|editor2=小池滋|editor3=出口保夫|editor4=船戸英夫|title=イギリスの生活と文化事典|publisher=研究社出版株式会社|edition=7|date=1989-10-30|isbn=432737623X}} |
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** {{Cite book|和書|author=櫻庭信之|chapter=一章 生活環境・習慣・道具 6 年中行事と慣習|pages=270–290|editor=安東伸介・小池滋・出口保夫・船戸英夫|title=イギリスの生活と文化事典|publisher=研究社出版株式会社|edition=7|date=1989-10-30|isbn=432737623X|ref={{SfnRef|櫻庭|1989}} }} |
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** {{Cite book|和書|author=船戸英夫|chapter=九章 民俗(フォークロア) 3 異教信仰|pages=896–905|editor1=安東伸介・小池滋・出口保夫・船戸英夫|title=イギリスの生活と文化事典|publisher=研究社出版株式会社|edition=7|date=1989-10-30|isbn=432737623X|ref={{SfnRef|船戸|1989}} }} |
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** {{Cite book|和書|author=川西進|chapter=九章 民俗(フォークロア) 4 妖精|pages=906–915|editor1=安東伸介・小池滋・出口保夫・船戸英夫|title=イギリスの生活と文化事典|publisher=研究社出版株式会社|edition=7|date=1989-10-30|isbn=432737623X|ref={{SfnRef|川西|1989}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=クリスチアーヌ・エリュエール|title=ケルト人―蘇るヨーロッパ〈幻の民〉|series=「知の再発見」双書35|others=鶴岡真弓(監訳)|translator=田辺希久子・湯川史子・松田迪子|publisher=創元社|date=1994-03-10|isbn=4-422-21085-8|ref={{SfnRef|エリュエール|1994}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=大内義一|date=1940|title=古代愛蘭文學に於ける異教的要素|journal=英文学研究 |volume=20 |issue=2 |pages=204–222|doi=10.20759/elsjp.20.2_204|ref={{SfnRef|大内|1940}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=河西瑛里子|chapter=ネオペイガニズム|pages=626–627|title=世界宗教百科事典|date=2012-12-31|editor=世界宗教百科事典編集委員会|publisher=丸善出版|ref={{SfnRef|河西|2012}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=バリー・カンリフ|title=図説ケルト文化誌|others=倉持不三也(監訳)|publisher=原書房|date=1998-11-10|isbn=4-562-03145-X|ref={{SfnRef|カンリフ|1998}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=ミランダ・J・グリーン|title=図説 ドルイド|translator=大出健|others=[[井村君江]](監訳)|publisher=東京書籍|date=2000-09-01|isbn=4-487-79412-9|ref={{SfnRef|グリーン|2000}} }} |
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* {{Cite journal|author=後藤信 |title=季節と祭り : 自然及び社会環境の視点からの考察|journal=社会情報学研究 |volume=6 |pages=185–205 |date=2000 |doi=10.60171/00005093|ref={{SfnRef|後藤|2000}} }} |
