「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の版間の差分
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「フェイク写真の削除」であるため本来は至急行うべき案件。にもかかわらず、議論を長期間続け、さらに「一週間」フェイク写真であることへの反論はなかったため、合意成立とみなせる十分な期間経過している。なお、加筆の際は、フェイク写真ではない新たな出典を伴う加筆にしてください。Wikipediaは政治プロパガンダの場ではありません。Evelyn-rose (会話) による ID:101336882 の版を取り消し タグ: 取り消し 差し戻し済み |
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[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-1.jpg|thumb|260px|東京の麻布で結成された自警団。竹槍などで武装している{{Sfn|『画報日本近代の歴史 9』|pp=16-19}}<ref>『特装版 日録20世紀 第3巻』講談社、2000年3月3日。</ref>。]] |
[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-1.jpg|thumb|260px|東京の麻布で結成された自警団。竹槍などで武装している{{Sfn|『画報日本近代の歴史 9』|pp=16-19}}<ref>『特装版 日録20世紀 第3巻』講談社、2000年3月3日。</ref>。]] |
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[[File:Kanto-Daishinsai-to-Saitama-2.jpg|thumb|260px|「自警団と虐殺された朝鮮人」と説明文を付された写真。撮影者・場所・日時・事件の詳細などは不明。『かくされていた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』(1974年)に掲載。{{Sfn|『かくされていた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』}}]] |
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[[File:Tokyo-Shoshitsu-1.jpg|thumb|260px|「上野山下で惨殺された朝鮮人夫婦」{{Sfn|『東京消失―関東大震災の秘録』|p=77}}、「永代橋付近の虐殺死体」{{Sfn|『写真で見る在日コリアンの100年』|p=23}}などと説明される写真。資料により説明に矛盾がある。いずれも提供者不詳。撮影者、撮影日など不明。{{Sfn|『画報日本近代の歴史 9』|p=17}}]] |
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[[File:Gaho-Nihon-Kindai-no-Rekishi-volume-9-3.jpg|thumb|260px|『画報日本近代の歴史 9』(1980年)で[[:ja:本所区|本所区]]隅田川畔に引き上げられた「惨殺された朝鮮人」と説明のある写真。『現代史資料6関東大震災と朝鮮人』(1963年)では左右反転した同じ写真が[[月島]]で撮影された死体とされるが朝鮮人であるとの説明はない。資料により説明に矛盾がある。いずれも提供者不詳。撮影者、撮影日など不明。{{Sfn|『画報日本近代の歴史 9』|p=17}}{{Sfn|現代史資料6 関東大震災と朝鮮人}}]] |
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[[File:Tokyo-Shoshitsu-2.jpg|thumb|260px|「後手に縛られて自警団に焼殺された朝鮮人」と説明される写真(『東京消失―関東大震災の秘録』1973)。提供者不詳。撮影者、場所、撮影日など不明。{{Sfn|『東京消失―関東大震災の秘録』|p=77}}]] |
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震災直後から武装した民間人による殺傷行為が多発した。対象の多くは朝鮮人だったが、日本人や中国人が対象となることもあった{{sfn|中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節 殺傷事件の発生|pp=206-208}}。 |
震災直後から武装した民間人による殺傷行為が多発した。対象の多くは朝鮮人だったが、日本人や中国人が対象となることもあった{{sfn|中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節 殺傷事件の発生|pp=206-208}}。 |
2024年8月3日 (土) 00:57時点における版
関東大震災朝鮮人虐殺事件 (かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん、朝: 관동대학살) とは、1923年(大正12年)の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした。放火した」などのデマを妄信した官憲や自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷した事件の総称である。日本人や中国人が誤認により殺傷された事件や、官憲による社会主義者の殺害事件もあった(亀戸事件、甘粕事件)[1][2][3][4][5][6][7][8][注 1]。殺傷事件の犠牲者数は、論者の立場により幅広い差があり、正確な人数は不明である[10][11][12]。「虐殺はなかった」とする主張も一部にある[3]。
内閣府中央防災会議の報告書は、「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」としている[1][9]。
概要
震災時
1923年(大正12年)8月24日、加藤友三郎首相が病死した。このため内閣が総辞職し、8月28日、山本権兵衛に組閣命令が出されていた[13][14]。震災当日の9月1日夜半には臨時首相・内田康哉の下で閣議が開かれ、2日午前9時には、非常徴発令[注 2]、臨時震災救護事務局官制、戒厳に関する勅令[注 3]が発せられた[13][17]。
震災後、すでに1日から、朝鮮人暴動の流言が流布しており、2日正午までには東京全市・横浜全市に伝わった[18]。これは住民の口伝えだけではなく、官憲の措置によるところも大きく、例えば、法学博士の上杉慎吉は、同年10月、『国民新聞』で、9月2日から3日にわたり、震災地一帯に流言が伝播し、関東全体が動乱の情勢に至ったのは、警察の「大袈裟なる宣伝」によるものとし、警察が「無根の流言蜚語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して」責任を負うべきだと指摘・批判している[19]。
9月3日午前8時、内務省警保局長の後藤文夫は海軍省船橋送信所より、以下の電文を各地方長官(現在の都道府県知事)に送った[19][20]。
東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。[19][20]
流言が政府公認の事実と認定されるとともに、朝鮮人の迫害を扇動する内容の電文が全国に発信された[21][22][23]。横浜では、9月2日午後8時、横鎮長官発、海軍大臣宛て電文で、「本日午前十一時横浜着警備艇の情況報告の要領左の如し。一、一日午前十一時五十八分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し……」と報告された[24]。
これらの政府当局者による打電や言明が、暴動をあたかも事実であるかのように信じさせ、朝鮮人に対する極度の憎悪を生み出す結果となった[13]。当時、半信半疑だったが、警察情報だから信じたという人が多いと『横浜市史』で大島美津子は述べている[13]。
この内容は行政機関や新聞、民衆[要出典]を通して広まり、朝鮮人や、朝鮮人と間違われた内地人であるところの日本人(ろう者、方言を話す地方出身者など)、やはり間違われた或いは同類視された中国人らが殺傷される被害が発生した。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」 下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」[25]
震災から数日間の新聞記事での記述
