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ビュフォードは、イリノイ州[[ゲイルズバーグ (イリノイ州)|ゲイルズバーグ]]の[[ノックス大学]]で1年間学んだ後に、[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]の[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]入学を認められた([[1848年]]卒業)。ビュフォードが在学中の上級生には、[[フィッツ・ジョン・ポーター]](1845年卒)、[[ジョージ・マクレラン]]、[[ストーンウォール・ジャクソン]]、[[ジョージ・ピケット]]、[[ジョージ・ストーンマン]](以上1846年卒)、[[アンブローズ・バーンサイド]](1847年卒)がいた。ストーンマンとバーンサイドはビューフォードの上官であり、友人にもなった。1847年卒には他に[[A・P・ヒル]]と[[ヘンリー・ヒース]]がおり、1863年7月1日にゲティスバーグで対峙することになった。 |
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ジョン・ビュフォード John Buford, Jr. | |
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ジョン・ビュフォード将軍 | |
生誕 |
1826年3月4日 ケンタッキー州ウッドフォード郡 |
死没 |
1863年12月26日(満37歳没) ワシントンD.C. |
所属組織 | アメリカ合衆国陸軍 |
軍歴 | 1848年-1863年 |
最終階級 | 少将 |
戦闘 |
ジョン・ビュフォード・ジュニア(John Buford, Jr.、1826年3月4日-1863年12月26日)は、南北戦争の時の北軍騎兵将軍であり、ゲティスバーグの戦いの開始時点での役割で著名となった。
初期の経歴
[編集]ビュフォードはケンタッキー州ウッドフォード郡で生まれたが、8歳の時からイリノイ州ロックアイランドで育てられた。父はイリノイ州で著名な民主党の政治家であり、エイブラハム・リンカーンとは政敵だった。ビュフォード家は歴史ある軍人一家だった。祖父のエイブラハム・ビュフォード大佐(ワックスホーの虐殺での大陸軍指揮官)と大叔父はアメリカ独立戦争でバージニア連隊に従軍した。異母兄弟のナポレオン・ボナパルト・ビュフォードは北軍の少将になった。従兄弟のエイブラハム・ビュフォードは南軍の騎兵准将になった。
ビュフォードは、イリノイ州ゲイルズバーグのノックス大学で1年間学んだ後に、ウェストポイントの陸軍士官学校入学を認められた(1848年卒業)。ビュフォードが在学中の上級生には、フィッツ・ジョン・ポーター(1845年卒)、ジョージ・マクレラン、ストーンウォール・ジャクソン、ジョージ・ピケット、ジョージ・ストーンマン(以上1846年卒)、アンブローズ・バーンサイド(1847年卒)がいた。ストーンマンとバーンサイドはビューフォードの上官であり、友人にもなった。1847年卒には他にA・P・ヒルとヘンリー・ヒースがおり、1863年7月1日にゲティスバーグで対峙することになった。
ビュフォードは同期38人中16番目の成績で士官学校を卒業し、第1アメリカ竜騎兵隊の名誉少尉に任官され、翌年には第2アメリカ竜騎兵隊に転籍となった[1]。テキサス州やアメリカ合衆国南西部で勤務してスー族インディアンと戦い、「血を流すカンザス」では治安維持活動に関わり、1858年のユタ戦争にも参加した。1859年から1861年はユタ準州のクリッテンデン砦に駐屯していた[2]。ビュフォードは、散兵線を新しい戦闘隊形にすることを強く提案していたジョン・ワッツ・ド・ペイスター将軍の作品に付いて学んだ[3]。
南北戦争
[編集]1860年の1年間、ビュフォードとその仲間の軍人達はアメリカ合衆国からの脱退と内乱の可能性についての会話で明け暮れ、ポニー・エクスプレス(郵便事業者)が1861年4月にサムター砦が砲撃を受けたという報せを運んできたとき、その可能性が現実になった。ビュフォードは、ウェストポイント出身者の多くがそうであったように北か南かの選択をしなければならなかった。ビュフォードはその出身から考えれば、南軍に加わる理由が豊富にあった。ビュフォードはケンタッキー州の生まれであり、奴隷を所有する父の息子であり、妻の親戚達は南部側で戦うであろうし、自分の親戚達の多くも南部側で戦うものと考えられた。一方、教育は北部で受けて、アメリカ陸軍で熟練度を高めてきていた。軍人として最も影響を受けた手本であるハーニー大佐とクック大佐の2人は北部とアメリカ陸軍に留まることを選んだ南部人だった。ビュフォードはその職業を愛し、辺境で過ごした時間が他の南部人の家庭に引き付ける多くの糸を断ち切ることになった。