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* {{Cite journal|和書|author=松田誠思|url=http://id.nii.ac.jp/1452/00002222 |title=古代ケルト人の宗教性 : Druidismを中心にして|journal=神戸親和女子大学英語英文学|volume=24|pages=114–137|date=2005-02-28|ref={{SfnRef|松田|2005}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=ジャン・マルカル|author-link=ジャン・マルカル|title=ケルト文化事典|translator=金光仁三郎・渡邉浩司|publisher=大修館書店|date=2002-07-01|isbn=4-469-01272-6|origdate=1999|ref={{SfnRef|マルカル|2002}} }} |
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** {{Cite book|和書|author=金光仁三郎|chapter=ケルト神話概説―剣と森,大地と森のシンボリズム|pages=170–190|title=ケルト文化事典|publisher=大修館書店|date=2002-07-01|isbn=4-469-01272-6|ref={{SfnRef|金光|2002}} }} |
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* {{Cite book|和書|author=リサ・モートン|translator=大久保庸子|title=ハロウィーンの文化誌|publisher=原書房|date=2014-08-28|isbn=978-4-562-05091-8|ref={{SfnRef|モートン|2014}} }} |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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{{Commonscat}} |
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* [[:en:Wheel_of_the_Year|ホィール オブ ザ イヤー/一年の輪・車輪 (英語)]] |
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* [[ハロウィン]] |
* [[ハロウィン]] |
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* [[クロム・クルアハ]] |
* [[クロム・クルアハ]] |
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{{Celts}}{{ハロウィン}} |
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{{DEFAULTSORT:さういんさい}} |
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2024年11月18日 (月) 17:03時点における最新版
サウィン Samhain | |
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現代のアイルランドでサウィンに行われる篝火の準備風景 | |
挙行者 |
歴史的:ゲール人 現在:アイルランド人、スコットランド人、マン島人、ケルティック・ネオペイガン、ウイッカン、UU |
種類 | ペイガニズム(ドルイド教・ウイッカ) |
趣旨 | 夏の終わり、冬の始まり |
日付 | 11月1日(10月31日日没–11月1日日没) |
行事 | 篝火、宴会、仮装、占い |
関連祝日 | ハロウィン、諸聖人の日、死者の日、ガイ・フォークス・ナイト、聖マルティヌスの日 |
