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「ヨシップ・ブロズ・チトー」の版間の差分

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'''ヨシップ・ブロズ・チトー''' / '''ヨシプ・ブローズ・ティトー'''({{Lang-sh|Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито}} {{IPA-sh|jǒsip brôːz tîto||Sr-JosipBrozTito.ogg}}、[[1892年]][[5月7日]] - [[1980年]][[5月4日]])は、[[ユーゴスラビア]]の[[軍人]]・[[政治家]]。本名は'''ヨシップ・ブロズ'''({{Lang-sh|Josip Broz / Јосип Броз}})。[[第二次世界大戦]]時[[枢軸国]]の支配下となった[[ユーゴスラビア王国]]において[[パルチザン (ユーゴスラビア)|人民解放軍(パルチザン)]]の総司令官として枢軸国への抵抗運動を指揮し、戦後は成立した[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]](ユーゴスラビア人民共和国)において初代首相(初代国防相も兼任)、第2代大統領(後に終身大統領)、[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]の指導者を務めた。[[第二次世界大戦]]からその死まで、最もユーゴスラビア国内に影響を与えた政治家であり、「[[ユーゴスラビア元帥|チトー(ティトー)元帥]]」という呼び名でも知られている。
'''ヨシップ・ブロズ・チトー''' / '''ヨシプ・ブローズ・ティトー'''({{Lang-sh|Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито}} {{IPA-sh|jǒsip brôːz tîto||Sr-JosipBrozTito.ogg}}、[[1892年]][[5月7日]] - [[1980年]][[5月4日]])は、[[ユーゴスラビア]]の[[軍人]]・[[政治家]]。本名は'''ヨシップ・ブロズ'''({{Lang-sh|Josip Broz / Јосип Броз}})。[[第二次世界大戦]]時[[枢軸国]]の支配下となった[[ユーゴスラビア王国]]において[[パルチザン (ユーゴスラビア)|人民解放軍(パルチザン)]]の総司令官として枢軸国への抵抗運動を指揮し、戦後は成立した[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]](ユーゴスラビア人民共和国)において初代首相(初代国防相も兼任)、第2代大統領(後に終身大統領)、[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]の指導者を務めた。[[第二次世界大戦]]からその死まで、最もユーゴスラビア国内に影響を与えた政治家であり、「[[ユーゴスラビア元帥|チトー(ティトー)元帥]]」という呼び名でも知られている。


== 略歴・概要 ==
== 年表 ==
* [[1920年]] ユーゴスラビア共産党に加入。
* [[ファイル:Dinar 5000 s.jpg|サムネイル|[[1987年|1985年]]の5000[[ディナール]]通貨より]][[1920年]] ユーゴスラビア共産党に加入{{Sfn|恒文社|p=59}}
* [[1934年]] ユーゴスラビア共産党の[[政治局]]の一員となる('''チトー'''という通称を使い始める)。
* [[1934年]] ユーゴスラビア共産党の[[政治局]]の一員となる('''チトー'''という通称を使い始める){{Sfn|恒文社|p=59}}
* [[1941年]][[7月4日]] [[ドイツ国防軍]]への武力抵抗を呼びかけ。
* [[1941年]][[7月4日]] [[ドイツ国防軍]]への武力抵抗を呼びかけ{{Sfn|恒文社|p=20}}
* [[1941年]] - [[1945年]] 人民解放軍([[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]])の総司令官を務める
* [[1941年]]6月 人民解放軍([[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]])の総司令官に就任{{Sfn|柴(2006)|pp=128-129}}
* [[1945年]] - [[1953年]] {{仮リンク|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相|en|Prime Minister of Yugoslavia}}兼国防相(首相職は、1963年6月29日まで継続)
* [[1945年]][[3月7日]] {{仮リンク|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相|en|Prime Minister of Yugoslavia}}に就任{{Sfn|カルデリ|p=86}}{{Sfn|恒文社|p=59}}
* [[1948年]] [[ヨシフ・スタリン|ターリン]]と断絶。([[コミンフォルム]]から追放[[東ヨロッパ|東欧]]で「[[チトー主義|チトー主義者]]」狩り)
* [[1948年]][[6月28日]] ユラビア共産党、[[コミンフォルム]]から除名されスタリンと対立{{Sfn|クリソルド|p=255}}。
* [[1953年]][[1月13日]] - [[1980年]] {{仮リンク|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領|en|President of Yugoslavia}}。
* [[1953年]][[1月13日]] {{仮リンク|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領|en|President of Yugoslavia}}に就任し、首相を兼任する{{Sfn|橋本(1967)|p=219}}{{Sfn|クリソルド|pp=262-263}}。
* [[1961年]] ユーゴスラビアの[[ベオグラード]]で、[[非同盟諸国首脳会議]]を開催。[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥ=ナーセ|ナセル]]、[[インド]]の[[ジャワハルラー・ネルー|ネルー]]らと会談
* [[1961年]][[9月1日]]-[[9月6日]] ユーゴスラビアの[[ベオグラード]]で、[[非同盟諸国首脳会議]]を開催{{Sfn|橋本(1967)|p=270}}{{Sfn|ヴィルハルル|pp=289-291}}
* [[1963年]][[47日]] [[:en:President of Yugoslavia|終身大統領]]となる。
* [[1974年]][[516日]] [[:en:President of Yugoslavia|終身大統領]]となる{{Sfn|恒文社|p=60}}
* [[1980年]][[5月4日]]、[[スロベニア]]の[[リュブリャナ]]の病院で死去。
* [[1980年]][[5月4日]]、[[スロベニア]]の[[リュブリャナ]]の病院で死去{{Sfn|恒文社|p=60}}
[[第二次世界大戦]]後、チトーはユーゴスラビアの首相(1944~1963年)、[[ユーゴスラビア#%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%80%85|大統領]](1953~1980年、1974年以降は終身大統領)、そして[[ユーゴスラビア人民軍]]の最高位である[[ユーゴスラビア元帥]]を務めた。彼は[[コミンフォルム]]の創設に携わった一人であるにもかかわらず、1948年に[[ソビエト帝国|ソビエトの覇権主義]]に反抗した最初のコミンフォルム会員となった。のちスターリンと決別し、自国の特異な[[自主管理社会主義]]を実践し、[[市場経済]]の導入も実施。[[識字|識字率]]は90%を超え、無料の医療を受けられた。[[ブランコ・ホルヴァト]]を主体とした[[経済学者]]による「[[イリュリア・モデル]]」と呼ばれる[[市場社会主義]]を推進し、[[言論の自由]]を認め、[[人民民主主義|半独立的な野党の結成]]を承諾した。

外交政策として、彼は[[非同盟運動]]を主導し[[インド]]の[[ジャワハルラール・ネルー]]、[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ガマル・アブデル・ナセル]]、[[ガーナ]]の[[クワメ・エンクルマ]]、[[インドネシア]]の[[スカルノ]]と共に、多くの国際決議で棄権を行った。

一部の歴史家、チトーの批判家は、彼を[[権威主義]]的な指導者と見なしており、チトー[[個人崇拝|個人の崇拝]]を批判している。一方、[[チトー主義]]を信奉する人達、[[ユーゴノスタルギヤ|ユーゴノスタルジア]]を信奉する人達からは、統一の象徴としてチトーを尊敬している。他の研究家は、彼を[[開発独裁]]、[[慈悲深い独裁者]]だと見なす意見もある。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[ファイル:Tito hiša1.JPG|サムネイル|200ピクセル|チトーの生家|左]]
チトーは、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の構成国家である[[クロアチア=スラヴォニア王国]]の領内、今の[[クロアチア]]の北西部、[[ザゴリェ]]地方 ([[:en:Hrvatsko Zagorje|Hrvatsko Zagorje]]) [[クラピナ=ザゴリエ郡]]の[[クムロヴェツ]]で生まれた。父親のフラニョは[[クロアチア人]]で、母親のマリヤは[[スロベニア]]人で、彼らの7番目の子供であった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの[[小学校]]に入学し、[[1905年]]に[[卒業]]している。
[[クロアチア人]]の父、[[スロベニア人]]の母のもと、[[クロアチア]]の{{仮リンク|クムロヴェツ|en|Kumrovec}}に生まれる{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=24-25}}{{Sfn|ゲズ|p=207}}{{Sfn|恒文社|p=8}}。チトーの戸籍上の正しい生年月日は、1892年5月7日であるが、小学校の在学証明書には5月1日生まれという記録や、軍隊時代の書類では、5月25日生まれという記録もある{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=15-16}}。ユーゴスラビアでは、5月25日をチトーの誕生日として祝っていた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=15-16}}。チトーは15人きょうだいの7番目の子供であるが、15人中8人が幼児になるまでに死去してしまう{{Sfn|高橋(1982)|pp=40-41}}{{Sfn|恒文社|p=14}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=17}}。チトーはクロアチア領生まれであるが、幼少期は[[クロアチア語]]よりも、母親の母国語である[[スロベニア語]]を得意としており、小学校時は、クロアチア語の授業に苦労するも、総じて学校の成績は良好だった{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=18}}{{Sfn|デディエ|p=16}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=42-43}}。

小学校卒業後、チトーは、母方の親戚の下で牧畜業に勤務するも、すぐに退職し、今度は父親の紹介で、親戚が経営する飲食店にて勤務する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=19}}{{Sfn|高橋(1982)|p=44}}。その飲食店も退職し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への移住を検討するが資金を捻出できず断念した{{Sfn|高橋(1982)|p=44}}。チトーは、その後、1907年から1910年まで錠前工の見習いとなる{{Sfn|恒文社|p=8}}{{Sfn|高橋(1982)|p=44}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=19}}。当時、錠前工は、[[錠前]]だけでなく[[自転車]]や[[猟銃]]などを作る何でも屋で、機械工に近い職業だった{{Sfn|高橋(1982)|p=44}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=24-25}}。1910年9月に、錠前工の見習いを修了し、[[ザグレブ]]で金属労働組合に参加する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=22}}。1910年10月には、{{仮リンク|クロアチア・スラヴォニア社会民主党|en|Social Democratic Party of Croatia and Slavonia |label=社会民主党}}に入党するがこれといった活動はしなかった{{Sfn|デディエ|p=24}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|p=25}}。チトーは職を転々とし、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の領内を動き回り、労働者の集会に出席するなど社会主義に傾倒していった{{Sfn|恒文社|p=9}}。1913年、チトーは兵役年齢に達したため、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー帝国軍]]に入隊し、所属する連隊の中では最年少の軍曹になる{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=26}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=56-57}}。チトーは運動神経に秀でており、[[フェンシング]]、[[乗馬]]、[[体操]]を得意とし、特にフェンシングについては、軍の大会で2位に輝いたことがある{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=27}}{{Sfn|ゲズ|pp=210-211}}。

=== 第一次世界大戦時代 ===
1914年、チトーは歩兵として、[[セルビア王国]]が支配する[[ベオグラード]]の攻撃に加わった([[1914年のベオグラード砲撃]]) {{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=24-25}}。このベオグラードへの攻撃については、チトーは[[セルビア人]]に配慮して、後に経歴から抹消させた{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=24-25}}。チトーは、自身は社会主義者であるため、ロシア人と戦いたくないと意思表明したため、[[ペトロヴァラディン|ペトロヴァラディン要塞]]に収監された{{Sfn|恒文社|pp=9-10}}。結局1915年春ロシア戦線の[[ザカルパッチャ州|カルパチア地方]]へと転属させられ、同地の[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]の騎馬部隊と戦うも、槍で突かれ重傷を負い、捕虜となった{{Sfn|高橋(1982)|pp=56-57}}{{Sfn|恒文社|pp=9-10}}{{Sfn|ゲズ|pp=210-211}}。

負傷したチトーは、13か月間治療入院する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=29}}。傷が癒えたチトーは、[[カザン]]近郊、[[ウラル山脈]]、[[エカテリンブルク]]、[[ペルミ]]など、[[ロシア帝国]]の捕虜収容所を転々とする{{Sfn|ゲズ|pp=210-211}}。チトーは捕虜収容所では、錠前工という経歴を活かし、鉄道建設や修理の仕事に従事した{{Sfn|デディエ|pp=34-35}}。鉄道建設・修理の仕事に従事している際、チトーは、[[国際赤十字]]から捕虜に割り当てられる食事を、鉄道課長が横領していることを知ったため、告発するも、恨みを買ったため投獄されてしまう{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=30}}{{Sfn|高橋(1982)|p=58}}{{Sfn|デディエ|pp=34-35}}。

1917年2月、[[2月革命 (1917年)|2月革命]]が起き、捕虜の身であったチトーは、脱走し、[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]へと向かった{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=31}}。ペトログラードで、[[七月蜂起]]に参加し、[[フィンランド]]国境付近まで逃亡し、逮捕される{{Sfn|高橋(1982)|pp=59-60}}。逮捕されたチトーはシベリアの収容所に送還される際、[[十月革命]]が起き、[[オムスク]]で[[赤軍|赤衛隊]]に入隊する{{Sfn|高橋(1982)|pp=59-60}}{{Sfn|恒文社|p=10}}{{Sfn|ゲズ|pp=210-211}}。

=== 戦間期 ===
[[ファイル:Mladi Josip Broz Tito.jpg|サムネイル|176x176ピクセル|[[1927年]]のチトー]]
チトーは1920年9月、祖国へと帰国した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=32}}{{Sfn|デディエ|pp=39-40}}。帰国したチトーであったが、既に母は亡くなっていた{{Sfn|高橋(1982)|p=61}}。オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、セルビア王を中心とした[[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国]]が樹立され、クロアチアはセルビア人の支配下に置かれており、経済状態は悪く、不安定な状況だった{{Sfn|高橋(1982)|pp=67-68}}。チトーは、[[ザグレブ]]の機械工場に就職し、この時[[ユーゴスラビア共産主義者同盟|ユーゴスラビア共産党]]に入党する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=41}}。チトーは間もなく退職し、その後は様々な職を転々とし、主に[[労働組合]]の立ち上げや、[[ストライキ]]の中心的実行者となって賃上げを勝ち取るなどしていた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=43-53}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=70-71}}。チトーは、1927年3月にザグレブで、金属労働組合の専従書記となるが、同年6月逮捕されてしまう{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=54-55}}{{Sfn|高橋(1982)|p=73}}。逮捕されたチトーであったが、逮捕理由も明らかにされず、裁判も始まる様子がなかったため、彼は[[ハンガーストライキ|ハンスト]]によって、裁判を受けることができ、懲役5か月の実刑判決が下った{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=56}}。1928年、釈放されたチトーは、皮革加工の労働組合の書記を兼任し、1928年2月25日から26日に、ザグレブ市で第8回ユーゴスラビア共産党党会議が開催され、チトーはザグレブ地区委員会の委員に就任する{{Sfn|デディエ|p=60}}{{Sfn|ゲズ|pp=211-212}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=57-60}}。1928年のメーデーでは、チトーはデモ行進の群衆を分散させ、警察をかく乱した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=57-60}}。これが原因で、チトーは再度逮捕される{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=57-60}}。

1928年6月20日、クロアチア共和国農民党[[スチェパン・ラディチ]]が議会で銃撃され、後日死亡した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=60-61}}。この事件を受けて、[[ザグレブ]]では、政府打倒のデモ運動が起き、チトーは地区委員としてこのデモを扇動した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=60-61}}{{Sfn|デディエ|p=63}}。チトーは1928年8月4日逮捕される{{Sfn|高橋(1982)|p=78}}{{Sfn|ゲズ|pp=211-212}}{{Sfn|デディエ|p=63}}。逮捕される8年ほど前の1920年12月には、国家保護法によって共産党は非合法化されており、共産主義の宣伝も禁じられており、チトーはこれに違反していた{{Sfn|ゲズ|pp=211-212}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=62-63}}。チトーは裁判に掛けられ、起訴内容を認めたが、自身に罪があるとは言えないと述べた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=62-63}}。1928年11月14日、1921年から1928年にかけて共産主義の宣伝活動を行なったとして懲役5年の実刑判決が下った{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=64}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=25-26}}{{Sfn|高橋(1982)|p=86}}{{Sfn|恒文社|p=6}}{{Sfn|ゲズ|pp=211-212}}{{Sfn|デディエ|p=70}}。

服役中のチトーは、おとなしくしていたわけではなく、[[やすり]]で鉄格子を削って脱走を試みるなどしていた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=64}}。理由は不明だが、脱走間近になって、チトーは別の監獄に移されたため、脱走を断念した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=64}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=89-90}}{{Sfn|デディエ|pp=75-76}}。また、チトーは刑務所では機械工の職務を担い、刑務所所長の指示であれば、修理業務のために街を往来することができた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=71}}。これにより、塀の外にいる同志と連絡を取っていた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=71}}{{Sfn|ゲズ|pp=211-212}}。チトーが服役中の1929年1月6日には[[アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)|アレクサンダル1世]]によって、独裁政治が敷かれ、出版物も検閲されることになっていた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=68}}{{Sfn|高橋(1982)|p=97}}{{Sfn|デディエ|p=71}}。

1933年11月、チトーは出所し、出身地へ戻った{{Sfn|デディエ|p=79}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=78-79}}。出所後のチトーは、毎日官憲との面談が義務付けられていたが、これを無視して脱走する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=78-79}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=102-103}}{{Sfn|デディエ|pp=80-81}}。この時から、偽名であるチトーを名乗るようになる{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=78-79}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=102-103}}。チトーという名前は、思い付きでつけたというのがチトー本人の説明であるが、チトーの出身地ではよくある名前で、後年[[モスクワ]]では、ワルターという名前で知られていた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=78-79}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=25-26}}{{Sfn|デディエ|p=82}}。また、チトーは髪の毛を赤く染め、髭を蓄え、眼鏡をかけ、偽名も複数使い分けた{{Sfn|高橋(1982)|pp=102-103}}{{Sfn|恒文社|p=16}}。

当時、ユーゴスラビア共産党の指導部は、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]に所在し、しかし党指導部は、モスクワの指導下にあった{{Sfn|高橋(1982)|p=104}}。ユーゴスラビア国内で有事が起きた場合、ユーゴスラビアからウィーンに適切な指示を乞い、その後ウィーンは、モスクワに指示を仰ぎ、モスクワからウィーンを経て、ユーゴスラビア国内へと指示が到達するという形態になっていた{{Sfn|高橋(1982)|p=104}}。時間がかかり、意思決定をする人間はユーゴの情勢に精通していない人間が意思決定をしているという問題や、モスクワからの指示がユーゴスラビア国内に到達する頃には、情勢が変わっているため役に立たないことや、これら指令は人力によるところがあったため、連絡係が逮捕されてしまうということもあった{{Sfn|高橋(1982)|p=104}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=79-80}}。

チトーは、ウィーンにあるユーゴスラビア共産党の中央委員会に招かれ、党中央委員(ウィーン)とユーゴスラビア国内の党組織の連絡を緊密化させる任務を帯びた{{Sfn|橋本(1967)|p=131}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=80}}。1934年8月、チトーは[[中央委員会|党中央委員会]][[政治局]]局員に選出された{{Sfn|橋本(1967)|p=131}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=81}}。1934年9月から11月にかけて、[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[スロベニア]]、[[ダルマチア]]及び[[モンテネグロ|ツルナゴーラ]]で地方会議が開催され、チトーは同会議にすべて参加し、ユーゴスラビア国内の情勢に精通するように努めた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=81}}。

1934年12月24日から25日にかけて、[[リュブリャナ]]で第4回全国党大会が開催され、チトーは投票によって中央委員会委員に再選出された{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=83}}。大会後にユーゴスラビア共産党に政治局が設けられ、[[モスクワ]]勤務が命じられた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=83}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=104-105}}。

チトーはモスクワでは、[[コミンテルン]]のバルカン局書記局局員に就任する{{Sfn|橋本(1967)|pp=131-132}} {{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=85}}。1935年のコミンテルン第7回会議にも参加し、ユーゴにおける諸事件の報告を行なった{{Sfn|橋本(1967)|pp=131-132}} {{Sfn|デディエ|p=95}}。チトーは、1936年10月には、モスクワを離れユーゴスラビアへと戻る{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=97}}。なお、ユーゴスラビアへ戻るまでに、チトーは[[パリ]]で[[スペイン内戦]]に向けて、義勇軍の組織と動員の特別任務にあたった{{Sfn|高橋(1982)|p=112}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=27-28}}{{Sfn|ゲズ|pp=208-209}}。チトーは合計1600人ほどのユーゴスラビア人の義勇兵をスペインへと派遣した{{Sfn|恒文社|p=16}}{{Sfn|ゲズ|pp=208-209}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=27-28}}{{Sfn|デディエ|pp=102-103}}。

チトーは、中央委員会組織局書記の任務を帯びており、分派した[[ユーゴスラビア共産党]]内の対立を収め、再組織しなければならなかった{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=93-94}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=97}}{{Sfn|恒文社|p=16}}。チトーは、次々に古参幹部を追放した{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=27-28}}。時には、権力を得るためには、同志の抹殺という手段も辞さなかった{{Sfn|ゲズ|pp=208-209}}。その代表例としては、ユーゴスラビア共産党書記長の{{仮リンク|ミラン・ゴルキッチ|en| Milan Gorkić }}の追い落としがある。チトーは、ゴルキッチについて、批判的な報告をモスクワに上申しており、これが原因でゴルキッチは、1937年に、モスクワに召喚され、銃殺刑になった{{Sfn|ゲズ|pp=208-209}}{{Sfn|橋本(1967)|pp=131-132}}。なお、チトーによると、ゴルキッチとは常日頃から反目しあい、ゴルキッチが手配した偽装パスポートを使用した同志は、ユーゴスラビア国境を無事に超えることはできなかったと述べ、ゴルキッチの方が追い落としを図っていたという証言や、ゴルキッチの逮捕理由は人づてに聞いたとして、チトー自身の証言ではゴルキッチ追い落としに関与していなかったとしている{{Sfn|高橋(1982)|pp=112-113}}。


