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「ノート:仙台真田家」の版間の差分

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:::::::::::しかし、その大辞典を信用しない人が ごく一部いることも 今回 知りました。
:::::::::::しかし、その大辞典を信用しない人が ごく一部いることも 今回 知りました。
:::::::::::ご理解頂けるものと思います。--[[利用者:深谷藤原三能|深谷藤原三能]]([[利用者‐会話:深谷藤原三能|会話]]) 2024年7月3日 (水) 05:16 (UTC)
:::::::::::ご理解頂けるものと思います。--[[利用者:深谷藤原三能|深谷藤原三能]]([[利用者‐会話:深谷藤原三能|会話]]) 2024年7月3日 (水) 05:16 (UTC)
::::::::::::こちらに関しては「検証可能性を満たせない独自研究である」ということで結論が出ております。
::::::::::::それと深谷藤原三能さんが新たにまとめたmyouji.orgのページですが、メールの一覧の方に一般人である担当者の名前や役職などが記載されています。名前は普通に[[個人情報]]として扱われます。[[個人情報の保護に関する法律|法令]]に違反する可能性が非常に高いので[[マスキング|マスク処理]]や[[トリミング (写真)|トリミング]]で名前が出ないようにして上げ直すことをおすすめします。 --[[利用者:桂輝平|桂輝平]]([[利用者‐会話:桂輝平|会話]]) 2024年7月13日 (土) 05:15 (UTC)


==情報源の整理==
==情報源の整理==

2024年7月13日 (土) 05:15時点における版

仙台真田氏

記述されている「真田氏の始祖 守信が幸村の次男」と言うのは 出典は 何なのでしょうか。 仙台人名大辞書の真田の項は 間違いが記されています。この事は当辞書の後継会である仙臺郷土研究会の会長から「真田の項は 誤謬」との回答を得ています。よって、それを参考にして作られた本には間違いが載っています。 私は 出典として 相応しいのは 宮城県姓氏家系大辞典のような家系の専門家が著した本等だと思います。 尚、蔵王町の後援社であったNHK仙台局 及び 河北新報も、仙台真田家は 幸村の子孫でないとして ページを削除しました。 結論として、仙台真田氏は「幸村の叔父さんの子孫」と するのが正しいものと思いますが 皆さんはどう思いますか。--深谷藤原三能会話2024年4月27日 (土) 09:03 (UTC)[返信]

情報 真田守信を信繁の次男・大八とする説を紹介している文献として、以下のものを確認しました。
  • 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。 - 小林計一郎 編『[決定版]真田幸村と真田一族のすべて』株式会社KADOKAWA、2015年7月21日、274-275頁。ISBN 978-4-04-601142-8 
  • なお、伊達氏や片倉氏に匿われた信繁の子女は、阿梅だけでなく、・・・大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという(小西幸雄①②)。 - 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』株式会社KADOKAWA、2015年10月25日、369-370頁。ISBN 978-4-04-703563-8 
    • (小西幸雄①②)とは小西幸雄①『仙台真田代々記』宝文堂、1996年、小西幸雄②『真田幸村と伊達家』国宝大崎八幡宮、仙台・江戸学叢書65、2015年を指す。
  • なお、信繁の妻も九度山に同行しており、ここで長男大助(幸昌)、次男大八(守信)、女子三人が生まれた。 - 笹本正治『真田氏三代―真田は日本一の兵―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年5月10日、221頁。ISBN 978-4-623-05444-2 
  • 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。 - 丸島和洋『真田四代と信繁』株式会社平凡社〈平凡社新書〉、2015年11月13日、258-259頁。ISBN 978-4-582-85793-1 
--こやまひろ会話2024年5月10日 (金) 05:57 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
コメント有難うございます。
確かに それらの本には そう記されておりますが それらの本は 面白おかしく書かれた講談本や仙台人名大辞書を参考にして書かれた本を参考にしたもので、守信が生きていた江戸時代当初の記録ではありません。正しいのは 守信の子辰信が記した書置き、及び伊達世臣家譜だと思います。
尚、丸島さんの真田丸以前の本と 最近の研究結果では認識が変わっております。
真田家の子孫を称する人は「死亡の噂を流したので お寺が死亡」と記したのだと主張しているが
真田丸の時代考証者である丸島さんは「はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、
戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です。
昌幸及び幸村は 兄 信幸の嘆願で死を免れた事からすれば 時が過ぎれば 幸村も許される
可能性もあった。この頃、大八を死んだことにする必要も無い」と 思いを変えております。
要するに、真実は、大八は 亡くなっており、守信とは 別人で、守信は 伊達世臣家譜にあるように幸村ではなく「政信の子」と言う事です。
また、平山優さんからは まだ返事が来ていませんが、丸島さんと友人のような付き合いをしている平山さんですので 認識は同じだと思います。
尚、ウイキペディアには3原則があるので、この場で その本が正しいかどうかを話し合いませんが、守信が幸村の子でない状況証拠を記します。
守信が幸村の子なら 嫁に行った阿梅が竹林院の位牌を引き取るわけもなく、立派な伊達藩士になった守信が引き取るはずです。幸村の息子でないので 阿梅は当信寺に頼んだ訳です。
また、守信と一緒に暮らしていた辰信が記した家の書置きには 守信の父を内記(政信のこと)と記しました。そして、伊達世臣家譜を記すに当たって 藩主の命を受けた儒学者 田辺 希文は 真田 信成(3代目)を呼び出して 話を聞いて「政信の子 沖允守信」と記したものと思われます。
即ち、当時を生きた人が書いた書物が事実だとは 思いませんか。
この5項目をご覧になって 貴方の感想をいただければ幸いです。--深谷藤原三能会話2024年5月13日 (月) 11:20 (UTC)[返信]
ひとまず、以下の2点について書誌情報をご提供ください。お示しいただいた情報源のうち、『伊達世臣家譜』以外のものについて特定が不足しており、確認しようにも確認するすべがない状態です。
公刊物であれば少なくとも書名・出版年・発行者の提示、可能であればページ番号もご提供ください。
非公刊物の場合は所蔵館をご教示ください。
  1. 「守信の子辰信が記した書置き」の内容に関する資料
  2. 丸島和洋氏の「最近の研究結果」に関する資料
なにとぞよろしくお願い申し上げます。-- こやまひろ会話2024年5月15日 (水) 16:51 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
1.辰信の家の書置きは 蔵王町が作った数万部のパンフレットの画像です。
2.丸島さんの記録は メールでもらったか、本から引用したか 今は 定かではありません。
調べるのに時間を要します。
それよりも
歴史家が記した本よりも家系の専門家が記した辞典の方が正確だとは思いませんか。
1.宮城県姓氏家系大辞典、1994年 角川書店 p.694
2.大八が夭折した事は 幕末に記された「真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」の53ページ上段に記されていることです。
この2点で充分と思いますが 如何なものでしょうか。--深谷藤原三能会話2024年5月16日 (木) 06:00 (UTC)[返信]
まず、丸島和洋氏の「最近の研究結果」に関する資料ですが、現状では検証可能性がないため、申し訳ありませんが、それにもとづいた記事の執筆はこのWikipediaではルール上できません。
続きまして、ここまでに資料としてあげられたものを時系列順に整理したものが以下となります。
年代 資料名 著者 記述内容
1678年(延宝6年) 真田家代々書上 真田辰信 曾祖父 真田隠岐守(信尹
1792年(寛政4年)ごろ 伊達世臣家譜 田辺希文・希元・希績 政信の子 沖允守信
1843年(天保14年) 真田家御事蹟稿 河原綱徳 大八 於京都早世
1994年(平成6年) 宮城県姓氏家系大辞典 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会(竹内理三ほか) 政信の子 守信は 父の死後、白石の片倉家に身を寄せた
2009年(平成21年) 真田氏三代―真田は日本一の兵― 笹本正治 次男大八(守信)
2015年(平成27年) [決定版]真田幸村と真田一族のすべて 小林計一郎 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。
2015年(平成27年) 真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実 平山優 大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという
2015年(平成27年) 真田四代と信繁 丸島和洋 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。
これらの資料について、以下の点を指摘したいと思います。
  • 2000年以降の資料4件では、いずれにおいても大八=守信説を紹介している。
  • 大八=守信説(新説)に対する批判を行った上で守信=政信子説(旧説)を採用した専門家が今のところ確認できない。
  • 2015年の資料3件では、文末を「という」とすることで大八=守信説による断言を避けている。
  • 『真田四代と信繁』は両論併記という形を取り断言を避ける。
以上にもとづく私の見解は以下の通りです。
  • 大八=守信説(新説)が複数の歴史学者によって紹介された後、専門家による否定がなされていない現在の状況では、この説の記述を直ちに削除することはできない。
  • 『真田四代と信繁』が両論併記としている以上、守信=政信子説(旧説)は新説によって覆されたとは言いがたく、この説もWikipedia記事中に記載すべきである。
--こやまひろ会話2024年5月16日 (木) 17:19 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
なるほど 貴方のコメントで ウイキペディアと言うものが だいぶ良くわかりました。
理路整然とした記述、たいしたものだと感心しています。
また、貴方の見解も大変参考になりました。
有難うございました。--深谷藤原三能会話2024年5月17日 (金) 09:36 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
貴方のコメントに感心して忘れていましたが 大八死亡の記録は 江戸時代初期の古文書にあるのです。
私は 大八死亡は 100%と確信していましたが 今回 貴方のコメントでは 50%の半々との感触のようです。
また、2000年以降の資料を重要視されているが、大八・守信が生きた時代に記された文書こそが
事実だと思います。
近いうちに丸島さん等のコメントが出れば 貴方の考えも変わるものと思います。
まずは、
大八は「大阪落城後 殺されたのではない」と記されている、
日本の武将64 小林計一郎著 1966年 人物往来社  p.91
https://www.myouji.org/sanada-kobayashi-jinbutsu.htm
1598年~1680年の史実を記した玉露叢に「大八 於 京都 早世」と
記されているとしている『左衛門佐君伝記稿』なのです。
とりあえず以上です。--深谷藤原三能会話2024年5月18日 (土) 00:04 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷です。
まずは 笹本さんの回答です。
笹本です。
「真田守信として 仙台真田氏へと繋がっていったような記述がありました」とのことですが、私が真田氏の関係で書いたのは『真田氏三代』だと思いますが、どこに記述したのか見る限りではわかりません。
私は個人の系譜的なことには興味がなく、書いたとすれば他の一般的な記述を参照したものと思います。
守信と大八の関係については研究しておりませんのでわかりません」と。
追って あとの二人から回答くれば ここに記します。
終わり--深谷藤原三能会話2024年5月19日 (日) 02:56 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
5/27日。歴史学者 平山先生から連絡が入りました((株)ポニーキャニオンの経営企画部の責任者を通して)。
「大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという」について。
平山さん曰く
「判断に質する文献が現状なく、お答えすることが叶いません」と。←回答をそのままコピー。
要するに深谷藤原が思うに、判断に資する文献がないのに2015年の本には 「大八=信繁の次男」と、記したと言う事です。
しかし、今回は 伊達世臣家譜など 大八・守信が生きた時代に記された文書と、家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典(1994年 角川書店発行)等の文書を付けて 判断を仰いだにも関わらず以上の短い回答でした。
これは まさに驚きの回答でした。
尚、丸島先生の思い「はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です」と言う文章は 今は 削除されているホームページに記されていた事と判明しました。
とりあえず、大八と守信の関係のコメントは以上です。
ところで、こやまひろ様、質問です。
現在の仙台真田家の編集に関して、脚注のリンク先が消えており 見っともない状況になっています。そこで、
編集するに当たって 出典を脚注より上にすることは 違反でしょうか。
出典こそ 重要と思っているので質問します、以上、お忙しいところスミマセン。--深谷藤原三能会話2024年5月28日 (火) 00:38 (UTC)[返信]