サウィン祭[1][2]また単にサウィン[3][4][5][6][2](ゲール語: Samhain[注釈 1]、マン島語: Sauin[注釈 2])は、ケルトにおける1年の最初の祝日(祭日)であり[7][8]、10月31日夜から11月1日にかけて行われる祭りである[3][9]。サウィンはケルトにおける最も大事な祭りであるとされる[7][2]。収穫を先祖の霊に供える収穫祭であるとともに、この世とあの世の境界がなくなり、冥府が人間に見える日であるとされていた[3][7]。
ケルト人は1年を「暗い日々(闇の季節)」である冬(ギアモン)と「明るい日々(太陽の季節)」である夏(サモン)とに二分し[1][3][10][11][4]、更にそれぞれを二分して、1年を4つに分けた[3][11]。古代アイルランドでは、その節目ごとに祝日が設定され、4つの大祭が行われた[12][3][9][1]。サウィンはケルト暦で1年の始まり、すなわち夏の終わりと冬の始まりにあたる[3][13][6]。11月1日のサウィンに対し、残りの3祭は2月1日のインボルグ (Imbolc)、5月1日のベルティナ (Bealtaine)、そして8月1日のルーナサ (Lughnasadh) である[14][9][1]。
また、ケルト人は夜によって日を数え[注釈 3]、節目の祝日の前夜祭は華やかに行われた[7]。サウィンの前夜祭である10月31日には[15][4][16]、捧げものをし、篝火を焚いて魔物を近付けないようにする風習があり[7][17]、これがアングロサクソンの国々における現代のハロウィンの原型と考えられている[7][6][2]。
日本語への転写には表記揺れがあり、サーウィン[18]、サーオィン[19]、サヴァン[3][20]、サウァン[20]、サーウェン[15]、サマイン[17]、サムハイン[5][7][21]、サムヘイン[22]とも表記される。
語源
[編集]サウィン (Samhain) の名称は 古アイルランド語の sam(夏) + fuin(終わり) に由来すると考えられ[23]、「夏の終わり」を意味するとされる[5][2][10]。語源となっているアイルランド語の samrad やガリア語 samon はケルト暦で暖かい季節を意味する[6]。
古アイルランド語ではサヴァン(Samain)と呼ばれた[3]。フランスアン県ブール=カン=ブレス郡のコリニーで出土した青銅板に書かれた暦(コリニー暦)には[24][1]、「サモニオス Samonios」という言葉が書かれていた[25][2][16]。これはアイルランドのサウィンと同じもので、サウィンはケルト社会で広く行われていたものであると考えられている[25]。
10月31日のハロウィンの日は、アイルランド語で Oíche Shamhna[26]、スコットランド・ゲール語で Oidhche Shamhna、マン島語で Oie Houney といい、「11月の夜」を意味する。11月1日や祭り期間のことは、同順に Lá Samhna、Là Samhna、Laa Houney と「11月の日」を意味する。
行事と意味
[編集]ケルトの4つの大祭は農事暦中の重要な区切りであった[9][1]。農作と家畜の成長を神に祈願するとともに、季節の区切りを明確にして人々の集中的な農作業の後の息抜きをもたらすものであった[9]。
サウィンが来ると、農作物が収穫されて貯蔵された[13][10]。家畜は野原から囲い込んで集められ、繁殖のために残された数頭を除いて屠殺され、冬の保存食として備蓄された[13][10]。サウィンでは、10月31日の日没に終えたばかりの収穫を祝い、饗膳が並べられた[13]。最良の収穫物と屠殺された家畜がそれぞれ持ち寄られ、共食に供された[13][10]。ケルト人がアルコールを十分に味わえたのはこの日だけだったとも言われる[27]。
ケルトでは祖先崇拝が行われていた[28]。サウィンは死者の魂が現世に帰ってくる日ともされ[29]、死者たちを迎えるための祭りであった[3]。そのために家の門や扉、窓の施錠が外され、通路には灯が点されて死者が自由に入場できるようにされた[30]。逝去した人の席を用意して、帰ってきた先祖のような良い死者をもてなすための御供えが行われ、晩餐を共にする風習があった[30][31]。また、サウィンは異界と通じるとされる時期であることを利用し、占いが行われた[16]。正しい言葉を発し、正しい行いをすれば未来を占うことができると考えられた[16]。これは死者たちの知恵の恵みを期待したものである[31]。サウィンの一部として競馬が行われることもあった[32]。