1937年年末、チトーは、銃殺刑になったゴルキッチに代わり、コミンテルンよりユーゴスラビア共産党中央委員会書記長に任命された{{Sfn|橋本(1967)|pp=131-132}}{{Sfn|柴(2021)|pp=110-111}}。
[[1907年]]、のどかな田舎から一転して、[[シサク]]の錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは[[労働運動]]に関心をもつようになり、初めて[[メーデー]](5月1日、[[労働者]]の日)を祝った。[[1910年]]、[[冶金]]工の[[労働組合]]に加入すると同時に、クロアチアと[[スラヴォニア]]の[[社会民主党]]にも加わっている。[[1911年]]から[[1913年]]にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働く。
=== 従軍からロシア革命との出会いまで ===
[[1913年]]の[[秋]]から、[[徴兵制度|徴兵]]により兵役に就いており、[[1914年]]5月には、軍の主催する[[ブダペスト]]の[[フェンシング]]大会で準優勝し、[[銀メダル]]をもらっている。[[第一次世界大戦]]の勃発により、[[ヴォイヴォディナ]]にある[[ルマ]](現在は[[セルビア]]領)に送られた。チトーは、そこで[[反戦運動|反戦争]]的な宣伝を流布したことで[[逮捕]]され、[[ペトロヴァラディン]]要塞に[[収監]]された。[[1915年]]、再び[[ロシア帝国|ロシア]]を攻撃するために、[[中央ヨーロッパ]]の[[ガリツィア]]地方に送られた。[[ブコヴィナ]]では[[榴弾]]砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシア帝国艇庫の[[捕虜]]となった。


書記長に就任したチトーであったが、この時の[[ユーゴスラビア共産党]]の党員数は1500名ほどしかおらず、権力基盤も弱かった{{Sfn|ゲズ|p=213}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|pp=27-28}}。チトーは書記長として1937年から1940年にかけて、共産党の思想強化と組織強化を行い、チトーは、組織強化として下記を提示した{{Sfn|橋本(1967)|p=132}}。
[[病院]]で数ヶ月療養したのち、[[1916年]]の秋、[[ウラル山脈]]にある労働収容所に送られた。[[1917年]]4月、チトーは戦争捕虜たちの[[デモ]]を組織したとして逮捕された。後に脱走して、[[1917年]]の[[7月16日]]から[[7月17日|17日]]にかけて起きた[[ペトログラード]]での反政府デモ([[七月蜂起]])に参加している。[[警察]]から逃れるため、[[フィンランド大公国]]まで逃げたが、結局捕まり、[[ペトロパブロフスク]]の要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に[[逃亡]]した。[[1917年]]11月、[[シベリア]]の[[オムスク]]で[[赤軍]]に参加した。[[1918年]]春には、[[ボリシェヴィキ|ロシア共産党]]へ参加した。
#ユーゴスラビア共産党中央委員会本部は、外国ではなくユーゴスラビア本部に置くこと{{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}
#党内の分派を直ちに停止し、統一すること{{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}
#ユーゴスラビア共産党は海外からの財政援助を受けないこと{{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}
#入党希望者を労働者と農民に拡充すること(それまでは入党予定者の周囲の評判で入党可否を決定していた){{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}
#党員に対して社会規範を示すこと{{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}
#ユーゴスラビア共産党の組織をユーゴ全国に設立する。{{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}
#党員に対して、適した仕事を見つけること{{Sfn|高橋(1982)|pp=116-121}}


=== 党活動~第二次世界大戦 ===
=== 第二次世界大戦 ===
[[ファイル:Marshal Tito during the Second World War in Yugoslavia, May 1944.jpg|サムネイル|第二次世界大戦中のチトー(右)]]
[[ファイル:Marshal Tito during the Second World War in Yugoslavia, May 1944.jpg|サムネイル|第二次世界大戦中のチトー(右)]]
1939年9月1日、ドイツ軍が[[ポーランド侵攻|ポーランドを侵攻]]し、[[第二次世界大戦]]が開戦する。この頃になると、チトーらユーゴスラビア共産党の党員数は約1万2000人を擁しており、[[ナチス・ドイツ]]に対して反発していたものの、ソ連とドイツとの間で[[独ソ不可侵条約]]が締結されていたこともあり、大々的な[[反ファシズム]]運動を実行できないでいた{{Sfn|柴(2021)|pp=96-97}}。
{{See also|ユーゴスラビア人民解放戦争}}
そんななか、[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア王国政府]]は、1941年3月[[日独伊三国同盟]]に加盟する{{Sfn|柴(2021)|pp=86-87}}。しかし、同同盟の加盟を知ったユーゴ国民は、反対運動を繰り広げた{{Sfn|柴(2021)|pp=86-87}}。1941年3月26日から27日にかけて、ユーゴスラビア王国軍の{{仮リンク|ドゥシャン・シモヴィッチ|en| Dušan Simović}}将軍は、クーデターを起こし、政権を掌握した{{Sfn|柴(2021)|pp=86-87}}。シモヴィッチは、[[日独伊三国同盟|三国同盟]]を破棄せず、4月には[[ソビエト連邦|ソ連]]と{{仮リンク|友好不可侵条約|ru|Договор о дружбе и ненападении между СССР и Королевством Югославия}}を締結した{{Sfn|柴(2021)|pp=86-87}}。どちら付かずの態度を取ったシモヴィッチであったが、1941年4月6日、ドイツ軍は[[ベオグラード]]を空爆し、ユーゴスラビア国王軍は4月17日に降伏してしまう([[ユーゴスラビア侵攻]]){{Sfn|柴(2021)|pp=86-87}}{{Sfn|恒文社|p=18}}。ユーゴスラビア王国政府の[[ペータル2世 (ユーゴスラビア王)|ペータル2世]]らは、一旦[[カイロ]]を経由し、[[ロンドン]]に[[亡命政府#過去の亡命政府|亡命政府]]を樹立した{{Sfn|柴(2006)|p=127}}{{Sfn|柴(2021)|pp=87-88}}{{Sfn|高橋(1982)|p=143}}。ユーゴスラビアは、イタリア軍とドイツ軍によって、分割統治された{{Sfn|柴(2006)|p=127}}。
[[1920年]]に帰国して[[ユーゴスラビア共産党]]に参加。[[1928年]]に逮捕され、5年間投獄された。[[1934年]]以降[[コミンテルン]]で働き、[[1936年]]発生した[[スペイン内戦]]では、[[国際旅団]]の「[[ゲオルギ・ディミトロフ|ディミトロフ]]」大隊の指揮官の一人として従軍した。チトーの最初の妻はヘルタ・ハースで、第1子が[[1941年]]の5月に生まれている。


この頃、チトーは[[ザグレブ]]にいたが、4月10日の会合で、中央委員会付の軍事委員会が作られ、チトーが委員長となり、武器の調達や、軍事教練を施した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=134-135}}。1941年4月下旬に党中央委員会の本部をドイツ軍によって掌握されたザグレブから、無政府状態の[[ベオグラード]]へと移転させた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=135}}{{Sfn|橋本(1967)|p=138}}{{Sfn|橋本(1967)|p=138}}。1941年6月22日[[独ソ戦|独ソ戦勃発]]後、中央委員会政治局会議を開催し、枢軸軍に対して武装蜂起を行なうことを決議し、チトーを最高司令官とする[[パルチザン (ユーゴスラビア)|ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊]]の最高司令部が発足した(以降、パルチザンと表記){{Sfn|柴(2021)|pp=96-97}}{{Sfn|柴(2006)|pp=128-129}}{{Sfn|橋本(1967)|pp=34-37}}。ユーゴスラビア共産党の党員は、ユーゴ全国各地で武装蜂起を呼びかけた{{Sfn|柴(2021)|pp=96-97}}。しかし、チトーをはじめとする政治局と最高司令部は、次第にベオグラードでの活動が難しくなったため、1941年9月16日、セルビア西部へと移転した{{Sfn|柴(2021)|pp=97-98}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=138-139}}{{Sfn|橋本(1967)|p=39}}。セルビア西部を選択した理由は、森林の多さと丘陵地のため、いざという時に隠れやすかったこと、既にチトーとは別に抵抗運動を行なっていた集団がいたためである{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=138-139}}。これ以後、チトーは各地を転戦し、1944年10月までベオグラードに帰還することはなかった{{Sfn|柴(2006)|pp=128-129}}。
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]12月、[[ドイツ]]軍によるユーゴスラビア占領下で、抵抗運動の指導者となったチトーは、[[社会民主主義|中道左派]]的な臨時政府の設立を宣言した。この間、チトーの活動は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって直接的に支援されており、[[1944年]]6月には、チトーの[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]を支援するために、[[バルカン半島]]で活動する[[イギリス空軍]]部隊が編成されている。しかし、チトーが[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に接近しようとすることに対して、司令部にいる[[イギリス軍]]や[[アメリカ軍]]の[[将校]]とたびたび険悪になった。[[戦争]]が終結すると、これらの[[軍隊]]は撤収し、チトーら革命パルチザンらはユーゴスラビア全域の支配権を確立した。[[1946年]][[1月31日]]、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた。ユーゴスラビア人民共和国の初代首相にはチトーが選ばれ、[[:en:List of heads of state of Yugoslavia#SFR Yugoslavia|国民議会幹部会議長]]([[元首|国家元首]]に相当)には、[[:en:Ivan Ribar|イヴァン・リヴァル]] (Ivan Ribar) が選出された。


1941年9月と10月、チトーは、旧ユーゴスラビア王国軍の軍人、[[ドラジャ・ミハイロヴィッチ]]率いる[[チェトニック]]との対談を行ない、[[枢軸国|枢軸軍]]に対しての共闘を持ち掛けるが、両者の話し合いは平行線をたどり、合意に至らなかった{{Sfn|橋本(1967)|pp=138-140}}{{Sfn|クリソルド|p=227}}{{Sfn|柴(2021)|pp=100-101}}。チトーの[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]側は積極的に枢軸軍に戦いを仕掛ける方針であったが、ミハイロヴィッチは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]がユーゴスラビアに到来するまで待機する方針であった{{Sfn|柴(1993)|p=17}}{{Sfn|柴(2021)|p=96}}{{Sfn|柴(2006)|pp=128-129}}。ミハイロヴィッチ率いるチェトニックは、[[反共産主義]]の姿勢と、親英派のドイツ軍と内通し、チトーらパルチザンと戦うようになり、逆に[[枢軸国|枢軸軍]]と戦うことを避けた{{Sfn|柴(1993)|p=17}}{{Sfn|橋本(1967)|pp=138-140}}{{Sfn|柴(2021)|p=96}}{{Sfn|クリソルド|p=228}}{{Sfn|カルデリ|pp=23-24}}{{Sfn|柴(2006)|pp=128-129}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=192}}。ミハイロヴィッチは、ロンドンにあるユーゴスラビア王国亡命政府を味方につけており、[[亡命政府#過去の亡命政府|ロンドン亡命政府]]と、ヴィンテルハルテル曰く「西側諸国」はユーゴスラビアでの唯一の闘士はミハイロヴィッチであると宣伝していた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=146}}。イギリス政府は、ミハイロヴィッチの下に軍の使節団を派遣するなどして支持していた{{Sfn|柴(2021)|p=101}}{{Sfn|クリソルド|p=233}}。チトーら[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]による軍事成果についても、連合国の[[プロパガンダ]]や[[英国放送協会|BBC]]は、ミハイロヴィッチ率いるチェトニックによる功績であると報道していた{{Sfn|柴(2021)|p=101}}{{Sfn|クリソルド|p=233}}{{Sfn|カルデリ|p=14}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=146}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=153-154}}。
=== 第二次世界大戦後 ===
[[戦後|第二次世界大戦後]]はソビエト連邦からの自立を意図し、それを恐れたスターリンは[[1948年]]に[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]を[[コミンフォルム]]から除名する({{仮リンク|チトー=スターリン決別|en|Tito–Stalin split}})。翌年には[[ソビエト連邦|ソ連]]との友好相互援助条約も破棄された。


チトーらパルチザンは、農民に対して戦後の土地改革を語るなど、地道に活動し、次第にユーゴ国民の支持を集める{{Sfn|柴(2021)|p=98}}。1941年10月に、パルチザンは[[ウジツェ]]を占領し、ドイツ軍の武器生産工場を確保するも、1941年10月末から11月にかけて、ドイツ軍の大攻勢に遭い、同地を放棄してボスニア東部へと撤退した{{Sfn|柴(2021)|pp=101-102}}{{Sfn|クリソルド|p=227}}。この後、ドイツ軍から1944年5月まで、合計7度の大攻勢を受けることになる{{Sfn|柴(2006)|pp=133-134}}{{Sfn|柴(2021)|pp=101-102}}。
その後、ソ連からチトーを狙う暗殺団が度々送り込まれるもチトーは[[秘密警察]]に[[暗殺]]団を全て検挙させた。逆に[[モスクワ]]のスターリン宛に電報を送り「刺客を送る用意がある」と揺さぶり、ソ連による[[衛星国]]化を諦めさせた。


チトーは、ソ連に援助を要請するが、ソ連は連合国の一員であり、連合国の一国であるイギリス政府は、亡命政府を支持していたため、援助は殆どしなかった{{Sfn|柴(2021)|pp=101-102}}{{Sfn|クリソルド|p=233}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=144-145}}。ただ、ソ連の方は、[[チェトニック]]が枢軸軍側に立って戦っているという証拠を収集していた{{Sfn|クリソルド|p=234}}。1941年年末時点でのパルチザンの兵力は8万人から9万人ほどであった{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=152}}{{Sfn|高橋(1982)|p=36}}。
==== 内政 ====
[[ファイル:Arrival ceremony for state visit of Josip Tito, President of Yugoslavia - NARA - 178242-restored.jpg|thumb|[[アメリカ合衆国]]の[[ジミー・カーター]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]](右)とチトー(中央)]]
[[1950年]]に「[[工場]]を労働者に」という演説を行い、「労働者にとってただ一つの([[資本主義]]国との)違いは、ソ連では[[失業]]が無い、ただそれだけである」と発言する。その後、[[ソ連型社会主義]]と対峙して企業に対する労働者[[自主管理]](経営概念はあるが、[[資本]]は労働者所有であり、経営者は労働者が求人する)と、各[[共和国]]の大幅な[[自治]]権を特徴とするユーゴ独自の'''[[自主管理社会主義]]'''を建設していった。その[[カリスマ]]によって各共和国・民族のバランスを取るべく[[独裁者]]というより'''仲裁者'''とも呼ぶべき調停者として振る舞い、[[:en:Constitution of Yugoslavia|憲法]][[憲法改正|改正]]を繰り返すごとに各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして[[連邦]][[共和国]]としての維持に腐心した<ref>[[:en:Constitution of Yugoslavia|ユーゴスラビア憲法]]は[[:en:1946 Yugoslav Constitution|1946年]]の制定以来、[[:en:1953 Yugoslav Constitution|1953年]]、[[:en:1963 Yugoslav Constitution|1963年]]、[[:en:1974 Yugoslav Constitution|1974年]]に改正された。</ref>。特に、純然[[社会主義]]体制でありながら[[与党]]の中に制限[[野党]]を作り、複数政党政治体制とは言えないものの、それに準じた制度を取り入れたことや、[[新聞]]などによる体制批判、即ち[[言論の自由]]をある程度許したことは特筆に値する。また、ユーゴスラビアは後に各民族間で内戦に陥ったように、ともすれば各自治共和国の[[民族主義]]が自民族優越主義に転化しがちであり、民族主義を訴える者は、[[秘密警察]]による監視・摘発の対象になった。


1942年の前半は、チトーらパルチザンは[[モンテネグロ|ツルナゴーラ]]近くの東ボスニア周辺で戦う{{Sfn|クリソルド|p=230}}。1942年8月末までには、西ボスニアと中欧ボスニアの大部分を掌握した{{Sfn|クリソルド|pp=230-231}}。
チトー政権下のユーゴスラビアは国内の工業化や[[兄弟愛と統一道路]]などの[[インフラ]]整備を推し進めて年率6.1{{nbsp}}%の経済成長を達成し、識字率は91{{nbsp}}%まで向上して医療費はすべて無料であり、ソ連や他の東欧諸国と比べて自由な生活をおくれた<ref>Lampe, John R.; Yugoslavia as History: Twice There Was a Country; Cambridge University Press, 2000 ISBN 0-521-77401-2</ref><ref>Ramet, Sabrina P.; The Three Yugoslavias: State-building and Legitimation, 1918–2005; Indiana University Press, 2006 ISBN 0-253-34656-8</ref><ref>Michel Chossudovsky, International Monetary Fund, World Bank; The Globalisation of Poverty: Impacts of IMF and World Bank Reforms; Zed Books, 2006; (University of California) ISBN 1-85649-401-2</ref>。
1942年11月、チトーらパルチザンは、[[ビハチ]]を掌握し、ここに最高司令部を置いた{{Sfn|柴(2021)|p=102}}。同月26日、チトーらパルチザンの指導者は、枢軸軍に対して抵抗運動を行なっている指導者たちを招集し、[[ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議|第1回ユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)]]を開催し、ユーゴ内外に枢軸軍への闘争を行なうことを宣言した{{Sfn|柴(2021)|p=104}}{{Sfn|クリソルド|pp=230-231}}。AVNOJの枢軸軍への闘争宣言は、連合国に強い関心を惹いた{{Sfn|柴(2021)|pp=104-105}}。イギリス政府もそれまでのチェトニック支持を検討しなおし、1943年5月には、パルチザンの下に、イギリス軍の連絡将校を派遣するようになる{{Sfn|柴(2021)|pp=104-105}}{{Sfn|カルデリ|p=15}}。1942年末から1943年にかけて、パルチザンの兵力は15万人以上に到達した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=162}}。


1943年9月初旬、[[イタリアの降伏|イタリアが降伏]]。パルチザンは、イタリア軍から10個師団分の戦利品を獲得し、戦力を増強する{{Sfn|クリソルド|p=237}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=182-183}}。
[[1978年]]には社会主義国初の[[冬季オリンピック]]である[[サラエボ五輪]]の誘致に成功した。


1943年1月から3月にかけて、枢軸軍による第4次反パルチザン攻勢が始まり、チトーらパルチザンは、[[枢軸国|枢軸軍]]と[[チェトニック]]との戦いに勝利する([[ネレトヴァの戦い]]){{Sfn|クリソルド|p=234}}。しかし、同年5月から6月にかけて、第5次反パルチザン攻勢がかけられ、この時はチトーも負傷し、パルチザンの下に来ていたイギリス軍の連絡将校も戦死する{{Sfn|クリソルド|p=236}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=174-179}}。チトーは、ドイツ軍から僅か数百メートルのところにいたが、隠れ潜んで事なきを得た{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=174-179}}。チトーらパルチザンは、北ボスニアへと撤退した{{Sfn|クリソルド|p=236}}。
==== 外交 ====

一方、連合国軍は、1943年10月、[[ドラジャ・ミハイロヴィッチ]]率いるチェトニックが、連合国軍の味方になりえるかを確認するため、破壊工作を依頼する{{Sfn|クリソルド|p=239}}。チェトニックは、[[ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ヴィシェグラード]]近郊の川にかかる橋の破壊工作は成功したものの、セルビアを縦断する鉄道網の破壊工作については、作戦実施を拒否した{{Sfn|クリソルド|p=239}}。前後するが、1943年1月には、[[ウィンストン・チャーチル]]は連合国のユーゴに対する援助は、今後チトーのパルチザンに与えられると述べた{{Sfn|クリソルド|p=239}}。1943年12月9日、[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官]]は、ユーゴスラビア情勢について、チトーらパルチザンへの支持を表明する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=196-197}}。これらにより、ミハイロヴィッチへの支持と支援は打ち切られた。

1943年11月29日、ボスニアの[[ヤイツェ]]で、第2回AVNOJを開催する{{Sfn|クリソルド|p=237}}{{Sfn|橋本(1967)|pp=89-90}}{{Sfn|柴(1993)|pp=19-20}}。同会議を開催する際、チトーは演説で、ミハイロヴィッチを非難する演説を行なった{{Sfn|橋本(1967)|p=94}}。第2回AVNOJで決定した内容は概ね以下の通り。

#AVNOJがユーゴ最高の立法・執行機関であること{{Sfn|柴(1993)|pp=19-20}}{{Sfn|クリソルド|p=237}}{{Sfn|橋本(1967)|p=94}} {{Sfn|柴(2021)|p=105}}{{Sfn|柴(2006)|pp=133-134}}
#新しい権力機関としての性格を持つユーゴ解放全国委員会と呼ばれる行政府を形成すること{{Sfn|柴(1993)|pp=19-20}}{{Sfn|クリソルド|p=237}}{{Sfn|橋本(1967)|p=94}} {{Sfn|柴(2021)|p=105}}{{Sfn|柴(2006)|pp=133-134}}
#亡命政府のあらゆる権利の否定{{Sfn|柴(1993)|pp=19-20}} {{Sfn|柴(2021)|p=105}}{{Sfn|柴(2006)|pp=133-134}}
#[[ペータル2世 (ユーゴスラビア王)|ペータル2世]]国王のユーゴ国内への帰国禁止{{Sfn|クリソルド|p=239}} {{Sfn|柴(2021)|p=105}}{{Sfn|柴(2006)|pp=133-134}}
#チトーは元帥の称号と首相の地位を与えられた{{Sfn|クリソルド|p=239}}{{Sfn|橋本(1967)|pp=89-90}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=186-188}}
#[[トリエステ]]のユーゴへの併合{{Sfn|クリソルド|p=239}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=186-188}}
#戦後はユーゴを連邦制とし、各民族を平等とすること{{Sfn|クリソルド|p=239}}{{Sfn|柴(1993)|pp=19-20}} {{Sfn|柴(2021)|p=105}}{{Sfn|柴(2006)|pp=133-134}}