コメント

  • 丸島先生のコメントは、記事を読んでいる他の利用者は、その内容、真偽を検証できないので、記事を編集する段階では採用しないで下さい。小西先生の意見も同様です。
  • 丸島先生、小西先生のご意見が、論文や書籍などに記されれば、採用して問題ありません。
  • 2000年代の専門家の書籍が、江戸時代初期に書籍の方が信頼できると、深谷さんが考えるのは自由ですが、専門家ではない我々が、その判断を記事に反映することはできません。真田守信のように、両論共に併記し、読者に「正誤」の判断は任せ、判断材料を提供するのが、最良だと考えます。
  • 関連ページのあちこちで同じテーマで議論を持ち掛けるのは、各位のリソースを食うだけなので、一つのノート頁に集約頂ければ助かります。他の頁は、案内を記すなど程度にして下さい。
  • 内容では無く、脚注や出典の可読性の上がる編集は、他者から意義無ければ、ある程度自由に行ってください。

--背番号9会話2024年6月18日 (火) 08:02 (UTC)[返信]

貴重な意見有難うございます。
私は 前の説を削除せず、並記しております。
また、そういう事であれば 丸島さんとのメールのやり取りを載せましょうか。それで 丸島さんの意見が 2015年の本の後、変わったことがわかると思いますので。
その前に貴殿は 私が記した5項目(5/5日)についての感想を述べておりませんが。
尚、その5項目の内、 2番目、3番目は 家系の専門家が記した辞典ですよ。
そこには 私の自説は 一切 入っておりません。再度確認願います。
以上、いろいろ 有難うございました。--深谷藤原三能会話2024年6月18日 (火) 11:44 (UTC)[返信]
メールのやり取りでも同じです。Wikipediaの一利用者が、独自に関係者にヒアリング調査した結果は、独自研究の最たる例で、認められません。そういった行為で得た知見を、学術誌などに記載貰えれば、その学術誌の論文、記事として引用できます。私がどう思うか、貴方がどう思うかは重要ではなく、そういった文献などにどう記載されているか、が大事なのです。もし私の意見を述べるならば、「Wikipediaのルールと検証可能な情報源に基づき、論理的な飛躍なく、独自研究も独自の見解も無く、中立的に記載頂ければ、どっちでも良い」です。
紹介頂いたリンク先のページは誰が記載したページですか?複数の著名な学会誌で論文を幾つも掲載しているような、信頼できる専門家ですか?そういう信頼できる方であるなら、その先生のご意見として使えるかもしれません。--背番号9会話2024年6月18日 (火) 13:45 (UTC)[返信]
深谷藤原です。
リンク先のページは ご覧になれば 誰が記しているかは わかるでしょう。
家系を研究して 50年の深谷藤原ですよ。
その5項目の内、 2番目、3番目は 家系の専門家が記した辞典ですよ。
尚、メールのやり取りは 歴史研究家で テレビの真田丸の時代考証役だった丸島さんですよ。
───────────────────────────
-----Original Message-----
From: marushima.kazuhiro@nijl.ac.jp
Sent: Tuesday, July 19, 2016 2:29 PM
To: fukaya <fukaya@myouji.org>
Subject: 大八は 守信なのかの件
深谷様
はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です。
昌幸及び幸村は 兄 信幸の嘆願で死を免れた事からすれば 時が過ぎれば 幸村も許される
可能性もあった。この頃、大八を死んだことにする必要も無い
以上、                                     丸島 拝
> --
> **********************************************************
>  国文学研究資料館研究部特任助教
>             丸島和洋
> (職場) 190-0014  東京都立川市緑町10-3
>      Tel:050-5533-2971(直通)
>      E-Mail:marushima.kazuhiro@nijl.ac.jp
───────────────────────────
尚、丸島さんは 現在は 上記 資料館にはいないので 個人情報の保護違反にはなりません。
当時のありのままを載せました。
貴殿は 5項目の感想を記してこないので やりとりは これで終了です。--深谷藤原三能会話2024年6月18日 (火) 14:45 (UTC)[返信]
ここでの会話は、各位の意見の合意形成を目的としています(WP:CON)。それを拒否するという事は、貴方の意見を反映することを諦めることを意味しますが良いのですね。
丸島先生のメールはWikipedia:独自研究は載せないというルールに抵触し、採用できません。各位が独自研究と言っているのは、「自分勝手な意見を言うな」というレベルの話ではありません。
仮にノーベル賞級の発見や考え方であったとしても、外部で未発表の情報、アイデア、発見を、採用しないで下さい。外部で論文発表などした後で、それを引用して下さい。
という意味です。丸島先生へのヒアリング内容が学会発表するとか、学術誌や書籍で言及した内容であれば採用OKだと思います。
リンク付きで紹介いただいたページは、深谷さんが作った頁だったんですね。失礼しました。それでもページに記載の深谷さんの見解自体は無視すべきだと思います(WP:RS, WP:V#SP)。掲載の文献情報は Wikipedia に適した形に整えれば、記載可能だと思います。文献情報と丸島先生などの専門家の査読付きの学術論文などに記載の意見を幾つか伴って引用すれば…
以前は仙台真田家のルーツは大坂の陣の生き残った信繁の二男だとも言われていたが、丸島などによれば、その考えは現代では否定されている[引用]。
といった記載に持って行くこともできると思います。しかし現在、頂いている文献情報だけでは、「信繁の二男が仙台真田家のルーツ」説を否定し切るには不十分で(WP:SYN)、両論併記がせいぜいだと思います。
またページの編集履歴を確認しました。直近の深谷さんの記述の差し戻されたのは、記載の仕方が Wikipedia のスタイルに合致していないので、差戻しされているようです。私を含め、各位が都度提示しているウィキペディアのルールや記載スタイルを深谷さんが学んで尊重頂ければ、問題は解決すると思います。--背番号9会話)2024年6月18日 (火) 22:00‎ (UTC)--修正して再掲--背番号9会話2024年6月20日 (木) 06:54 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
貴殿に会話終了した理由は 1か月以上前に例の5項目に対して返答してこなかった事と 仙台真田家と言う家系の件で論議した時、面白おかしく書かれた講談本により
江戸時代の貴重な古文書の方が間違っていると思わせているので、これは大問題、と 私が記した時に、貴殿は「第二次世界大戦での日本軍の加害情報は諸外国の陰謀だ!等」と、家系の事とは 全然関係ない事を持ち出しました。
また、私が5項目が記されているサイトの筆者を貴殿に尋ねられた時に筆者は私 深谷藤原であり、家系の50年の研究者と 伝えた後も 再度、私のサイトについて、「紹介頂いたリンク先のページは誰が記載したページですか?」と、冷やかしてきたのでノートでの会話を終わりにしたのです。
しかし、ページを改修して 本気を示しているようなので 再開します。
そこで 質問です。
改修したページに 一番肝心な「伊達世臣家譜と、宮城県姓氏家系大辞典」に記されている、
守信の父を政信としている事や 守信が自分で白石に赴いた事を何故載せないのですか。
また、既に間違いだらけと判明している仙台人名大辞書をわざわざ出典に載せた理由は何故ですか。
その真田の項には 大八や阿梅が伊達氏に匿われたと記されているが
敵の大将の家族を保護れば 伊達謀反として、伊達家 おとりつぶしになる案件であり、
家系の専門書及び伊達世臣家譜には そんな事は載っていません。
私は 真田丸放映前から当家を調べているので もう10年になりますよ。
以上、質問することは 多数あるので とりあえず 貴殿の回答を待って 何度でもします。--深谷藤原三能会話2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC)[返信]
冷やかす意図はありません。先のコメントは、深谷さんの自己紹介を頂いているだけなのかと、誤読しておりました。リンク先の頁を調べ直して、状況を確認しました。何にせよ失礼いたしました。