震災当初の新聞報道は下記等である。各紙は取材で得られた体験談や目撃情報を事実の確認ができない状態で記事にした[26]。9月3日、内務省警保局は虚説の伝播による社会不安の増大防止のため「朝鮮人に関する記事は一切掲載せざる」ことを各紙に警告した[27]。
不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く 三百年の文化は一場のゆめハカ場と化した大東京
……一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるり點につき疑問の節あり次で朝鮮人抜刀事件起り警視□小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約二十名は五臺の自動車にて現場に向つた當市内鮮人、主義者等の放火及宣傳等々としてあり二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる因に二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果午後四時までに本郷冨坂町署で六名麹町署で一名牛込區管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不逞鮮人である—東京日日新聞,一九二三年九月三日、山田 (2004, p. 139)
鮮人いたる所めつたぎりを働く 二百名抜刀して集合警官隊と衝突す
今回の凶□を見たる不逞鮮人の一味はヒナンせる到る所の空屋等に□たるを幸ひ放火してをることが判り各署では二日朝来警戒を厳にせる折りから午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一團あるを見け辛ふじて追ひ散らしてその一二を逮捕したがこの外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひちらしたもの数知れず政府當局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視□に達し正力主導山田高等普通課長以下三十名現場に急行し一方軍隊側の応援を求めた……—東京日日新聞,一九二三年九月三日、山田 (2004, p. 139)
日本人男女十数名をころす 本部は世田ヶ谷
……途中出會せし日本人男女十数名を斬殺し□憲兵警官隊と衝突し……—東京日日新聞,一九二三年九月三日、山田 (2004, p. 140)
下野新聞(宇都宮)
- 大森方面に於て不逞鮮人隊と我歩兵小隊と戦闘開始……
- 三河方面より不逞鮮人が二百名押寄す報……
- 大久保で鮮人が井戸に毒を投じ二百人死亡……
—下野新聞,一九二三年九月四日、山田 (2004a, pp. 233–236)
上毛新聞(前橋)
- 鮮人入り込む 井水に投毒が目的……
足利出張所よりの報道に依れば足和市に三百餘名の朝鮮人が下車したので市民は大騒ぎを為しつゝあり……- 警鐘を乱打し 浦和町の大警戒……
前橋支店に報告した處に依ると鮮人多数入町し爲めに各町に於て警鐘を乱打し之れが防禦に当つて居る……- 鮮人盛んに襲ふ 亀井伯古河男等の邸宅に 王子警察活動捕縛に努む
—上毛新聞,一九二三年九月四日、山田 (2004a, pp. 283–284)
小樽新聞 発行 小樽市……
- 9.2 号外第二 1 大東京市の約三分の二焦土と化し死傷者の山 不逞鮮人横行……
—小樽新聞、山田 (2004d, p. 52)
樺太日日新聞(豊原)
- 鮮人の大暴動
守備隊と激戦中也……朝鮮守備隊は直ちに鎮静に努めん……この報本日午後零時三十分に到着した……(9月3日)……- 名古屋の不逞鮮人……(9月4日)……
—樺太日日新聞、山田 (2004b, p. 9)
北海タイムス(札幌)
- 鮮人跋扈【青森二日発電】東京市内に不逞鮮人跋扈して居る……(9月3日)……
- 不逞鮮人暴挙 不忍池に毒薬を投ず
【宇都宮四日終電】不逞鮮人は今尚、上野を中心に暴動を起し強盗凌辱の虜に……(9月5日)……- 鮮人三百船橋上陸 危険に頻し応援依頼【船橋無電三日午後八時半発軽川無電四日午後九時着】……(9月5日)……
- 不逞鮮人と戦闘開始 三千名の鮮人横濱より来る小隊全滅の虞あり急を告ぐ【四日午前八時着宇都宮経由】……(9月5日)……
—北海タイムス、山田 (2004b, pp. 21–25)
函館日日新聞(函館)
- 東京全市三分の二焼け不逞鮮人大にはびこる……(9月2日(夕刊))……
- 野獣の如き鮮人暴動魔手帝都から地方へ 強盗強姦掠奪殺人が彼等の目的 近衛と一師団が必死の活動……
【青森発電】……熊谷駅から聞知する所に依れば鉄道線路の一部を破壊し何れも逃走した……碓氷峠其他信越線を通過する列車を目蒐けて爆弾投下する目的を以て碓氷峠に入り込んだこと判明し……三百名の鮮人は何れも手に石油爆弾を持つて居るのを蒲田駅で発見し……(9月5日)—函館日日新聞、山田 (2004b, pp. 66–67)
弘前新聞(弘前)
- 山伯暗殺 犯人は不逞鮮人……(9月3日)……
- 歩兵一個小隊全滅
二日午後五時頃よ四百名の不逞鮮人横浜に現れ……(9月4日)……- 鮮人高崎の火薬庫爆発せんとす……
- 二千の鮮人暴徒東海道を荒し廻る……(9月5日)……
—弘前新聞、山田 (2004b, pp. 99–108)
河北新報(仙台)
- 四百名の不逞鮮人遂に軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中 麻布聯隊救援に向ふ……(9月4日(3日夕刊))……
- 約三千の不逞鮮人大森方面より東京へ……(9月4日)……
- 殆ど全滅の横濱 死傷約四十八萬 看守が囚徒を指揮して二千の不逞鮮人と戦ふ 知事は重傷で起てず 救済策も講ぜられない……(9月5日(4日夕刊))……
- サノミユル工場に使用されてゐた一千数百名の鮮人 災害の横濱より結束固く更に数百名を加へて帝都に闖入(9月6日(5日夕刊))……
- 大震後の東京は焼石の河原のやうだ 不逞鮮人の暴動は事実 観察した渋谷大学書記談……(9月6日)……
- 何でもないのに物々しい此騒ぎ 市民があんまり過敏だ 流言蜚語に迷ふな……(9月8日(7日夕刊))……
—河北新報、山田 (2004b, pp. 127–164)
荘内新報 発行 山形県西田川郡……
- 9.2号外第9報 1 山本首相暗殺? 主義者の暴動(「不逞鮮人」の暴動も報道)……
—荘内新報、山田 (2004, p. 87)
山形民報(山形)
- 不逞鮮人三百餘名 爆弾を以て市内各所を爆破 近衛兵と下谷で衝突【三日午前十時宇都宮発】……
- 三千の暴徒集合 大森にて軍隊と衝突 歩兵一個小隊全滅したるか……(9月4日)……
- 一萬の不逞鮮人東京を逃れて自由行動 毒薬を井戸に投げ込んではドラクサ紛れて逃げ出した……(9月6日)……
- 鮮人二百襲来海岸で邦人と格闘 周到なる鮮人の計劃……
然るに鮮人二百名餘り或は船に乗り或は泳いて月島に襲来した……(9月7日)……—山形民報、山田 (2004b, pp. 205–229)
福島民友新聞(福島)
- 歩兵と不逞鮮人と戦闘を交ゆ 京浜間に於て衝突し……
—福島民友新聞,9月4日(3日夕刊)、山田 (2004b, p. 260)
新潟毎日新聞(新潟)
- 山本伯暗殺説 ……
- 不逞鮮人跋扈 山本伯暗殺説は或は彼等の行為か【長野電話】東京全市の火災を機として不逞鮮人跋扈し盛んに横行し何等かの陰謀を企て其行動を進めて居る右より察するに山本伯の暗殺説は彼等一味の所為ならんと言はれて居る ……
—新潟毎日新聞,9月3日(2日夕刊)、山田 (2004b, p. 293)
北陸タイムス(富山)
- 東京無警察状態 不逞鮮人の跋扈……(9月3日)……
- 不逞鮮人や支那人が高位高官に爆弾を投げ……(9月4日(3日夕刊))……
—北陸タイムス、山田 (2004b, p. 329)
北国新聞 発行 金沢市……
- 9.2号外 2 〔東京市中〕鮮人横行す 秩序全く紊る……
—山田 (2004d, p. 137)
名古屋新聞(名古屋)
- ……山本伯が不逞鮮人に暗殺されたとの噂さ……(9月3日)……
- 鮮人浦和高崎に放火 高崎にて十餘名捕はる……(9月4日(号外))……
—名古屋新聞、山田 (2004b, p. 393)
京都日出新聞(京都)
- 砲兵工廠等の火薬庫爆発 震源地は伊豆大島か
朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ちつゝあるのを見た……—京都日出新聞,9月4日(3日夕刊)、山田 (2004c, p. 25)
大阪朝日新聞(大阪)
- 蜚語、暴利の取締等四項 警察署長を集め部長の厳達
—大阪朝日新聞,9月4日(3日夕刊)、山田 (2004c, p. 59)
神戸又新日報(神戸)
- 萬一を慮り弾丸を搭載 東京湾に回航すべき軍隊「扶桑」不逞鮮人が爆弾を持込んだとの噂……