第2回AVNOJの決定を受けて、1943年12月中に、米英ソは相次いで第2回AVNOJの決定を承認する公式声明を発表した{{Sfn|橋本(1967)|p=101}}。1943年末頃には[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]はチトーらパルチザンに対して、武器・弾薬・食糧・衣服・医療品を援助し始める{{Sfn|橋本(1967)|p=101}}。ロンドンにあるユーゴスラビア王国の亡命政府は、チェトニックとの関係を断ち、首相には、{{仮リンク|イヴァン・シュバシッチ|en|Ivan_Šubašić}}を任命した{{Sfn|橋本(1967)|p=102}}。

1944年5月25日、ドイツ軍は、チトー抹殺のため最後の第7次反パルチザン攻勢を実施する{{Sfn|橋本(1967)|pp=103-104}}。第7次反パルチザン攻勢では、ドイツ軍は20分間にわたり砲撃を行ない、[[第500SS降下猟兵大隊]]の兵士を空挺降下させた{{Sfn|橋本(1967)|pp=103-108}}{{Sfn|クリソルド|p=241}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=205}}。ドイツ軍側はチトーがいる最高司令部まで1 kmの距離まで迫ったが、パルチザンは即座に反撃し、防衛に成功し、チトーは自身自ら重機関銃を背負い、撤退する{{Sfn|橋本(1967)|p=148}} {{Sfn|橋本(1967)|pp=103-108}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=207}}。チトーらパルチザンは、最高司令部を[[ヴィス島]]に移した{{Sfn|橋本(1967)|pp=103-108}}{{Sfn|クリソルド|p=241}}。チトーらパルチザンは、この頃40万人の兵力を有していた{{Sfn|高橋(1982)|p=36}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=199}}。1944年、[[ハインリヒ・ヒムラー]]は、チトーは強靭な精神の持ち主であり、決して降伏せず、元帥の称号に実にふさわしく、我がドイツにも欲しい人物であると評した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=172}}。また、チトーは、ナチス・ドイツの傀儡政権である[[セルビア救国政府]]から、生死問わず10万[[ライヒスマルク]]の賞金を懸けられていた{{Sfn|橋本(1967)|p=151}}{{Sfn|恒文社|p=8}}{{Sfn|恒文社|p=22}}。

イギリス首相・[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]は、ユーゴスラビアの戦後構想はチトーとは違う思いを抱いていた{{Sfn|柴(2021)|p=107}}。チャーチルは、ロンドンにあるユーゴスラビア亡命政府と、チトーを議長とするユーゴスラビア解放全国委員会との連立政権をチトーに打診する{{Sfn|柴(2021)|p=107}}。1944年6月16日、チトーは、亡命政府首相シュバシッチと対談し、以下の内容について合意した{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}{{Sfn|柴(2021)|p=107}}{{Sfn|カルデリ|pp=58-59}}。

#民主的且つ信頼性ある王国政府を樹立する{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}
#王国政府の主要任務を、パルチザンの援助機構確立と国民への食糧補給確保とする{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}
#王国政府は特別宣言によって、過去3年間の解放闘争を通じて創造された国家及びパルチザン、ユーゴ人民解放反ファシスト評議会、チトー元帥首班の人民解放民族委員会の存在を承認し、枢軸軍との闘争も承認すること{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=211-213}}
#現存する在外公館など全ての外交機関を国権の保護及び人民解放運動の必要とのために引き続き存続させる{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}
#パルチザンを正として統一戦線を構築すること{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=211-213}}
#枢軸軍と協力した者の断罪{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=211-213}}

チトーはこのシュバシッチとの対談時点では枢軸軍との戦闘継続のために、国家政体については一旦議題にせず、ユーゴスラビア解放後に議論することとした{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=211-213}}。1944年8月、チトーは[[ナポリ]]でチャーチルと会談し、在伊連合軍司令部とパルチザンとの軍事協力の基本方針で一致した{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}。会談直後、[[ユーゴスラビア王国|王国政府]]が成立した{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}。閣僚2名は統一人民解放戦線代表だった{{Sfn|橋本(1967)|pp=109-110}}。1944年9月5日、チトーは[[スヴォーロフ勲章 (ソビエト連邦)|スヴォーロフ勲章]]を授与され、スターリンと初めて対面する{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=219-220}}。この頃、パルチザンの兵力は50万人以上にも達した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=219-220}}。

1944年10月20日、とうとうパルチザンは[[ソ連軍]]との合同作戦で、[[ベオグラード]]を解放した{{Sfn|橋本(1967)|p=110}}{{Sfn|柴(2021)|p=107}}。この頃パルチザンの兵力は、80万人にもなっていた{{Sfn|クリソルド|pp=246-247}}{{Sfn|高橋(1982)|p=36}}。

=== ベオグラード解放直後の政治 ===

ベオグラード解放直後の1944年11月1日、亡命政府首相{{仮リンク|イヴァン・シュバシッチ|en|Ivan_Šubašić}}と民族委員会首相チトーは更に新しい協定を締結した{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=228-229}}。締結内容は下記のとおりである。
#国家組織の最終形態は祖国解放後、人民の自由意志で決定する{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}{{Sfn|カルデリ|pp=60-61}}
#この間国王の祖国復帰を禁止する{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}
#国王府の機能は民族委員会の承認に基づき、国王が任命した摂政会議がこれを代行する{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=228-229}}{{Sfn|カルデリ|pp=60-61}}
#亡命政府及び民族委員会は統一政府を樹立する{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=228-229}}

1945年2月、[[ヤルタ会談]]が開催され、会談の決定事項により、ユーゴスラビアは、チトーとイヴァン・シュバシッチとの連合政府を作り、ユーゴスラビア侵攻前に議席を保有していた議員を連合政府に参画させることになった{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=229}}。

これにより、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#建国|民主連邦ユーゴスラビア臨時政府]]が1945年3月7日に成立した{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}{{Sfn|カルデリ|p=86}}。チトーが内閣総理大臣に就任した{{Sfn|橋本(1967)|p=111}}。同内閣に入閣したのはチトーらパルチザン側が20名、亡命政府の閣僚が3名、戦前からの政党代表5名であった{{Sfn|クリソルド|pp=246-247}}{{Sfn|柴(2006)|p=135}}{{Sfn|柴(2021)|p=117}}。しかし、臨時政府成立後まもなく、亡命政府側の閣僚がチトーら共産主義者と相容れないとして辞職し、臨時政府はあっという間に瓦解する{{Sfn|カルデリ|pp=78-79}}{{Sfn|カルデリ|p=86}}。

1945年5月1日、チトーの軍隊は、[[トリエステ自由地域|トリエステ]]にまで軍を進め、同地を占領するも、英米と領土を巡って衝突した{{Sfn|クリソルド|pp=244-245}}{{Sfn|橋本(1967)|p=113}}。アメリカ軍は、(ユーゴからすると)領空侵犯をするなどしてきた{{Sfn|高橋(1982)|p=162}}。結局、トリエステについては、1954年にイタリアはA地区(トリエステ港を含む中心部)を領有し、ユーゴはB地区(A地区以外の場所)を領有することとなった{{Sfn|クリソルド|p=269}}。

チトー政権下では、1945年8月に、財産没収の法律が制定され、これによりドイツ人の全資産、戦争犯罪人や枢軸軍への協力者の全資産が没収された{{Sfn|柴(2021)|pp=118-119}}。また、同年同月、土地改革と入植に関する法律が制定され、これによりあらゆる農民に一定基準内の面積の土地を付与した{{Sfn|橋本(1967)|p=181}}{{Sfn|柴(2021)|pp=118-119}}{{Sfn|クリソルド|p=250}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=236}}。ただし、ソ連のように[[ソビエト連邦における農業集団化|農業の集団化]]は行われなかった{{Sfn|柴(2021)|p=119}}{{refnest | group = * |但し、1948年6月にコミンフォルム追放後は、ソ連(スターリン)の批判をかわすために、農業の集団化を行っていた時期もあったが、1952年に大凶作に見舞われたため、1953年に農業の集団化政策を取りやめた{{Sfn|クリソルド|p=257}}}}。1946年12月、銀行や独占的企業については国有企業とし、外国資本を排除した{{Sfn|橋本(1967)|p=181}}{{Sfn|柴(2021)|pp=118-119}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=236}}。同年には逃亡していたドラジャ・ミハイロヴィッチを逮捕し、7月に銃殺刑に処した{{Sfn|デュクレ&エシュト|p=29}}。({{仮リンク|ドラジャ・ミハイロヴィッチの名誉回復|sh|Proces rehabilitacije Dragoljuba Mihailovića}}))。

1945年11月に憲法制定議会選挙が行われ[[人民戦線]](ユーゴスラビア共産党が大部分)が勝利し、事実上共産党による単独の政権が樹立し、チトーは首相に選出された{{Sfn|柴(2021)|p=117}}{{Sfn|デュクレ&エシュト|p=29}}{{Sfn|橋本(1967)|p=181}}{{Sfn|柴(2021)|pp=107-108}}{{Sfn|クリソルド|pp=248-249}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=231}}。なお、この選挙については、候補者は1選挙区に1人となっており、その候補者も人民戦線しかおらず、白票投票をした場合は逮捕されるという不正なものだった{{Sfn|ゲズ|pp=220-221}}{{Sfn|柴(2021)|pp=107-108}}{{Sfn|クリソルド|pp=248-249}}。1946年1月には、1936年のスターリン憲法を範とした新憲法が公布された{{Sfn|柴(2006)|p=140}}{{Sfn|高橋(1982)|p=37}}。ユーゴスラビアは、[[スロベニア]]、[[クロアチア]]、[[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]の6つの共和国と、[[ヴォイヴォディナ|ヴォイヴォディナ自治州]]、[[コソボ・メトヒヤ自治州 (1946年-1974年)|コソボ自治州]]からなる連邦制がとられることになった{{Sfn|柴(2006)|p=140}}。この連邦制の下では、共和国の境界線は曖昧なものだったため、[[ユーゴスラビア#崩壊|ユーゴスラビア解体]]時に国境問題が生じることになった{{Sfn|柴(2006)|p=140}}。

1945年から1946年にかけて、チトー政権は、[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロヴァキア]]とそれぞれ友好協力相互援助条約を締結した{{Sfn|柴(2021)|pp=120-121}}。1947年末には、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]とも同条約を締結した{{Sfn|柴(2021)|pp=120-121}}。ハンガリーとブルガリアは第二次世界大戦中は、枢軸軍側としてチトーのパルチザンと敵対していたが、戦後は賠償請求を破棄するなど友好化に努めた{{Sfn|山崎(1993)|p=18}}{{Sfn|デディエ|p=271}}。

チトー政権は、1946年ソ連と[[合弁会社]]を設立した{{Sfn|高橋(1982)|p=171}}{{Sfn|カルデリ|pp=113-115}}{{Sfn|高橋(1982)|p=171}}{{Sfn|デディエ|p=239}}。しかし、合弁会社とは名ばかりで、経営者はソ連側が牛耳り、不平等である点は否めず、ユーゴスラビアにとっては、メリットがなかったためソ連と解散することで合意した{{Sfn|カルデリ|pp=113-115}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=171-172}}{{Sfn|デディエ|pp=247-251}}。

=== コミンフォルム除名と危機 ===
[[コミンフォルム]]は1947年9月に設立され、ソ連をはじめとする共産主義国家が加盟し、ユーゴスラビアも加盟していた。しかし、ユーゴスラビアは、1948年6月28日、コミンフォルム追放決議が可決され、コミンフォルムを追放されてしまう{{Sfn|柴(2021)|pp=122-123}}{{Sfn|クリソルド|p=255}}{{Sfn|柴(2006)|p=140}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=257-258}}。

ユーゴスラビアがコミンフォルム追放に至った経緯は、1948年3月在ユーゴのソ連軍軍事顧問団が突如ユーゴスラビアからの引き上げを発表する{{Sfn|橋本(1967)|p=190}}。その後ソ連とユーゴスラビアの間で、合計3往復の書簡が取り交わされ、ソ連はユーゴスラビアとチトーを非難する書簡を送りつけた{{Sfn|橋本(1967)|pp=190-196}}{{Sfn|柴(2021)|pp=120-121}}{{Sfn|カルデリ|pp=151-152}}。ソ連からユーゴスラビアに宛てた書簡の内容、並びにソ連とユーゴスラビアの関係が悪化に至った原因は以下のとおりである。

#ユーゴスラビアにおける反ソ連的態度やソ連に対しての批判{{Sfn|橋本(1967)|p=190}}{{Sfn|柴(2021)|pp=120-121}}
#ユーゴスラビアにおける不十分な民主主義及び同国共産党党内における自己批判がなされていないこと{{Sfn|橋本(1967)|pp=191-192}}
#マルクス主義においては、共産党が国家統制を成すが、ユーゴスラビアでそれが達成されていないこと{{Sfn|橋本(1967)|pp=191-192}}
#農村や都市においては資本主義が台頭していること{{Sfn|橋本(1967)|p=191-192}}
#ユーゴスラビア共産党による、内政と外交の失策が見られること{{Sfn|カルデリ|pp=151-152}}{{Sfn|柴(2021)|pp=120-121}}
1点目について補足すると、チトーは、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に周知せずにブルガリア首相[[ゲオルギ・ディミトロフ]]とドナウ諸国関税同盟を交渉していたことや、ユーゴ側はソ連軍事顧問団に多額の報酬を払っていたが、ユーゴの財政状況では支払いが厳しく、人員を減らすか報酬の減額の交渉を行なったことが反ソ連的であるとされた{{Sfn|橋本(1967)|pp=190-191}}{{Sfn|橋本(1967)|pp=193-194}}。

チトーらは、ソ連に対して、書簡で申し開きをしたが結果的には効果がなかった{{Sfn|橋本(1967)|pp=193-194}}。チトーはソ連から招待され、話し合いの場を設けることになっていたが、チトーは暗殺を警戒し、欠席を選択した{{Sfn|高橋(1982)|pp=204-205}}。実際に、チトーはソ連からの暗殺未遂の被害を受けており、1950年、チトーはスターリンに下記の文面で手紙をしたためた{{Sfn|メドヴェージェフ|p=87}}。

<blockquote>
「スターリン。私のところへ刺客を送り込むのはよせ。我々はもう5人逮捕した。一人は爆弾を持っていた。ライフルを持っていた者もいた。もし刺客を送り込むのをやめないのなら、私の方からモスクワに刺客を差し向ける。私は2番目の刺客を差し向けなくても済むだろう。」{{Sfn|メドヴェージェフ|p=87}}
</blockquote>

コミンフォルムを除名されたユーゴスラビアは窮地に陥る。コミンフォルム除名直前のユーゴスラビアの貿易額の51%はソ連と東欧諸国向けで、これらの国の貿易が事実上断たれてしまう{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=238}}{{Sfn|高橋(1982)|pp=204-205}}。農業も天候不順によって不作だった{{Sfn|柴(2021)|pp=122-123}} {{Sfn|柴(2006)|p=142}} {{Sfn|クリソルド|p=259}} {{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=244}}。西側諸国とは、ユーゴスラビアは共産主義国家であることと、トリエステを巡った領有問題によって、これまた不和であった{{Sfn|クリソルド|p=268}}。チトーは、党内の綱紀粛正に努め、軍人などで対枢軸軍との戦闘で功績があった者やソ連との内通が疑われた者は逮捕し、投獄、拷問、処刑のいずれかの措置を取った{{Sfn|ゲズ|pp=223-224}}。

西側諸国との関係も良くなかったユーゴスラビアであったが、1950年、チトーはアメリカ、イギリス、フランスから食糧の援助を取り付け、危機を回避した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=244}}{{Sfn|柴(1991)|p=23}}{{Sfn|橋本(1967)|p=204}} {{Sfn|橋本(1967)|p=233}} {{Sfn|マテス|p=214}} {{Sfn|柴(2021)|pp=122-123}}。

=== 自主管理法の採択 ===
チトーは、これまでのソ連型の社会主義の見直しを検討する{{Sfn|柴(2021)|pp=123-124}}。社会主義とは何か、そしてどうあるべきかに立ち返り、「工場から労働者へ」というスローガンの実現を提起する{{Sfn|柴(2021)|pp=123-124}}。ユーゴスラビア政府経済相{{仮リンク|ボリス・キドリッチ|en|Boris Kidrič}}は、労働組合同盟と協議した結果、大企業を対象として生産から分配に至るまで全ての権限を持つ労働者評議会設立の通達を発令する{{Sfn|柴(1991)|pp=23-24}} {{Sfn|柴(2021)|pp=123-124}}。1950年6月27日、チトーは労働者による企業単位の直接管理に関する法律を人民議会に提出し、採択された(自主管理法){{Sfn|橋本(1967)|p=206}} {{Sfn|柴(2021)|pp=124-125}} {{Sfn|クリソルド|p=262}}。これによって、労働者評議会(企業経営の最高機関)が、労働者による批判や提案の提出、内部管理、労働条件、資本や利益の分配、生産品目やその販売計画策定など、かなりの権限を自主管理法によって保障された{{Sfn|クリソルド|p=262}} {{Sfn|カルデリ|pp=270-271}} {{Sfn|柴(2006)|p=141}}。

=== 外交 ===
社会主義国でありながらソ連率いるコミンフォルムから追放されたことから[[第三世界]]に接近し、チトーは[[非同盟|非同盟運動]]の初代議長となって、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。さらにチトーは東西両陣営問わず様々な国と良好な関係を構築したため、[[日本]]を含む多数の国から[[勲章]]を受勲するなどの表彰を受けた({{仮リンク|チトーの勲章一覧|en|Awards and decorations received by Josip Broz Tito}})。[[政治学]]上、ユーゴスラビアは[[東側諸国]]とも[[西側諸国]]とも見なされておらず、[[東西冷戦]]で起きた[[朝鮮戦争]]の際も中立的であり、[[中華人民共和国|中国]]の[[国際連合|国連]]代表権問題で抗議するソ連の不在のなか[[アメリカ合衆国]]の主導した[[国際連合安全保障理事会決議82]]や[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の編成を要請した[[国際連合安全保障理事会決議84]]と[[国際連合安全保障理事会決議85]]に反対せず、棄権した<ref>Millett, Allan R. (2000), The Korean War, Volume 1, Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press, ISBN 978-0-8032-7794-6 p. 249</ref><ref>"Strength on Double Seven". Time Magazine. July 17, 1950.</ref><ref>Stueck, William (2008), "The United Nations, the Security Council, and the Korean War", in Lowe, Vaughan; Roberts, Adam; Welsh, Jennifer; Zaum, Dominik, The United Nations Security Council and War: The Evolution of Thought and Practice since 1945, Oxford University Press, p. 266, ISBN 978-0-19-953343-5</ref>。
社会主義国でありながらソ連率いるコミンフォルムから追放されたことから[[第三世界]]に接近し、チトーは[[非同盟|非同盟運動]]の初代議長となって、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。さらにチトーは東西両陣営問わず様々な国と良好な関係を構築したため、[[日本]]を含む多数の国から[[勲章]]を受勲するなどの表彰を受けた({{仮リンク|チトーの勲章一覧|en|Awards and decorations received by Josip Broz Tito}})。[[政治学]]上、ユーゴスラビアは[[東側諸国]]とも[[西側諸国]]とも見なされておらず、[[東西冷戦]]で起きた[[朝鮮戦争]]の際も中立的であり、[[中華人民共和国|中国]]の[[国際連合|国連]]代表権問題で抗議するソ連の不在のなか[[アメリカ合衆国]]の主導した[[国際連合安全保障理事会決議82]]や[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の編成を要請した[[国際連合安全保障理事会決議84]]と[[国際連合安全保障理事会決議85]]に反対せず、棄権した<ref>Millett, Allan R. (2000), The Korean War, Volume 1, Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press, ISBN 978-0-8032-7794-6 p. 249</ref><ref>"Strength on Double Seven". Time Magazine. July 17, 1950.</ref><ref>Stueck, William (2008), "The United Nations, the Security Council, and the Korean War", in Lowe, Vaughan; Roberts, Adam; Welsh, Jennifer; Zaum, Dominik, The United Nations Security Council and War: The Evolution of Thought and Practice since 1945, Oxford University Press, p. 266, ISBN 978-0-19-953343-5</ref>。