また大きな篝火を焚く事が祝祭の一環でもある[16][3][10]。インボルグを除くケルトの大祭には篝火が焚かれた[16]。日没を迎えた前夜祭には全ての家の炉端の火が消され、ドルイドにより「清めの火」である篝火がトラクトガの丘の近くで灯された[27]。篝火には去り行く太陽の季節を惜しみ、冬の太陽の再来が念じられた[10]。この火は各家庭の火の再生源であり、隣人や親戚に依存して生きていたケルト人にとって、共同体の重要性を示すものである[16]。炎の中には屠殺された家畜の骨 "bone" が投げ込まれたため、篝火は英語で bonfire と呼ぶとされる[10]。スコットランドでは、篝火はサムハナグと呼ばれた[33]。
サウィンは行政的にも重要な日であり[27]、大きなタラの集会が行われた[6]。饗宴の合間に年次集会が開かれ、借金の返済や裁判が行われた[27]。ここで重罪とされた者は3日間のうちに処刑された[27]。
サウィンの起源は、冬のための間引き、飼料の用意、および繁殖のために放牧中の家畜を集める行事と関連があると考えられている[6][2]。
ケルト世界とサウィン
[編集]古代アイルランドの世界観は多神教的であり、ケルト人は形ある自然界の事物に霊的生命を与えているのは目に見えない超自然の力によるものであると考えていた[34][35]。そして、自然界と超自然界は自由に交通できると考えられ[7]、ケルト人は多様な超自然の霊たちが住む世界と共存し、霊との交流が行われていた[36]。ケルト人は死後の世界や魂の転生を信じ、霊が旅をしてあの世(ティル・ナ・サウラ、Tír na samhradh「夏の国」)へ行くと考えていた[13]。サウィンは霊的エネルギーが最高潮に達する時期であり、時空の境界が一時的に取り払われ、異界の霊が生者と自由に交流ができるようになると信じられていた[13][6]。開かれた異界から湧き出てくる超自然エネルギーのコントロールには、ケルトの司祭であるドルイドによる仲介者としての力が必要であった[6]。
またケルトでは、「光と闇」、「善と悪」、「豊穣と破壊」、「勇気と恐怖」、「合理と不合理」のような対立要素があり、そういったもので一切が説明できると考えられていた[37][20]。これは例えば、アイルランド神話におけるすべての技術の擬人化である主神ダグダと、大地・肥沃の女神であるが人間に害を与えることもあるモリガンの関係に代表される[20]。これは生命においてもこういった対立する生命原理の相互作用により生じると考えられていた[37][20]。そして、これらは一方が他方を完全に打ち破ることはないとされていた[37]。マカロックやP.W.ジョイスなどによると、サウィンには、様々な対立概念が含まれているとされる[3]。サウィンの日には、万民の利益のために対となる対立要素の境界が希薄になり、互いに結び付けられた[20][10]。
1つ目の対立概念は、自然界の生命の循環と農作業の周期に関わるものである[3]。ケルト暦では、サウィンとベルティナを境として闇が光を、光が闇を圧倒する[10]。サウィンでは作物の成長や実りが終わり、冬枯れの「暗い日々」が現れる[3][10]。しかしこれは生命の終末ではなく、収穫の喜びの思い出と、のちに始まる新たな生命の芽生えに対する期待を含んだものである[3]。同時に農民にとっては労働が終わり休息の始まりでもある[3]。
2つ目の対立概念は、過ぎ行く旧年の穢れを祓い、衰弱した生命に新たなエネルギーを注入して新しい年を復活させようとする祈りが込められたものである[3]。サウィンでは聖なる篝火が焚かれ、それが各家庭の暖炉や竈に分けられた[3]。これはエネルギーの象徴でもあり、同時に家畜たちを悪疫から守るための清めの意味も持っていた[3]。
そして、サウィンは3つ目の対立概念は、あの世とこの世、自然界と超自然界の境界がなくなることである[31]。旧年と新年が入れ替わる10月31日の深夜には、通常の時空間の枠組みが崩れ、地下のシー[注釈 4]が地上に出没するようになる[31]。サウィンの夜には死者がこの世に戻ることも、シーが悪魔に魅入られた人間に乗り移ることも可能とされた[13]。邪悪な霊の振舞いを鎮めるため、ケルトの司祭ドルイドによって祈禱が捧げられ、ときには動物を生贄とすることもあった[31]。
アイルランド神話におけるサウィン
[編集]サウィンは霊的エネルギーが最高潮に達する時期であったため、大きな出来事がよく起こった[6]。
サウィンの日には、供物や生贄が捧げられた。『来寇の書』によると[43]、アイルランドは凶暴な巨人の先住民族(魔族)フォウォレ族に支配されており、生き残った人々は毎年サウィンの日にトウモロコシ、牛乳、子供の3分の2を税として課されていた[27]。『マグ・トゥレドの第2の戦い』でサウィンの日に半神の一族トゥアハ・デ・ダナーンがフォウォレ族を打ち負かし、フォウォレ族は放逐された[27][43]。