—神戸又新日報,9月4日、山田 (2004c, p. 96)
松陽新報 発行 松江市……
- 9.2号外第四 1 不逞鮮人跳梁す 東京は無秩序状態……
—松陽新報,9月2日、山田 (2004d, p. 195)
海南新聞 発行 松山市……
- 9.2第三号外 1 鮮人の不逞分子が火薬庫爆發の風説 兢々たる帝都の人心 郊外への避難者續々……
—海南新聞,9月2日、山田 (2004d, p. 210)
関門日日新聞 発行 下関市……
- 9.5 2 暴漢襲撃説は何者かの宣傳らしい 飛行場に殺到したのは流言に怖れた避難民……
—関門日日新聞,9月2日、山田 (2004d, p. 203)
福岡日日新聞(福岡)
- 帝都は殆ど無秩序 宮内省内務省も焼く 焦土と化した東京市中は大混乱を呈し鮮人等の跋扈非常に横暴を働いて居り……
—福岡日日新聞,9月2日(号外)、山田 (2004c, p. 275)
事件の発生
震災直後から武装した民間人による殺傷行為が多発した。対象の多くは朝鮮人だったが、日本人や中国人が対象となることもあった[1]。
朝鮮人と誤認された中国人が犠牲となった事件、さらには誤認ではなく、中国人であることを理由に殺害された事件もある(関東大震災中国人虐殺事件)。
沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件[30]や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[31]、香川出身の一家9名が犠牲となった福田村事件などでは朝鮮人と誤認された日本内地人が殺傷された。
米国汽船に乗って清水港から東京の被災者見舞いに来た静岡市民ら80名が9月4日横浜で上陸にあたって朝鮮人暴動についての注意を受けたが、それを聞いて、船内に6名の朝鮮人がいるのを発見したとして、直ちに同米国船中において2人を殺害し4人を海に投げ込み、さらに近くにいた中国人母娘2人も海に投げ込んだ(少なくとも朝鮮人は全員死亡と報じられている)。乗客らは一団となって上陸したものの、途中、鶴見で自警団に誰何され、今度は彼ら見舞い人団の1人が殺害された。これは和歌山県人であった。[32]
また、朝鮮人及びその誤認とされる人以外にも、社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳の甥・橘宗一らが殺された甘粕事件、社会主義者10名などが犠牲となった亀戸事件も起きた[7]。
日本の治安当局の対応
後世、警察や軍が朝鮮人虐殺に実行・加担ないし煽ったと見る向きも多く、とくに震災後間もない時期においては一般論としてその傾向も強いが、その流れに抗した者もいる。自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉・神奈川警察署鶴見分署長のように、暴徒との対決も辞さず制した者や、横浜の朝鮮人226名を9月23日に横須賀の不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きがあった [33]。麹町警察署管内では、山口警察署長が自警団に武器携帯を禁じ、軍隊に対しても犯罪の有無をみて朝鮮人を保護するように伝えた。デマが明らかとなっていない間、山口は軍からは嘲笑され自警団からは反感を買いながらも、朝鮮人二百余名を保護し、彼の管内では問題を起こさなかったという[34]。
一方で、亀戸署では、署長古森繁高は、朝鮮人検束に熱心であった。ピークの4日夜には1300人を超えたという。限られた署員数、留置施設により署員らは恐慌をきたし、3日朝から既に若い警官や兵士が「鮮支人は見つけ次第殺してもいいんだ」と言っている姿が、後に報告されたという。有名な第一次の亀戸事件(一般に不良自警団員4人の殺害とされているが、むしろ犠牲者の一人は中国人の人夫を解雇して日本人を雇えという同署の特高刑事からの要求を拒否していた手配師で、どちらかといえば中国人側に立ち、署に睨まれていた人物であった。自警団が悪者とされるに連れ、すり替えられた節がある。)、署が軍人に依頼して署で行われたといわれる社会主義者約10人の殺害事件である第二次亀戸事件、署が直接に関与したといわれる社会運動家である中国人の王希天の殺害事件が起きている。その他、事態が問題となって視察が行われるということから口封じに朝鮮人三百数十人が殺害され、死体が焼却されたという噂もある。また、朝鮮人・中国人収容者は随時、軍の習志野の収容施設に送られていて、そこで、あるいは移送途上で大量に殺害された可能性も囁かれている[35]。
習志野に収容された朝鮮人・中国人らは釈放されたものの、付近の地元自警団が引き取るようにいわれ、そこでまた地元の自警団によって多数が殺害されている。この自警団への引渡しは、既に軍によって多数が殺害されていたため、それをウヤムヤにするためのものであったのではないかとする見方がある[36]。
9月7日に治安維持法の前身となる緊急勅令が発布されていた。
震災時の背景
韓国併合とその影響
1905年(明治38年)、乙巳保護条約(第二次日韓協約)から、日本による韓国の領有が始まった[37]。1910年(明治43年)8月29日、日本は「韓国併合に関する条約」を締結し、朝鮮の一切の統治権が「完全且永久」に日本へ「譲与」された(第一条)[37]。
併合後に本格化した「土地調査事業」により、朝鮮の農民は祖先伝来の土地を取り上げられ、農村での生活が困難になった多くの朝鮮人が、日本や満州に移り住むことになった[38]。
1919年(大正8年)に起きた三・一独立運動の影響をおそれた朝鮮総督府は、同年、「朝鮮人の旅行取締に関する件」を公布し、渡航を警察への届出許可制にした[39][40]。その後、日本の食糧不足を切り抜けるため、朝鮮総督府は、1920年(大正9年)から「産米増殖計画」を実施した[39]。この結果、日本による朝鮮での土地収奪が一層進行し、再び日本での朝鮮人人口は増加した[39]。
1922年(大正11年)、慢性的な不況下の日本において、資本家が安価な労働力を必要としたため、朝鮮人の渡航について、届出許可制から「自由渡航制」に切り替えられた[39][40]。これにより、日本へ移る朝鮮人は更に増えることとなった[39]。政府は、日本の失業問題悪化を懸念し、1923年(大正12年)に「朝鮮人労働者募集に関する件」、1924年(大正13年)に「朝鮮人に対する旅券証明書の件」、1925年(大正14年)には釜山港において「渡航阻止制」を実施した[41]。1919年の三・一独立運動以降、日本に朝鮮人の活動家が多く流入し、爆弾を隠し持っていたところを摘発される報道などが増えていった[42]。そのため、一般庶民の間に「不逞鮮人=国家転覆や国土の略奪を狙うテロリスト」というイメージが形成され[42]、朝鮮人が恐怖と不安の対象となり「不逞鮮人」という表現が一時期は流行語にもなった[43]。
当時の日本政府は、地震発生前に起きた朝鮮の三・一独立運動や台湾の大規模デモを流血鎮圧した経験から、これら統治領の独立運動を行う一部の民衆の抵抗に警戒感を抱いていた[44]。当時の朝鮮人への無理解と民族的な差別意識も背景として考えられる[45]。日本国内では大正デモクラシーによって労働運動・民権運動・女性運動など支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動の活性化と、それに対抗する保守的勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済への不安から社会体制が揺らいでいた[44]。また、国外でもイギリス・アメリカとの対立、シベリア出兵の大失敗などから国際的な孤立化を深めつつあり、関東大震災はいわば内憂外患の状態に追い打ちをかけるように起こった大災害だった[44]。
山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった[46]。これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった[46]。
関東戒厳司令部に参加した井染祿朗大佐は「今回の不逞鮮人の不逞行為の裏には社会主義者やロシアの過激派が大なる関係を有するようである」と発言した[47]。そして陸軍と警察はこの混乱を奇貨として、社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に虐殺された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行された。しかしこうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた[46]。
日本内地に居住していた朝鮮人の人口