1954年、[[北大西洋条約機構|NATO]]加盟国であるギリシャ、トルコと友好相互援助条約を締結した{{Sfn|橋本(1967)|p=233}}{{Sfn|柴(1991)|pp=30-31}}。1953年3月、スターリンが死去し([[ヨシフ・スターリンの死と国葬]])、1955年5月には、[[ニキータ・フルシチョフ]]らがベオグラードに来訪し、チトーと対談し、ユーゴスラビアとソ連の関係は改良の兆しが見えた{{Sfn|橋本(1967)|p=233}}{{Sfn|柴(2021)|pp=126-127}}。だが、チトーは東にも西にも寄らない姿勢を打ち出す{{Sfn|マテス|pp=215-216}}{{Sfn|ゲズ|pp=226-228}}。それが非同盟政策であり、これは消極的な中立ではなく、積極的平和共存を訴えかけ、他国の独立、主権平等、領土保存を尊重し、他国の国内問題には干渉しないというものである{{Sfn|橋本(1967)|p=230}}{{Sfn|柴(1991)|pp=28-29}}{{Sfn|柴(2021)|p=126}}。
アメリカから[[マーシャル・プラン]]も受け入れ<ref>W. A. Brown & R. Opie, ''American Foreign Assistance, 1953''</ref>、[[1953年]]には[[ギリシャ]]や[[トルコ]]との間で[[集団防衛]]を明記した軍事協定{{仮リンク|バルカン三国同盟|en|Balkan Pact (1953)}}を結んで[[北大西洋条約機構|北大西洋条約機構 (NATO)]] と事実上間接的な同盟国となる。[[社会主義国]]でありながら1950年代はアメリカの{{仮リンク|相互防衛援助法|en|Mutual Defense Assistance Act}}の対象となって[[M47パットン]]、[[M4中戦車]]、[[M36ジャクソン]]、[[M18 (駆逐戦車)|M18駆逐戦車]]、[[M3軽戦車]]、[[M8装甲車]]、[[M3装甲車]]、[[M7自走砲]]、[[M32 戦車回収車]]、[[M25戦車運搬車]]、[[GMC CCKW]]、[[M3ハーフトラック]]、[[M4トラクター]]、[[デ・ハビランド モスキート]]、[[P-47 (航空機)|P-47]]、[[F-86 (戦闘機)|F-86]]、[[F-84]]、[[T-33 (航空機)|T-33]]など大量の西側の兵器を米英から供与され<ref>[http://web.inter.nl.net/users/spoelstra/g104/yu.htm Sherman Register - Yugoslavia]</ref><ref>[https://acesflyinghigh.wordpress.com/2016/01/16/yugoslav-air-force-combat-aircraft-1953-to-1979-the-jet-age-i-us-soviet-aircraft/ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)]</ref>、1960年代には[[スターリン批判]]で[[ニキータ・フルシチョフ]]が指導者になった時にソ連とも和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から[[国際連合緊急軍]]のような[[国際連合平和維持活動]]にも参加した<ref>[http://www.unmultimedia.org/s/photo/detail/147/0147113.html United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force]</ref>。こうしたチトーの政治思想はスターリン主義者によって'''[[チトー主義]]'''と呼ばれ、他の社会主義国においては反体制派粛清の口実にもされた。


チトーは、1954年12月から1955年2月にかけて、[[インド]]、[[ビルマ]]、[[エジプト]]を訪問する{{Sfn|柴(1991)|pp=30-31}}{{Sfn|柴(2021)|p=127}}。チトーはこれらの国と世界平和のために相互協力できる手ごたえを感じた{{Sfn|柴(1991)|pp=30-31}}。1956年7月、チトーはインドの[[ジャワハルラール・ネルー]]首相と、エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル]]大統領を[[アドリア海]]の[[ブリユニ]]に招待し、積極的平和共存政策の推進で合意した{{Sfn|柴(2021)|p=127}}{{Sfn|恒文社|pp=31-32}}。
1960年代には独自の宇宙ロケット開発も計画し、アメリカは[[NASA]]の公式な視察団を送るなど支援したが、国家財政が逼迫したことから開発プログラム自体をアメリカに売却した。
1958年12月から1959年3月にも諸外国を積極的に訪問し、[[インドネシア]]、[[ビルマ]]、[[インド]]、[[セイロン]]、[[エチオピア]]、[[スーダン]]、[[アラブ連合]]を歴訪、1963年には、主に中南米の国を中心に歴訪し、アメリカにも訪れ、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領とも対面した{{Sfn|橋本(1967)|p=242}}{{Sfn|クリソルド|p=271}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=293}}。

1961年9月、ベオグラードにて第1回非同盟諸国会議を開催し、参加国はアジア・アフリカ諸国を中心として25か国で、チトーは同会議で軍縮を訴えた{{Sfn|ヴィンテルハルテル|pp=289-291}}{{Sfn|恒文社|p=33}}{{Sfn|柴(1991)|pp=30-31}}{{Sfn|橋本(1967)|p=270}}{{Sfn|柴(2021)|p=127}}。1964年10月には、[[カイロ]]で、第2回非同盟諸国会議が開催され、47か国が出席した{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=292}}{{Sfn|クリソルド|p=271}}。

[[社会主義国]]でありながら1950年代はアメリカの{{仮リンク|相互防衛援助法|en|Mutual Defense Assistance Act}}の対象となって[[M47パットン]]、[[M4中戦車]]、[[M36ジャクソン]]、[[M18 (駆逐戦車)|M18駆逐戦車]]、[[M3軽戦車]]、[[M8装甲車]]、[[M3装甲車]]、[[M7自走砲]]、[[M32 戦車回収車]]、[[M25戦車運搬車]]、[[GMC CCKW]]、[[M3ハーフトラック]]、[[M4トラクター]]、[[デ・ハビランド モスキート]]、[[P-47 (航空機)|P-47]]、[[F-86 (戦闘機)|F-86]]、[[F-84]]、[[T-33 (航空機)|T-33]]など大量の西側の兵器を米英から供与され<ref>[http://web.inter.nl.net/users/spoelstra/g104/yu.htm Sherman Register - Yugoslavia]</ref><ref>[https://acesflyinghigh.wordpress.com/2016/01/16/yugoslav-air-force-combat-aircraft-1953-to-1979-the-jet-age-i-us-soviet-aircraft/ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)]</ref>、1960年代には[[スターリン批判]]で[[ニキータ・フルシチョフ]]が指導者になった時にソ連とも和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から[[国際連合緊急軍]]のような[[国際連合平和維持活動]]にも参加した<ref>[http://www.unmultimedia.org/s/photo/detail/147/0147113.html United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force]</ref>。


[[1970年]][[9月30日]]、アメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領がユーゴスラビアを訪問。当時の東側諸国を[[アメリカ合衆国大統領]]が訪れるのは異例であったが、チトーは暖かく歓迎し会談を行った<ref>両軍の撤退を開始『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月1日朝刊 12版 7面</ref>。
[[1970年]][[9月30日]]、アメリカの[[リチャード・ニクソン]]大統領がユーゴスラビアを訪問。当時の東側諸国を[[アメリカ合衆国大統領]]が訪れるのは異例であったが、チトーは暖かく歓迎し会談を行った<ref>両軍の撤退を開始『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月1日朝刊 12版 7面</ref>。


=== 死去 ===
=== 内政 ===
[[ファイル:Arrival ceremony for state visit of Josip Tito, President of Yugoslavia - NARA - 178242-restored.jpg|thumb|[[アメリカ合衆国]]の[[ジミー・カーター]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]](右)とチトー(中央)]]
[[1980年]][[1月20日]]、循環障害により[[壊疽]]を起こした左足を切断する手術を受けるも、その後も体調は思わしくなく、[[腎機能障害]]、[[肺炎]]、胃腸内出血、[[肝機能障害]]などを起こし、[[5月4日]]にスロベニアの[[リュブリャナ]]の病院で没した。87歳没。
1952年11月、ユーゴスラビア共産党は、ユーゴスラビア共産主義者同盟に改名した{{Sfn|柴(2021)|p=125}}{{Sfn|橋本(1967)|p=232}}。1953年、憲法を改正し、チトーはユーゴスラビア首相及び大統領を兼任することになった{{Sfn|クリソルド|pp=262-263}}{{Sfn|柴(2006)|p=142}}{{Sfn|ヴィンテルハルテル|p=248}}。


1963年4月、新憲法が公布され、国名もユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称され、[[自主管理社会主義]]と[[非同盟運動|非同盟政策]]に法的根拠が与えられ、行政機構も大幅に改革された{{Sfn|柴(1991)|pp=26-27}}{{Sfn|柴(1993)|p=23}}{{Sfn|柴(2021)|pp=129-130}}。そして、市場社会主義が基本路線となる{{Sfn|柴(1991)|pp=26-27}}{{Sfn|柴(1993)|p=23}}。1965年には、チトーは、市場メカニズムを全面的に導入する経済改革を実施した{{Sfn|柴(1993)|p=23}}。しかし、この改革を巡り、副大統領の{{仮リンク|アレクサンダル・ランコヴィッチ|en|Aleksandar Ranković}}と対立し、チトーは、[[ユーゴスラビア人民軍]]を盾に、ランコヴィッチを副大統領及びユーゴスラビア共産主義者同盟中央委員から解任した{{Sfn|柴(1993)|pp=23-25}}{{Sfn|柴(1991)|pp=26-27}}{{Sfn|柴(2021)|p=130}}。1967年7月には外資導入法を制定し、1968年11月には海外旅行の制限を緩和した{{Sfn|柴(1991)|pp=26-27}}{{Sfn|クリソルド|p=263}}。
[[5月8日]]に行われた{{仮リンク|チトーの葬儀|en|Death and state funeral of Josip Broz Tito}}には日本を含む多数の国からかつてない規模で東西陣営や非同盟陣営の世界各国の政府代表団が集まり([[弔問外交]])1989年の[[昭和天皇]]の[[大喪の礼]]まで当時史上最大の[[国葬]]だった<ref>[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h02/h020700.html 平成2年 警察白書 第7章 公安の維持 1. 総力を挙げて取り組んだ大喪の礼警備 (5)過去最大の警備] 日本国警察庁</ref><ref>Vidmar, Josip; Rajko Bobot; Miodrag Vartabedijan; Branibor Debeljaković; Živojin Janković; Ksenija Dolinar (1981). Josip Broz Tito – Ilustrirani življenjepis. Jugoslovenska revija. p. 166.</ref>。日本からは[[大平正芳]][[内閣総理大臣|首相]]も出席した。
また、1968年4月には、チトーは来日し、[[昭和天皇]]主催のレセプションに出席した{{Sfn|恒文社|p=37}}。
[[File:Sahrana Josipa Broza Tita (2).jpg|thumb|200px|チトーの国葬]]


数々の経済改革はうまく行かず、格差が広がり、各民族で不満が広がり、民族問題が勃発する{{Sfn|柴(1993)|pp=23-25}}{{Sfn|柴(1991)|pp=26-27}}{{Sfn|柴(2021)|p=130}}。1968年秋から冬にかけて、コソボ自治州で、[[アルバニア人]]が[[セルビア人]]から差別を受けているとして、コソボ自治州の共和国への昇格を要求した{{Sfn|柴(1993)|pp=23-25}}{{Sfn|柴(2021)|pp=132-134}}{{Sfn|山崎(1993)|p=18}}。セルビア人は、ユーゴスラビア国内において少数派でありながら、政治、経済、社会で要職を占めていたため、アルバニア人の不満が爆発した結果となった{{Sfn|柴(2006)|p=161}}。[[ボスニア・ヘルツェゴビナ|ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国]]の[[ムスリム]]達は民族としてムスリム人の承認を要求し、[[クロアチア|クロアチア共和国]]ではクロアチア人による自治の要求があった{{Sfn|柴(2021)|pp=132-134}}。クロアチアでは、1970年から1971年にかけて、クロアチア共産主義者同盟と民族派知識人、学生達が大規模な自治要求運動を展開した{{Sfn|柴(2021)|pp=132-134}}{{Sfn|山崎(1993)|p=18}}。チトーは、クロアチア共和国の首都[[ザグレブ]]へと乗り込み、事態の収拾に当たった{{Sfn|柴(2021)|pp=132-134}}。また、チトーは[[民族主義]]の芽を摘むために、民主集中制や、労働者の役割強化を掲げて、セルビアをはじめとする他の共和国の共産主義者同盟のイデオロギーの引き締めを図った{{Sfn|柴(2021)|pp=132-134}}。
== 死後 ==

=== 晩年と死去 ===
[[File:Sahrana Josipa Broza Tita (2).jpg|thumb|200px|チトーの国葬]]
[[ファイル:Titov spomenik.jpg|サムネイル|200ピクセル|生家近くに建てられたチトーの銅像(2007年5月撮影)]]
[[ファイル:Titov spomenik.jpg|サムネイル|200ピクセル|生家近くに建てられたチトーの銅像(2007年5月撮影)]]
1974年1月に、4度目の新憲法が公布された{{Sfn|柴(2021)|pp=134-135}}{{Sfn|山崎(1993)|p=19}}{{Sfn|柴(2006)|p=142}}。同憲法で、チトーは終身大統領に選出され、ユーゴスラビア統合の象徴を果たすこととなった{{Sfn|柴(2021)|pp=134-135}}。新憲法では、6つの共和国と2つの自治州それぞれが憲法を有し、裁判や警察機能のみならず、経済主権が与えられた{{Sfn|柴(2021)|pp=134-135}}{{Sfn|柴(2006)|p=142}}。ユーゴスラビア連邦幹部会においても、これら共和国と自治州の1票の価値を同一に扱うようにした{{Sfn|柴(2021)|pp=134-135}}。チトーは、連邦幹部会では、セルビア人を抑えるなどして均衡を図った{{Sfn|柴(1993)|p=28}}。これによってユーゴスラビアは緩い連邦体制に変貌した{{Sfn|柴(2021)|pp=134-135}}{{Sfn|山崎(1993)|p=19}}{{Sfn|柴(2006)|p=142}}。
多民族による社会主義連邦国家において、チトーの作り上げた体制は絶えず分裂の引き金となりながらも、彼個人のカリスマ性と少数民族に配慮した政策によって、国内の民族主義者の活動は抑えられていた。それがユーゴスラビアを一つの統一国家に収斂させて秩序を安定させ、[[アメリカ合衆国]]とも[[ソビエト連邦]]とも距離を置いた独自の立場を確立していたが、チトーの死後、カリスマを失ったユーゴスラビアの体制は崩壊へ向かうことになる。


1977年、チトーはソ連、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、中国を訪問し、ソ連、北朝鮮とは共同声明を発表し、中国とは共同声明はなかったが、ユーゴスラビアと中国の関係をより友好関係に発展させることで合意した{{Sfn|恒文社|p=60}}。
チトー死去後、後継者達は彼のようなカリスマ性を発揮できず、[[インフレ]]と[[失業率]]の上昇で経済も低迷し始め<ref>Labor Force 1992. CIA Factbook. 1992.</ref><ref>Inflation Rate % 1992. CIA Factbook. 1992.</ref>、抑圧されていた民族主義、分裂主義、宗派主義などが息を吹き返すことになる。[[冷戦]]集結後の[[1990年代]]には民族・[[宗教]]間の対立や混乱が激化し、1991年から2001年にかけて一連の[[ユーゴスラビア紛争]]が勃発。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する各共和国のうち、[[スロベニア社会主義共和国]]、[[クロアチア社会主義共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]]、[[マケドニア社会主義共和国]]はそれぞれ[[スロベニア共和国]]、[[クロアチア共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]、[[マケドニア共和国]]として独立し、残った[[セルビア社会主義共和国]]と[[モンテネグロ社会主義共和国]]によって1992年に[[ユーゴスラビア連邦共和国|ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)]]が成立する。しかし、新ユーゴスラビアの成立後も紛争は続き、紛争終結後の2003年に新ユーゴスラビアはより緩やかな国家連合である[[セルビア・モンテネグロ]]に移行するが、[[2006年]]に[[モンテネグロ]]が独立したことで、もう一方のセルビアが独立宣言と継承国宣言を行ったことにより消滅し、連邦は完全に瓦解した。2013年には、セルビア国立銀行の金庫よりチトーが緊急時に使えるようにしていた可能性がある[[金貨]]約2700枚([[金塊]]30[[キログラム]]分相当)や[[貴金属]]製品約250個、[[現金]]約2万6000[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]などが発見されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130417/erp13041708440001-n1.htm|title=旧ユーゴ「チトー金庫」から金塊30キロ、宝石149個! 死後30年眠ったまま - MSN産経ニュース|accessdate=2013-4-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130418033126/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130417/erp13041708440001-n1.htm|archivedate=2013年4月18日}}</ref>。

1980年1月、チトーは左足静脈瘤切除の手術を受け、左足を切断した{{Sfn|恒文社|p=60}}。1980年5月4日、スロベニアの[[リュブリャナ]]の病院で死去した{{Sfn|恒文社|p=60}}。
[[ファイル:Josip Broz Tito.jpg|サムネイル|「花の家」にあるチトーの墓]]
[[1980年]][[5月8日]]に行われた{{仮リンク|チトーの葬儀|en|Death and state funeral of Josip Broz Tito}}には日本を含む多数の国からかつてない規模で東西陣営や非同盟陣営の世界126か国の208人の政府要人が集まり([[弔問外交]])1989年の[[昭和天皇]]の[[大喪の礼]]まで当時史上最大の[[国葬]]だった<ref>[https://www.npa.go.jp/hakusyo/h02/h020700.html 平成2年 警察白書 第7章 公安の維持 1. 総力を挙げて取り組んだ大喪の礼警備 (5)過去最大の警備] 日本国警察庁</ref><ref>Vidmar, Josip; Rajko Bobot; Miodrag Vartabedijan; Branibor Debeljaković; Živojin Janković; Ksenija Dolinar (1981). Josip Broz Tito – Ilustrirani življenjepis. Jugoslovenska revija. p. 166.</ref>{{Sfn|恒文社|p=58}}。日本からは[[大平正芳]]首相が参列した{{Sfn|恒文社|p=58}}。

チトー死去後のユーゴスラビアは、[[オイルショック]]による莫大な対外債務によって深刻な経済危機が訪れる{{Sfn|山崎(1993)|p=19}}。打開策を巡って、各共和国間で議論を行なったものの、民族問題へと発展し物別れとなり、ついに1990年1月にはユーゴスは各共和国の政党が治めるようになり、ユーゴスラビア連邦はその存在意義を失なった([[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体]]){{Sfn|山崎(1993)|p=19}}。[[冷戦]]終結後の[[1990年代]]には民族・[[宗教]]間の対立や混乱が激化し、1991年から2001年にかけて一連の[[ユーゴスラビア紛争]]が勃発。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する各共和国のうち、[[スロベニア社会主義共和国]]、[[クロアチア社会主義共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]]、[[マケドニア社会主義共和国]]はそれぞれ[[スロベニア共和国]]、[[クロアチア共和国]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦]]、[[マケドニア共和国]]として独立し、残った[[セルビア社会主義共和国]]と[[モンテネグロ社会主義共和国]]によって1992年に[[ユーゴスラビア連邦共和国|ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)]]が成立する。しかし、新ユーゴスラビアの成立後も紛争は続き、紛争終結後の2003年に新ユーゴスラビアはより緩やかな国家連合である[[セルビア・モンテネグロ]]に移行するが、[[2006年]]に[[モンテネグロ]]が独立したことで、もう一方のセルビアが独立宣言と継承国宣言を行ったことにより消滅し、連邦は完全に瓦解した。2013年には、セルビア国立銀行の金庫よりチトーが緊急時に使えるようにしていた可能性がある[[金貨]]約2700枚([[金塊]]30[[キログラム]]分相当)や[[貴金属]]製品約250個、[[現金]]約2万6000[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]などが発見されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130417/erp13041708440001-n1.htm|title=旧ユーゴ「チトー金庫」から金塊30キロ、宝石149個! 死後30年眠ったまま - MSN産経ニュース|accessdate=2013-4-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130418033126/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130417/erp13041708440001-n1.htm|archivedate=2013年4月18日}}</ref>。

== 評価 ==
法学者ドミニク・マクゴールドリックは、チトーは「高度に中央集権化され、且つ抑圧的な」政権の長であり、チトーは、ユーゴスラビアにおいて絶対的な権力をふるい、その独裁政治は、複雑な官僚機構を通じて行われ、人権抑圧も日常的に起きていたとしている{{sfn|McGoldrick|p=17}}。チトー政権下当初、この抑圧の犠牲となったのは、ドラジャ・ミハイロヴィッチに加え、ドラゴリュブ・ミチュノヴィッチなどのスターリン主義者であったが、後年、チトーの側近ともいえる人物にも手が及んだ。1956年11月19日、[[ミロヴァン・ジラス]]はチトーの後継者と目されていたが、チトー政権を批判したため逮捕された。歴史家の{{仮リンク|ヴィクトル・セベスチェン|en| Victor Sebestyen }}は、チトーを「スターリンと同じくらい残忍である」と評している<ref>{{cite book |last=Sebestyen |first=Victor |date=2014 |title=1946: The Making of the Modern World |publisher=Macmillan |page=148 |isbn=978-0230758001 |quote=Tito was as brutal as his one-time mentor Stalin, with whom he was later to fall out but with whom he shared a taste for bloody revenge against enemies, real or imagined. Churchill called Tito 'the great Balkan tentacle', but that did not prevent him from making a similar deal like the one he had made with the Soviets.}}</ref>。

1961年の改革以降(非同盟政策)、チトー政権は、他の共産主義政権よりも比較的リベラルになったが、ユーゴスラビア共産主義者同盟は、リベラルと抑圧を交互に繰り返していた{{sfn|Matas|p=34}}。ユーゴスラビアはソ連からの独立を維持でき、その社会主義ブランドは東欧諸国からすると羨望の的であったが、チトーのユーゴスラビアは、厳しい統制下にある[[警察国家]]であり続けた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=EY_xAgAAQBAJ&q=Tito's+Yugoslavia+was+a+tightly+controlled+police+state&pg=PT73|title=Tell it to the world, Eliott Behar|publisher=Dundurn Press|year=2014|isbn=978-1-4597-2380-1}}</ref>。法律家の{{仮リンク|デビット・マタス|en| David Matas }}は、(ソ連は別として)ユーゴスラビアの政治犯の数は、(ユーゴスラビア以外の)東欧全ての国の政治犯の数よりも多かったとしている{{sfn|Matas|p=36}}。チトーの秘密警察はソ連の[[ソ連国家保安委員会|KGB]]をモデルにしていた。秘密警察の工作員は常に存在し、しばしば超法規的に行動を行い{{sfn|Corbel|pp=173–174}}、犠牲者には中流階級の知識人、リベラル派、民主主義者が含まれていた{{sfn|Cook|p=1391}}。ユーゴスラビアは、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]に署名していたが、同規約の規定には殆ど関心が払われていなかった{{sfn|Matas|p=37}}。