また、サウィンにはロマンチックな側面もあった[44]。サウィンはケルトの主神であるダグダが女神モリガンと結婚(交接)する日であるとされる[7][45]。『オェングスの夢』では、ダグダの息子オェングスは、1年間毎晩夢の中で若く美しい少女の訪問を受けて、恋に落ちる[44]。彼女が現れなくなると、オェングスは衰弱し始める[44]。父ダグダが少女探しに力を借りようと、シード(sidh、妖精の丘)[注釈 4]を訪れる[44]。2年後、銀の鎖を付けられた150人の乙女の中にその少女がいることが突き止められる[44]。少女はエタル王の娘カエル[注釈 5]であったが、王は娘を嫁がせるのを拒んだ[44]。そこでダグダと同盟軍はエタル王の宮殿を破壊したところ、実はカエルは魔法にかけられていて毎年サウィンの日に変化し、1年は人間、次の1年は白鳥になることを繰り返すということが明らかにされた[44]。オェングスは白鳥の姿になったカエルを見つけに湖を訪れた[44][46]。現れた白鳥は、湖へ帰すと約束してくれるなら一緒に行っても良いと言い、オェングスは承諾する[46]。オェングスはカエルを抱きしめると、自身も白鳥に変化した[46]。
アルスターの英雄であるクー・ホリンが異界と接触したのはサウィンであったとされる[6]。同様に、フィン神話における超人的な戦争の指揮官であるフィン・マックールもサウィンに異界と接触している[45]。フィンはサウィンの日にで覇王が議長となって開かれるタラの年次集会を訪れる[44]。王は屈強な会衆に、妖精族の人間アイレンの討伐を持ちかけた[44]。サウィンには毎年、アイレンがタラの町にやってきてハープを演奏し、音色を耳にした人間を魔法にかけて眠らせてしまう[44]。またアイレンは口から火の柱を吹いて王宮を焼き払うため、町は9回破壊された[44]。そこでフィンはアイレンの討伐を請け負い、味方から与えられた魔法の槍の先を使って魔法の音色を断ち切り、外套を使って炎を撃退した[44]。アイレンは異界の入口を通り逃げようとするが、フィンが槍を投げつけて絶命させる[44]。フィンはアイレンの首を落とし、王に献上して褒美を得た[44]。
またアイルランド神話には、異界ではこちらの世界と時の流れ方が異なるというテーマの物語が知られるが、これは後にハロウィンの物語にも受け継がれている[47]。『ネラの異界行』では、ネラがサウィンの日に国王アリルから絞首刑にされた死体の足首に輪をかけてくるという課題を与えられ、首尾よくこれを果たす[47]。このときネラは、死んでいるはずの囚人に喉が渇いているから水を飲ませてくれとせがまれる[47]。そこで死体を下ろして、水を飲ませるための家を探し、水を与えた[47]。しかし囚人は水をもらった家の者に水を吹きかけ、その人々は死んでしまった[47]。ネラは死体を絞首台に戻し、国王の要塞へと引き返すが、要塞は妖精軍の放った炎に包まれていた[47]。ネラはクルアハンの丘を抜ける妖精軍を尾行して異界に入り、そこで妻を娶った[47]。ネラは妻から、以前見た炎に包まれる要塞は幻影であったが、国王アリルに警告しなければ次のサウィンに幻影は現実となってしまうことを知らされる[47]。異界とは違い、現世では時間が経っていなかった[47]。結局妖精軍の侵攻を阻止するが、ネラは異界の家族の元に戻って一生を過ごした[47][48]。
異文化との関わりと変遷
[編集]外界から見たケルト文化
[編集]鉄器時代のケルト人は文字を持たなかったため、古代ギリシア・ローマの著述家による記録またはアイルランドとウェールズの民間伝承神話、そして考古学的資料を基にケルト文化が解釈されている[49]。しかし、民間伝承神話にはキリスト教化による影響や、中世の修道士による創作が含まれている[50]。また、古代ギリシア・ローマ人によるケルト文化の記述は「野蛮人」というステレオタイプによる偏見が含まれている[49]。
サウィンのキリスト教化
[編集]現代のイギリスにおけるキリスト教では、10月31日に前夜祭(Vigil)、11月1日に万聖節、11月2日に万霊節と3日間連続して行われるが、これはサウィンを引き継いだものであるとされる[51]。
ケルト人によるサウィンはペイガン[注釈 6]の祭りとされる。7世紀にはヨーロッパ全域にカトリック教会が広まり、宣教師たちは異教徒であるケルト人を改宗させていた[53]。この際、カトリック教会では暦にある祝祭日を消す代わりに、キリスト教の目的のための祭に置き換えようとした[53]。