警視庁官房特別高等課に設置されていた内鮮高等係によれば、震災当時に在京していた朝鮮人は、詳細に状況を知りうる者6500名、その他、5000〜6000名が認められ、合計1万人以上は全市及び接続郡部にいた[48]。そのうち学生は1500〜1600名だったが、その多くは夏期休暇のため帰省中だった[48]。[注 4]
大正9年(1920年)第1回国勢調査「国籍民籍別人口」の「殖民地人」統計によると、男性36,043名・女性4,712名の朝鮮人(東京男性2,304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5,445名女性845名、兵庫男性3,059名女性711名、福岡男性7,161名女性672名)が日本内地にて居住していた [50] 。
大正14年(1925年)第2回国勢調査においては国籍(民籍)ごとの統計がない。
昭和5年(1930年)第3回国勢調査「民籍国籍別人口」の「外地人」統計によると、419,009名の朝鮮人(東京38,355名、神奈川13,181名、千葉県1,728名、埼玉県1,164名、愛知35,301名、大阪96,943名、京都27,785名、兵庫26,121名、福岡34,639名)が居住していた [51] 。
経済学者の田村紀之は、国勢調査と内務省警保局調査等を用いて当時の朝鮮人人口を推計している[52]。田村の推計は1977年に公表されたのち、幾度か改訂があり、下表は田村推計の2011年最新版による関東地方における震災前後の朝鮮人人口である[52]。
東京府 | 神奈川県 | 埼玉県 | 千葉県 | 茨城県 | 栃木県 | 群馬県 | |
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1919年 | 1,746人 | 521人 | 56人 | 17人 | 30人 | 77人 | 199人 |
1920年 | 2,485人 | 782人 | 78人 | 40人 | 74人 | 97人 | 283人 |
1921年 | 3,561人 | 1,029人 | 111人 | 98人 | 95人 | 120人 | 329人 |
1922年 | 6,464人 | 1,766人 | 215人 | 213人 | 201人 | 133人 | 307人 |
1923年 | 6,870人 | 2,921人 | 249人 | 254人 | 297人 | 157人 | 589人 |
1924年 | 12,626人 | 5,354人 | 742人 | 666人 | 618人 | 280人 | 914人 |
1925年 | 15,153人 | 6,738人 | 799人 | 1,300人 | 606人 | 311人 | 1,612人 |
※毎年10月1日を基準とする[52]。 |
当時の東京府の朝鮮人人口に関して、市・区・郡別に1年毎に記録した資料は『東京府統計書』が唯一であるとされる[53]。
東京府の朝鮮人人口 (東京府統計書)[53] | |
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1919年 | 1,072人 |
1920年 | 2,120人 |
1921年 | 3,234人 |
1922年 | 4,631人 |
1923年 | 不明 |
1924年 | 8,385人 |
1925年 | 10,818人 |
※市・区・郡を合計した東京府全体の朝鮮人人口[53]。 |
1923年は下表のように日本内地と朝鮮半島間で朝鮮人の流出入がある。
日本内地渡航者 | 朝鮮半島帰還者 | |
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1月 | 9,427人 | 6,182人 |
2月 | 6,844人 | 6,398人 |
3月 | 25,260人 | 4,417人 |
4月 | 10,181人 | 5,051人 |
5月 | 9,425人 | 5,728人 |
6月 | 8,129人 | 6,038人 |
7月 | 10,395人 | 6,878人 |
8月 | 12,686人 | 8,178人 |
9月 | 2,410人 | 14,717人 |
10月 | 602人 | 13,726人 |
11月 | 864人 | 6,630人 |
12月 | 1,172人 | 5,802人 |
※朝鮮総督府警務局編「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ボシタル状況」『斎藤実関係文書 書類の部 1』115-16 及び、朝鮮総督府警務局編『朝鮮の治安状況 大正13年12月』(不二出版、2008年)を出典とする[54]。 1923年9月1日から12月31日までの間、関東地方から朝鮮半島へ帰還した朝鮮人の内訳は、 東京府6,239人、神奈川県613人、埼玉県29人、千葉県76人、茨城県56人、栃木県98人、群馬県182人となっている (高警第63号「大正12年自9月1日至12月31日帰還朝鮮人府県別調査」朝鮮総督府警務局、1924年1月12日付)[55]。 |
犠牲者数と弔慰金
正確な犠牲者数は不明だが、2008年3月の内閣府中央防災会議の報告書では、震災全体の死者数の1~数パーセントが殺害によるものと推定されている[56]。 また、内閣府中央防災会議の報告書を引用した形で、震災の死者・行方不明者約10万5千人[57]のうち、朝鮮人の犠牲者数を「1~数%」と推計しているとして、千人から数千人規模と報じられることもある[58][59][60][61][9]。論者の立場により幅広い差があり、正確な人数は不明である[10][11][12]。
当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、日本人58名、中国人3名[注 5][1]。戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名である[1]。内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)[注 6]の弔慰金が832名[注 7]へ支払われた[62]。
種別 | 司法省報告書掲載 | 戒厳業務詳報掲載 | 合計 | ||||||
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起訴事件 | 警察による | 軍通牒の不明 | 軍隊による | 警察・民間人共同 | |||||
被害者 | 朝鮮人 | 内地人 | 中国人 | 内地人 | 朝鮮人 | 朝鮮人 | 内地人 | 朝鮮人 | |
東京 | 39 | 25 | 1 | 2 | 27 | 19 | 約215 | 約328 | |
神奈川 | 2 | 4 | 2 | 8 | |||||
千葉 | 74 | 20 | 1 | 12 | 8 | 115 | |||
埼玉 | 94 | 1 | 95 | ||||||
群馬 | 18 | 4 | 22 | ||||||
栃木 | 6 | 2 | 8 | ||||||
茨城 | 1 | 1 | |||||||
福島 | 1 | 1 | |||||||
合計 | 233 | 58 | 3 | 2 | 1 | 39 | 27 | 約215 | 約578 |
注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約200 は中国人との説あり |
史学者の山田昭次は上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞(金承学社長)」1923年11月5日付で報道された朝鮮人調査団報告書の6661人説が不正確な数字である原因は官憲の被害隠蔽と指摘した [65] [66][67]。
「朝鮮人の犠牲者数は、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班が官憲の協力を得られないまま調査を進めた……吉野に情報提供したと推定される上記慰問団の崔承万が戦後になって発表したものとがある。すべて場所と人数の記載で、合計は吉野原稿が2,613余名……崔氏のものが2,607余名又は3,459余名……崔氏によれば、慰問団はこの調査を踏まえて犠牲者数を5千名と推定したという。ここの調査の最終報告とされるものが、11月28日付で上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』社長に送付され、12月5日に同紙に掲載された。これは合計6,661名(現在内訳を再計算すると6,644名であると山田昭次氏が指摘している)に達するが、うち神奈川県で遺体を発見できなかった1,795名と第一次調査を終了した11月25日に各県から報告が来たとする追加分2,256名は、府県名のみでそれ以下の地名は記されていない。山田昭次氏は、埼玉県に関する数値を検証して、この追加分を算入しない方が現在までに得られる他の情報と近いことを指摘し、「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としている。」