チトー政権下のユーゴスラビアは、民族を尊重することを基盤としていたが、チトーはユーゴスラビアの連邦の脅威となる民族主義のいかなる開花も粛清に当たった{{sfn|Finlan}}。しかし、一部の民族集団に与えられる敬意と他の民族集団に対する厳しい抑圧との対比は鮮明であった。ユーゴスラビアの法律では、民族が自らの言語を使用することを保証していたが、アルバニア人に対しては、民族的アイデンティティの主張については、厳しく制限していた。ユーゴスラビアの政治犯は、民族アイデンティティを主張したアルバニア人がほとんどであった{{sfn|Matas|p=39}}。

ユーゴスラビアの戦後の発展は目覚ましいものであったが、1970年頃にもなると、経済が行き詰まり、深刻な失業が問題になり、[[インフレーション|インフレ]]にも見舞われた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=xqvpudh8dasC&q=Unemployment+in+Tito%27s+Yugoslavia&pg=PA3694|title=The 20th Century O–Z: Dictionary of World Biography| page= 3694|author=Frank N. Magill|publisher=Routledge|year=1999|isbn=978-1136593697}}</ref>。

1967年に機密解除された[[中央情報局|CIA]]の機密文書では、チトーの経済モデルによって、年間[[国民所得|GNP]]は約7 %の経済成長を遂げていたが、一方では、上策とは言えない産業投資と、国際収支の慢性的な赤字を生み出していた。1970年代の、制御不能な成長により、慢性的なインフレを引き起こし、チトーとユーゴスラビア共産主義者同盟は、この状況を完全に安定させることも緩和させることもできなかった。ユーゴスラビアは、[[LIBOR]]のレートと比較して高金利の貸付ローンを支払っていたが、チトーは不人気な改革の実行能力と、その意思があったために、チトーの存在によって投資家の不安は和らいでいた。チトーの死去が目前に迫った1979年までに、経済の世界的後退が起き、失業の増大、1970年代を通じて(ユーゴスラビアの)経済成長率は5.9 %まで鈍化し、それまでユーゴスラビア人が慣れ親しんだ急成長の経済成長が急低下する可能性が高まっていた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=hYzo_TJ1BM4C&q=tito+economy&pg=PA25|title=Yugoslavia: From "national Communism" to National Collapse: US Intelligence, page 312|publisher=National Intelligence Council|year=2006|isbn=978-0160873607}}</ref><ref>{{cite web|url=https://mises.ca/the-economy-of-titos-yugoslavia-delaying-the-inevitable-collapse|title=The Economy of Tito's Yugoslavia: Delaying the Inevitable Collapse|publisher=Ludwig von Mises Institute Canada|year=2014|access-date=11 July 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20171024012054/https://www.mises.ca/the-economy-of-titos-yugoslavia-delaying-the-inevitable-collapse/|archive-date=24 October 2017|url-status=dead}}</ref>。

1974年のユーゴスラビアの新憲法制定にあわせてチトーが始めたものは、[[アメリカ合衆国国務省]]のA.ロス・ジョンソンの表現を借りれば、「戦後ユーゴスラビアにおける最初の取り組みである(そしてあらゆる共産主義下の体制においても初の試みである)、後継者への移行期間に向けて、党の意思決定機関に、属人的ではなく制度や仕組みにもとづいた『ゲームのルール』を確立すること{{sfn|Johnson|p=30}}」だった。この仕組みが、国家と党の代表者による集団指導体制となり、代表者は輪番で元首となるがその任期は1年に限定された{{sfn|Johnson||pp=29-30}}。しかしロバート・M・ヘイデン教授は、この体制がユーゴスラビアの崩壊につながったと考えている。「1989年から1991年にかけてのユーゴスラビアがうける政治的圧力はおそらくどんな連邦構造でも受け止めきれなかっただろうが、1974年憲法が抱える欠陥によって、それが制御不能になることは確実であり、内戦勃発は事実上不可避だった。したがって、連邦構造を破壊したスロベニア人と、好戦的な政治姿勢でスロベニア人をそう仕向けた[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]、そして『連邦』というキメラ〔荒唐無稽な話〕をさも合理的な憲法構造のように思わせた憲法起草者達、彼らは内戦勃発に関して連帯責任を負わなければならない。」と述べている{{sfn|Hayden|p=29}}。

== 遺産 ==
チトーは、ユーゴスラビアを貧困国から中所得国へと変貌させたことで、女性の権利、健康、教育、都市化、工業化、その他多くの人間開発や経済的発展の分野における著しい進歩を実現したと評価されている<ref>{{Cite book|last1=Perović|first1=Latinka|url=https://books.google.com/books?id=5ovgswEACAAJ|title=Yugoslavia from a Historical Perspective|last2=Roksandić|first2=Drago|last3=Velikonja|first3=Mitja|last4=Höpken|first4=Wolfgang|last5=Bieber|first5=Florian|date=2017|publisher=Helsinki Committee for Human Rights in Serbia|isbn=978-86-7208-208-1}}</ref>。

チトー政権下のユーゴスラビアは国内の工業化や[[兄弟愛と統一道路]]などの[[インフラ]]整備を推し進めて年率平均6.1%の経済成長を達成し、識字率は91%まで向上して医療費はすべて無料であり、ソ連や他の東欧諸国と比べて自由な生活をおくることができた<ref>Lampe, John R.; Yugoslavia as History: Twice There Was a Country; Cambridge University Press, 2000 ISBN 0-521-77401-2</ref><ref>Ramet, Sabrina P.; The Three Yugoslavias: State-building and Legitimation, 1918–2005; Indiana University Press, 2006 ISBN 0-253-34656-8</ref><ref>Michel Chossudovsky, International Monetary Fund, World Bank; The Globalisation of Poverty: Impacts of IMF and World Bank Reforms; Zed Books, 2006; (University of California) ISBN 1-85649-401-2</ref>。

クロアチアの週刊ニュース雑誌「Nacional」が2003年に実施した世論調査「[[最も偉大なクロアチア人]]」では、チトーが1位となった<ref name="rezultati">{{cite magazine|url=http://arhiva.nacional.hr/clanak/13694/tito-je-jedini-hrvatski-drzavnik-koga-je-svijet-prihvacao-kao-svjetsku-licnost|title=Tito je jedini hrvatski državnik koga je svijet prihvaćao kao svjetsku ličnost|trans-title=Tito is the only Croatian statesman accepted by the world as a global personality|language=Croatian|magazine=[[Nacional (weekly)|Nacional]]|date=6 January 2004|issue=425|author=Robert Bajruši|accessdate=24 November 2020|archivedate=25 February 2012|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120225055827/http://www.nacional.hr/clanak/13694/tito-je-jedini-hrvatski-drzavnik-koga-je-svijet-prihvacao-kao-svjetsku-licnost}}</ref>。2010年の世論調査では、81%のセルビア人が、チトー時代の方が生活は良かったと答えている<ref>{{Cite web |date=24 December 2010 |title=Serbia Poll: Life Was Better Under Tito |url=https://balkaninsight.com/2010/12/24/for-simon-poll-serbians-unsure-who-runs-their-country/ |access-date=23 January 2021 |website=Balkan Insight}}</ref>。

彼の生涯、そして特に亡くなってから1年のあいだ、様々な場所がチトーにあやかった名前をつけられている(その後、いくつかの場所はもともとの名前に戻されている)。例えば、ポドゴリツァの旧称はチトーグラードであり、ウジツェはティトヴォ・ウジツェという名称だった。ユーゴスラビアの首都だったベオグラードの通りも、例外なく第二次世界大戦前かつ共産主義体制になる前のもともとの名称に戻されている。2004年には、{{仮リンク|アントゥン・アウグスティンチッチ|en| Antun Augustinčić }}が制作したチトーの生誕地クムロヴェツにあるチトーの像が爆破され、首が落ちるという事件が起きている<ref>{{cite web |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F02E3DE1639F93BA15751C1A9629C8B63 |title=Bomb Topples Tito Statue |work=The New York Times |date=28 December 2004|access-date=28 April 2010}}</ref>(その後、像は修復された)。2008年には、当時ザグレブのチトー元帥広場(2017年以降はクロアチア共和国広場)があった場所で、「広場のためのサークル」(''Krug za Trg'')と呼ばれるグループによる抗議活動が2度発生した。彼らの要求は市当局に広場の名前を以前の名称へ戻すよう認めさせることだった。一方でそれに対する反対抗議活動も起き、「[[ウスタシャ|ウスタシズム]]に反対する市民運動」 (''Građanska inicijativa protiv ustaštva'')は、「広場のためのサークル」を[[歴史修正主義]]かつ[[ネオ・ファシズム]]であると非難した<ref>{{cite web |url=http://dalje.com/hr-zagreb/spremni-smo-braniti-antifasisticke-vrijednosti-rh/214432 |title=Spremni smo braniti antifašističke vrijednosti RH |publisher=Dalje |date=13 December 2008 |access-date=28 April 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120507203035/http://dalje.com/hr-zagreb/spremni-smo-braniti-antifasisticke-vrijednosti-rh/214432 |archive-date=7 May 2012 |url-status=dead}}</ref>。クロアチアの[[スティエパン・メシッチ]]大統領も、広場の名称変更を求めるデモを批判した<ref>{{cite web |url=http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/newsbriefs/setimes/newsbriefs/2008/02/11/nb-10 |title=Thousands of Croats demand Tito Square be renamed |publisher=SETimes |date=11 February 2008 |access-date=28 April 2010}}</ref>。

しかしチトーにちなんだものはいまなお数多い。高さ約10メートルの世界最大のチトーの記念碑は、スロベニアの[[ヴェレニエ]]にある中央広場、チトー広場にある<ref name="DEDIST">{{cite encyclopedia |url=http://www.dedi.si/dediscina/325-spomenik-josipu-brozu-titu-v-velenju |title=Spomenik Josipu Brozu Titu v Velenju |trans-title=The Monument to Josip Broz Tito in Velenje |encyclopedia=Enciklopedija naravne in kulturne dediščine na Slovenskem – DEDI [Encyclopedia of Natural and Cultural Heritage in Slovenia] |first1=Alenka |last1=Bartulovič |editor1-first=Mateja |editor1-last=Šmid Hribar |editor2-first=Gregor |editor2-last=Golež |editor3-first=Dan |editor3-last=Podjed |editor4-first=Drago |editor4-last=Kladnik |editor5-first=Bojan |editor5-last=Erhartič |editor6-first=Primož |editor6-last=Pavlin |editor7-first=Jerele |editor7-last=Ines |access-date=12 March 2012 |language=sl |date= |archive-date=28 October 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20121028032717/http://www.dedi.si/dediscina/325-spomenik-josipu-brozu-titu-v-velenju |url-status=dead }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.velenje-tourism.si/en/307 |title=Monument of Josip Broz |publisher=Tourist Information and Promotion Center Velenje |access-date=10 November 2012 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20121208211813/http://www.velenje-tourism.si/en/307 |archive-date=8 December 2012}}</ref>。スロベニアの都市[[マリボル]]にある橋の1つには、チトー橋がある<ref>{{cite web |url=http://maribor-pohorje.si/tito-s-bridge.aspx |title=Slovenia-Maribor: Tito's Bridge (Titov most) |publisher=Maribor |access-date=10 November 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140414084430/http://maribor-pohorje.si/tito-s-bridge.aspx |archive-date=14 April 2014 |url-status=dead }}</ref>。スロベニア最大の港湾都市[[コペル]]の中央広場は、チトー広場と名付けられている<ref>{{cite web|url=http://www.pano.si/2011/04/tito-square-smile-in-koper.html |title=Saša S: Tito square smile in Koper |publisher=Pano |date=8 April 2011 |access-date=10 November 2012}}</ref>。1937年にセルビアの天文学者[[ミロラド・プロティッチ]]がベオグラード天文台で発見した小惑星はチトーの名前にちなんで命名された<ref name="springer" />。

クロアチアの歴史家マリアナ・ベラージは、クロアチアや旧ユーゴスラビアの他の地域の一部の人々にとって、チトーは世俗的な聖人として記憶されているとし、クロアチア人の家庭では、願いをかけるために、カトリックの聖人の肖像画とチトーの肖像画を並べて壁に飾っていることがいると述べている{{sfn|Belaj|p=78}}。チトーに手紙を書く習慣も、彼の死後なおさかんであり、旧ユーゴスラビアのウェブサイトにはチトーに手紙を送るためのフォーラムに特化しているものがいくつもあった。多くの人がそこではプライベートな問題について書いていたという{{sfn|Belaj|p=78}}。毎年5月25日には、旧ユーゴスラビアから何千人もの人が、チトーを追悼し{{sfn|Belaj|p=71}}、旧ユーゴスラビア最大の年間行事の一つであった「青年の日」を祝うためにチトーの故郷クムロヴェツ<ref>{{cite web |url=https://www.total-croatia-news.com/lifestyle/63024-several-thousand-admirers-of-tito-aelebrate-day-of-youth-in-kumrovec |title=Several Thousand Admirers of Tito Celebrate Day of Youth in Kumrovec |publisher=Total Croatia News |date=21 May 2022 |access-date=15 July 2022 |archive-date=22 October 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221022150805/https://www.total-croatia-news.com/lifestyle/63024-several-thousand-admirers-of-tito-aelebrate-day-of-youth-in-kumrovec |url-status=dead}}</ref>とチトーが眠る場所である「花の家」<ref>{{cite news |url=https://slobodnadalmacija.hr/mozaik/zivot/zimski-vrt-s-prostorima-za-rad-i-odmor-josipa-broza-tita-posjecuju-brojni-gosti-evo-sto-se-nalazi-u-kuci-cvijeca-i-kada-je-sagraden-mauzolej-1240740 |title=Zimski vrt s prostorima za rad i odmor Josipa Broza Tita posjećuju brojni gosti, evo što se nalazi u 'Kući cvijeća' i kada je sagrađen mauzolej |trans-title=Many guests visit Josip Broz Tito's winter garden with work and rest areas, here is what is in the 'House of Flowers' and when the mausoleum was built |language=sh |newspaper=[[Slobodna Dalmacija]] |date=14 November 2022 |access-date=10 March 2023}}</ref>に集まる。この「青年の日」には例年、チトーの誕生日を祝うために「{{仮リンク|青年のリレー|en|Relay of Youth}}」が行われた。

毎年、「同胞と団結」のリレーレースがモンテネグロ、北マケドニア、セルビアで開催され、5月25日のチトー永眠の地である「花の家」で終了する。同時に、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのランナーは、クムロヴェツへとむけてスタートを切る。リレーは、ユーゴスラビア時代の「青年のリレー」の名残であり、当時は若者が、毎年徒歩でユーゴスラビアを旅し、ベオグラードで盛大な祝賀会でもって終了していた<ref>{{cite web |url=http://www.balkaninsight.com/en/article/relay-for-tito-leaves-montenegro-en-route-to-belgrade |title=Relay for Tito leaves Montenegro en route to Belgrade |date=3 May 2013 |publisher=Balkan Insights |access-date=3 May 2013}}</ref>。

ベラージによれば、チトーが死後に個人崇拝の対象となったのは、彼のどこにでもいるような人間性と、普通の人々から「友人」としてのイメージを抱かれていたこと大きく、冷酷で、超然とした、神のごとき人物でその並外れた資質によって普通の人々とははっきり違う存在としてイメージをもたれて個人崇拝をされていたスターリンとは対照的である{{sfn|Belaj|p=77}}。5月25日にはチトー像にキスをするためクムロヴェツを訪れる人がいるが、そのほとんどは女性である{{sfn|Belaj|pp=84–85}}。ベラージは、こうしたチトー人気について、クムロヴェツへと来るほとんどの人は共産主義を信じていないことから共産主義の影響は少なく、むしろチトー時代のユーゴスラビアに対する郷愁と、偉人となった「普通の人」への敬意によるものだと述べている{{sfn|Belaj|p=87}}。チトーはクロアチア民族主義者ではなかったが、チトーが世界で最も有名なクロアチア人になり、[[非同盟運動]]だけに限らず、世界的に重要なリーダーとなったという事実は、クロアチア人の一部のひとにとっての誇りとなっている{{sfn|Belaj|pp=81, 87}}。

だがユーゴスラビアの解体後、歴史家たちは、チトー政権下のユーゴスラビア(チトーとスターリンの対立が表面化するまでの10年間)における人権抑圧について明らかにし始めた{{sfn|McGoldrick|p=17}}<ref name=Cohen>{{cite book| title=Group Psychotherapy and Political Reality: A Two-Way Mirror|last1=Cohen|first1=Bertram D.|last2=Ettin|first2=Mark F.|last3=Fidler|first3=Jay W.|year=2002|publisher=International Universities Press|isbn=978-0-8236-2228-3|page=193}}</ref>。2011年10月4日、スロベニア憲法裁判所は、2009年にリュブリャナの通りがチトーにちなんで命名されたことは違憲であるとの判決を下した<ref name="Slovenia Times">{{cite news |title=Naming Street After Tito Unconstitutional |newspaper=Slovenia Times |date=5 October 2011 |url=http://www.sloveniatimes.com/naming-street-after-tito-unconstitutional |access-date=8 October 2011 |archive-date=21 December 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181221230506/http://www.sloveniatimes.com/naming-street-after-tito-unconstitutional |url-status=dead }}</ref>。当時スロベニアの公共の場所にはユーゴスラビア時代に命名されてチトーの名を冠しているものもあったが、新たに通りの名前を改称することについて、裁判所は以下のような判断を下した。

{{blockquote|「チトー」と言う名称は第二次世界大戦中のファシスト支配からの現在のスロベニアの解放の象徴であるだけでなく、本裁判の他方当事者が主張する通り、特に第二次世界大戦後の10年間における、重大な人権と基本的自由の侵害の象徴でもある<ref>{{Cite web |url=http://odlocitve.us-rs.si/usrs/us-odl.nsf/o/AB6C747BE8DF7AF3C125791F00404CF9 |title=Text of the decision U-I-109/10 of the Constitutional Court of Slovenia, issued on 3 October 2011, in Slovene |access-date=8 October 2011 |archive-date=26 October 2014 |archive-url=https://web.archive.org/web/20141026195013/http://odlocitve.us-rs.si/usrs/us-odl.nsf/o/AB6C747BE8DF7AF3C125791F00404CF9 |url-status=dead }}</ref>。}}

一方で裁判所は、この再審理の目的は、「チトーの人物像や具体的な行動に対しての判決を下すことではなく、事実や当時の状況について歴史的な評価をすることでもない」ことを明確にしている<ref name="Slovenia Times"/>。スロベニアには、高さ10メートルにおよぶチトーの像のあるチトー広場([[ヴェレニエ|ベレニエ]])のように、チトーにその名をちなむ通りや広場がいくつもある

チトーについては人権抑圧だけでなく、第二次世界大戦末期にドイツによるユーゴスラビアの占領が終了すると、ユーゴスラビアの諸民族については包摂的な態度だったのとは対照的に、[[ヴォイヴォディナ]]からドイツ系住民([[バナト#ハプスブルク支配|ドナウ・シュヴァーベン人]])が追放あるいは大量に処刑され、組織的な民族撲滅が起こったことの責任をチトーに求める学者もいる<ref>John R. Schindler: "Yugoslavia’s First Ethnic Cleansing: The Expulsion of the Danubian Germans, 1944–1946", pp. 221–229, Steven Bela Vardy and T. Hunt Tooley, eds. ''Ethnic Cleansing in Twentieth-Century Europe'' {{ISBN|0-88033-995-0}}.</ref>。

== エピソード ==
*チトーは、語学力に長けており、母国語の[[クロアチア語]]、[[スロベニア語]]以外に、[[ロシア語]]、[[チェコ語]]など、[[スラヴ語派|スラブ語系]]に精通し、その他に、[[ドイツ語]]ができ、[[フランス語]]、[[イタリア語]]はリスニングとリーディングは問題ないレベルであったと言う{{Sfn|デディエ|p=373}}。