まずカトリック教会は紀元609年にローマのパンテオンを聖母マリアと殉教者のための聖堂とし、5月13日に「サンタ・マリア・ロトンダ "Santa Maria Rotonda"」と改称した[53]。5月13日はもともと霊を祭るローマ帝国のレムリア最終日で、これが万聖節の端緒となった[53]。8世紀半ばにはローマ教皇グレゴリウス3世が殉教者の祝祭を11月1日に移し、「全ての聖人の日」つまり万聖節(諸聖人の日)とした[54]。これはケルト人が断ち切り難かった異教の祭りであるサウィンを取り込もうとする意図があったのかもしれないともされる[54]。
また紀元1000年ごろ、カトリック教会は11月2日を万霊節 (All Souls' Day) とした[55]。これはカトリック教会では煉獄にいる死者の霊のために祈りを捧げる日だと説明される[54]。これもサウィンをキリスト教へ取り込もうとしたものとされ[55]、サウィンが万霊節と呼ばれることもある[56]。これはローマ帝国のレムリアがカトリックに取り込まれ万聖節となったのと同様である[53]。1550年頃には既に、サウィンは万聖節および万霊節の2つのカトリックの祝祭に取り込まれたが、依然として異教的特徴は維持されていた[57]。
サウィンと現代のハロウィン
[編集]前夜祭は現代のハロウィン (Halloween) であり、これは万聖節(All Hallows)の前夜祭(even、縮約形は e'en)が約まってできた語である[10][51]。ハロウィンの形成には、1346年からヨーロッパで猛威を振るった黒死病による死のイメージ[57]、また、1480年ごろからの魔女狩りが影響を与えた[58]。また、1509年に王位を継承したヘンリー8世やその娘のエリザベス1世は、英国教会をローマ教皇庁から分離しようとし[58]、(教皇側の祝祭である)万聖節を抑制する宣言を発布した[59]。特にエリザベス1世は、「万聖節および万霊節、その前後2晩に鐘を打ち鳴らす迷信」を禁じた[59]。また、1590年のノース・バーウィックの魔女裁判以降、ハロウィンは魔女、猫、箒や悪魔と結び付けられることとなった[59]。
1605年の火薬陰謀事件から、ガイ・フォークスの日が11月5日に行われるようになったが[60]。1647年にはイギリス議会は、万聖節や万霊節の伝統が既にガイ・フォークスの日に組み込まれていることから、ガイ・フォークスの日以外の祝祭を禁じた[61]。現代でもガイ・フォークスの日は「焚火の夜」として親しまれる[61]。また、1582年にカトリック教会ではグレゴリオ暦への切り替えが行われ[62]、イギリスでも1752年に新暦が採用された[63]。しかし既にこの時点で11日の誤差が生じており、ハロウィンは新暦の10月31日に行う人も、「旧サウィン前夜祭」として旧暦の10月31日に当たる新暦の11月11日に行う人も現れた[63]。北アイルランドでは、20世紀初頭まで旧サウィン祭を「オールド・ハレーヴ」と呼んで祝っていた[63]。この11月11日は収穫の守護聖人である聖マルティヌスを祝うマルティヌス祭と同一視され、ヨーロッパ大陸やイギリス諸島で祝われた[63]。イングランドではガイ・フォークスの日が中心的祝祭として残されたが、ケルトの影響が根強いスコットランド・アイルランド・ウェールズ・マン島では、日が近いこれらの祝祭とは異なり、依然としてサウィン前夜祭を引き継いだ10月31日の夜にハロウィンが祝われた[64][65]。
ヴァランシーの誤謬
[編集]イギリス軍の測量技師であるチャールズ・ヴァランシーは、アイルランドに関することを多数記録したが、大部分は誤っていた[5]。1786年にヴァランシーは『謎のアイルランド人についての抜粋集』("Collectanea de Rebus Hibernicis")を発表し、「サウィン Samhain はケルト人の神のことで、別名「バルサブ」という死の主を意味する」という誤った説明を行った[5][注釈 7]。ヴァランシーは野蛮な人々が残忍神々に人身御供を捧げ、激しく燃え盛る篝火の下で邪悪な霊を撃退して秋を過ごしたと夢想した[67]。しかし、実際にはケルトの伝承にはそのような語は登場しない[5]。
それにもかかわらず、ヴァランシーのサウィンに関する説明は信じられ続け、1950年の『20の世紀を超えたハロウィーン』(Halloween Through Twenty Centuries) などには「Samhain、死の主」と言及されていた[68]。さらに1990年代初頭にはアメリカのキリスト教団体がハロウィンは「捧げものとして人間を焼くことで死の主サウィンを宥め、その歓心を買おうとする祝祭」であり、子供たちに祝わせないよう父兄への呼びかけがなされた[68]。