—[68]
2013年11月東京韓国大使館新築移転作業中、関東大震災韓国人犠牲者290名の名簿が初めて見つかった [69] 。日本震災時被殺者名簿286人を調査した結果28人の犠牲者を確認と2015年12月報じられ、第一次調査とあわせて韓国政府認定の関東大震災時虐殺犠牲者は合計40名となった [70]。
一、横浜方向 | |||
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1.神奈川県橋本町浅野造船所前広場 | 虐殺(現金五百円強奪) | 四十八 | 名 |
2.神奈川警察署内 | 巡査刺殺 | 三 | 名 |
3.程ヶ谷町 | 虐殺 | 三十一 | 名 |
4.井戸ヶ谷町 | 右同(現金二百円強奪) | 三十 | 余名 |
5.根岸町 | 右同 | 三十五 | 名 |
6.土方橋より八幡橋まで至る | 右同 | 百三 | 名 |
7.中村町 | 右同 | 二 | 名 |
8.山手町埋地 | 右同 | 一 | 名 |
9.御殿町付近 | 右同 | 四十 | 余名 |
10.山手本町警察署立野交番所前 | 右同 | 二 | 名 |
11.若屋別荘附近 | 右同 | 十 | 余名 |
12.新子安町 | 右同 | 十 | 名 |
13.子安町より神奈川駅に至る | 右同 | 百五十九 | 名 |
14.神奈川鉄橋 | 右同 | 五百 | 余名 |
15.東海道線茅ヶ崎駅前 | 右同 | 二 | 名 |
16.久良岐郡金沢村 | 右同 | 十二 | 名 |
17.鶴見町 | 右同 | 七 | 名 |
18.川崎 | 右同 | 四 | 名 |
19.久保町 | 右同 | 三十 | 余名 |
20.戸部 | 右同 | 三十 | 名 |
21.浅間町及浅間山 | 右同 | 四十 | 名 |
22.戸山、鴨山 | 右同 | 三十 | 名 |
以上屍体埋葬地及数 1.久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者) 2.青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺) 3.金沢村(不詳) 4.茅ヶ崎町旧東海道線路火葬 5.鶴見町、総持寺山内埋葬 6.川崎町当地埋葬又は持って帰国 | |||
二、埼玉県方面 | |||
1.川口 | 虐殺 | 三十三 | 名 |
2.赤羽荒川 | 右同 | 三百 | 名 |
3.大宮 | 右同 | 二名 | 名 |
4.熊谷 | 右同 | 六十一 | 名 |
5.本庄 | 右同 | 八十六[注 10] | 名 |
6.早稲田村 | 右同 | 十七 | 名 |
7.神保原 | 右同 | 二十四 | 名 |
8.寄居 | 右同 | 十四 | 名 |
9.長沢 | 右同 | 十四 | 名 |
三、群馬県 | |||
1.藤岡 | 虐殺 | 一八 | 名 |
四、千葉県 | |||
1.習志野軍営倉内 | 虐殺 | 十二 | 名 |
2.船橋 | 右同 | 三十八 | 名 |
3.法典村 | 右同 | 六十四 | 名 |
4.千葉市 | 右同 | 二 | 名 |
5.流山 | 右同 | 一 | 名 |
6.南行徳 | 右同 | 二 | 名 |
7.馬橋 | 右同 | 七 | 名 |
8.田中村 | 右同 | 一 | 名 |
9.佐原 | 右同 | 七 | 名 |
10.滑川 | 右同 | 二 | 名 |
11.成田 | 右同 | 二 | 名 |
12.我孫子 | 右同 | 三 | 名 |
五、長野県 | |||
1.軽井沢周辺 | 虐殺 | 二 | 名 |
六、茨城県 | |||
1.筑波本町 | 虐殺 | 四十三 | 名 |
2.土浦 | 右同 | 一 | 名 |
七、栃木県 | |||
1.宇都宮 | 虐殺 | 三 | 名 |
2.恵那須郡 | 右同 | 一 | 名 |
八、東京付近 | |||
1.月島 | 虐殺 | 三十三 | 名 |
2.亀戸署内 | 右同 | 八十七 | 名 |
3.小松町 | 右同 | 四十六 | 名 |
4.寺島請地 | 右同 | 二十二 | 名 |
5.寺島警察署内 | 右同 | 十三 | 名 |
6.向島 | 右同 | 三十五 | 名 |
7.寺島手井駅 | 右同 | 七 | 名 |
8.洲崎飛行場附近 | 右同 | 二十六 | 名 |
9.日本橋 | 右同 | 五 | 名 |
10.深川西町 | 右同 | 十一 | 名 |
11.押上 | 右同 | 五十 | 名 |
12.本所区一丁目 | 右同 | 四 | 名 |
13.大島七丁目 | 右同 | 四 | 名 |
14.大島三丁目活動写真館内 | 右同 | 二十六 | 名 |
15.大島八丁目 | 右同 | 百五十 | 名 |
16.小松川新町 | 右同 | 七 | 名 |
17.浅草公園内 | 右同 | 三 | 名 |
18.亀戸駅前 | 右同 | 二 | 名 |
19.府中 | 右同 | 三 | 名 |
20.世田ヶ谷、三軒茶屋 | 右同 | 二 | 名 |
21.新宿駅内 | 右同 | 二 | 名 |
22.四谷見附 | 右同 | 二 | 名 |
23.吾妻橋 | 右同 | 八十 | 名 |
24.上野公園内 | 右同 | 十二 | 名 |
25.千住 | 右同 | 十一 | 名 |
26.王子 | 右同 | 八十一 | 名 |
右 合計 二千六百十三人 〔東大吉野文庫〕 |
各地域の状況
東京
亀戸事件
埼玉県
「新編埼玉県史」、「埼玉県行政史」、「埼玉県警察史」では文献や当時の新聞記事にもとづき、殺害された朝鮮人に言及しておいるがその人数については166~240人と幅がある[72]。
本庄事件
検見川事件
5日、避難してきたいずれも20代だった沖縄・秋田・三重出身の日本人男性3人が自警団によって朝鮮人と誤認され、駐在所に連行された。3人は身分証を提示して日本人だと主張したものの、自警団が彼らを殺害し、花見川に遺棄したとされる事件[73]。
熊谷
熊谷は自警団による虐殺が県内で最初に発生したされる[74]。 4日、避難した朝鮮人約200人がたどり着いたが、荒川に近い現在の久下付近において4~5人が投石により殺害された。中心市街でも16人が命を落としたとされている。1973年に当時の知事らがまとめた報告書「かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件」は、現在の熊谷市内での「確認できた最低数」の犠牲者数を57人としている。 大原墓地には、1938年に建てられた朝鮮人犠牲者の供養塔がある。震災当時に熊谷町(当時)の助役をつとめ、自身も虐殺目撃者だった新井良作が熊谷市長をつとめていた1938年に建てられた。この建立は襲われた市内数カ所の寺に分かれ埋葬されていた朝鮮人の遺体が合葬されたことをきっかけとして建立されたもの[75]。
久下の東竹院には、震災の2年後に建立され朝鮮人犠牲者のものと思われる供養塔がある[74]。
千葉県
福田村事件
群馬県
群馬県では、1923年(大正12年)9月3日、佐波郡郡長から町村長宛ての通達で、「東京府下震火災に際し囚人多数脱出し、又不逞鮮人暴行有之たるやに聞き及び候処、警戒の厳重となるに随い、是等不逞の徒何時当地方へ入り込むやも測りがたく候条、この際警備隊を組織し、警戒を厳重ならしむるよう」(県行政文書)とし、この結果、県内で469の自警団が組織された[76]。--
4日には、高崎駅で朝鮮人が自警団の検問にかかり、棍棒で殴られ、入院した[77]。同日、群馬県は、朝鮮人暴動などは事実無根であるとし、沈静化を図ったが、効果はなかった[77]。
藤岡事件
群馬県多野郡の自警団は、9月4日同郡新町の鳶職親方の元にいた朝鮮人工夫16人をとらえ藤岡警察署に引渡し、さらにその前9月2日には同郡鬼石町の自警団が菓子行商人をとらえ引渡していたが、藤岡署では行商人に不審点なく釈放したところ、5日200余名の自警団員がその抗議に押しかけ、取締りの外出から戻って来た署長と談判、署長は逃走、自警団員は残りの署員に迫り、ついにその看視する留置場の檻を開け、16人を惨殺した[78]。さらに翌日、日野村の自警団員数十名が朝鮮人工夫1名をとらえ藤岡警察署に引渡しに来たが、先の行商人の釈放をめぐって抗議、投石を始め、応援に来ていた警察官を含む警察署員30名は逃走、自警団員らは署ばかりか署長官宅にまで押しかけ衣類を荒し、窓ガラスを壊し、工夫も殺害されている[78]。この際、署の会計書類も持ち去られていて、事件にウラがあることも疑われる[79]。[77]
議会の動き
1923年(大正12年)12月、衆議院が開会した[80]。同月14日の田渕豊吉(無所属)、15日の永井柳太郎(憲政会)、23日の高柳覚太郎、南鼎三などが、朝鮮人虐殺について政府を問い質した[80]。