*チトーは4度結婚し、度々不倫をしていた。1918年、戦争捕虜時代に[[オムスク]]で、当時14歳の少女ペラギヤ・ベローゾワと出会い、1年後に結婚し、ペラギヤを連れて、ユーゴスラビアへと戻った。2人の間には5人の子供に恵まれたが、成長したのは息子のジャルコ・レオン・ブロズ<ref name="Stana">{{cite book |title=Tito u Bjelovaru |last=Koprivica-Oštrić |first=Stanislava |year=1978 |publisher=Koordinacioni odbor za njegovanje revolucionarnih tradicija |page=76}}</ref> (1924年2月4日生まれ<ref name="Stana"/>)だけだった{{sfn|Barnett|p=39}}。1928年にチトーが投獄されると、ベローゾワはロシアへと戻り、1936年に離婚し、再婚した。1936年、チトーはモスクワのホテルに滞在した際、[[オーストリア人]]のルチア・バウアーと出会う。2人は同年10月に結婚したが、この結婚歴は後に、意図的に消去された{{sfn|Barnett|p=44}}。3度目の結婚相手は、ヘルター・ハースで、1940年に結婚した<ref name=mandc>{{cite web |url=http://www.monstersandcritics.com/news/europe/news/article_1539668.php/Tito-s-ex-wife-Hertha-Hass-dies |archive-url=https://archive.today/20130128231725/http://www.monstersandcritics.com/news/europe/news/article_1539668.php/Tito-s-ex-wife-Hertha-Hass-dies |url-status=dead |archive-date=28 January 2013 |title=Tito's ex wife Hertha Hass dies |publisher=Monsters and Critics |date=9 March 2010 |access-date=29 April 2010}}</ref>。[[ユーゴスラビア侵攻]]後に、ハースは妊娠し、チトーはベオグラードへと向かった。1941年5月、彼女は息子のアレクサンダル・ミーショ・ブロズを出産した。チトーはハースとの結婚関係中、ズデンカ・ホルバートというコードネームのレジスタンスの運び屋を務め、チトーの個人秘書にもなったダヴォルジャンカ・パウノヴィッチと関係を持っていた。チトーとハースは、1943年、第2回AVNOJ会合時に離婚する。ハースは、チトーとダヴォルジャンカが一緒にいるのを目撃したためとされる<ref>{{cite web|url=http://www.blic.rs/drustvo.php?id=72155 |title=Titova udovica daleko od očiju javnosti |publisher=Blic |date=28 December 2008 |access-date=29 April 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20091214122230/http://www.blic.rs/drustvo.php?id=72155 |archive-date=14 December 2009 }}</ref>。ハースが最後にチトーに会ったのは1946年であった<ref>{{cite web |url=http://www.vecernji.hr/vijesti/u-96-godini-umrla-bivsa-titova-supruga-herta-haas-clanak-108015 |title=U 96. godini umrla bivša Titova supruga Herta Haas |publisher=Večernji list |date=9 March 2010 |access-date=29 April 2010}}</ref>。ダヴォルジャンカは、1946年に[[結核]]で死去し、チトーは彼女の遺体をベオグラードの自身の邸宅であるベリ・ドヴォルの裏庭に埋葬するよう命令した{{sfn|Borneman|pp=160}}。1952年初夏、4度目の結婚をし、結婚相手はセルビア人のヨヴァンカ・ブデサヴリエウィチであった{{Sfn|デディエ|p=375}}。彼女は、チトーの外遊に同行するなどした{{Sfn|恒文社|p=38}}。

*チトーは、ユーゴスラビア国民に対して、耐乏生活を呼びかけていたが、自身は500人規模を招待できる別荘を建設させたり、高級車にも乗り、クルーザーも所有し贅沢三昧の生活を送っていた{{Sfn|ゲズ|pp=221-222}}。女性関係も派手で、人気オペラ歌手や、ソ連の人気女優にも手を出していた{{Sfn|ゲズ|pp=221-222}}。

== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Josip-Broz-Tito-1892-1980-President.jpg|記念切手(1967年)
ファイル:Marshal-Josip-Broz-Tito-1892-1980.jpg|記念切手(1945年)
ファイル:Josip Broz Tito monument.jpg|モニュメント
ファイル:Josip Broz Tito, Pula.JPG|[[プーラ (クロアチア)|プーラ]]に位置する胸像
ファイル:Josip Broz Tito Square (Kumanovo) caricature.png|チトーのカリカチュア
</gallery>


== 脚注・注釈 ==
== 脚注・注釈 ==
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=== 脚注 ===
=== 脚注 ===
{{reflist|20em|refs=
{{Reflist}}

*<ref name="springer">{{cite book|last= Schmadel | first = Lutz D.|title= Dictionary of Minor Planet Names |publisher= Springer Berlin Heidelberg|page= 123|date= 2007|isbn= 978-3-540-00238-3|doi= 10.1007/978-3-540-29925-7_1551 |chapter= (1550) Tito }}</ref>
}}


=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
{{reflist|group="*"}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=[[柴宜弘]]|title=ユーゴスラヴィアの実験 : 自主管理と民族問題と|date=1991年6月 |publisher=岩波書店 |id={{全国書誌番号|91050604}}|ref={{SfnRef|柴(1991)}} }}
{{節スタブ}}
*{{Cite book |和書 |author=[[山崎佳代子]]||title=解体ユーゴスラビア|date=1993年6月 |publisher=朝日新聞社 |id={{全国書誌番号|93048950}}|ref={{SfnRef|山崎(1993)}} }}
* {{Cite book ja|author=ウラジーミル・デディエ|translator=[[高橋正雄 (経済学者)|高橋正雄]]|title=チトーは語る|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|2988730}}|url-access=registration|publisher=[[河出書房新社|河出書房]]|date=1953-12-05}}(新時代社、1970年)
* {{Cite book ja|author=V.ィンテハルテル|translator=[[田中一生]]|title=チトー伝 ユーゴスラヴィア社会主義の道|url={{国立国会図館デジタルコレクション|12221703}}|url-access=registration|publisher=[[徳間書店]]|date=1972-12-15}}
*{{Cite book |和書 |author=[[エドド・カデリ]]|translator=山崎佳代子 |title=自主管理社会主義の道 : カルデリ回想記|date=1982年3月 |publisher=亜紀書房 |id={{国書誌番号|82053118}}|ref={{SfnRef|カルデリ}} }}
*{{Cite book |和書 |author=柴宜弘|title=図説バルカンの歴史|date=2006年4月 |publisher=河出書房新社|isbn= 978-4-560-09487-7|ref={{SfnRef|柴(2006)}} }}
* {{Cite book ja|translator=[[島田浩]]|title=ヨシプ・ブロズ・チトー 非同盟社会主義の歩み|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12182532}}|url-access=registration|publisher=[[恒文社]]|date=1974-07-20}}
* {{Cite book ja|editor=恒文社|title=チトー : 英雄の生涯 1892-1980|url={{国立国会図館デジタルコレクション|12221799}}|url-access=registration|publisher=恒文社|date=1980-07-31}}
*{{Cite book |和書 |author=[[橋本明]]|title=チトー|date=1967 |publisher=恒文社 |id={{国書誌番号|67000522}}|ref={{SfnRef|橋本(1967)}} }}
* {{Cite book ja|author=ズボンコ・シタウブリル|translator=[[岡崎慶興]]|title=チトー・独自の道 スタリン主義闘い|url={{国立国会図館デジタルコレクション|12182620}}|url-access=registration|publisher=[[サイマ出版会]]|date=1980}}
*{{Cite book |和書 |author=[[ヴィルコ・ヴィハルテル]]|translator=[[田中一生]] |title=チトー : ユゴスラヴィア社会主義の道|date=1972年 |publisher=徳間書店 |id={{国書誌番号|91050604}}|ref={{SfnRef|ヴィンテハルテル}} }}
* {{Cite book ja|author=高橋正雄|title=チトーと語る|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12286290}}|url-access=registration|publisher=恒文社|date=1982-02-25}}
*{{Cite book |和書 |author=[[高橋正雄]]|title=チトーと語る|date=1982年2月 |publisher=恒文社 |isbn= 4-7704-0479-4|ref={{SfnRef|高橋(1982)}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[ウラジーミル・デディエ]]|translator=[[高橋正雄]] |title=チトーは語る|date=1970年 |publisher=新時代社|id={{全国書誌番号|73011807}}|ref={{SfnRef|デディエ}} }}
*{{Cite book |和書 |author=恒文社 編|title=チトー : 英雄の生涯 1892-1980|date=1980年7月 |publisher=恒文社 |id={{全国書誌番号|81012150}}|ref={{SfnRef|恒文社}} }}
*{{Cite book |和書 |author=オリヴィエ・ゲズ|authorlink=オリヴィエ・ゲズ|translator=[[神田順子]], [[清水珠代]],[[松尾真奈美]],[[濱田英作]]|title=独裁者が変えた世界史 上|date=2020年4月 |publisher=原書房 |isbn= 978-4-562-05749-8|ref={{SfnRef|ゲズ}} }}
*{{Cite book |和書 |author=柴宜弘|title=ユーゴスラヴィアで何が起きているか|date=1993年5月 |publisher=岩波書店|isbn= 4-00-003239-9|ref={{SfnRef|柴(1993)}} }}
*{{Cite book |和書 |author=柴宜弘|title=ユーゴスラヴィア現代史|date=2021年8月 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4-00-431893-4|ref={{SfnRef|柴(2021)}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[スティーヴン・クリソルド]]|translator=田中一生 |title=ユーゴスラヴィア史 : ケンブリッジ版|date=1993年3月 |publisher=亜紀書房 |isbn=4-7704-0371-2|ref={{SfnRef|クリソルド}} }}
*{{Cite book |和書 |author=M.ドルーロヴィチ|translator=高屋定国,山崎洋 |title=試練に立つ自主管理 : ユーゴスラヴィアの経験|date=1980年5月 |publisher=岩波書店 |id={{全国書誌番号|81012150}}|ref={{SfnRef|ドルーロヴィチ}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[ジョレス・メドヴェージェフ]],[[ロイ・メドヴェージェフ ]]|translator=久保英雄 |title=知られざるスターリン|date=2003年3月 |publisher=現代思潮新社 |isbn=4-329-00428-3|ref={{SfnRef|メドヴェージェフ}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[ディアンヌ・デュクレ]],[[エマニュエル・エシュト ]]|translator=清水珠代 |title=独裁者たちの最期の日々 下巻|date=2003年3月 |publisher=原書房 |isbn=978-4-562-05378-0|ref={{SfnRef|デュクレ&エシュト}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[レオ・マテス]]|translator=[[鹿島正裕]] |title=非同盟の論理 : 第三世界の戦後史|date=1977年 |publisher=TBSブリタニカ |id={{全国書誌番号|77014385}}|ref={{SfnRef|マテス}} }}
* {{cite book |last=Barnett |first=Neil |year=2006 |url=https://books.google.com/books?id=ekBzEAAAQBAJ |title=Tito |isbn=978-1913368425 |location=London |publisher=[[Haus Publishing]]|ref = {{SfnRef|Barnett}} }}
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* {{cite book| last = Matas| first = David | author-link = David Matas | title = No More: The Battle Against Human Rights Violations| year = 1994| publisher = Dundurn | isbn = 978-1-55002-221-6| url = https://books.google.com/books?id=Iz6pvc3YSr0C&q=tito+regime+human+rights&pg=PA37|ref={{SfnRef|Matas}} }}
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* {{cite book| last = Borneman| first = John| title = Death of the Father: An Anthropology of End in Political Authority| year = 2004| publisher = Berghahn Books| isbn = 978-1-57181-111-0|ref = {{SfnRef|Borneman}} }}


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ヨシップ・ブロズ・チトー
  • Josip Broz Tito
  • Јосип Броз Тито
軍服を着たチトー(1961年)
生年月日 1892年5月7日
出生地
没年月日 (1980-05-04) 1980年5月4日(87歳没)
死没地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア
スロベニア社会主義共和国の旗 スロベニア社会主義共和国
リュブリャナ
出身校 小学校卒業
前職 軍人
現職 国家元首
所属政党 ユーゴスラビア共産党ユーゴスラビア共産主義者同盟
称号
配偶者 ヨワンカ・ブローズen:Jovanka Broz[1]
サイン

在任期間 1953年1月13日 - 1980年5月4日

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
初代首相
内閣 チトー内閣
在任期間 1943年11月9日 - 1963年6月29日
国民議会幹部会議長英語版
大統領
イヴァン・リヴァル (1945-1953)
チトーが兼任 (1953-1963)

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
初代国防相
内閣 チトー内閣
在任期間 1945年11月29日 - 1953年1月13日
首相 チトーが兼任

パルチザンの旗 人民解放軍総司令官
在任期間 1941年 - 1945年

在任期間 1938年3月 - 1980年5月4日
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ヨシップ・ブロズ・チトー / ヨシプ・ブローズ・ティトーセルビア・クロアチア語: Josip Broz Tito / Јосип Броз Тито [jǒsip brôːz tîto] ( 音声ファイル)1892年5月7日 - 1980年5月4日)は、ユーゴスラビア軍人政治家。本名はヨシップ・ブロズセルビア・クロアチア語: Josip Broz / Јосип Броз)。第二次世界大戦枢軸国の支配下となったユーゴスラビア王国において人民解放軍(パルチザン)の総司令官として枢軸国への抵抗運動を指揮し、戦後は成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国(ユーゴスラビア人民共和国)において初代首相(初代国防相も兼任)、第2代大統領(後に終身大統領)、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者を務めた。第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビア国内に影響を与えた政治家であり、「チトー(ティトー)元帥」という呼び名でも知られている。

年表

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生涯

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生い立ち

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チトーの生家

クロアチア人の父、スロベニア人の母のもと、クロアチアクムロヴェツ英語版に生まれる[12][13][14]。チトーの戸籍上の正しい生年月日は、1892年5月7日であるが、小学校の在学証明書には5月1日生まれという記録や、軍隊時代の書類では、5月25日生まれという記録もある[15]。ユーゴスラビアでは、5月25日をチトーの誕生日として祝っていた[15]。チトーは15人きょうだいの7番目の子供であるが、15人中8人が幼児になるまでに死去してしまう[16][17][18]。チトーはクロアチア領生まれであるが、幼少期はクロアチア語よりも、母親の母国語であるスロベニア語を得意としており、小学校時は、クロアチア語の授業に苦労するも、総じて学校の成績は良好だった[19][20][21]

小学校卒業後、チトーは、母方の親戚の下で牧畜業に勤務するも、すぐに退職し、今度は父親の紹介で、親戚が経営する飲食店にて勤務する[22][23]。その飲食店も退職し、アメリカへの移住を検討するが資金を捻出できず断念した[23]。チトーは、その後、1907年から1910年まで錠前工の見習いとなる[14][23][22]。当時、錠前工は、錠前だけでなく自転車猟銃などを作る何でも屋で、機械工に近い職業だった[23][12]。1910年9月に、錠前工の見習いを修了し、ザグレブで金属労働組合に参加する[24]。1910年10月には、社会民主党英語版に入党するがこれといった活動はしなかった[25][26]。チトーは職を転々とし、オーストリア=ハンガリー帝国の領内を動き回り、労働者の集会に出席するなど社会主義に傾倒していった[27]。1913年、チトーは兵役年齢に達したため、オーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊し、所属する連隊の中では最年少の軍曹になる[28][29]。チトーは運動神経に秀でており、フェンシング乗馬体操を得意とし、特にフェンシングについては、軍の大会で2位に輝いたことがある[30][31]

第一次世界大戦時代

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1914年、チトーは歩兵として、セルビア王国が支配するベオグラードの攻撃に加わった(1914年のベオグラード砲撃) [12]。このベオグラードへの攻撃については、チトーはセルビア人に配慮して、後に経歴から抹消させた[12]。チトーは、自身は社会主義者であるため、ロシア人と戦いたくないと意思表明したため、ペトロヴァラディン要塞に収監された[32]。結局1915年春ロシア戦線のカルパチア地方へと転属させられ、同地のロシア軍の騎馬部隊と戦うも、槍で突かれ重傷を負い、捕虜となった[29][32][31]

負傷したチトーは、13か月間治療入院する[33]。傷が癒えたチトーは、カザン近郊、ウラル山脈エカテリンブルクペルミなど、ロシア帝国の捕虜収容所を転々とする[31]。チトーは捕虜収容所では、錠前工という経歴を活かし、鉄道建設や修理の仕事に従事した[34]。鉄道建設・修理の仕事に従事している際、チトーは、国際赤十字から捕虜に割り当てられる食事を、鉄道課長が横領していることを知ったため、告発するも、恨みを買ったため投獄されてしまう[35][36][34]

1917年2月、2月革命が起き、捕虜の身であったチトーは、脱走し、ペトログラードへと向かった[37]。ペトログラードで、七月蜂起に参加し、フィンランド国境付近まで逃亡し、逮捕される[38]。逮捕されたチトーはシベリアの収容所に送還される際、十月革命が起き、オムスク赤衛隊に入隊する[38][39][31]

戦間期

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1927年のチトー

チトーは1920年9月、祖国へと帰国した[40][41]。帰国したチトーであったが、既に母は亡くなっていた[42]。オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、セルビア王を中心としたセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が樹立され、クロアチアはセルビア人の支配下に置かれており、経済状態は悪く、不安定な状況だった[43]。チトーは、ザグレブの機械工場に就職し、この時ユーゴスラビア共産党に入党する[44]。チトーは間もなく退職し、その後は様々な職を転々とし、主に労働組合の立ち上げや、ストライキの中心的実行者となって賃上げを勝ち取るなどしていた[45][46]。チトーは、1927年3月にザグレブで、金属労働組合の専従書記となるが、同年6月逮捕されてしまう[47][48]。逮捕されたチトーであったが、逮捕理由も明らかにされず、裁判も始まる様子がなかったため、彼はハンストによって、裁判を受けることができ、懲役5か月の実刑判決が下った[49]。1928年、釈放されたチトーは、皮革加工の労働組合の書記を兼任し、1928年2月25日から26日に、ザグレブ市で第8回ユーゴスラビア共産党党会議が開催され、チトーはザグレブ地区委員会の委員に就任する[50][51][52]。1928年のメーデーでは、チトーはデモ行進の群衆を分散させ、警察をかく乱した[52]。これが原因で、チトーは再度逮捕される[52]

1928年6月20日、クロアチア共和国農民党スチェパン・ラディチが議会で銃撃され、後日死亡した[53]。この事件を受けて、ザグレブでは、政府打倒のデモ運動が起き、チトーは地区委員としてこのデモを扇動した[53][54]。チトーは1928年8月4日逮捕される[55][51][54]。逮捕される8年ほど前の1920年12月には、国家保護法によって共産党は非合法化されており、共産主義の宣伝も禁じられており、チトーはこれに違反していた[51][56]。チトーは裁判に掛けられ、起訴内容を認めたが、自身に罪があるとは言えないと述べた[56]。1928年11月14日、1921年から1928年にかけて共産主義の宣伝活動を行なったとして懲役5年の実刑判決が下った[57][58][59][60][51][61]

服役中のチトーは、おとなしくしていたわけではなく、やすりで鉄格子を削って脱走を試みるなどしていた[57]。理由は不明だが、脱走間近になって、チトーは別の監獄に移されたため、脱走を断念した[57][62][63]。また、チトーは刑務所では機械工の職務を担い、刑務所所長の指示であれば、修理業務のために街を往来することができた[64]。これにより、塀の外にいる同志と連絡を取っていた[64][51]。チトーが服役中の1929年1月6日にはアレクサンダル1世によって、独裁政治が敷かれ、出版物も検閲されることになっていた[65][66][67]

1933年11月、チトーは出所し、出身地へ戻った[68][69]。出所後のチトーは、毎日官憲との面談が義務付けられていたが、これを無視して脱走する[69][70][71]。この時から、偽名であるチトーを名乗るようになる[69][70]。チトーという名前は、思い付きでつけたというのがチトー本人の説明であるが、チトーの出身地ではよくある名前で、後年モスクワでは、ワルターという名前で知られていた[69][58][72]。また、チトーは髪の毛を赤く染め、髭を蓄え、眼鏡をかけ、偽名も複数使い分けた[70][73]

当時、ユーゴスラビア共産党の指導部は、オーストリアウィーンに所在し、しかし党指導部は、モスクワの指導下にあった[74]。ユーゴスラビア国内で有事が起きた場合、ユーゴスラビアからウィーンに適切な指示を乞い、その後ウィーンは、モスクワに指示を仰ぎ、モスクワからウィーンを経て、ユーゴスラビア国内へと指示が到達するという形態になっていた[74]。時間がかかり、意思決定をする人間はユーゴの情勢に精通していない人間が意思決定をしているという問題や、モスクワからの指示がユーゴスラビア国内に到達する頃には、情勢が変わっているため役に立たないことや、これら指令は人力によるところがあったため、連絡係が逮捕されてしまうということもあった[74][75]

チトーは、ウィーンにあるユーゴスラビア共産党の中央委員会に招かれ、党中央委員(ウィーン)とユーゴスラビア国内の党組織の連絡を緊密化させる任務を帯びた[76][77]。1934年8月、チトーは党中央委員会政治局局員に選出された[76][78]。1934年9月から11月にかけて、クロアチアセルビアスロベニアダルマチア及びツルナゴーラで地方会議が開催され、チトーは同会議にすべて参加し、ユーゴスラビア国内の情勢に精通するように努めた[78]

1934年12月24日から25日にかけて、リュブリャナで第4回全国党大会が開催され、チトーは投票によって中央委員会委員に再選出された[79]。大会後にユーゴスラビア共産党に政治局が設けられ、モスクワ勤務が命じられた[79][80]

チトーはモスクワでは、コミンテルンのバルカン局書記局局員に就任する[81] [82]。1935年のコミンテルン第7回会議にも参加し、ユーゴにおける諸事件の報告を行なった[81] [83]。チトーは、1936年10月には、モスクワを離れユーゴスラビアへと戻る[84]。なお、ユーゴスラビアへ戻るまでに、チトーはパリスペイン内戦に向けて、義勇軍の組織と動員の特別任務にあたった[85][86][87]。チトーは合計1600人ほどのユーゴスラビア人の義勇兵をスペインへと派遣した[73][87][86][88]

チトーは、中央委員会組織局書記の任務を帯びており、分派したユーゴスラビア共産党内の対立を収め、再組織しなければならなかった[89][84][73]。チトーは、次々に古参幹部を追放した[86]。時には、権力を得るためには、同志の抹殺という手段も辞さなかった[87]。その代表例としては、ユーゴスラビア共産党書記長のミラン・ゴルキッチ英語版の追い落としがある。チトーは、ゴルキッチについて、批判的な報告をモスクワに上申しており、これが原因でゴルキッチは、1937年に、モスクワに召喚され、銃殺刑になった[87][81]。なお、チトーによると、ゴルキッチとは常日頃から反目しあい、ゴルキッチが手配した偽装パスポートを使用した同志は、ユーゴスラビア国境を無事に超えることはできなかったと述べ、ゴルキッチの方が追い落としを図っていたという証言や、ゴルキッチの逮捕理由は人づてに聞いたとして、チトー自身の証言ではゴルキッチ追い落としに関与していなかったとしている[90]