それぞれの頁には目的があり、ここは表の記事の内容をどうするかを協議することを主目的とします(WP:TPG)。雑談をする場でも、主題について感想を述べあう場でもありません。
記事をどう書くかは、文献にどう記載されているか、で(私を含め)ウィキペディアに馴れた方は判断します。自分の感情を廃してでもルールと文献に基づいて考えます(WP:NPOV)。だから「どう思うか?」と感想を深谷さんに聞かれても、戸惑うばかりです。ルールと文献に従って判断します。としか言いようがありません。
一方、利用者のノート頁は、一定程度、自由があります。雑談ベースで話をしています。そして、見た感じ深谷さんが、自己の主張に固執している過去の利用者と傾向が一致しています。そういった方々が、最後は追い出される過程を10年以上前から、何十回とみています。その過程で他の各位も大変疲れます。そういうお互い不幸な事にならないように、気を付けて欲しかっただけです。分かってくれそうな方だったので、その後は気にしていませんでしたが、一か月経ってまだ、深谷さんの問題が解決していないようだったので、口出ししました。
「伊達世臣家譜と、宮城県姓氏家系大辞典」に記されている、守信の父を政信としている事や 守信が自分で白石に赴いた事を何故載せないのですか。(上記 深谷藤原三能 2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC) から引用)
掲載したいなら、記せばいいんじゃないですか?私は手を出していないと思いますが。
既に間違いだらけと判明している仙台人名大辞書をわざわざ出典に載せた理由は何故ですか。(上記 深谷藤原三能 2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC) から引用)
それも知りませんが、「間違いだらけ」だと指摘している文献情報はありますか?また、間違いだらけだとして、「仙台人名大辞典の仙台真田家に関する記述が誤りだ」と指摘している文献情報はありますか?あれば、その文献を引用して、否定すればよいと思います。
文献に記載されている通りに記してくれればよいと思いますが、文献を読み込んで、その上で自身の考えを持つのが、研究者の仕事だと思います。しかしながら、ここでは自身の考えを廃す必要があるのです。そこの認識で齟齬が発生しているのではないかと推察します。例えば、
真田の項には 大八や阿梅が伊達氏に匿われたと記されているが敵の大将の家族を保護れば 伊達謀反として、伊達家 おとりつぶしになる案件であり、家系の専門書及び伊達世臣家譜には そんな事は載っていません。(上記 深谷藤原三能 2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC) から引用)
これに結論を追加して文意ごとに番号付けします。
  1. 仙台人名大辞典には大八や阿梅が伊達氏に匿われたと記されている
  2. 敵の大将の家族を保護れば 伊達謀反として、伊達家 おとりつぶしになる案件である
  3. 家系の専門書及び伊達世臣家譜には そんな事は載っていない
  4. だから記載内容は誤りだ
このうち2, 3, 4 について、それぞれに、それを裏付ける文献が必要なのです。無ければ 2,3,4 は 深谷さんが研究者としてお持ちの考えです。研究者としてそう主張するのは分かります。しかしウィキペディアでは、それは採用できません。その考え方を共有できていない深谷さんは納得できません。という構造が問題の本質では無いかと思います。
もし、ご主張内容を裏付けする文献が見当たらないのであれば、「10年調べている」という調査内容を歴史の学術誌に論文として報告するのが一番良いのではないかと思います。査読を経て論文として掲載されれば、晴れてそれをウィキペディアに引用して下さい。WP:ORにも同じようなことが記載されていると思います。私の主張をもう一回繰り返します。文献とルールに基づいて記事を書いて下さい。何か主張したいことがあれば、それを裏付ける文献を引用して下さい。世の中にそういった文献が無いのなら、ご自身の調査結果を信頼できる論文などに報告してから、それを引用して下さい。それが守れるのであれば、記事の内容が何にしろ充実するので、私はそれで満足です。
--背番号9会話2024年6月21日 (金) 06:54 (UTC)[返信]
自分からもいくつか気づいた点についてコメントします。
まず、深谷藤原三能さんが主な根拠としてあげているmyouji.orgというサイトについてですが、典型的な個人サイトであって信頼できる情報源としては使用できません。深谷藤原三能さんはこのサイトの管理者、あるいは関係者ですよね?であればウィキペディア日本語版の方針である「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」「ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありません」にも違反することになります。サイト内で取り上げられている個別資料については議論の余地がありますが、その場合それを基にした信頼できる情報源にあたる論文や書籍を上げてください。
次に、「間違いだらけと判明している」とされる仙台人名大辞書ですが、その主張はmyouji.org以外に見つけられませんでした。(ざっと検索した感じ菊田定郷という方個人が作成した書籍のようなので間違いもあるだろうと個人的には思いますが、)「間違いだらけと判明している」というのはmyouji.org及び深谷藤原三能さんの独自研究ではないかと考えます。
丸山氏とのメールのやり取りについてですが、公開許可は得ていますでしょうか?許可を得ていない場合は著作権侵害となり得ます。引用の場合も著作権法第32条に「公表された著作物は、引用して利用することができる。」となっていますのでメールについては引用の範囲外となります。また、メールの内容についても本当に丸山氏によるものか疑っています。何故ならば深谷藤原三能さん独特の文調と癖が色濃く出ているためです(具体的にどこかは今後深谷藤原三能さんが対策することを防ぐため記載しません)。丸山氏のサイトの2016年時点のブログから読み取れる文調とも大きくかけ離れています。いずれにせよ、何の根拠にもなりません。
さて、具体的な内容(守信は幸村の子・大八ではない)についてですが、myouji.orgに掲載された資料、myouji.orgの解釈、他のサイトや書籍・論文などの解釈などを総合すると、「外(幕府)向けの情報:守信は大八ではない」と「事実:守信は大八である」と2つの情報経路があり、myouji.orgは前者及びそれを基にした資料のみを信じ、それを前提として内容が書かれているのではないかと考えます。それはmyouji.orgの解釈の多くが「はず」という推測を基に書かれていることからも読み取れます。
以上のことから、少なくとも「守信は大八ではない」という説をメインに持ってくることには反対です。なんなら書かなくても良いか幕府向けの情報を基に作られた説であることを明記しても良いかと思います。--桂輝平会話2024年6月21日 (金) 21:46 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
返信するに当たって 確認しますが 会話ページは 自由な発言で ノートページは
「記事の内容をどうするかを協議することを主目的」では ないのですか。
以上、元管理人への質問でした、それによって 記述できるかどうかを考えますので。
以上、宜しく頼みます。--深谷藤原三能会話2024年6月22日 (土) 01:47 (UTC)[返信]

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 日本語版Wikipediaでは、管理人とは表現しませんが私に呼びかけてますよね。ノートページは概ねその通りですが、詳細はWP:TPGの方を確認して下さい。三原則ほどの厳守は求めませんが、主目的から脱線した話ばかりで盛り上がったりしないようにしましょう。また個々の利用者の会話ページに深谷さんがマルチポストしている質疑と、ここでの議論は基本リンクしません。そろそろ一回本記事をどうするかに話を集中した方が良いと思います。独自研究検証可能性信頼できる情報源の解釈が、深谷さんはかなりズレています。ズレたまま議論したり、レクチャーするのも大変疲れます。急ぎませんから、次のコメントの前に、今一度ご自身で熟読しておいてください。--背番号9会話2024年6月22日 (土) 02:51 (UTC)[返信]