田渕議員は、「私は内閣諸公が最も悲しむべき所の大事件を一言半句も此点に付て述べられないは、非常なる憤慨と悲しみを有する者であります……千人以上の人が殺された大事件を不問に宜しいのであるか」と述べたが、山本権兵衛首相は答弁を保留した[81]。翌15日、永井議員は、前日の田渕の発言を政府が黙殺したことを問題とした[82]。また、この事件について、「全責任は、挙げて自警団に存するが如き観あることは、国民思想の向上発展の為に、本員は之を悲しまざるを得ないのであります」と述べた[82]。
同日、貴族院では、男爵・藤村議員は、政府や軍、在郷軍人団、青年団を称賛した[82]。貴族院では、朝鮮人虐殺事件は取り上げられなかった[82]。
また、永井議員は、朝鮮人暴動の流言について「当時の内務省の最高官から発せられましたので、其命令に接しました所の、各地に於ける地方長官は、又、其命令を管下の郡役所に伝へ、管下の郡役所は又、之を管下の町村に伝達することに努めました結果、彼の自警団の組織を見るに至った」と述べ、あわせて、朝鮮統治の責任を追及した[82]。
山本首相から陳謝の言葉は出ず、「目下取調進行中」との答弁で打ち切りを図った[83]。ただ、内相・後藤新平からは、「不幸にして犯罪人でなき者の害を被った者が絶対に無いと云ふことは勿論言ふ能はざることであります」と、虐殺の事実を認める発言があった[84]。
当時の証言など
- 黒澤明の自伝『蝦蟇の油——自伝のようなもの——』の中では、当時13歳だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている[85][86]。その中に、黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸の外の塀に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある[85][87]。
- 作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていたことが分かっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川の「大震雑記」[88](『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている[89]。
- 沖縄出身の歴史学者・比嘉春潮は、当時、淀橋(現・新宿区)に住んでいた[90]。震災後、数日経った夜、自警団が自宅を訪問し、「朝鮮人だろう」「ちがう」「ことばが少しちがうぞ」「僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」と押し問答になった[91][92]。身の危険を感じ、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいたことから、警察で白黒つけようと持ちかける[93]。しかし、連れて行かれたのは近所の交番で、ここでも同じやりとりを繰り返しているうちに、日本刀を持った自警団の一人が「ええ、面倒くさい。やっちまえ」と怒鳴った[94][92]。それでも何とか淀橋署に行くことになり、無事で済んだ[95][92]。また、行方が分からなくなっていた甥の春汀は、「朝鮮人だ」と叫ぶ自警団にこん棒で殴られ、頭に包帯を巻き、血糊をこびりつかせた状態で飯田橋署に留置されていた[96][92]。
新聞
- 1923年(大正12年)9月8日、秋田魁新報は、時評欄で「内地人のみ聖人君子であり鮮人は盗妬の末孫であるとし、その罪を一身に背負うはすこぶる迷惑千万なことと思われる。殊に彼らの中に不逞の企てをなせる者ありという理由のもとに鮮人とさえ見れば警察は鵜の目鷹の目で警戒して尚足らず一種の私刑を加ふるものすらあるは、朝鮮将来の統治上及政策上重大なる累を及ぼすものではなくして何であろうか」と指摘した[97]。
横網町公園における朝鮮人犠牲者追悼式典
追悼碑と追悼式典
1973年6月、日朝協会東京都連合会の呼びかけにより、「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が結成された。代表委員には、日朝協会会長の渡邉佐平、相川理一郎、飯村実、大森良三、千田是也、藤森成吉、壬生照順、山田四郎、山本忠義の9名と東京都議会の全会派の代表が就任した。実行委員会は追悼碑建立と調査に担当が分かれ、青山良道が碑建設実行委員長となった[98][注 11]。同年9月29日、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が墨田区の都立横網町公園に建立された[98][99][100]。当時の美濃部亮吉知事はじめ、思想信条を超えた幅広い市民が浄財を寄せ、600人近くの個人、250近くの団体が協賛した。追悼碑は完成後、都に寄付された[98][101]。
横網町公園内の東京都慰霊堂では毎年9月1日に震災犠牲者を供養する大法要が営まれてきた。翌年の1974年には同じ日、各市民団体などの共催により、追悼碑前で第1回「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」が開かれた。美濃部知事は「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、東京都知事が追悼式典に追悼文を送ることは恒例となった[102][103]。
小池百合子都知事の対応
2016年7月に東京都知事に就任した小池百合子は、2017年8月、式典へ追悼文を送ることを止めた[103]。なお、就任1年目の2016年には送付していた[103]。追悼文送付取りやめは2017年8月24日に各紙が報じたことで明らかとなり[104][105]、8月30日、墨田区長の山本亨が小池に追随して同じく送付を取りやめたことが報じられた[106]。
2017年3月2日の東京都議会本会議で、自民党の古賀俊昭都議が、虐殺の犠牲者数について異論があるとし、「今後は追悼の辞の発信を再考すべきだと考える」と求めた[103]。古賀は「日本及び日本人に対する主権及び人権侵害が生じる可能性があり」として加害者側の権利を守るために事実を究明し、震災の3年前1920年の国勢調査で1府3県(東京府、埼玉県、千葉県、神奈川県)の全朝鮮人人口は3385人であるから追悼碑の「六千余名」が疑わしいと主張した[107]。これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後は私自身がよく目を通し、適切に判断する」と応じていた[103]。古賀都議は追悼碑撤去の意思も小池知事に尋ねていたが[107]、追悼碑の撤去は行われていない。
古賀都議の質問から小池知事による追悼文廃止に至る一連の出来事は保守系市民団体「日本女性の会 そよ風」がファクターとなった。この団体は、2017年から追悼式典に並行して別の集会を開いていることが報じられている[108]。「そよ風」は前年の2016年(6月19日)のブログに、古賀都議と面会して追悼碑文の「六千余名」の問題について報告した旨を掲載した[109]。小池知事は2010年に「そよ風」の講演会で講師を務めた[101]。また古賀都議と小池知事は日本最大の保守系団体日本会議に関連する議員連盟に所属していた(古賀都議は日本会議地方議員連盟/日本会議関東議員連盟、小池知事は日本会議国会議員懇談会)。「そよ風」は2019年9月1日の集会での発言が東京都の人権尊重条例に基づくヘイトスピーチと認定された[110]。この条例はオリンピックの理念である「人権尊重」が浸透した都市となるために2018年10月に制定された(正式名称「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」)[注 12]。
2022年12月の都議会[112]では、立憲民主党の中村洋都議が、追悼文中止事案を念頭に置き虐殺事件に対する小池知事の認識について質問したのに対し、小池知事の回答は、例えば国連が「第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日」(2004年)の翌年「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」(2005年)を設置した取り組みにみられるような現代の人道的価値観とは異なる。すなわち小池知事は「災害と様々な事情で亡くなられたすべての方々に哀悼の意を表している」と答弁した[113]。翌2023年も追悼文の送付は見送られた[114]。しかし2023年春季と秋季に開催された慰霊堂の大法要に変化が起きた。例年の大法要は震災と戦災の犠牲者にのみ言及していた小池知事が2023年春季・秋季の大法要では「極度の混乱の中で犠牲となられた」人々にも言及した[115][116]。「極度の混乱」の文言は2016年の知事初年度追悼文に用いて以来の言及となった[115]。しかし小池知事は2024年以降に追悼文の再開を予定していない[117]。