1937年年末、チトーは、銃殺刑になったゴルキッチに代わり、コミンテルンよりユーゴスラビア共産党中央委員会書記長に任命された[81][91]

書記長に就任したチトーであったが、この時のユーゴスラビア共産党の党員数は1500名ほどしかおらず、権力基盤も弱かった[92][86]。チトーは書記長として1937年から1940年にかけて、共産党の思想強化と組織強化を行い、チトーは、組織強化として下記を提示した[93]

  1. ユーゴスラビア共産党中央委員会本部は、外国ではなくユーゴスラビア本部に置くこと[94]
  2. 党内の分派を直ちに停止し、統一すること[94]
  3. ユーゴスラビア共産党は海外からの財政援助を受けないこと[94]
  4. 入党希望者を労働者と農民に拡充すること(それまでは入党予定者の周囲の評判で入党可否を決定していた)[94]
  5. 党員に対して社会規範を示すこと[94]
  6. ユーゴスラビア共産党の組織をユーゴ全国に設立する。[94]
  7. 党員に対して、適した仕事を見つけること[94]

第二次世界大戦

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第二次世界大戦中のチトー(右)

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が開戦する。この頃になると、チトーらユーゴスラビア共産党の党員数は約1万2000人を擁しており、ナチス・ドイツに対して反発していたものの、ソ連とドイツとの間で独ソ不可侵条約が締結されていたこともあり、大々的な反ファシズム運動を実行できないでいた[95]。 そんななか、ユーゴスラビア王国政府は、1941年3月日独伊三国同盟に加盟する[96]。しかし、同同盟の加盟を知ったユーゴ国民は、反対運動を繰り広げた[96]。1941年3月26日から27日にかけて、ユーゴスラビア王国軍のドゥシャン・シモヴィッチ英語版将軍は、クーデターを起こし、政権を掌握した[96]。シモヴィッチは、三国同盟を破棄せず、4月にはソ連友好不可侵条約ロシア語版を締結した[96]。どちら付かずの態度を取ったシモヴィッチであったが、1941年4月6日、ドイツ軍はベオグラードを空爆し、ユーゴスラビア国王軍は4月17日に降伏してしまう(ユーゴスラビア侵攻[96][97]。ユーゴスラビア王国政府のペータル2世らは、一旦カイロを経由し、ロンドン亡命政府を樹立した[98][99][100]。ユーゴスラビアは、イタリア軍とドイツ軍によって、分割統治された[98]

この頃、チトーはザグレブにいたが、4月10日の会合で、中央委員会付の軍事委員会が作られ、チトーが委員長となり、武器の調達や、軍事教練を施した[101]。1941年4月下旬に党中央委員会の本部をドイツ軍によって掌握されたザグレブから、無政府状態のベオグラードへと移転させた[102][103][103]。1941年6月22日独ソ戦勃発後、中央委員会政治局会議を開催し、枢軸軍に対して武装蜂起を行なうことを決議し、チトーを最高司令官とするユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊の最高司令部が発足した(以降、パルチザンと表記)[95][4][104]。ユーゴスラビア共産党の党員は、ユーゴ全国各地で武装蜂起を呼びかけた[95]。しかし、チトーをはじめとする政治局と最高司令部は、次第にベオグラードでの活動が難しくなったため、1941年9月16日、セルビア西部へと移転した[105][106][107]。セルビア西部を選択した理由は、森林の多さと丘陵地のため、いざという時に隠れやすかったこと、既にチトーとは別に抵抗運動を行なっていた集団がいたためである[106]。これ以後、チトーは各地を転戦し、1944年10月までベオグラードに帰還することはなかった[4]

1941年9月と10月、チトーは、旧ユーゴスラビア王国軍の軍人、ドラジャ・ミハイロヴィッチ率いるチェトニックとの対談を行ない、枢軸軍に対しての共闘を持ち掛けるが、両者の話し合いは平行線をたどり、合意に至らなかった[108][109][110]。チトーのパルチザン側は積極的に枢軸軍に戦いを仕掛ける方針であったが、ミハイロヴィッチは連合国軍がユーゴスラビアに到来するまで待機する方針であった[111][112][4]。ミハイロヴィッチ率いるチェトニックは、反共産主義の姿勢と、親英派のドイツ軍と内通し、チトーらパルチザンと戦うようになり、逆に枢軸軍と戦うことを避けた[111][108][112][113][114][4][115]。ミハイロヴィッチは、ロンドンにあるユーゴスラビア王国亡命政府を味方につけており、ロンドン亡命政府と、ヴィンテルハルテル曰く「西側諸国」はユーゴスラビアでの唯一の闘士はミハイロヴィッチであると宣伝していた[116]。イギリス政府は、ミハイロヴィッチの下に軍の使節団を派遣するなどして支持していた[117][118]。チトーらパルチザンによる軍事成果についても、連合国のプロパガンダBBCは、ミハイロヴィッチ率いるチェトニックによる功績であると報道していた[117][118][119][116][120]

チトーらパルチザンは、農民に対して戦後の土地改革を語るなど、地道に活動し、次第にユーゴ国民の支持を集める[121]。1941年10月に、パルチザンはウジツェを占領し、ドイツ軍の武器生産工場を確保するも、1941年10月末から11月にかけて、ドイツ軍の大攻勢に遭い、同地を放棄してボスニア東部へと撤退した[122][109]。この後、ドイツ軍から1944年5月まで、合計7度の大攻勢を受けることになる[123][122]

チトーは、ソ連に援助を要請するが、ソ連は連合国の一員であり、連合国の一国であるイギリス政府は、亡命政府を支持していたため、援助は殆どしなかった[122][118][124]。ただ、ソ連の方は、チェトニックが枢軸軍側に立って戦っているという証拠を収集していた[125]。1941年年末時点でのパルチザンの兵力は8万人から9万人ほどであった[126][127]

1942年の前半は、チトーらパルチザンはツルナゴーラ近くの東ボスニア周辺で戦う[128]。1942年8月末までには、西ボスニアと中欧ボスニアの大部分を掌握した[129]。 1942年11月、チトーらパルチザンは、ビハチを掌握し、ここに最高司令部を置いた[130]。同月26日、チトーらパルチザンの指導者は、枢軸軍に対して抵抗運動を行なっている指導者たちを招集し、第1回ユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を開催し、ユーゴ内外に枢軸軍への闘争を行なうことを宣言した[131][129]。AVNOJの枢軸軍への闘争宣言は、連合国に強い関心を惹いた[132]。イギリス政府もそれまでのチェトニック支持を検討しなおし、1943年5月には、パルチザンの下に、イギリス軍の連絡将校を派遣するようになる[132][133]。1942年末から1943年にかけて、パルチザンの兵力は15万人以上に到達した[134]

1943年9月初旬、イタリアが降伏。パルチザンは、イタリア軍から10個師団分の戦利品を獲得し、戦力を増強する[135][136]

1943年1月から3月にかけて、枢軸軍による第4次反パルチザン攻勢が始まり、チトーらパルチザンは、枢軸軍チェトニックとの戦いに勝利する(ネレトヴァの戦い[125]。しかし、同年5月から6月にかけて、第5次反パルチザン攻勢がかけられ、この時はチトーも負傷し、パルチザンの下に来ていたイギリス軍の連絡将校も戦死する[137][138]。チトーは、ドイツ軍から僅か数百メートルのところにいたが、隠れ潜んで事なきを得た[138]。チトーらパルチザンは、北ボスニアへと撤退した[137]

一方、連合国軍は、1943年10月、ドラジャ・ミハイロヴィッチ率いるチェトニックが、連合国軍の味方になりえるかを確認するため、破壊工作を依頼する[139]。チェトニックは、ヴィシェグラード近郊の川にかかる橋の破壊工作は成功したものの、セルビアを縦断する鉄道網の破壊工作については、作戦実施を拒否した[139]。前後するが、1943年1月には、ウィンストン・チャーチルは連合国のユーゴに対する援助は、今後チトーのパルチザンに与えられると述べた[139]。1943年12月9日、コーデル・ハルアメリカ合衆国国務長官は、ユーゴスラビア情勢について、チトーらパルチザンへの支持を表明する[140]。これらにより、ミハイロヴィッチへの支持と支援は打ち切られた。

1943年11月29日、ボスニアのヤイツェで、第2回AVNOJを開催する[135][141][142]。同会議を開催する際、チトーは演説で、ミハイロヴィッチを非難する演説を行なった[143]。第2回AVNOJで決定した内容は概ね以下の通り。

  1. AVNOJがユーゴ最高の立法・執行機関であること[142][135][143] [144][123]
  2. 新しい権力機関としての性格を持つユーゴ解放全国委員会と呼ばれる行政府を形成すること[142][135][143] [144][123]
  3. 亡命政府のあらゆる権利の否定[142] [144][123]
  4. ペータル2世国王のユーゴ国内への帰国禁止[139] [144][123]
  5. チトーは元帥の称号と首相の地位を与えられた[139][141][145]
  6. トリエステのユーゴへの併合[139][145]
  7. 戦後はユーゴを連邦制とし、各民族を平等とすること[139][142] [144][123]

第2回AVNOJの決定を受けて、1943年12月中に、米英ソは相次いで第2回AVNOJの決定を承認する公式声明を発表した[146]。1943年末頃には連合軍はチトーらパルチザンに対して、武器・弾薬・食糧・衣服・医療品を援助し始める[146]。ロンドンにあるユーゴスラビア王国の亡命政府は、チェトニックとの関係を断ち、首相には、イヴァン・シュバシッチ英語版を任命した[147]

1944年5月25日、ドイツ軍は、チトー抹殺のため最後の第7次反パルチザン攻勢を実施する[148]。第7次反パルチザン攻勢では、ドイツ軍は20分間にわたり砲撃を行ない、第500SS降下猟兵大隊の兵士を空挺降下させた[149][150][151]。ドイツ軍側はチトーがいる最高司令部まで1 kmの距離まで迫ったが、パルチザンは即座に反撃し、防衛に成功し、チトーは自身自ら重機関銃を背負い、撤退する[152] [149][153]。チトーらパルチザンは、最高司令部をヴィス島に移した[149][150]。チトーらパルチザンは、この頃40万人の兵力を有していた[127][154]。1944年、ハインリヒ・ヒムラーは、チトーは強靭な精神の持ち主であり、決して降伏せず、元帥の称号に実にふさわしく、我がドイツにも欲しい人物であると評した[155]。また、チトーは、ナチス・ドイツの傀儡政権であるセルビア救国政府から、生死問わず10万ライヒスマルクの賞金を懸けられていた[156][14][157]

イギリス首相・チャーチルは、ユーゴスラビアの戦後構想はチトーとは違う思いを抱いていた[158]。チャーチルは、ロンドンにあるユーゴスラビア亡命政府と、チトーを議長とするユーゴスラビア解放全国委員会との連立政権をチトーに打診する[158]。1944年6月16日、チトーは、亡命政府首相シュバシッチと対談し、以下の内容について合意した[159][158][160]

  1. 民主的且つ信頼性ある王国政府を樹立する[159]
  2. 王国政府の主要任務を、パルチザンの援助機構確立と国民への食糧補給確保とする[159]
  3. 王国政府は特別宣言によって、過去3年間の解放闘争を通じて創造された国家及びパルチザン、ユーゴ人民解放反ファシスト評議会、チトー元帥首班の人民解放民族委員会の存在を承認し、枢軸軍との闘争も承認すること[159][161]
  4. 現存する在外公館など全ての外交機関を国権の保護及び人民解放運動の必要とのために引き続き存続させる[159]
  5. パルチザンを正として統一戦線を構築すること[161]
  6. 枢軸軍と協力した者の断罪[161]

チトーはこのシュバシッチとの対談時点では枢軸軍との戦闘継続のために、国家政体については一旦議題にせず、ユーゴスラビア解放後に議論することとした[159][161]。1944年8月、チトーはナポリでチャーチルと会談し、在伊連合軍司令部とパルチザンとの軍事協力の基本方針で一致した[159]。会談直後、王国政府が成立した[159]。閣僚2名は統一人民解放戦線代表だった[159]。1944年9月5日、チトーはスヴォーロフ勲章を授与され、スターリンと初めて対面する[162]。この頃、パルチザンの兵力は50万人以上にも達した[162]

1944年10月20日、とうとうパルチザンはソ連軍との合同作戦で、ベオグラードを解放した[163][158]。この頃パルチザンの兵力は、80万人にもなっていた[164][127]

ベオグラード解放直後の政治

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ベオグラード解放直後の1944年11月1日、亡命政府首相イヴァン・シュバシッチ英語版と民族委員会首相チトーは更に新しい協定を締結した[165][166]。締結内容は下記のとおりである。

  1. 国家組織の最終形態は祖国解放後、人民の自由意志で決定する[165][167]
  2. この間国王の祖国復帰を禁止する[165]
  3. 国王府の機能は民族委員会の承認に基づき、国王が任命した摂政会議がこれを代行する[165][166][167]
  4. 亡命政府及び民族委員会は統一政府を樹立する[165][166]

1945年2月、ヤルタ会談が開催され、会談の決定事項により、ユーゴスラビアは、チトーとイヴァン・シュバシッチとの連合政府を作り、ユーゴスラビア侵攻前に議席を保有していた議員を連合政府に参画させることになった[168]

これにより、民主連邦ユーゴスラビア臨時政府が1945年3月7日に成立した[165][5]。チトーが内閣総理大臣に就任した[165]。同内閣に入閣したのはチトーらパルチザン側が20名、亡命政府の閣僚が3名、戦前からの政党代表5名であった[164][169][170]。しかし、臨時政府成立後まもなく、亡命政府側の閣僚がチトーら共産主義者と相容れないとして辞職し、臨時政府はあっという間に瓦解する[171][5]

1945年5月1日、チトーの軍隊は、トリエステにまで軍を進め、同地を占領するも、英米と領土を巡って衝突した[172][173]。アメリカ軍は、(ユーゴからすると)領空侵犯をするなどしてきた[174]。結局、トリエステについては、1954年にイタリアはA地区(トリエステ港を含む中心部)を領有し、ユーゴはB地区(A地区以外の場所)を領有することとなった[175]

チトー政権下では、1945年8月に、財産没収の法律が制定され、これによりドイツ人の全資産、戦争犯罪人や枢軸軍への協力者の全資産が没収された[176]。また、同年同月、土地改革と入植に関する法律が制定され、これによりあらゆる農民に一定基準内の面積の土地を付与した[177][176][178][179]。ただし、ソ連のように農業の集団化は行われなかった[180][* 1]。1946年12月、銀行や独占的企業については国有企業とし、外国資本を排除した[177][176][179]。同年には逃亡していたドラジャ・ミハイロヴィッチを逮捕し、7月に銃殺刑に処した[182]。(ドラジャ・ミハイロヴィッチの名誉回復セルビア・クロアチア語版))。

1945年11月に憲法制定議会選挙が行われ人民戦線(ユーゴスラビア共産党が大部分)が勝利し、事実上共産党による単独の政権が樹立し、チトーは首相に選出された[170][182][177][183][184][185]。なお、この選挙については、候補者は1選挙区に1人となっており、その候補者も人民戦線しかおらず、白票投票をした場合は逮捕されるという不正なものだった[186][183][184]。1946年1月には、1936年のスターリン憲法を範とした新憲法が公布された[187][188]。ユーゴスラビアは、スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴヴィナセルビアモンテネグロマケドニアの6つの共和国と、ヴォイヴォディナ自治州コソボ自治州からなる連邦制がとられることになった[187]。この連邦制の下では、共和国の境界線は曖昧なものだったため、ユーゴスラビア解体時に国境問題が生じることになった[187]

1945年から1946年にかけて、チトー政権は、ソ連ポーランドチェコスロヴァキアとそれぞれ友好協力相互援助条約を締結した[189]。1947年末には、ブルガリアハンガリールーマニアとも同条約を締結した[189]。ハンガリーとブルガリアは第二次世界大戦中は、枢軸軍側としてチトーのパルチザンと敵対していたが、戦後は賠償請求を破棄するなど友好化に努めた[190][191]

チトー政権は、1946年ソ連と合弁会社を設立した[192][193][192][194]。しかし、合弁会社とは名ばかりで、経営者はソ連側が牛耳り、不平等である点は否めず、ユーゴスラビアにとっては、メリットがなかったためソ連と解散することで合意した[193][195][196]

コミンフォルム除名と危機

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コミンフォルムは1947年9月に設立され、ソ連をはじめとする共産主義国家が加盟し、ユーゴスラビアも加盟していた。しかし、ユーゴスラビアは、1948年6月28日、コミンフォルム追放決議が可決され、コミンフォルムを追放されてしまう[197][6][187][198]

ユーゴスラビアがコミンフォルム追放に至った経緯は、1948年3月在ユーゴのソ連軍軍事顧問団が突如ユーゴスラビアからの引き上げを発表する[199]。その後ソ連とユーゴスラビアの間で、合計3往復の書簡が取り交わされ、ソ連はユーゴスラビアとチトーを非難する書簡を送りつけた[200][189][201]。ソ連からユーゴスラビアに宛てた書簡の内容、並びにソ連とユーゴスラビアの関係が悪化に至った原因は以下のとおりである。

  1. ユーゴスラビアにおける反ソ連的態度やソ連に対しての批判[199][189]
  2. ユーゴスラビアにおける不十分な民主主義及び同国共産党党内における自己批判がなされていないこと[202]
  3. マルクス主義においては、共産党が国家統制を成すが、ユーゴスラビアでそれが達成されていないこと[202]
  4. 農村や都市においては資本主義が台頭していること[203]
  5. ユーゴスラビア共産党による、内政と外交の失策が見られること[201][189]

1点目について補足すると、チトーは、スターリンに周知せずにブルガリア首相ゲオルギ・ディミトロフとドナウ諸国関税同盟を交渉していたことや、ユーゴ側はソ連軍事顧問団に多額の報酬を払っていたが、ユーゴの財政状況では支払いが厳しく、人員を減らすか報酬の減額の交渉を行なったことが反ソ連的であるとされた[204][205]

チトーらは、ソ連に対して、書簡で申し開きをしたが結果的には効果がなかった[205]。チトーはソ連から招待され、話し合いの場を設けることになっていたが、チトーは暗殺を警戒し、欠席を選択した[206]。実際に、チトーはソ連からの暗殺未遂の被害を受けており、1950年、チトーはスターリンに下記の文面で手紙をしたためた[207]

「スターリン。私のところへ刺客を送り込むのはよせ。我々はもう5人逮捕した。一人は爆弾を持っていた。ライフルを持っていた者もいた。もし刺客を送り込むのをやめないのなら、私の方からモスクワに刺客を差し向ける。私は2番目の刺客を差し向けなくても済むだろう。」[207]

コミンフォルムを除名されたユーゴスラビアは窮地に陥る。コミンフォルム除名直前のユーゴスラビアの貿易額の51%はソ連と東欧諸国向けで、これらの国の貿易が事実上断たれてしまう[208][206]。農業も天候不順によって不作だった[197] [209] [210] [211]。西側諸国とは、ユーゴスラビアは共産主義国家であることと、トリエステを巡った領有問題によって、これまた不和であった[212]。チトーは、党内の綱紀粛正に努め、軍人などで対枢軸軍との戦闘で功績があった者やソ連との内通が疑われた者は逮捕し、投獄、拷問、処刑のいずれかの措置を取った[213]

西側諸国との関係も良くなかったユーゴスラビアであったが、1950年、チトーはアメリカ、イギリス、フランスから食糧の援助を取り付け、危機を回避した[211][214][215] [216] [217] [197]

自主管理法の採択

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チトーは、これまでのソ連型の社会主義の見直しを検討する[218]。社会主義とは何か、そしてどうあるべきかに立ち返り、「工場から労働者へ」というスローガンの実現を提起する[218]。ユーゴスラビア政府経済相ボリス・キドリッチ英語版は、労働組合同盟と協議した結果、大企業を対象として生産から分配に至るまで全ての権限を持つ労働者評議会設立の通達を発令する[219] [218]。1950年6月27日、チトーは労働者による企業単位の直接管理に関する法律を人民議会に提出し、採択された(自主管理法)[220] [221] [222]。これによって、労働者評議会(企業経営の最高機関)が、労働者による批判や提案の提出、内部管理、労働条件、資本や利益の分配、生産品目やその販売計画策定など、かなりの権限を自主管理法によって保障された[222] [223] [224]

外交

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社会主義国でありながらソ連率いるコミンフォルムから追放されたことから第三世界に接近し、チトーは非同盟運動の初代議長となって、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。さらにチトーは東西両陣営問わず様々な国と良好な関係を構築したため、日本を含む多数の国から勲章を受勲するなどの表彰を受けた(チトーの勲章一覧英語版)。政治学上、ユーゴスラビアは東側諸国とも西側諸国とも見なされておらず、東西冷戦で起きた朝鮮戦争の際も中立的であり、中国国連代表権問題で抗議するソ連の不在のなかアメリカ合衆国の主導した国際連合安全保障理事会決議82国連軍の編成を要請した国際連合安全保障理事会決議84国際連合安全保障理事会決議85に反対せず、棄権した[225][226][227]

1954年、NATO加盟国であるギリシャ、トルコと友好相互援助条約を締結した[216][228]。1953年3月、スターリンが死去し(ヨシフ・スターリンの死と国葬)、1955年5月には、ニキータ・フルシチョフらがベオグラードに来訪し、チトーと対談し、ユーゴスラビアとソ連の関係は改良の兆しが見えた[216][229]。だが、チトーは東にも西にも寄らない姿勢を打ち出す[230][231]。それが非同盟政策であり、これは消極的な中立ではなく、積極的平和共存を訴えかけ、他国の独立、主権平等、領土保存を尊重し、他国の国内問題には干渉しないというものである[232][233][234]