深谷藤原三能さん宛ですが、こちらにつなげます。
個々の利用者にspamを送りまくっているようですが、議論の分散にあたるのと、単純に迷惑に感じる人が多いので止めてください。以前他の利用者からも指摘されているはずです。Wikipediaにはルールがあります。そのルールに従えないようならば今までのように個人サイトのみで活動されることを強く勧めます。従えないようであれば投稿ブロック依頼の提出も視野に入れています。独自研究検証可能性信頼できる情報源などを熟読するようにということも以前他の利用者から指摘されていると思います。改めて熟読してからコメントしてください。--桂輝平会話2024年6月24日 (月) 11:18 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
貴殿は 私が「spamを送りまくっている」と 記しましたが 何をもってspam としていのでしょうか。
去年もそうですが 仙台真田家のページには 間違いが複数あると思われるので、ページを正しくする為に
ノートで 討論し、辞典として ふさわしいものにしようと 思っているからです。
その為には まず、会話のページに何人かに送りました。十人も二十人に送ったわけではないですよ。
送ったのは 家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典の情報などです。
私の自論は 一切入っておりません。
仙台真田氏のページは 今年の5月まで 幸村の子孫となっていました。
家系の専門家が記した その事典では 政信の子孫となっております。
江戸時代に書かれた 伊達家の記録にも 政信の子 守信と記されている事なのです。
両説並記が原則ではないですか。
即ち、真田守信の頁は 去年、勇気ある人が 政信説を追記しましたが 真田家の方は
1年経っても 誰も改修しないので やむを得ず 私が手掛ける事とした次第です。
その点をご理解ください。
以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能会話2024年6月24日 (月) 13:41 (UTC)[返信]
まず、嘘を付くのは止めてください。あなたはIPユーザー含め40人以上に送りつけています。あなたの自説も含まれていますし、提示しているのはあなたのサイトmyouji.orgのみで前述の「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」「ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありません」に違反する内容になっております。一般的には大量に送りつける宣伝や迷惑メールのことをspamと呼びます。
また、両説併記は別に原則ではないです。Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付けをお読みください。「無視しがたい少数派の意見に不当な重み付けをしたり、ごく少数の人々の意見を含めたりすれば、論争の有様について読者を誤った方向に導きかねません。ウィキペディアの狙いは、競合する意見を、その話題に関して信頼できる情報源における表現に応じて提示することです。」とあります。多くの論文、書籍、記事とたった一つの異論を唱える個人サイトmyouji.orgの内容を併記する必要はありません。自称管理者が50年研究してきたとか500万人に見られたとかYahoo!のカテゴリに登録されていたとか言うのは重み付けには全く意味のない情報です。
それよりもここまでに出た多くの質問や提案に誠実に回答していただけませんか。myouji.org以外で同じ主張をしている論文、書籍を信頼できる情報源から示してください(自分からは2回目、他の人からは過去多数)。なお深谷藤原三能さんの言う5項目に関しては自分は既に「「外(幕府)向けの情報:守信は大八ではない」と「事実:守信は大八である」と2つの情報経路があり、myouji.orgは前者及びそれを基にした資料のみを信じ、それを前提として内容が書かれているのではないかと考えます。」と回答しています。--桂輝平会話2024年6月24日 (月) 19:12 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
スパムと 感じている皆様方には この場を借りて、謝まりますよ、
申し訳ありませんでした。
尚、貴殿が 仰るのは ごもっともですが、
ちょっと待ってくださいよ、嘘、しかも 40人以上 ?、それは 去年の分を含めているからでしょう?。
夕べ、会話の件で、メモ帳を確認したら、4/30に3件、その後は 記録不明で
5月にやっても 5件位の思いなので、数件と記したのです。
ノートで討論するための準備の会話は そういう事であり、6月に編集が元に戻されたことに関する
会話は、延べにすると数十あるかもしれません。
そりゃ 私も人間だから 間違いもあるでしょう。
しかし、嘘とは 言い過ぎではありませんか。
私が 嘘を言って 皆さんをだますような人かどうかの証として、私の先祖や ヤフーの事を記したのです。デタラメナ記事では ヤフーが登録するはずがないでしょ。
それに会話は 編集と違って 比較的自由、と あるではないですか。
尚、myouji.org以外で同じ主張をしている論文、書籍を信頼できる情報源から示してください
と、仰っていますが 論文、書籍がないから、今回 私が 会話の形で 皆さん方に事実を提起したのです。
尚、私のサイトでは 私の集めた情報では、真実は一つなのですよ。その真実について 解説は当然なことではないでしょうか。
一人の男の子は 二人の母親から産まれません。
よって、守信の母親が 誰かを示すために 5項目を提示したのであって、私の推測ではありません。
4番目は 仙台真田氏の子孫である昭和生まれの人が蔵王町に提示した「家の書置き」です。
その書置きは 数万部 国民の税金で刷られたパンフレットに載っている事です。
この事実を独自の研究と決めつけられては ノートでの正しい情報提示が出来なくなり、
それこそ かたよった記事にたどり着いてしまいます。
尚、私は 小林さんや丸島さん等の複数の本も読み、是々非々の判断をした結果、
やはり 家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典の内容が正しいと確信したので
「守信は 政信の子」で 固まっているのです。
幾つかの本には 「守信は 片倉小十郎に 大坂の陣の時、保護された」と載っていますが
実は NHKの放映も 間違いで 真田丸の時代考証役の一人である黒田さん
「実際には、竹林院は、数人の子供と ともに、大坂落城後に同城を脱出するも、19日に紀伊国の浅野氏に捕縛されています」と ページに記しています。
これも 私の自論ではないですよ。
こういうことは「信頼できる情報源における表現に応じて提示することです。」に なりませんか。
尚、私は 誠実に 皆様方からのコントに回答していますよ。
以上、ご理解ください。--深谷藤原三能会話2024年6月25日 (火) 05:06 (UTC)[返信]
横から失礼します。ざっと履歴見ただけですが、去年を含めずとも今年だけで40人超える数送られてますね、なんなら5月4日から5日の24時間以内だけで31名もの方々に、根拠や出展を用いず自身の考察と、自身のサイトへの誘導リンクを添付したメッセージを送って回っています。対象ページに関わった事が無い、無関係な方にすら「自サイト見ろ、感想をよこせ」といった調子のメッセージを送っていますし、何名かの方々からはやんわり怒られていますよね?。言い訳と言い逃れはまぁ、極悪とは言いませんが不誠実な行為でしか無いので、場当たり的に行動するのではなく、相手のメッセージをよく読んで熟考してから行動に移される方が良いと思います。自分が何を発言したかすら記憶できないなら猶更です。--14.10.32.66 2024年6月25日 (火) 12:38 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
コメント有難うございます。
24時間以内で 31名、それは 驚きです、
でも 目的は ページが正しい内容になる為の案内であり、ノートでの会話の準備の為です。理解いただきたい。
但し、もう二度と そういう行為は 絶対にしません。
尚、無関係な方には 絶対しておりません、何故なら、当ページの履歴表示を見て
関係している方に 案内しているからです。
以上、ご理解 お願いします。--深谷藤原三能会話2024年6月25日 (火) 13:44 (UTC)[返信]
また嘘をついたんですね、自分の投稿履歴を見れば一目瞭然なのに。あなたの先祖やYahoo!がどうとかとあなたが嘘を付く人間かは全く関係ないですね。実際あなたは嘘をつきました。
ノートページ、会話ページは比較的自由と捉えられることが多いですが、そうではありません。記事ページと異なるルールがあるため比較的自由に見えるだけでウィキペディア日本語版全体に係るルールは守らなければいけません。あなたは既に新規利用者ではありません。Wikipedia:方針とガイドラインは読んでいるものとして扱われますし、各種方針の熟読期間として2度のブロックを受けています。もし読んでいない、読んでいても理解していない、読んで理解したとしても従わない、などであれば再度ブロックが必要かと思います。有期か無期かは議論の余地があるでしょうが。
それはそれとして、この記事については下記の投稿で結論が出ました。
尚、myouji.org以外で同じ主張をしている論文、書籍を信頼できる情報源から示してください
と、仰っていますが 論文、書籍がないから、今回 私が 会話の形で 皆さん方に事実を提起したのです。
深谷藤原三能
信頼できる情報源がない、独自研究でしかないとあなた自身で認めました。ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではなく演説場所や宣伝場所でもないというのは以前にも述べています。これ以上は議論の余地がないかと思いますが、最後になにかコメントはありますか?--桂輝平会話2024年6月25日 (火) 17:31 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
嘘をついたつもりはありません、会話して 返信があったのは 3~4人位いだったので、
自分のメモも確認し、10人位の記憶しかなかったので そう答えたのです。
自分の投稿履歴と言う調べ方は 今、知りましたが 表示される履歴表示しか、知りませんでしたので。
ブロックに関しては 私は 申し上げることがありますが、それを記すと、ルール違反になるので
コメントしません。
「信頼できる情報源がない、独自研究でしかないと」の件、
そんな事は 言っていません、
信頼できるのは 家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典だと言っているのです。
独自研究も発表していません。家系大辞典等に 載っている事だと 申しているだけです。
自分の意見を記しているのは 私のサイト内だけです。
但し、ウイキのページには 「家系大辞典等に記されている事とは 違う」と 発言しているかもしれませんが。
とりあえず以上です、お手柔らかに頼みます。--深谷藤原三能会話2024年6月26日 (水) 05:04 (UTC)[返信]
コメント確かに頂戴しました。ここまでに頂いたコメントは今後「情報源の整理」節の議論の行方を見届けた後、投稿ブロック依頼を出しますが、その際の参考にさせていただきます。
「ブロックに関しては 私は 申し上げることがあります」とのことですので、そちらで発言なさってください。--桂輝平会話2024年6月30日 (日) 06:43 (UTC)[返信]

