「オリガ (キエフ大公妃)」の版間の差分
オリガより分割、Aphaia、霧木諒二。From en:Olga of Kiev; Ghirlandajo, Olga Raskolnikova, Pingos, SD6-Agent, Alex Bakharev et al. |
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[[Image:Княгиня Ольга.jpg|right|thumb|オリガ大公妃]] |
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[[Image:The mother of the Russian sovereign Svjatoslav, Olga along with her escort from the Chronicle of John Skylitzes.jpg|240px|right|thumb|オリガと侍女たち。年代記の挿絵から。]] |
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聖'''オリガ'''(? - [[969年]][[7月11日]])は[[キエフ大公国]]第2代大公[[イーゴリ1世]]の妃。'''キエフのオリガ'''とも。夫の死後、[[キリスト教]]の一教派、[[東方正教会]]の[[洗礼]]を受けた。洗礼名は'''ヘレナ'''。[[ルーシ]]では最初期のキリスト教改宗者であり、ルーシでもっとも早い時期に[[聖人]]とされた一人である。東方正教会では[[亜使徒]]の称号をもつ。 |
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[[プスコフ]]の出身で、[[903年]]頃のちの[[キエフ大公国|キエフ大公]][[イーゴリ1世]]と結婚した。平民の娘であったとも貴族の娘であったともいわれる。『[[ルーシ原初年代記]]』によれば、879年生まれだが、彼女が息子を産んだのがその65年後であることを考えると、この年代は受け入れがたい。イーゴリ1世の死後、オリガは、イーゴリ1世との間の子[[スヴャトスラフ1世]]の摂政としてキエフ・ルーシを統治した([[945年]] - [[963年]]頃)。 |
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オリガは摂政としての統治のはじめ、夫を[[暗殺]]した[[ドレヴリャネ族]]への徹底した復讐を行ったとされる。また税制を改革し、税法を整備すると共に、それまでは地方の諸侯に頼っていた徴税を、大公直轄の貢税所を設置した上、自身が直接任命した徴税人を配置した。 |
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伝承によれば[[945年]]または[[957年]]に[[コンスタンティノポリス]]でキリスト教に改宗した。[[東ローマ帝国]]皇帝[[コンスタンティノス7世]]は、自著『[[儀式の書]]』に、コンスタンティノポリスにおけるオリガ歓迎の儀式の記録を残している。洗礼名へレナはコンスタンティノス7世の皇后へレナ・レカペナにちなむ。スラヴの諸年代記は、洗礼式の際、コンスタンティノス7世をオリガが魅了したなどの恋愛に関する記事を載せているが、実際にはこのとき彼女は相当な高齢であり、またコンスタンティノスも妻帯していたため、このエピソードの史実性は疑わしい。コンスタンティノス7世の記録によれば、オリガの随員もまた全員洗礼を受けた。 |
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洗礼は、東ローマ帝国の援助と支持を獲得し、またその高度な文化を移植しうる人材を獲得するための、たぶんに政治的な動機によるものであったと考えられる。オリガは東ローマ帝国に接近する一方で、[[東フランク王国]]の[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]にも接近し、[[959年]]に使者を送ってラテン教会の僧侶の派遣を求めたと西方の記録は伝えている。それによれば、オリガは「司教と司祭たち」をキエフに任命してくれるようオットーに嘆願したが、これは偽りの申し出だったと記録は非難している。[[メルゼブルクのティトマー]]([[:en:Thietmar of Merseburg|Thietmar of Merseburg]])は、[[マクデブルク]]の初代司教[[プラハのアダルベルト]]([[:en:Adalbert of Prague|Adalbert of Prague]])がキエフの司教として任じられたが、異教徒たちによって追放されたとその年代記に記している。他のいくつかの西方の記録も同様の事件を伝えている。 |
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オリガはキリスト教をルーシに広めようとした。息子[[スヴャトスラフ1世]]にも洗礼を勧めたが、断られた。オリガの時代には、ルーシにおけるキリスト教(東方正教会)への改宗は個人的・散発的なものに留まっていた。大規模な改宗が行われるのは、オリガの孫でその薫陶を受けた[[ウラジーミル1世]]の時代に入ってからのことになる。 |
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2007年1月23日 (火) 05:51時点における版
聖オリガ(? - 969年7月11日)はキエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃。キエフのオリガとも。夫の死後、キリスト教の一教派、東方正教会の洗礼を受けた。洗礼名はヘレナ。ルーシでは最初期のキリスト教改宗者であり、ルーシでもっとも早い時期に聖人とされた一人である。東方正教会では亜使徒の称号をもつ。
プスコフの出身で、903年頃のちのキエフ大公イーゴリ1世と結婚した。平民の娘であったとも貴族の娘であったともいわれる。『ルーシ原初年代記』によれば、879年生まれだが、彼女が息子を産んだのがその65年後であることを考えると、この年代は受け入れがたい。イーゴリ1世の死後、オリガは、イーゴリ1世との間の子スヴャトスラフ1世の摂政としてキエフ・ルーシを統治した(945年 - 963年頃)。
オリガは摂政としての統治のはじめ、夫を暗殺したドレヴリャネ族への徹底した復讐を行ったとされる。また税制を改革し、税法を整備すると共に、それまでは地方の諸侯に頼っていた徴税を、大公直轄の貢税所を設置した上、自身が直接任命した徴税人を配置した。
伝承によれば945年または957年にコンスタンティノポリスでキリスト教に改宗した。東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス7世は、自著『儀式の書』に、コンスタンティノポリスにおけるオリガ歓迎の儀式の記録を残している。洗礼名へレナはコンスタンティノス7世の皇后へレナ・レカペナにちなむ。スラヴの諸年代記は、洗礼式の際、コンスタンティノス7世をオリガが魅了したなどの恋愛に関する記事を載せているが、実際にはこのとき彼女は相当な高齢であり、またコンスタンティノスも妻帯していたため、このエピソードの史実性は疑わしい。コンスタンティノス7世の記録によれば、オリガの随員もまた全員洗礼を受けた。
洗礼は、東ローマ帝国の援助と支持を獲得し、またその高度な文化を移植しうる人材を獲得するための、たぶんに政治的な動機によるものであったと考えられる。オリガは東ローマ帝国に接近する一方で、東フランク王国のオットー1世にも接近し、959年に使者を送ってラテン教会の僧侶の派遣を求めたと西方の記録は伝えている。それによれば、オリガは「司教と司祭たち」をキエフに任命してくれるようオットーに嘆願したが、これは偽りの申し出だったと記録は非難している。メルゼブルクのティトマー(Thietmar of Merseburg)は、マクデブルクの初代司教プラハのアダルベルト(Adalbert of Prague)がキエフの司教として任じられたが、異教徒たちによって追放されたとその年代記に記している。他のいくつかの西方の記録も同様の事件を伝えている。
スヴャトスラフ1世が成人すると、オリガは政治の表舞台から離れた。しかしスヴャトスラフ1世の遠征時には、オリガは孫たちとともに残り、キエフ市を治めた。オリガは986年、ペチュネグ(Pecheneg)族に包囲されたキエフで病没した。
オリガはキリスト教をルーシに広めようとした。息子スヴャトスラフ1世にも洗礼を勧めたが、断られた。オリガの時代には、ルーシにおけるキリスト教(東方正教会)への改宗は個人的・散発的なものに留まっていた。大規模な改宗が行われるのは、オリガの孫でその薫陶を受けたウラジーミル1世の時代に入ってからのことになる。