チトーは、1954年12月から1955年2月にかけて、インドビルマエジプトを訪問する[228][235]。チトーはこれらの国と世界平和のために相互協力できる手ごたえを感じた[228]。1956年7月、チトーはインドのジャワハルラール・ネルー首相と、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領をアドリア海ブリユニに招待し、積極的平和共存政策の推進で合意した[235][236]。 1958年12月から1959年3月にも諸外国を積極的に訪問し、インドネシアビルマインドセイロンエチオピアスーダンアラブ連合を歴訪、1963年には、主に中南米の国を中心に歴訪し、アメリカにも訪れ、ジョン・F・ケネディ大統領とも対面した[237][238][239]

1961年9月、ベオグラードにて第1回非同盟諸国会議を開催し、参加国はアジア・アフリカ諸国を中心として25か国で、チトーは同会議で軍縮を訴えた[10][240][228][9][235]。1964年10月には、カイロで、第2回非同盟諸国会議が開催され、47か国が出席した[241][238]

社会主義国でありながら1950年代はアメリカの相互防衛援助法英語版の対象となってM47パットンM4中戦車M36ジャクソンM18駆逐戦車M3軽戦車M8装甲車M3装甲車M7自走砲M32 戦車回収車M25戦車運搬車GMC CCKWM3ハーフトラックM4トラクターデ・ハビランド モスキートP-47F-86F-84T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[242][243]、1960年代にはスターリン批判ニキータ・フルシチョフが指導者になった時にソ連とも和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍のような国際連合平和維持活動にも参加した[244]

1970年9月30日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領がユーゴスラビアを訪問。当時の東側諸国をアメリカ合衆国大統領が訪れるのは異例であったが、チトーは暖かく歓迎し会談を行った[245]

内政

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アメリカ合衆国ジミー・カーター大統領(右)とチトー(中央)

1952年11月、ユーゴスラビア共産党は、ユーゴスラビア共産主義者同盟に改名した[246][247]。1953年、憲法を改正し、チトーはユーゴスラビア首相及び大統領を兼任することになった[8][209][248]

1963年4月、新憲法が公布され、国名もユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称され、自主管理社会主義非同盟政策に法的根拠が与えられ、行政機構も大幅に改革された[249][250][251]。そして、市場社会主義が基本路線となる[249][250]。1965年には、チトーは、市場メカニズムを全面的に導入する経済改革を実施した[250]。しかし、この改革を巡り、副大統領のアレクサンダル・ランコヴィッチ英語版と対立し、チトーは、ユーゴスラビア人民軍を盾に、ランコヴィッチを副大統領及びユーゴスラビア共産主義者同盟中央委員から解任した[252][249][253]。1967年7月には外資導入法を制定し、1968年11月には海外旅行の制限を緩和した[249][254]。 また、1968年4月には、チトーは来日し、昭和天皇主催のレセプションに出席した[255]

数々の経済改革はうまく行かず、格差が広がり、各民族で不満が広がり、民族問題が勃発する[252][249][253]。1968年秋から冬にかけて、コソボ自治州で、アルバニア人セルビア人から差別を受けているとして、コソボ自治州の共和国への昇格を要求した[252][256][190]。セルビア人は、ユーゴスラビア国内において少数派でありながら、政治、経済、社会で要職を占めていたため、アルバニア人の不満が爆発した結果となった[257]ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国ムスリム達は民族としてムスリム人の承認を要求し、クロアチア共和国ではクロアチア人による自治の要求があった[256]。クロアチアでは、1970年から1971年にかけて、クロアチア共産主義者同盟と民族派知識人、学生達が大規模な自治要求運動を展開した[256][190]。チトーは、クロアチア共和国の首都ザグレブへと乗り込み、事態の収拾に当たった[256]。また、チトーは民族主義の芽を摘むために、民主集中制や、労働者の役割強化を掲げて、セルビアをはじめとする他の共和国の共産主義者同盟のイデオロギーの引き締めを図った[256]

晩年と死去

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チトーの国葬
生家近くに建てられたチトーの銅像(2007年5月撮影)

1974年1月に、4度目の新憲法が公布された[258][259][209]。同憲法で、チトーは終身大統領に選出され、ユーゴスラビア統合の象徴を果たすこととなった[258]。新憲法では、6つの共和国と2つの自治州それぞれが憲法を有し、裁判や警察機能のみならず、経済主権が与えられた[258][209]。ユーゴスラビア連邦幹部会においても、これら共和国と自治州の1票の価値を同一に扱うようにした[258]。チトーは、連邦幹部会では、セルビア人を抑えるなどして均衡を図った[260]。これによってユーゴスラビアは緩い連邦体制に変貌した[258][259][209]

1977年、チトーはソ連、北朝鮮、中国を訪問し、ソ連、北朝鮮とは共同声明を発表し、中国とは共同声明はなかったが、ユーゴスラビアと中国の関係をより友好関係に発展させることで合意した[11]

1980年1月、チトーは左足静脈瘤切除の手術を受け、左足を切断した[11]。1980年5月4日、スロベニアのリュブリャナの病院で死去した[11]

「花の家」にあるチトーの墓

1980年5月8日に行われたチトーの葬儀英語版には日本を含む多数の国からかつてない規模で東西陣営や非同盟陣営の世界126か国の208人の政府要人が集まり(弔問外交)1989年の昭和天皇大喪の礼まで当時史上最大の国葬だった[261][262][263]。日本からは大平正芳首相が参列した[263]

チトー死去後のユーゴスラビアは、オイルショックによる莫大な対外債務によって深刻な経済危機が訪れる[259]。打開策を巡って、各共和国間で議論を行なったものの、民族問題へと発展し物別れとなり、ついに1990年1月にはユーゴスは各共和国の政党が治めるようになり、ユーゴスラビア連邦はその存在意義を失なった(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体[259]冷戦終結後の1990年代には民族・宗教間の対立や混乱が激化し、1991年から2001年にかけて一連のユーゴスラビア紛争が勃発。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する各共和国のうち、スロベニア社会主義共和国クロアチア社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国マケドニア社会主義共和国はそれぞれスロベニア共和国クロアチア共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦マケドニア共和国として独立し、残ったセルビア社会主義共和国モンテネグロ社会主義共和国によって1992年にユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)が成立する。しかし、新ユーゴスラビアの成立後も紛争は続き、紛争終結後の2003年に新ユーゴスラビアはより緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロに移行するが、2006年モンテネグロが独立したことで、もう一方のセルビアが独立宣言と継承国宣言を行ったことにより消滅し、連邦は完全に瓦解した。2013年には、セルビア国立銀行の金庫よりチトーが緊急時に使えるようにしていた可能性がある金貨約2700枚(金塊30キログラム分相当)や貴金属製品約250個、現金約2万6000USドルなどが発見されている[264]

評価

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法学者ドミニク・マクゴールドリックは、チトーは「高度に中央集権化され、且つ抑圧的な」政権の長であり、チトーは、ユーゴスラビアにおいて絶対的な権力をふるい、その独裁政治は、複雑な官僚機構を通じて行われ、人権抑圧も日常的に起きていたとしている[265]。チトー政権下当初、この抑圧の犠牲となったのは、ドラジャ・ミハイロヴィッチに加え、ドラゴリュブ・ミチュノヴィッチなどのスターリン主義者であったが、後年、チトーの側近ともいえる人物にも手が及んだ。1956年11月19日、ミロヴァン・ジラスはチトーの後継者と目されていたが、チトー政権を批判したため逮捕された。歴史家のヴィクトル・セベスチェン英語版は、チトーを「スターリンと同じくらい残忍である」と評している[266]

1961年の改革以降(非同盟政策)、チトー政権は、他の共産主義政権よりも比較的リベラルになったが、ユーゴスラビア共産主義者同盟は、リベラルと抑圧を交互に繰り返していた[267]。ユーゴスラビアはソ連からの独立を維持でき、その社会主義ブランドは東欧諸国からすると羨望の的であったが、チトーのユーゴスラビアは、厳しい統制下にある警察国家であり続けた[268]。法律家のデビット・マタス英語版は、(ソ連は別として)ユーゴスラビアの政治犯の数は、(ユーゴスラビア以外の)東欧全ての国の政治犯の数よりも多かったとしている[269]。チトーの秘密警察はソ連のKGBをモデルにしていた。秘密警察の工作員は常に存在し、しばしば超法規的に行動を行い[270]、犠牲者には中流階級の知識人、リベラル派、民主主義者が含まれていた[271]。ユーゴスラビアは、市民的及び政治的権利に関する国際規約に署名していたが、同規約の規定には殆ど関心が払われていなかった[272]

チトー政権下のユーゴスラビアは、民族を尊重することを基盤としていたが、チトーはユーゴスラビアの連邦の脅威となる民族主義のいかなる開花も粛清に当たった[273]。しかし、一部の民族集団に与えられる敬意と他の民族集団に対する厳しい抑圧との対比は鮮明であった。ユーゴスラビアの法律では、民族が自らの言語を使用することを保証していたが、アルバニア人に対しては、民族的アイデンティティの主張については、厳しく制限していた。ユーゴスラビアの政治犯は、民族アイデンティティを主張したアルバニア人がほとんどであった[274]

ユーゴスラビアの戦後の発展は目覚ましいものであったが、1970年頃にもなると、経済が行き詰まり、深刻な失業が問題になり、インフレにも見舞われた[275]

1967年に機密解除されたCIAの機密文書では、チトーの経済モデルによって、年間GNPは約7 %の経済成長を遂げていたが、一方では、上策とは言えない産業投資と、国際収支の慢性的な赤字を生み出していた。1970年代の、制御不能な成長により、慢性的なインフレを引き起こし、チトーとユーゴスラビア共産主義者同盟は、この状況を完全に安定させることも緩和させることもできなかった。ユーゴスラビアは、LIBORのレートと比較して高金利の貸付ローンを支払っていたが、チトーは不人気な改革の実行能力と、その意思があったために、チトーの存在によって投資家の不安は和らいでいた。チトーの死去が目前に迫った1979年までに、経済の世界的後退が起き、失業の増大、1970年代を通じて(ユーゴスラビアの)経済成長率は5.9 %まで鈍化し、それまでユーゴスラビア人が慣れ親しんだ急成長の経済成長が急低下する可能性が高まっていた[276][277]

1974年のユーゴスラビアの新憲法制定にあわせてチトーが始めたものは、アメリカ合衆国国務省のA.ロス・ジョンソンの表現を借りれば、「戦後ユーゴスラビアにおける最初の取り組みである(そしてあらゆる共産主義下の体制においても初の試みである)、後継者への移行期間に向けて、党の意思決定機関に、属人的ではなく制度や仕組みにもとづいた『ゲームのルール』を確立すること[278]」だった。この仕組みが、国家と党の代表者による集団指導体制となり、代表者は輪番で元首となるがその任期は1年に限定された[279]。しかしロバート・M・ヘイデン教授は、この体制がユーゴスラビアの崩壊につながったと考えている。「1989年から1991年にかけてのユーゴスラビアがうける政治的圧力はおそらくどんな連邦構造でも受け止めきれなかっただろうが、1974年憲法が抱える欠陥によって、それが制御不能になることは確実であり、内戦勃発は事実上不可避だった。したがって、連邦構造を破壊したスロベニア人と、好戦的な政治姿勢でスロベニア人をそう仕向けたスロボダン・ミロシェヴィッチ、そして『連邦』というキメラ〔荒唐無稽な話〕をさも合理的な憲法構造のように思わせた憲法起草者達、彼らは内戦勃発に関して連帯責任を負わなければならない。」と述べている[280]

遺産

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チトーは、ユーゴスラビアを貧困国から中所得国へと変貌させたことで、女性の権利、健康、教育、都市化、工業化、その他多くの人間開発や経済的発展の分野における著しい進歩を実現したと評価されている[281]

チトー政権下のユーゴスラビアは国内の工業化や兄弟愛と統一道路などのインフラ整備を推し進めて年率平均6.1%の経済成長を達成し、識字率は91%まで向上して医療費はすべて無料であり、ソ連や他の東欧諸国と比べて自由な生活をおくることができた[282][283][284]

クロアチアの週刊ニュース雑誌「Nacional」が2003年に実施した世論調査「最も偉大なクロアチア人」では、チトーが1位となった[285]。2010年の世論調査では、81%のセルビア人が、チトー時代の方が生活は良かったと答えている[286]

彼の生涯、そして特に亡くなってから1年のあいだ、様々な場所がチトーにあやかった名前をつけられている(その後、いくつかの場所はもともとの名前に戻されている)。例えば、ポドゴリツァの旧称はチトーグラードであり、ウジツェはティトヴォ・ウジツェという名称だった。ユーゴスラビアの首都だったベオグラードの通りも、例外なく第二次世界大戦前かつ共産主義体制になる前のもともとの名称に戻されている。2004年には、アントゥン・アウグスティンチッチ英語版が制作したチトーの生誕地クムロヴェツにあるチトーの像が爆破され、首が落ちるという事件が起きている[287](その後、像は修復された)。2008年には、当時ザグレブのチトー元帥広場(2017年以降はクロアチア共和国広場)があった場所で、「広場のためのサークル」(Krug za Trg)と呼ばれるグループによる抗議活動が2度発生した。彼らの要求は市当局に広場の名前を以前の名称へ戻すよう認めさせることだった。一方でそれに対する反対抗議活動も起き、「ウスタシズムに反対する市民運動」 (Građanska inicijativa protiv ustaštva)は、「広場のためのサークル」を歴史修正主義かつネオ・ファシズムであると非難した[288]。クロアチアのスティエパン・メシッチ大統領も、広場の名称変更を求めるデモを批判した[289]

しかしチトーにちなんだものはいまなお数多い。高さ約10メートルの世界最大のチトーの記念碑は、スロベニアのヴェレニエにある中央広場、チトー広場にある[290][291]。スロベニアの都市マリボルにある橋の1つには、チトー橋がある[292]。スロベニア最大の港湾都市コペルの中央広場は、チトー広場と名付けられている[293]。1937年にセルビアの天文学者ミロラド・プロティッチがベオグラード天文台で発見した小惑星はチトーの名前にちなんで命名された[294]

クロアチアの歴史家マリアナ・ベラージは、クロアチアや旧ユーゴスラビアの他の地域の一部の人々にとって、チトーは世俗的な聖人として記憶されているとし、クロアチア人の家庭では、願いをかけるために、カトリックの聖人の肖像画とチトーの肖像画を並べて壁に飾っていることがいると述べている[295]。チトーに手紙を書く習慣も、彼の死後なおさかんであり、旧ユーゴスラビアのウェブサイトにはチトーに手紙を送るためのフォーラムに特化しているものがいくつもあった。多くの人がそこではプライベートな問題について書いていたという[295]。毎年5月25日には、旧ユーゴスラビアから何千人もの人が、チトーを追悼し[296]、旧ユーゴスラビア最大の年間行事の一つであった「青年の日」を祝うためにチトーの故郷クムロヴェツ[297]とチトーが眠る場所である「花の家」[298]に集まる。この「青年の日」には例年、チトーの誕生日を祝うために「青年のリレー英語版」が行われた。

毎年、「同胞と団結」のリレーレースがモンテネグロ、北マケドニア、セルビアで開催され、5月25日のチトー永眠の地である「花の家」で終了する。同時に、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのランナーは、クムロヴェツへとむけてスタートを切る。リレーは、ユーゴスラビア時代の「青年のリレー」の名残であり、当時は若者が、毎年徒歩でユーゴスラビアを旅し、ベオグラードで盛大な祝賀会でもって終了していた[299]

ベラージによれば、チトーが死後に個人崇拝の対象となったのは、彼のどこにでもいるような人間性と、普通の人々から「友人」としてのイメージを抱かれていたこと大きく、冷酷で、超然とした、神のごとき人物でその並外れた資質によって普通の人々とははっきり違う存在としてイメージをもたれて個人崇拝をされていたスターリンとは対照的である[300]。5月25日にはチトー像にキスをするためクムロヴェツを訪れる人がいるが、そのほとんどは女性である[301]。ベラージは、こうしたチトー人気について、クムロヴェツへと来るほとんどの人は共産主義を信じていないことから共産主義の影響は少なく、むしろチトー時代のユーゴスラビアに対する郷愁と、偉人となった「普通の人」への敬意によるものだと述べている[302]。チトーはクロアチア民族主義者ではなかったが、チトーが世界で最も有名なクロアチア人になり、非同盟運動だけに限らず、世界的に重要なリーダーとなったという事実は、クロアチア人の一部のひとにとっての誇りとなっている[303]

だがユーゴスラビアの解体後、歴史家たちは、チトー政権下のユーゴスラビア(チトーとスターリンの対立が表面化するまでの10年間)における人権抑圧について明らかにし始めた[265][304]。2011年10月4日、スロベニア憲法裁判所は、2009年にリュブリャナの通りがチトーにちなんで命名されたことは違憲であるとの判決を下した[305]。当時スロベニアの公共の場所にはユーゴスラビア時代に命名されてチトーの名を冠しているものもあったが、新たに通りの名前を改称することについて、裁判所は以下のような判断を下した。

「チトー」と言う名称は第二次世界大戦中のファシスト支配からの現在のスロベニアの解放の象徴であるだけでなく、本裁判の他方当事者が主張する通り、特に第二次世界大戦後の10年間における、重大な人権と基本的自由の侵害の象徴でもある[306]

一方で裁判所は、この再審理の目的は、「チトーの人物像や具体的な行動に対しての判決を下すことではなく、事実や当時の状況について歴史的な評価をすることでもない」ことを明確にしている[305]。スロベニアには、高さ10メートルにおよぶチトーの像のあるチトー広場(ベレニエ)のように、チトーにその名をちなむ通りや広場がいくつもある

チトーについては人権抑圧だけでなく、第二次世界大戦末期にドイツによるユーゴスラビアの占領が終了すると、ユーゴスラビアの諸民族については包摂的な態度だったのとは対照的に、ヴォイヴォディナからドイツ系住民(ドナウ・シュヴァーベン人)が追放あるいは大量に処刑され、組織的な民族撲滅が起こったことの責任をチトーに求める学者もいる[307]

エピソード

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  • チトーは4度結婚し、度々不倫をしていた。1918年、戦争捕虜時代にオムスクで、当時14歳の少女ペラギヤ・ベローゾワと出会い、1年後に結婚し、ペラギヤを連れて、ユーゴスラビアへと戻った。2人の間には5人の子供に恵まれたが、成長したのは息子のジャルコ・レオン・ブロズ[309] (1924年2月4日生まれ[309])だけだった[310]。1928年にチトーが投獄されると、ベローゾワはロシアへと戻り、1936年に離婚し、再婚した。1936年、チトーはモスクワのホテルに滞在した際、オーストリア人のルチア・バウアーと出会う。2人は同年10月に結婚したが、この結婚歴は後に、意図的に消去された[311]。3度目の結婚相手は、ヘルター・ハースで、1940年に結婚した[312]ユーゴスラビア侵攻後に、ハースは妊娠し、チトーはベオグラードへと向かった。1941年5月、彼女は息子のアレクサンダル・ミーショ・ブロズを出産した。チトーはハースとの結婚関係中、ズデンカ・ホルバートというコードネームのレジスタンスの運び屋を務め、チトーの個人秘書にもなったダヴォルジャンカ・パウノヴィッチと関係を持っていた。チトーとハースは、1943年、第2回AVNOJ会合時に離婚する。ハースは、チトーとダヴォルジャンカが一緒にいるのを目撃したためとされる[313]。ハースが最後にチトーに会ったのは1946年であった[314]。ダヴォルジャンカは、1946年に結核で死去し、チトーは彼女の遺体をベオグラードの自身の邸宅であるベリ・ドヴォルの裏庭に埋葬するよう命令した[315]。1952年初夏、4度目の結婚をし、結婚相手はセルビア人のヨヴァンカ・ブデサヴリエウィチであった[316]。彼女は、チトーの外遊に同行するなどした[317]
  • チトーは、ユーゴスラビア国民に対して、耐乏生活を呼びかけていたが、自身は500人規模を招待できる別荘を建設させたり、高級車にも乗り、クルーザーも所有し贅沢三昧の生活を送っていた[318]。女性関係も派手で、人気オペラ歌手や、ソ連の人気女優にも手を出していた[318]

ギャラリー

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脚注・注釈

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脚注

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注釈

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  1. ^ 但し、1948年6月にコミンフォルム追放後は、ソ連(スターリン)の批判をかわすために、農業の集団化を行っていた時期もあったが、1952年に大凶作に見舞われたため、1953年に農業の集団化政策を取りやめた[181]

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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画像外部リンク
ライフ誌表紙に掲載されたチトーの肖像写真(Wikipedia英語版)
公職
先代
イヴァン・リヴァル
国民議会幹部会議長
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア大統領
1953年 - 1980年
1974年からは終身大統領
次代
ラザル・コリシェヴスキ
大統領評議会議長
先代
イヴァン・シュヴァッチ
ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア王国首相
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア首相
1945年 - 1963年
次代
ペータル・スタンボリッチ
党職
先代
ミラン・ゴルキッチ
ユーゴスラビア共産党書記長
1939年 - 1952年
次代
ユーゴスラビア共産主義者同盟に改称
先代
ユーゴスラビア共産党から改称
ユーゴスラビア共産主義者同盟書記長
1952年 - 1980年
次代
ブランコ・ミクリッチ