『コリアワールドタイムズ』によれば、小池知事が「9月と3月に都慰霊堂で開かれる大法要で、関東大震災、先の大戦で犠牲となられたすべての方に哀悼の意を表している」ことを追悼文不送付の理由に挙げたことに対し、「自然災害による震災の被害者と、人の手によって殺害された犠牲者は性格が異なる」との批判がある[12]。
岸田内閣・松野官房長官の発言
岸田文雄内閣の内閣官房長官・松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[118][119][120]。これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」などと述べた[118][119][120]。
翌31日の記者会見において、松野は、例えば2009年に中央防災会議に設置された「災害教訓の継承に関する専門調査会」が取りまとめた関東大震災に関する報告書の中に、朝鮮人虐殺に関する記載があるとの質問を受けた[119][121][9]。
被災地では朝鮮人暴動の流言に基づいて民間の自警団による朝鮮人に対する暴行、虐殺など殺傷事件が起きていた。混乱の中、真偽を確かめられないまま、官憲も流言を事実と誤認し、行動した。このことが官憲自身の手による朝鮮人殺傷事件を引き起こし、また、自警団の暴走を助長する結果となった。[20]
これに対して、松野は、これは有識者が纏めたもので政府見解を示したものではないと回答した[122]。(なお、この報告書の作成者の一人である東大の歴史学者鈴木淳教授によれば、報告書は、政府機関が当時公表した情報からどれだけのことが言えるかという、当時の政府発表の焼き直しであり、非常に限定的な範囲のものであり「最低限」のものだとしている[123]。)
いずれにせよ松野の主張は誤りで、実際には、司法省の「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」、陸軍の「関東戒厳司令部詳報」中の「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」、横浜の朝鮮人・中国人殺傷についての神奈川県知事から内務省警保局長宛ての報告書等の公文書がある[124]。また、氷山の一角であろうが、各地で多数の自警団員らが朝鮮人虐殺の廉により政府検察官から起訴され、罪を問われている[125][126][127]。ジャーナリストの渡辺延志が防衛省防衛研究所史料室で発見した熊谷連隊区司令部報告書「関東地方震災関係業務詳報」には、警察署で保護するために移送されていた四十数人の朝鮮人が「殺気立てる群衆の為めに悉(ことごと)く殺さる」などの記録がある[128][129]。
なにより、松野自身が野党時代に、2011年7月27日の衆院文部科学委員会において、教科書検定をめぐって自ら公的記録と語る資料を用いて、朝鮮人虐殺について質問を行っている。このとき松野は、自ら公的記録とする上記司法省の「震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書」等をもとに朝鮮人死者数は例えば231人となっていると主張している[130][131]。
その他
- 震災直後、柳瀬正夢、堅山南風、萱原白洞をはじめ、小学生に至るまで、虐殺を題材とした絵が描かれた[132]。
- 1924年、改造社から出された『大正大震火災誌』に、吉野作造の「労働運動者及社会主義者圧迫事件」が掲載されている[133]。この項の最後には、編者の「お断り」として、「法学博士吉野作造氏執筆「朝鮮人虐殺事件」及び内田魯庵氏氏〔ママ〕執筆「自警団と殺傷事件」の二篇は、何れも豊富なる資料と精細なる検討に依つて出来た鏤骨苦心の好文字であつたが、其筋の内閲を経たる結果遺憾ながら全部割愛せざるの已むなきに至つた」と記されている[133]。
- 写真家岡田紅陽が数十体の女性遺体を撮影した一枚の写真は、殺害の惨状として時々使用されている。岡田は東京府の依頼で震災の被害状況を記録していた。この写真は時々誤解され、明治44年(1911年)に発生した吉原大火の被災者との誤解や[134][注 13]、広島の原爆被爆者との誤解がなされている[注 14]。遺体写真には「新吉原公園之惨状」とキャプションが付けられたヴァージョンと、キャプションがないヴァージョンが存在する[134]。岡田の私家版アルバムには「吉原公園魔ノ池附近」と記されているのみで、遺体の身元は不明である。関東大震災当時の新吉原公園は、大火災から逃れて吉原遊廓の遊女たちが新吉原公園の花園池(弁天池)に飛び込んで焼死や溺死をし、その人数は30人とも600人ともいわれている[138]。
題材とした作品
映画
- 『大虐殺』 - 1960年の日本映画。ギロチン社を題材とした作品だが、序盤で関東大震災の朝鮮人虐殺が描かれている。
- 『道〜白磁の人〜』 - 2012年の日本映画。植民地朝鮮にいる主人公の浅川巧が日本にいた妻の弟から関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件について聞くシーンがある。
- 『金子文子と朴烈(パクヨル)』 - 2017年の韓国映画。主人公の朴烈と金子文子が遭遇した関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件が描かれている。
- 『菊とギロチン』 - 2018年の日本映画。関東大震災後の大正時代末期が舞台。朝鮮人虐殺を生き延びた朝鮮出身の遊女が登場する。
- 『福田村事件』 - 2023年の日本映画。福田村事件の被害者は日本人であるが、この映画では事件に至るまでの朝鮮人・社会主義者に対する流言が言及されており、別件の朝鮮人犠牲者も描写されている。
記録文学
- 江馬修『羊の怒る時 ─関東大震災の三日間』筑摩書房〈ちくま文庫(え-21-1)〉、2023年8月7日。ISBN 978-4-480-43904-8。
- 吉村昭『関東大震災』文藝春秋〈文春文庫〉、2004年8月10日。ISBN 978-4-16-716941-1。(電子版あり)
ノンフィクション
脚注
注釈
- ^ 内閣府の中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」が2008年3月にまとめた報告書「1923 関東大震災【第2編】」には以下のように記されている[9][1]。
- ^ 緊急勅令第396号[15]
- ^ 緊急勅令第399号[16]
- ^ 内鮮高等係について、『警察辞典』(1926年)は次のように説明している。「朝鮮併合せられてより、鮮人の内地渡航者年々増加し、次第に民族的自覚の途につける彼等は、或は自ら、或は他の煽動に動かされ、民族自決を叫んで過激手段に出づるものまた少なからず。此等に対しては其の思想を善導し、且つ保護するの要あるを以て、警視庁総監官房特別高等課内に一係を設け内鮮関係の高等警察事務を掌ることとなれるなり」[49](表記は新字体とした)
- ^ この233人という数字は起訴された事件の被害者数であり、当局に認知されていても起訴されていない事件については考慮されていない[62]。
- ^ この違いは資金の出所が違うからである。日本人への御下賜金は日本政府から(予算総額1000万円を分配したので一人当たりの額面が小さくなった)であり、朝鮮人への弔意金は朝鮮総督府からである。
- ^ 朝鮮総督官房外事課が作成した報告書「関東地方震災時に於ける朝鮮人問題」には、「自警団に殺害された鮮人の数は混乱の際であり死体は一般の死体と共に火葬に附されたから死因も弁別せず従って的確なる数を得ること困難であるが朝鮮地方官憲で精細に調査した結果に依れば圧死者焼死者被殺者及行方不明となった鮮人は総体で832名である、鮮人の居住場所と焼死者の多かった事実に徴し自警団に殺害された者はその二三割を超過することはあるまいと推定せられるのである」と書き記されている[63]。
- ^ 吉野作造は本郷教会の教会員。
- ^ 吉野作造は『中央公論』1923年11月号に寄稿した報告書「朝鮮人虐殺事件」で、「次に朝鮮人の被害の程度を述べる。之れは朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正十二年十月末日までのものであって、其れ以降の分は含まれて居ないことを注意しなければならぬ」と書き記した[71]。
- ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の記述では八十(80)となっており、6人の差がそのまま吉野作造と朝鮮罹災同胞慰問班の数の違いになっていること、これ以外の数字は同じであること、などから、吉野作造が「80」を「86」と誤記した可能性が高い。