仙台真田家の始祖 守信の件

従来のページは出典が記されておらず、脚注の部分の半分以上が「守信は幸村の子でない」として、リンク先が削除されており、見栄えが悪いので出典を別に設置しました。

確か、1年半前は 追加記述の理由を書く欄があったと思いますが 今回は、見つからなかったので、このノートに記しておきます。

理由「従来のページは出典が記されておらず、脚注の部分の半分以上が「守信は幸村の子でない」として、リンク先が削除されており、見栄えが悪いので出典を別に設置しました」以上です。--深谷藤原三能会話2024年6月14日 (金) 05:03 (UTC)[返信]

いくつかの出典についてオリジナルのリンク先が削除されていることは確認できましたが、それが「守信は幸村の子でない」として削除されている根拠が確認できませんでした。自分には深谷藤原三能さんが勝手にそう判断したようにしか見えませんでした。各リンク先について「守信は幸村の子でない」として削除されたことが検証できるエビデンスを示してください。--桂輝平会話2024年6月21日 (金) 18:23 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
myouji.org のサイトは 20年ほど前にヤフーのカテゴリーに登録された 私のサイトであり、
500万人以上に見られているサイトです。
著者の意思が反映されることは 当然の事です。書くに当たって、是々非々の思いでやっており、キツイ言葉も あるでしょう。しかし、ウイキペディアからリンクするときは公平なページしかリンクしていません。
例えば これです
そのページに記されている出典は もう周知の事実です。
尚、「守信は幸村の子孫ではないとして リンクが削除されている件」については
私が NTT仙台局などに 説明した結果です。
真田丸の年から 気づいたところに やりましたので、この9年間の間にパソコンが2台変わっておりますので 解決済みとして 完全削除もあり、その証拠を示せるかは わかりません。
私が必要と思ったところは 残してある可能性はありますが。
また、仙台人名大辞書のデタラメ部分に関しては 実際にその本を読んだ人なら気づくことです。
尚、そのページには 仙台人名大辞書の後継会の渡邊会長のコメントも記されております。
記されておりますが 読めば 常識的に敵の大将の家族を保護など 有り得ないでしょう。
尚、貴方にも 先のページの5項目に関してのコメントを求めましたが どうなのですか。--深谷藤原三能会話2024年6月22日 (土) 00:43 (UTC)[返信]
こちらではリンク先が削除された理由についてのみ議論していきましょう。
深谷藤原三能さんはなにか勘違いしているようなのでもう少しわかりやすく書きます。あなたが何を働きかけたのかは聞いていません。リンク先の管理者が削除した理由を示すエビデンスを求めています。単なる掲載期間切れなどではなく『「守信は幸村の子でない」として』と明言している以上、リンク先の管理者がそれを示したものをあなたは見ているのだと思います。そのエビデンスを示してください(2回目)。示せないのであれば前述の通り、深谷藤原三能さんが勝手にそう判断したのでしかなく、ミスリードを行っているということになります。それは議論にあたり誠実な態度とは言えません。誠実な回答をお待ちしています。--桂輝平会話2024年6月24日 (月) 11:01 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
返事遅れて 申し訳ありませんでした。
リンク先の管理者が削除した理由を示すエビデンスは 示せませんよ。
私が真田の子孫は 幸村の子孫でないと指摘し、ページの削除願いをすれば それでおしまいですから。
該当会社が 削除した理由を何かの誌面で発表するのは 一般的にないでしょ。
また、指摘のメールに回答してくることも めったにありません。
削除して おしまいの案件だからです。
私は 指摘するだけで 返答を求めませんでしたから。
只、私が 各社に指摘した証拠は いくつかあると思いますが パソコンが変わってしまっているので、5年、7年前の記録は あるかどうかわかりませんが、直前のパソコンの記録が残っていたので それを記します。
「深谷 様
7年前に「真田幸村の虚像と実像 そしてその子女たち」のセミナーを
歌舞伎座3階・花篭にて主催いたしました歌舞伎座サービスの取締役の上野と申します。
この度、貴重なご意見・ご指摘を頂戴しまして誠にありがとうございました。
弊社が良く理解せずこのセミナーを開催した事、
❝真田 徹氏❞を全面的に信用した弊社に問題がございました事に
深く反省する次第でございます。
歌舞伎座ホームページ方は、先程削除させていただきました。」と。
とりあえず この件は以上です。
有難うございました。--深谷藤原三能会話2024年6月29日 (土) 01:04 (UTC)[返信]
こちらに関しても検証可能性を満たせない独自研究である旨承知しました。
なお歌舞伎座ホームページの件はこの記事も真田守信の記事でも出典として使われていないので、全く別の話かと思います。
自分は「各リンク先について「守信は幸村の子でない」として削除されたことが検証できるエビデンスを示してください。」と言ったのですが示せないということで、非常に残念です。--桂輝平会話2024年6月30日 (日) 06:37 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
削除依頼をしたから削除されたと 思うのが一般的ではないですか。
このページをご覧ください。
終わり--深谷藤原三能会話2024年7月2日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
Wikipediaでは、「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」を根幹のルールとしています。上の桂さんの「検証できるエビデンス」というのも、深谷さんの主張が仮に正しかったとしても、また一般的には真実が推定できたとしても、その“真実”が他の利用者によって検証できないのであれば、それはWikipedia上では、無いものとして扱いましょう。という意図が含まれます。
直感と反するため、ルールを知ったばかりの利用者は困惑しがちではあります。しかし、それを基盤にWikipediaという大規模な共同作業が全世界で成立しています。以降はこのルールに従って協議して下さい。--背番号9会話2024年7月2日 (火) 13:45 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
去年の3月は そうは思ってなかったので 間違っていると思われるところは 削除しました。
しかし、今年は、その辺も理解したので 前の説を削除せず両説並記としたのです。
尚、「その“真実”が他の利用者によって検証できないのであれば、それはWikipedia上では、無いものとして扱いましょう。という意図が含まれます」と言う部分は、
* なるほど なるほど そう言う事なのですか、と言う思いです。
了解しました。
コメント有難うございました。
尚、今回の貴殿のコメントは 私が昨日記したページを見てのコメントなのでしょうか。
以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能会話2024年7月2日 (火) 23:46 (UTC)[返信]
そうです。深谷さんのサイトはWikipedia:信頼できる情報源 とはみなしていないからです。その点は私の会話ページで、深谷さんも理解いただいている旨のコメントをもらっているかと存じます。--背番号9会話2024年7月3日 (水) 00:15 (UTC)[返信]
記事の編集にあたって 私のサイトを使おうとは全然考えていませんよ。
利用者‐会話:背番号9、深谷藤原三能 2024年6月24日 (月) 07:31 (UTC)の投稿より引用
--背番号9会話2024年7月3日 (水) 00:33 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷藤原です。
今回6/12日に編集した記事の内容は 全然私のサイトは利用していませんよ。
これこれこうと 私のサイトに こう記してあるからと、皆さんに説得も 試みてもいませんよ。
NHK仙台局や河出書房などの報道機関が認めている宮城県姓氏家系大辞典など 誰でも 調べられる情報を載せ、特に大辞典を参考にして 記しました。
この事は 雨が上から降ってくる事と変わらず、自然と そうなる。
しかし、その大辞典を信用しない人が ごく一部いることも 今回 知りました。
ご理解頂けるものと思います。--深谷藤原三能会話2024年7月3日 (水) 05:16 (UTC)[返信]
こちらに関しては「検証可能性を満たせない独自研究である」ということで結論が出ております。
それと深谷藤原三能さんが新たにまとめたmyouji.orgのページですが、メールの一覧の方に一般人である担当者の名前や役職などが記載されています。名前は普通に個人情報として扱われます。法令に違反する可能性が非常に高いのでマスク処理トリミングで名前が出ないようにして上げ直すことをおすすめします。 --桂輝平会話2024年7月13日 (土) 05:15 (UTC)[返信]