ノースカロライナ州の出身であるジョン・ギボンも同じディレンマに直面し、戦後の回想記でジョン・ビュフォードが北軍側に付くことにした夜のことを次のように回想した。
郵便が届いたあとのある夜に我々はビュフォードの部屋にいた。このときビュフォードはその緩りと慎重な話し方で「私はケンタッキー州知事から手紙を受け取った。彼はすぐにでもケンタッキーに来て、望むことをすべきだという伝言を送ってきた」と話した。かなりの不安の念と共に、私(ギボン)は「何と答えたのだい、ジョン?」と尋ねた。彼が「私はアメリカ陸軍の大尉であり、そのまま留まり続けるつもりだ!という伝言を送ったよ」と答えたとき、私は大きく安堵した。
1861年11月、ビュフォードは少佐の階級で監察長官補に指名され、ワシントンD.C.防衛任務に数ヶ月就いた後の1862年7月、志願兵の准将に昇進した。この年、ジョン・ポープ少将の下でバージニア軍第2軍団の騎兵旅団長が最初の地位となり、第二次ブルランの戦いで功績を残した。ビュフォードは自ら戦闘後半の突撃を率いたが、流れ弾で膝を負傷した。この傷は痛みを伴ったが重傷というほどでもなかったのに、北部の新聞の幾つかで彼が戦死したと書かれた[4]。ビュフォードは現役に復帰し、ジョージ・マクレラン少将とアンブローズ・バーンサイド少将のポトマック軍で騎兵隊長を務めた。なお、この任務は参謀的なものでしかなかったので、野戦の指揮を求めた。マクレランのメリーランド方面作戦では、サウス山の戦いとアンティータムの戦いに参戦し、ジョージ・ストーンマン准将とマクレランの参謀職を交代した。しかし、1863年にジョセフ・フッカー少将の下に付くと、ビュフォードはポトマック軍騎兵軍団第1師団で正規軍騎兵予備役旅団を任された。
チャンセラーズヴィルの戦いの後、アルフレッド・プレソントン少将が騎兵軍団長となったが、フッカーは後にビュフォードを選んでおけばよかったと言った。ビュフォードは、事実上全てが騎兵だけの戦闘となったブランディ・ステーションの戦いでその新しい師団を指揮し、さらにアッパービルの戦いを戦った。
ゲティスバーグ方面作戦のとき、第1師団長に昇格していたビュフォードは、ゲティスバーグに戦場を選ぶことに関わった者とされている。6月30日、ビュフォードの部隊はゲティスバーグの小さな町に騎り入れた。その後間もなく、前面に南軍の優勢な部隊がいることを認識し、南軍の前身を阻むために防御的陣形を採らせた。ビュフォードはゲティスバーグの周りの戦術的に重要な高地を守ることの重要さを通説に感じ取ったのでそのようにしたが、これがアメリカの軍事史の中でも最も象徴的な戦闘の始まりだった。その知的な防御陣の配置に、馬を降りた騎兵達の勇敢さと頑張りが組み合わされて、ジョン・F・レイノルズ少将の第1軍団が支援に駆け付けて、北軍の戦略的に重要な陣地の足がかりを守るだけの時間を与えた。北軍はこの高度に重要な戦闘に勝利した。後にビュフォード隊はプレソントンにからエミッツバーグまで補給と再装備のために派遣されたが、これは北軍の左側面を空けてしまう軽率な判断だった。7月1日のビュフォードの指導力と戦術的洞察力の重要さはその勝利への貢献度において誇張しても過ぎることはなかった。
南軍がゲティスバーグから撤退する時、ビュフォードはバージニア州ウォーレントンまで追撃し、後にバージニア州中央部で多くの作戦に関わり、特に1863年のブリストー方面作戦ではジョージ・ミード少将の退却する動きを遮蔽する価値ある働きをした。
オークリッジでの英雄はジョン・ビュフォードだった...彼は大変貴重な頑張りを見せただけでなく、その個人的能力でその騎兵隊に驚くべき働きをさせ、敵の騎兵隊にしっかりと立ち向かわせた...ジョン・ビュフォードに栄光を! — ジョン・ワッツ・ド・ペイスター、ビュフォードの竜騎兵戦術に関して[5]
ビュフォードはその任務のペテン師について偽りの見せびらかしで騒々しいパレードを嫌った。また恐らくその栄光ある行動、勇敢さおよび活気に払われるべき適度な称賛を避け、見せびらかしや誇りは無しに、その冷静さと管理能力など、とりわけ部下に対する面倒見の良さが彼を慕わせることになった。 — Theo. F. Rodenbough, Brevet Brigadier General[6]
死と遺産
