コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「トヌ・カリユステ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Cewbot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反
 
6行目: 6行目:
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Background = classic
| Born = {{生年月日|1953|8|28}} </br>{{EESSR}} [[タリン]]
| Born = {{生年月日|1953|8|28}} <br />{{EESSR}} [[タリン]]
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| Alias =
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[エストニア音楽アカデミー|タリン音楽院]]</br>[[サンクトペテルブルク音楽院|レニングラード音楽院]]
| School_background = [[エストニア音楽アカデミー|タリン音楽院]]<br />[[サンクトペテルブルク音楽院|レニングラード音楽院]]
| Died =
| Died =
| Origin =
| Origin =

2024年8月29日 (木) 00:14時点における最新版

トヌ・カリユステ
2008年
基本情報
生誕 (1953-08-28) 1953年8月28日
エストニア・ソビエト社会主義共和国 タリン
学歴 タリン音楽院
レニングラード音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者

トヌ・カリユステ(Tõnu Kaljuste, 1953年8月28日 - )は、エストニア指揮者

経歴

[編集]

1953年、エストニア・ソビエト社会主義共和国タリンで生まれた。父・エストニアの合唱指揮者であるヘイノ・カリユステ(1925年 - 1989年)と母・ラジオジャーナリストのリア・カリユステの間に生まれた。幼少期は父が指導を行っていた聖歌隊に所属していた。1971年、タリン音楽高校英語版を卒業。1976年、タリン音楽院でユリ・バリステとロマン・マツォフ英語版に師事し、卒業学位を取得。その後は1978年までレニングラード音楽院で大学院生として学んだ。

1974年、ルネサンス音楽から現代の前衛音楽に至るまでの合唱作品を演奏するアンサンブルであるエッレルヘイン室内合唱団(Ellerhein Chamber choir)の指導者を父から引き継ぐ。1978年から1980年までタリン音楽院で合唱指揮の教授を務め、1980年のベーラ・バルトーク国際合唱コンクールで最優秀指揮者賞を受賞した。エストニア政府からの財政支援を受けて、エッレルヘイン室内合唱団を常設のアンサンブルとし、1981年にエストニア・フィルハーモニー室内合唱団英語版へと改名した。また、1978年から1995年までエストニア国立歌劇場英語版でも指揮を担当した。

1980年10月、著名なエストニアの知識人40名による、エストニア語を保護し、エストニアのクレムリンロシア化政策に抗議する公開書簡(40人の手紙英語版)に署名を行った[1]。署名者はまた、エストニアのパンク・ロックバンドであるプロペラ英語版の公演の禁止に起因して一週間前に発生した、タリンにおける若者の抗議活動に厳しく対処する共和国レベルの政府に対しても抗議の意を表明した[1]

1991年にエストニアが独立すると、国際的な演奏と録音に対する障壁の多くが解除される。カリユステは、ヴェリヨ・トルミスエリッキ=スヴェン・トゥールヘイノ・エッレルアルヴォ・ペルトなどのエストニアの作曲家の作品を録音し、ECMレコードから出版を行い、一躍著名となる。1993年、タリン室内管弦楽団を結成。また、1994年から2000年にかけてスウェーデン放送合唱団の主席指揮者を務め、1998年から2000年まではオランダ室内合唱団英語版の指揮者も務めた。

エストニアの作曲家の他に、カリユステはベートーヴェンペンデレツキアルフレート・シュニトケラフマニノフモーツァルトセルゲイ・タネーエフヴィヴァルディなどの作品も録音している。

2014年、カリユステは『エストニアの世界』で、アルヴォ・ペルトに次いで2番目に優れたエストニア人として名前が挙がった[2]

家族・親族

[編集]

1980年に女優のユーレ・カリユステ英語版と結婚したが、後に離婚した[3]

外部リンク

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b Vahtre, Lauri (2005年10月28日). “Ajaleht Pravda ja 40 keisri hullu” (Estonian). Postimees. 2019年8月25日閲覧。
  2. ^ “Top 12 most outstanding Estonians in the world 2014”. Estonian World. (1 February 2015). http://estonianworld.com/people/top-12-outstanding-estonians-world-2014/ 13 February 2015閲覧。 
  3. ^ Postimees: Tonu Kaljuste hulgas Ulle, kosis Kadri. 10 September 2010. Retrieved 21 November 2016.