情報源の整理

守信を信繁の次男・大八とする説を紹介する文献
  1. 小林計一郎 編『[決定版]真田幸村と真田一族のすべて』株式会社KADOKAWA、2015年7月21日、274-275頁。ISBN 978-4-04-601142-8
    • 大八夭逝の情報を否定しながら記載
  2. 小林計一郎 編『真田幸村のすべて』新人物往来社、1989年、97, 189頁。ISBN 440401614X
  3. 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』株式会社KADOKAWA、2015年10月25日、369-370頁。ISBN 978-4-04-703563-8
    • (間接的)小西幸雄『仙台真田代々記』宝文堂、1996年
    • (間接的)小西幸雄『真田幸村と伊達家』国宝大崎八幡宮、仙台・江戸学叢書65、2015年
  4. 笹本正治『真田氏三代―真田は日本一の兵―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年5月10日、221頁。ISBN 978-4-623-05444-2
  5. 丸島和洋『真田四代と信繁』株式会社平凡社〈平凡社新書〉、2015年11月13日、258-259頁。ISBN 978-4-582-85793-1
    • 大八夭逝の情報も併記
  6. 德川宗英『徳川家が見た「真田丸の真実」』PHP研究所、2015年。ISBN 9784569827131
対して深谷さんが論拠とする文献
  1. 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会(竹内理三ほか)『宮城県姓氏家系大辞典』角川書店、1994年、694頁。ISBN 978-4040020402
  2. 小林計一郎著『日本の武将64』人物往来社、1966年、91頁。
    • 大八夭逝の情報を紹介。ただし同一著者が前掲 2015年の著作で否定した内容を確認。
  3. 『伊達世臣家譜』1792年ごろ
    • 今泉篁洲「伊達世臣家譜. 第2輯 巻之九(召出之部)」『仙臺叢書. 続刊第3巻』仙台叢書刊行会、1937年、38頁。(真田守信に掲載)
    • (復刻版)田辺希文, 田辺希元, 田辺希績修纂 ; 平重道解題、宝文堂出版、1975年9月。
    • (追記)仙台市博物館所蔵
  4. 真田辰信『真田家代々書上』1678年
    • 仙台真田家に伝わっていた「家の書置き」。ただし検証できるのは、深谷さんのサイトにあるパンフレットの写し。
  5. 河原綱徳『真田家御事蹟稿』1843年
    • ただし検証できるのは、深谷さんのサイトにある書籍の写し。
  6. (追加)益岡四郎「真田幸村の後裔を探る(上)」『仙台郷土研究』仙台郷土研究会、1942年、第12巻第7号。
    • 著者は片倉男爵か。
    • 国会図書館に蔵書あり。

ここまでこのノート記事などで上がっている、検証できる、検証できそうな状態の情報源は以上で良いですか?深谷さんが論拠とする 4, 5 の資料を保管する博物館、図書館などがあれば教えて下さい。国会図書館でもどこでもいいです。サイト情報やパンフレットだけでは、不十分です。深谷さんが個人的にヒアリングした情報や、読み解いた情報は、混乱するので、もう触れないで下さい。--背番号9会話) 2024年6月26日 (水) 11:13 (UTC)--(追記)--背番号9会話) 2024年7月1日 (月) 11:04 (UTC)--対して深谷さんが論拠とする文献4を削除し、6を追加--背番号9会話2024年7月12日 (金) 15:48 (UTC)[返信]