[編集]12月半ばまでに、ビュフォードはおそらくは腸チフスに罹ったことから余命幾許もないことが明らかとなり、親友ジョージ・ストーンマンのワシントンの家で静養した。ストーンマンはビュフォードを少将に昇進させる運動を始め、エイブラハム・リンカーン大統領が同意し、次のように記した。
私はビュフォード将軍が今日を生き残れないだろうと告げられた。そのことは自ずと彼がゲティスバーグの戦いにおける群を抜き称賛に値する働きで少将になされることを私に促している。
昇進を告げられたビュフォードは疑わしげに「彼はそうするつもりなのか?」と尋ねた。昇進が間違いないことが確認されると単に「もう遅すぎる。私は生きながらえることができればと思う」と答えた[7]。
ビュフォードの最期の数時間、その副官マイルズ・キホーと従僕エドワードが付き添っていた。またA・J・アレクサンダー大佐やストーンマン将軍も居た。妻のパティはイリノイ州ロックアイランドから移動中だったが間に合わなかった。臨終近く、意識が混濁し従僕を叱り始めたが、続いて一瞬意識が戻り、従僕を呼んで「エドワード、私がお前を叱っているのが聞こえる。私は何をしているか分からなかった。お前は忠実な従僕だったよ、エドワード」と謝った[7]。
ジョン・ビュフォードは1863年12月15日午後2時に、マイルズ・キホーの腕の中で死んだ。その最期の言葉は「道の全てに衛兵を付けろ。兵士を後方に走らすな」だった[8]。
12月20日、ワシントンD.C.のH通りとニューヨーク・アベニューの角にある教会で葬儀が営まれた。リンカーン大統領も参列した。ビュフォードの妻のパティは病気のために参列できなかった。棺を担いだ者にはサイラス・ケーシー、サミュエル・P・ハインツェルマン、ダニエル・シックルズ、ジョン・マカリスター・スコフィールド、ウィンフィールド・スコット・ハンコック、アブナー・ダブルデイおよびガバヌーア・ウォーレンの各将軍がいた。ストーンマン将軍が隊列護衛を指揮したが、そこにはゲティスバーグでビュフォードが騎った白馬「グレイ・イーグル」も居た。
戦場の嵐を駆け抜ける彼を見ることはできない
彼と共に敵を蹴散らすこともない
また彼のファルシオンの一撃を見ることもない
駆け抜ける一撃のような彼の声も聞こえない
葬儀の後、ビュフォードの参謀キホー大尉とワズワース大尉がビュフォードの遺骸をウェストポイントまで運び、ゲティスバーグでのやはり英雄であるアロンゾ・クッシング中尉の横に埋葬した。クッシングはビュフォードが選んだ「高地」(セメタリーリッジ)を守っている時に戦死した。1865年、大きな25フィート (7.5 m) のオベリスク式記念碑が元ビュフォード師団の兵士達の寄金でその墓の上に建てられた。参謀士官達が部下に抱かれた尊敬の念を表明する決意文を出版した。
...我々、故ジョン・ビュフォード少将の参謀士官は、紳士、軍人、指揮官および愛国者としての彼の長所を十分に評価し、その死が騎兵隊にとって取り返しのつかない損失であると認識する。その唯一つの志が我々の成功であり、その主な喜びが部隊将兵の福祉、安全および幸福を守ることだった友人にして指導者を我々は奪われた。
彼が引き受けた多くの責任ある立場での疲れを知らぬ行動に対して、概してその効率の良さに多く恩義がある仕事振りに対して、その死にあたって騎兵隊は確固たる友人と最も熱心な庇護者を失った。我々にとってかつてなく最も親切で優しかった父を失ったことを悼むために集まり、我々の一番大切にしてきた望みと意思を彼の記憶の上に留め、彼の偉大さを見習うものである[9]。
1866年、現在のノースダコタ州、ミズーリ川とイェローストーン川の合流点に建設された砦が、ビュフォード将軍に因んでビュフォード砦と名付けられた。ワイオミング州ビュフォードの町も将軍の栄誉を称えて名付けられた。
1895年、芸術家ジェイムズ・E・ケリーが制作したビュフォードの青銅像がゲティスバーグの古戦場で除幕された。
大衆文化の中で
[編集]マイケル・シャーラの小説 The Killer Angels に基づく1993年の映画『ゲティスバーグ』では、サム・エリオットがビュフォードを演じた。
ニュート・ギングリッチとウィリアム・フォースチェンが書いたもう一つの歴史小説『ゲティスバーグ』にもビュフォードが登場する。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Bielakowski, Alexander M., "John Buford", Encyclopedia of the American Civil War: A Political, Social, and Military History, Heidler, David S., and Heidler, Jeanne T., eds., W. W. Norton & Company, 2000, ISBN 0-393-04758-X.
- Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
- Hard, Abner N., History of the Eighth Cavalry Regiment, Illinois Volunteers, Aurora, Illinois: privately published, 1868.
- Langellier, John P., Kurt Hamilton Cox, and Brian C. Pohanka, Myles Keogh: The Life and Legend of an "Irish Dragoon" in the Seventh Cavalry, Upton and Sons, 1991, ISBN 0-912783-21-4.
- Longacre, Edward G., General John Buford: A Military Biography, Combined Publishing, 1995, ISBN 0-938289-46-2.
- Moore, Frank, The Civil War In Song and Story, 1860-1865, P. F. Colliers, 1889, ISBN 0-548-23606-2.
- Petruzzi, J. David, "John Buford: By the Book," America's Civil War Magazine, July 2005.
- Petruzzi, J. David, "Opening the Ball at Gettysburg: The Shot That Rang for Fifty Years," America's Civil War Magazine, July 2006.
- Petruzzi, J. David, "The Fleeting Fame of Alfred Pleasonton," America's Civil War Magazine, March 2005.
- Phipps, Michael, and Peterson, John S., The Devil's to Pay, Farnsworth Military Impressions, 1995, ISBN 0-964363-21-6.
- Randolph, Lewis Hamersly, Biographical Sketches of Distinguished Officers of the Army and Navy, Henry E. Huntington Library, New York, 1905.
- Rodenbough, Theophilus, From Everglade to Canon with the Second Dragoons - An Authentic Account of Service in Florida, Mexico, Virginia, and the Indian Country, D. Von Nostrand, 1875.
- Sandford, George B., Fighting Rebels and Redskins: Experiences in Army Life of Colonel George B. Sanford, 1861-1892, University of Oklahoma Press, 1969, ISBN 0-806-10853-3.
- Proceedings of the Buford Memorial Association (New York, 1895)
- History of the Civil War in America (volume iii, p.545)
この記事にはパブリックドメインである次の出版物本文が含まれる: Gilman, D. C.; Peck, H. T.; Colby, F. M., eds. (1905). New International Encyclopedia (英語) (1st ed.). New York: Dodd, Mead. {{cite encyclopedia}}
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