- ^ 調査実行委員長には高橋磌一が就いた。調査の結果は一冊の書籍にまとめられ、1975年9月に『歴史の真実―関東大震災と朝鮮人虐殺』として現代史出版会から出版された[98]。
- ^ 国際オリンピック委員会(IOC)が東京都をオリンピック開催都市に選んだのは追悼文中止より以前の2013年である。過去に人権に関する問題が実際に起きたオリンピック事例としては「ヒトラーのオリンピック」と呼ばれた1936年ベルリンオリンピックがあり、ナチス・ドイツの反ユダヤ思想や人種差別主義が懸念され、世界各地でボイコット運動が行われた[111]。
- ^ 明治44年4月9日の吉原大火の死者は8人といわれている。吉原大火現場を見回っている人々はもっと厚手の衣服を着ている[135]。
- ^ 原爆はフランスの新聞ル・モンドによる誤解。ル・モンドは「Hiroshima : ce que le monde n'avait jamais vu」と題した2008年5月10日の記事に写真を掲載し、のちに訂正した[136][137]。
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参考文献
公的資料
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- 「第2章 国の対応 第1節 内閣の対応」『1923 関東大震災 報告書 【第2編】』2008年3月 。
- 「第4章 混乱による被害の拡大 第1節 流言蜚語と都市」『1923 関東大震災 報告書 【第2編】』2008年3月 。
- 「第4章 混乱による被害の拡大 第2節 殺傷事件の発生」『1923 関東大震災 報告書 【第2編】』2008年3月 。
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書籍
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- 小川益生 編『東京消失―関東大震災の秘録』廣済堂出版、1973年9月1日。
- 日本近代史研究会 編『画報日本近代の歴史 9』三省堂、1980年2月25日。
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- 工藤美代子『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』産経新聞出版、2009年12月。ISBN 978-4819110839。
- 加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック、2014年8月、ISBN 4898317030)は工藤が文庫版にするにあたって夫名義に変えたもの。
- 新井勝紘『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』新日本出版社、2022年8月10日。ISBN 978-4-406-06681-5。
- 佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪 ─立件された一一四件の記録から』筑摩書房〈筑摩選書 0262〉、2023年8月15日。ISBN 978-4-480-01780-2。(電子版あり)
- 姜徳相、山本すみ子 編『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』三一書房、2023年9月。ISBN 978-4380230042。
- 安田浩一『地震と虐殺 1923-2024』中央公論新社、2024年6月19日。ISBN 978-4-12-005686-4。
論文・記事
- 姜徳相「【特集】関東大震災90年――朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(1) 一国史を超えて―関東大震災における朝鮮人虐殺研究の50年」『大原社会問題研究所雑誌』第668号、法政大学大原社会問題研究所、2014年6月25日。
- 鈴木敏夫「【特集】関東大震災90年――朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(1) 関東大震災をめぐる教育現場の歴史修正主義」『大原社会問題研究所雑誌』第668号、法政大学大原社会問題研究所、2014年6月25日。
- 山本すみ子「【特集】関東大震災90年――朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(1) 横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺」『大原社会問題研究所雑誌』第668号、法政大学大原社会問題研究所、2014年6月25日。
- 金富子「【特集】関東大震災90年――朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(2) 関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺」『大原社会問題研究所雑誌』第669号、法政大学大原社会問題研究所、2014年7月。
- 愼蒼宇「【特集】関東大震災 100 年― 虐殺研究をめぐる課題と新しい視点(1) 特集にあたって」『大原社会問題研究所雑誌』第781号、法政大学大原社会問題研究所、2023年11月。
- 愼蒼宇「【特集】関東大震災 100 年― 虐殺研究をめぐる課題と新しい視点(1) 軍隊の朝鮮人虐殺をめぐる前史」『大原社会問題研究所雑誌』第781号、法政大学大原社会問題研究所、2023年11月。
- 裵姈美「【特集】関東大震災 100 年― 虐殺研究をめぐる課題と新しい視点(1) 新しい100 年,史実と記憶の共有に向けて」『大原社会問題研究所雑誌』第781号、法政大学大原社会問題研究所、2023年11月。
- 樋浦郷子「【特集】関東大震災 100 年― 虐殺研究をめぐる課題と新しい視点(2) 関東大震災における流言の拡散」『大原社会問題研究所雑誌』第782号、法政大学大原社会問題研究所、2023年12月。
- 『現代思想』2023年9月臨時増刊号 総特集=関東大震災100年、青土社、2023年8月8日。ISBN 978-4-7917-1450-6。
- 岩佐和幸「世界都市大阪の歴史的形成 —戦間期における朝鮮人移民の流入過程を中心に—」『調査と研究』第16号、京都大学経済学会、1998年10月10日。NDLJP:2890652。(要登録)
- 松本俊郎「震災復興期の東京府下朝鮮人労働者 に関する人口・職業分析」『岡山大学経済学会雑誌』第16巻、第4号、岡山大学経済学会、107-145頁、1985年3月20日 。
- 田村紀之「植民地期の内地在住朝鮮人世帯と常住人口」『二松学舎大学国際政経論集』第17巻、二松学舎大学国際政治経済学部紀要、121-160頁、2011年3月25日 。
- 西村直登「関東大震災下における朝鮮人の帰還」『社会科学』第47巻、第1号、同志社大学人文科学研究所紀要(2018年6月13日、表5を修正)、33-61頁、2017年5月31日 。
関連項目
- 常泉寺 ‐ 犠牲者の個人名の彫られた墓や慰霊碑が現存
- 王希天
- 関東大震災犠牲同胞慰霊碑
- 関東大震災中国人虐殺事件
- 熊本地震 - 関東大震災において流布された「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」とのデマを模倣したツイートが行われ不安を煽った。21世紀の現在では釣瓶を用いる開放型井戸は存在しない。
- 瑞穂事件 - 1945年8月20日から8月23日にかけて南樺太の真岡郡清水村瑞穂で27人の朝鮮人が日本人により惨殺された事件。
- シボレス (文化) - 朝鮮語を母語とする者は「ガ行」の発音が不得意だったため「15円50銭」とうまく話せない者を朝鮮人と見做した。
- 解放令反対一揆
- ジェノサイド
- ホロコースト
- フェイクニュース
- リンチ
外部リンク
- 中央防災会議|災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成21年3月|1923 関東大震災【第2編】 - 防災情報のページ(内閣府)
- 世界各紙・誌「世界は日本の震災をいかに見たか」(1923年。世界思潮研究会調査部編訳) - ARCHIVE。震災・虐殺直後に発表された外国雑誌・紙による報道・論説
- 『朝鮮人虐殺事件』 - コトバンク
- 関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか(加藤直樹×山田昭次×荻上チキ)(2014年11月10日) - SYNODOS
- 震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆(山田昭次)(2015年9月2日) - SYNODOS