深谷さんの提示する1の『宮城県姓氏家系大辞典』は、真田氏の項本文末に(世臣家譜)とあり、3の『伊達世臣家譜』よりの引用項目であるため、独立した根拠とは認めがたいと考えられることを申し添えます--みやここんぶ会話2024年6月26日 (水) 11:36 (UTC)[返信]
お世話になります 深谷です。
守信を信繁の次男・大八とする説を紹介する文献について、
1、については 大八=守信
2、にいては
その97ページを書いた人は 小林計一郎さんではなく、田中誠三郎さんです。
そして そのページの後ろの方に『真意の分からないものもあり』とあるように、この田中さんは よくわかっていないのです。
それに いいですか、8代目の幸歓(幕末~明治の人)より 真田に復したのであれば 江戸時代 約270年間の内の15年だけが真田であり、255年間は 片倉氏、と言う事になります。
3、4、5、に関しては 2015年当時は 大八=守信と記されているが、その後、思いを変えたことは ノートの前の方で 記した事です。
6、の徳川さんの本は 読んでないので なんとも 申し上げられません。
尚、小西幸雄の本については、「真田家と六文銭を守る会」の代表者から、小西さんと平成15年から28年末までに やりとりした文書(30ページ位)が 私の所に届いており、その中に、
仙台真田代々記には 大いなる「史実の歪曲、偽装」認められるわけで、今一度、精査、確認の上
正式な訂正、謝罪を求めます。」 と 記されております。
以上、だからと言って 私は 1~6の説を否定・修正することなく、6/12日には 並記する形で編集しました。
深谷藤原が論拠とする文献については
4、の「家の書置き」は、蔵王町が国民の税金で作ったパンフレットですので まだ 残っていると思いますので、蔵王町教育委員会生涯学習課の佐藤課長に聞いてください。
私の所には 1部だけ届きました(仙台市民から)。
尚、画像及び仙台人名大辞書の間違いの理由が記されているページは これです。
一番下をご覧ください。
5、の河原綱徳『真田家御事蹟稿』は 国会図書館にあります。
とりあえず以上です、宜しくお願いします。--深谷藤原三能会話2024年6月29日 (土) 06:22 (UTC)[返信]
大八説 1と2のコメントは、少なくともその書籍に記述があることは確認できましたので、 Wikipedia:検証可能性 を満たして利用して良さそうです。情報提供ありがとうございます。
大八説 3,4,5 や小西さんなどの著者たちが考え方を変えたといったコメントは、深谷さんが丸島先生などに個別にヒアリングしたり、状況からそう分析した内容ばかりかと思います。
ある著名な物理学者の「X理論」についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、あなたがその学者に連絡をとったところ「実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。」と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。
その情報をウィキペディアに載せてよいものにするには、まず、広く信頼されている報道機関を説得してあなたの話を発表してもらわなければなりません。
という事です。X理論を現在の論点に置き換え、"あなた"を深谷さんに置き換えれば、ほぼ同じです。よって、3,4,5あるいは小西さんの書籍はそのまま使うすべきかと思います。(この点は、ご理解いただいているかと存じます)
次に深谷さんの論拠資料 4 については、
出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。
という事です。検証可能な出典の提示は深谷さんが行って下さい。無理であれば、ウィキペディアの出典として利用するのは不可能だとお考え下さい。
深谷さんの論拠資料 5 については、国会図書館の書籍リンクを示して頂きますか。検証できれば、使えると思いますし、そういうのはウェルカムです。そういうのが欲しいのです。
--背番号9会話) 2024年6月29日 (土) 09:27 (UTC)--アンダーバーの箇所追記--背番号9会話2024年6月29日 (土) 17:22 (UTC)[返信]
  •  確認と方針提示この節「情報源の整理」において、使える情報源の確認を1週間以上行ってまいりました。現状、「守信=大八説」の1~6は全て使えそうです。また、深谷さんの「守信=政信の子」の論拠資料として挙げたうち、4と5は検証可能性が確定していなので、待ちの状態。一方、3の『伊達世臣家請』は採用が妥当かと思います。また 1の『宮城県姓氏家系大辞典』は、みやここんぶさんの2024年6月26日(水)11:36(UTC)の指摘の通り、3の情報を引用して紹介している内容だと見ます。そのため、史料にあたる3の存在や内容を裏付ける情報源と考えます。この認識の上で、今後、本記事の編集を、確認を取りながら進めたいと思います。「守信=政信の子」の資料4.5.については検証可能性が確保されれば、採用するつもりです。反論、ご意見などございましたら、お伝え下さい。--背番号9会話2024年7月3日 (水) 16:20 (UTC)[返信]
    お世話になります 深谷藤原です。
    いろいろ 有難うございます。
    さて、第4項については、蔵王町が作ったパンフレットで 町の蔵王町観光協会に残っているかどうか、ですので、4項は 省いても 差し支えありません。
    しかし、5項は 国会図書館で 確認できることであり、実際 私の画像は 国会図書館に行って
    コピーしてもらったものであり、『真田家御事蹟稿』の53ページ上段と案内している事であるので ウイキのルールにのっとっております。
    尚、丸島さんの『真田四代と信繁』には 大八について 2説ありとしています。218ページ。
    即ち、「真田氏側の記録は、5月5日に京で印字打をしていたところ、当たり所が悪く 夭折したとする」
    一方、「仙台藩側の記録では 大八は片倉家に庇護され 片倉守信を名乗ったとしている」
    よって、両説ありです。
    また、第1項の小林計一郎 昭和41年(1966)著では、91ページに
    大八については、蓮華定院の報告書に「五月五日、京都に於いて印字打 成され 御死去候」とあり。そして2行後に「大阪落城後 殺されたのではない」と記されています。
    よって、大八、死亡説です。
    尚、私としては このノートには 少なくとも、私の編集を戻した人 及び 現在のページに書き換えた人の2人には
    参加してもらいたいと思っているので ベテランである貴殿の知恵をお借りしたい ものです。--深谷藤原三能会話2024年7月4日 (木) 01:38 (UTC)[返信]
    返信 丸島さんのトピックは、記述案を推敲している最中です。とりあえず、配慮するつもりだとお伝えします。
    『真田家御事蹟稿』については、国会図書館で検索しましたが、新編信濃史料叢書 第15巻から第18巻までが該当し、書籍特定に至っていません。確認をお願いします。
    小林計一郎さんのトピックは、こやまひろさんが2024年5月10日 (金) 05:57 (UTC) でも指摘しています。1966年の資料(深谷さん論拠2)では大八死亡説を記しています。しかし1989年の資料(大八2)ではそれを基に上書きして大八説に変え、2015年の資料(大八1)に引き継がれています。ただ小林さんがどちらのスタンスであっても、書籍を基にして記事を編集すれば良いので、内容が大きく変わることはないと思います。--背番号9会話2024年7月5日 (金) 01:45 (UTC)[返信]
    お世話になります 深谷藤原です。
    1-6項には 入ってないですが、
    私は 6/12日に編集した時に 信尹の次男に政信と記された出典をウイキのルールにより明記しました。
    その仙台郷土研究会の機関誌「仙台郷土研究」昭和17年7月号に掲載された滋野姓真田之系略、については ページで案内したように 東京帝国大学 史料編纂掛編集をネットで 見れば 出てきます。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000037411-i6838917 昭和17年ものですので 12巻となります。 以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能会話2024年7月5日 (金) 13:14 (UTC)[返信]
    お世話になります 深谷藤原です。
    7/5日の貴殿に返信をクリックすると 何故か、まひろさんに返信と出るので 7/3の返信を使います。
    さて、昨日、案内した仙台郷土研究の内容ですが国会図書館のサービスで ネットの画面で見られるかもしれませんが 手続きをして 遠隔複写サービスを受けるか、国会図書館に行った時に すぐに該当ページを見るための事前手続きをする必要があると言う事です。
    尚、「真田幸村の後裔を探る(上)」と言う文字は このページでも確認できます。30ページ
    chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://sub.mkn-hospital.com/soumokuji-10kan-11gou--14kan-7gou.pdf
    尚、この著者は 益岡四郎と言うペンネームですが 実名は 片倉男爵で
    幸村の娘 阿梅を後妻にした片倉小十郎の子孫であり、片倉家では 代々 仙台真田家の始祖 守信の父は 政信と言う事が伝わって来たものと思われます。
    尚、私のページの画像は 真田家を70年研究してきた信州真田家の子孫の方が 私に郵送してきたものであり、その紙面を画像にして ネットに載せたものです。
    以上 宜しく頼みます。--深谷藤原三能会話2024年7月5日 (金) 23:55 (UTC)[返信]
  • 返信 (利用者:深谷藤原三能さん宛) 何をして欲しいのか、何を訴えているのか、主文、メインの主張を明確に下さい。また、{{Sfn}}を使った引用により、ここの頁表示がおかしくなっています。他者のコメントに手を加えるのは、基本的にはマナー違反なので、ご自身で直してほしいです。<nowiki>{{Sfn|…}}</nowiki>とすると良いと思います。--背番号9会話2024年7月7日 (日) 08:19 (UTC)[返信]
    お世話になります 深谷藤原です。
    仙台真田家のページは 真田守信のページと同じように 二説あり、と すべきと思います。
    そして 一説は 真田信繁の叔父 信尹(隠岐守)の子 政信を父とする説
    仙台真田家は 信州の真田家の一派であり、仙台藩家臣として 幕末に至る。
    真田政信の子 守信は、父の死後、白石の片倉家(白石城主)に身を寄せた。寛永年間(1636)、伊達忠宗の代に召し出され、江戸番馬上を務めて召し出し家になる。のち、360石を禄し、片倉を名乗った。子の辰信は 正徳年間(1713年頃)に真田に復し、その子 信成は、奥老となり、元文年間に伊達宗村の母 長松院の付人となる。寛保年間(1742)には 弟の英信(惟信)に30石余を分与した。信成の跡は、信経―信珍(大条頼始の次男)―信凭―幸清(末家 真田信知の嫡子)―幸歓と継ぐ。同家は 刈田郡矢付村(蔵王町)に田宅を置いた。
    尚、出典の伊達世臣家譜は 漢文で書かれている為 理解しづらい事もあり、採用は控えます。
    そのかわり 宮城県姓氏家系大辞典を採用します。
    尚、政信の父に関しては 仙台郷土研究会 のページの「真田幸村の後裔を探る」を出典とします。
    その中の 30ページ、或いは 前に記した国会図書館のサービスです。
    https://sub.mkn-hospital.com/soumokuji-10kan-11gou--14kan-7gou.pdf
    また、幕末 明治の幸歓に関しての出典は 坂田啓『仙台藩士辞典』 1995, p. 473、とします。
    これも6/12日の記事で 出典の欄に記した事です。
    二説めは 従来の人が記した事ですから各位や貴殿に任せます。
    但し、大八=守信説は この1,2年で矛盾が発生するものと思います。
    各テレビ局も 考えを変えており NHK仙台局、河北新報なども考えを変えている事は 貴殿もご存じの事です。
    その点を考慮して ページを編集する必要があると思います。
    勿論、仙台人名大辞書の真田の項の間違いも 皆の見える形で 仙台郷土研究会のサイトに載るでしょうから。
    以上、で如何でしょうか。--深谷藤原三能会話2024年7月10日 (水) 08:29 (UTC)[返信]
    返信 (user:深谷藤原三能宛)
    1. 反対意見
      「但し、大八=守信説は...」で始まる箇所の各テレビ局の考えの推察も、仙台人名大辞書の話も、検証可能な信頼できる情報源に基づかない話ばかりであり、何かを検討するに値しないと考えます。