ネオペイガニズムとサウィン
[編集]ケルトの元来の宗教としてのドルイド教は近代初期にアイルランドのドルイドがいなくなることで消失した[69]。しかし、16世紀に古代ギリシアおよび古代ローマ文献が再発見され、ドルイドへの関心が復活した[69]。鉄器時代のケルト人は文字を持たなかったため[35]、ケルトの宗教的風俗はほとんどがローマ人の文献に限られて未知の部分が多く[70][71]、そのため懐古的ロマンティシズムやケルト文化再興の運動を強く刺激した[71]。
現代のドルイド教はウイッカやシャーマニズムと同様、ネオペイガニズム(新異教運動)の一つとされる[72]。ドルイド教はケルト文化再興運動とも重なる[52]。ウイッカの祭祀は、サバトと呼ばれる年8回の季節の祭に行われる[73]。月崇拝を行うウイッカは太陽崇拝を主とするドルイド教とは異なるものであるが[73]、季節の祭を行う点はドルイド教と共通している[74]。
ネオペイガニズムのうちウイッカやドルイド教は、ケルトの4つの節目の大祭に加え、ゲルマンに由来する4つの祭り(小サバト)[注釈 8]を加えた8回の季節の祝祭(サバト)を祝う、「年の車輪[75](年の輪[52]、Wheel of the Year)」が行われる[52][75]。また、周期や循環という考えはドルイドの信念や行動の中心をなし、命や年、1日も循環であるとされる[76]。また、1年におけるサウィンは、一生における老年から死に相当するとされる[77]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ アイルランド語における発音:[ˈsˠəunʲ]、スコットランド・ゲール語における発音:[ˈs̪ãũ.ɪɲ]、英語における発音:/ˈsɑːwɪn/ SAH-win, /ˈsaʊɪn/ SOW-in、スコットランド・ゲール語: Samhuinn, Samhainn(古い表記)
- ^ [ˈsoːɪnʲ]
- ^ つまり、1日の始まりは日没であった[13]。
- ^ a b シー[37](sídh[38]、シード[39])はゲール語で「安らぎ」を意味する語であるとされる[39]。アイルランドの先住民族でありアイルランド神話では神の一族とされるトゥアハ・デ・ダナーンがミレー族(ゲール人の祖先)に追われて丘(塚)に隠れ住み、この丘がシーと呼ばれた[40][37][41]。丘は異界に通じる場所であるとされ[41]、トゥアハ・デ・ダナーンがこの世からあの世に移り住み、霊的存在として生き続ける異界(地下世界)も「シー(シード)」とされる[39][37]。トゥアハ・デ・ダナーンは権力の座を奪われ「妖精」になったという信仰があるが[42]、これはキリスト教の修道士によるものである[40]。また転じて、複数形の sídhe(および aos sídhe)はこの「妖精」を指す語としても用いられるようになった[38][31][42]。
- ^ 湖の妖精エーダインともされる[46]。
- ^ 異教徒を意味する「ペイガン」は古代ローマのパグス(行政単位、田舎)に住んでいた人々を指すパガヌス (paganus) に由来するが、ローマ帝国がキリスト教化されてから、キリスト教に改宗せず土着信仰を信じた人々を指す言葉となった[52]。
- ^ ガリアの神のうち、真に「主」を意味するのはエススである[66]。
- ^ オスタラ(春分)、リーザ/ミッドサマー(夏至祭)、メイボン(秋分)、ユール[75](冬至祭)
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参考文献
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- 船戸英夫 著「九章 民俗(フォークロア) 3 異教信仰」、安東伸介・小池滋・出口保夫・船戸英夫 編『イギリスの生活と文化事典』(7版)研究社出版株式会社、1989年10月30日、896–905頁。ISBN 432737623X。
- 川西進 著「九章 民俗(フォークロア) 4 妖精」、安東伸介・小池滋・出口保夫・船戸英夫 編『イギリスの生活と文化事典』(7版)研究社出版株式会社、1989年10月30日、906–915頁。ISBN 432737623X。
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