    2. 確認事項
      「真田幸村の後裔を探る」の著者が仙台真田家の男爵であるという検証可能な情報源はありますか?確認お願いします。
    3. 二説についての評価
      この二説は下記の通り対等な関係ではないため、関係性を考慮した記述を考えているのであれば歓迎します。対等に評価する記載は反対します。
      守信=大八説
      検証可能な信頼できる情報源に基づくと、現代の多数の書籍や著名な歴史研究者によって紹介されています。
      守信=政信の子説
      史料はありますが、検証可能な信頼できる情報源に基づくと、現代にはほとんど主張する論者はいません。ローカルな専門誌に戦前に掲載された記事がある程度です。
    4. 前向きに評価する点
      『伊達世臣家譜』の内容紹介に宮城県姓氏家系大辞典を活用するのは良策だと思います。その他、確認できる文献情報を基に記事を編集するのは、良いと思います。
    5. その他注意点
      • ウィキペディアは誰のものでもありません。誰もが編集可能で、また誰も編集を強いられることもありません。深谷さんが記事を編集したからといって、その上に他の利用者が加筆、修正するのは当たり前の行為です。また、私も気が向いた時だけ編集します。それぞれ、やりたい人が、やりたいことを、やればいいと思います。
      • 深谷さんは、Wikipedia:検証可能性については大分理解が深まったように思います。ウィキペディアの他の記事やWikipedia:著作権なども参考にしながら、一回思うように記事を書いてみて下さい。
      • 他の利用者は、仙台真田家の二説にこだわっていません。内容へのこだわりで差し戻しや、記述を除去しているのではありません。検証可能な信頼できる情報源に基づかない記述、ウィキペディアの記事スタイルに合わない記述を取り除きたいだけの場合が大半です。また深谷さんが、まだ把握しきれていないルールが多数あります。馴れるまでは、恐る恐る編集するぐらいが丁度良いと思います。
    --背番号9会話2024年7月10日 (水) 16:52 (UTC)[返信]
    お世話になります 深谷藤原です。
    各テレビ局 云々の件は 私が気づいた番組の責任者に 連絡したと言う事で、テレビ局に勤めている人全員に 伝わったと言う事ではありませんが 責任者・該当者には 伝わったと言う事です。
    今日は 講談社の週刊現代から 削除の連絡が来ましたよ、7日 かかりましたが。
    以下です。
    「深谷様
    週刊現代編集部の〇〇です。
    記事訂正の件ですが、担当の者に確認させていただき 先ほど記事を削除させていただきました。
    ご確認の程、よろしくお願いいたします」と。
    だからと言って 大八=守信説は 削除させるべき、と 申し上げているわけではありません。
    両説 並記は 変わりませんが 流れは 宮城県姓氏家系大辞典の流れになっていますよ、と申し上げているのです。
    尚、河出書房も そうですが 該当会社が 守信は 大八でないとして 削除したものを アーカイブで復活させることは
    今度は 復活させた者が 目に見える形で 該当会社の了解をとった証拠をノートに記すべきではないでしょうか。
    普通の期限切れで 消えたわけではないので。
    私は メールのやり取りだけでも ノートや会話の段階では ある程度 理解しますよ。
    その為に仙台真田家のページを修正した本人も ノートに 参加した方が良いと思ったので
    先日、会話で 貴殿に提案したのです。必要なければ必要ないで 結構です。
    尚、守信=政信の子説のローカル云々の件
    貴殿は何か 勘違いしていませんか。
    今 話題にしているのは 東京の真田家ではなく 地方の仙台真田家の話なのですが。
    そして 「真田幸村の後裔を探る」を出した仙台郷土研究会は まさにその仙台では
    地域の歴史についてを出している代表的な会なのです。
    しかも 会長は 大学の教授なのですよ。
    さて、貴殿の指摘 1つ1つ解決していきます。
    とりあえず以上です、宜しくお願いします。--深谷藤原三能会話2024年7月11日 (木) 08:42 (UTC)[返信]
    ウィキペディアでは個別のヒアリングやメールで得た情報は検証可能性の観点から記載できません。ウィキペディアは信頼できる情報源に基づく情報のみを記載します。
    アーカイブ情報の引用については、削除されたページを辿れるようにすることは一般的に行われています。アーカイブの引用に承認を求める提案はWikipedia:井戸端などで行うのが適切だと思います。
    仙台郷土研究会については、検証可能信頼できる情報源として扱う分には良い情報源だと私も同意します。ただし、各説の重み付けの点では、国家第一級の学会や論文誌と比較すると、仙台郷土研究会はローカルなサークルであるため、その評価には限界があることをご理解ください。(会長は東北文化学園大学の准教授です)
    二説の重み付け評価についてです。現在の状況では「守信=政信の子」説を積極的に論じるのは、仙台郷土研究会の雑誌に戦前に1回投稿された記事のみです。その著者も不詳です。一方で「守信=大八」説は、国家級の専門家が複数言及しており、客観的に見ると「大八説」が優勢です。よって、この二説を対等に表記することは、ウィキペディアのWikipedia:中立的な観点に基づく両論併記にはなりません。
    中立的な観点とは、全ての観点を平等に扱う事ではありません。
    もしも観点が多数派の観点であるならば、一般に認められている参考文献を参照してその観点が多数派だと証明することは容易なはずです。もしも観点が無視しがたい少数派が主張する観点であるならば、著名な擁護者の名前を挙げることは容易なはずです。
    以上Wikipedia:中立的な観点より引用
    将来的に「守信=政信の子」説が広く認知されるようになった場合、その時点で再検証、再評価することは可能です。現時点では、信頼できる情報源に基づく現行の方針に従い、Wikipedia:中立的な観点に基づき適当な重み付けをして二説を扱うことが最善と考えます。
    以上、引き続きご理解とご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。--背番号9会話2024年7月11日 (木) 16:29 (UTC)[返信]
    お世話になります 深谷藤原です。
    アーカイブの件は 「著作権者の許諾が無い場合には著作権侵害となる」と ありますので そっくり コピーして アーカイブに載せることは違反であり、ましてや 該当会社が削除したページを アーカイブに載せることは悪意があると言わざるを得ませんね。
    尚、確認しておきますが、2015年(平成27年)小林計一郎の本「真田幸村と真田一族のすべて」は 大八死亡と 守信として生きた、として 両説並記です。
    尚、真田守信の父が政信と記されている 仙台郷土研究会 のページの「真田幸村の後裔を探る」は 国会図書館でも 見える事は 前にも記しました。国会図書館のページで確認願います。
    それを発表した人は 幸村の娘 阿梅を後妻にした片倉小十郎の子孫の片倉男爵です。
    白石城主の片倉家では 代々 守信の親父は 政信と 伝わって来たから系図に守信の父を政信 と記したと思われます。
    一般の人が記したのと比べて 信頼性が格段に高いと思いませんか。
    尚、家系の専門家が記した大辞典を見せられれば 講談社等の報道機関の編集長クラスの人は 皆、従来のページの削除に踏み切りますよ。
    以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能会話2024年7月12日 (金) 13:33 (UTC)[返信]
    返信 (user:深谷藤原三能さん宛) アーカイブの利用に関してですが、削除されたページをアーカイブすることは一般的に行われています。ルールとしては、例えばWikipedia:出典を明記するWikipedia:信頼できる情報源に扱いが記されています。ただし、著作権の問題が絡む場合には特に注意が必要です。この点については、ウィキペディア全体で議論すべきテーマであり、記事の議論を目的とする本ノートの議論で解決することは難しいと考えます。示したルールを一通り把握した上で、Wikipedia:井戸端などで問題提起いただくと良いかと存じます。そこで得られた良い回答をここにフィードバックするのが効果的です。
    小林計一郎編『真田幸村と真田一族のすべて』2015年における両説並記についての指摘、ありがとうございます。同書では「守信=政信の子」の論拠を否定した上で「守信=大八」説を支持する記述が見受けられます(こやまひろさん 2024年5月10日 (金) 05:57 (UTC) 投稿)。これは単純な両論併記ではなく、「大八説」に重点が置かれた記載となっています(2024年7月5日 (金) 01:45 (UTC) でもお伝えしております)。[返信]
    「真田幸村の後裔を探る」の著者が、実は片倉男爵であるという点についてですが、これを検証するための信頼できる情報源の提示が必要です(2024年7月10日 (水) 16:52 (UTC) にお伺いしています)。現時点では、その裏付けが得られていないため、著者は不詳とします。とはいえ出典としては使えるので、別途 「守信=政信の子」の論拠6として追記しました。
    その記事の発行元である仙台郷土研究会についても、検証可能情報源として扱うことに異論はありません。ただし、国家第一級の学会や論文誌と比較すると、ローカルなサークルであるため、その評価には限界があります(2024年7月11日 (木) 16:29 (UTC))。
    「家系の専門家が記した大辞典を見せれば報道機関の編集長がページの削除に踏み切る」という点についてですが、こちらはウィキペディアですよ。ウィキペディアはウィキペディアのルールに従って判断します。信頼できる情報源に基づき、編集方針やルールを遵守して記事を作成・編集します。
    引き続きご理解とご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。--背番号9会話2024年7月12日 (金) 15:48 (UTC)[返信]
    背番号9さんは深谷藤原三能さんについて「Wikipedia:検証可能性については大分理解が深まったように思います」と評していますが、自分は全くそうは思えません。「リンク先の管理者が削除した理由を示すエビデンスは 示せません」としながらも「河出書房も そうですが 該当会社が 守信は 大八でないとして 削除した」「各テレビ局も 考えを変えており NHK仙台局、河北新報なども考えを変えている」という主張を続けている点、アーカイブの件に関して違反であるとか悪意があると言った勘違いをしている点からも伺えます。
    これだけ説明しても理解できないことを考えると改善は難しいと言わざるを得ません。出典を提示する機会を奪わないためにまだ提出してはいませんでしたが、そのままグダグダになってもよろしくないので遅くとも7月末までに深谷藤原三能さんの投稿ブロック依頼を提出します。それまでに出せるだけ検証可能な信頼できる情報源を提示してください。
    さて、小林計一郎氏の記載についてですが、1966年に大八死亡説、1989年に守信大八説、2015年に守信=政信の子説を否定した上での守信大八説となっているのであれば基本的に新しい出典が最新の考え方と言えると思います。
    これに関しては丸島和洋氏が個人のブログで苦言を呈しています。
    歴史学が人文科学である以上、史料の読み直しや新しい史料の発見によって、研究成果は日々塗り替えられていく。また歴史上起こった「事実」はひとつだが、それをどのように位置づけるかが歴史学研究である以上、確定した「事実」であっても、その扱いは研究者によって異なる。(中略)私などは特にそうだが、著書にまとめる段階で論文は書き直す、ということである。したがって、とっくに著書に収め直した論文の雑誌段階の「旧稿」の感想を目にすると、「いや、その見解はもう修正しているんだけど…」となる。
    これは歴史学のこととしていますが、それ以外でも一般的に読み直しや新しい発見によって意見や内容が変わることというのは普通にあります。それを最新の物を無視して大昔のものを意図的に持ってくるというのはチェリー・ピッキングに他なりません。
    記事への反映の方針に関しては背番号9さんの「信頼できる情報源に基づく現行の方針に従い、Wikipedia:中立的な観点に基づき適当な重み付けをして二説を扱うことが最善」という考え方に賛同します。
    深谷藤原三能さんは「~が削除された!だから~なはず!」といった独自研究の報告ではなく、より新しく検証可能な信頼できる情報源による出典の提示に力を入れるようお願いします。 --桂輝平会話2024年7月13日 (土) 05:13 (UTC)[返信]