コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ミハイロ・フォメンコ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: FCディナモ・キーウ改名に伴うリンク修正依頼 (Category:FCディナモ・キーウの選手) - log
97行目: 97行目:
[[Category:オリンピックサッカーソビエト連邦代表選手]]
[[Category:オリンピックサッカーソビエト連邦代表選手]]
[[Category:FCゾリャ・ルハーンシクの選手]]
[[Category:FCゾリャ・ルハーンシクの選手]]
[[Category:ディナモ・キエフの選手]]
[[Category:FCディナモ・キーウの選手]]
[[Category:SFKデスナ・チェルニーヒウの監督]]
[[Category:SFKデスナ・チェルニーヒウの監督]]
[[Category:サッカーイラク代表監督]]
[[Category:サッカーイラク代表監督]]

2024年7月11日 (木) 23:31時点における版

ミハイロ・フォメンコ
名前
本名 ミハイロ・イヴァノヴィチ・フォメンコ
ラテン文字 Mykhaylo Ivanovych Fomenko
ウクライナ語 Михайло Іванович Фоменко
基本情報
国籍  ウクライナ
生年月日 (1948-09-19) 1948年9月19日
出身地 ソビエト連邦の旗ウクライナ・ソビエト社会主義共和国スームィ州マラ・リビツィア
没年月日 (2024-04-29) 2024年4月29日(75歳没)
身長 180cm
体重 72kg
選手情報
ポジション DF(CB)
利き足 右足
ユース
1962-1965 ソビエト連邦の旗 スパルタク・スームィ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1965-1970 ソビエト連邦の旗 スパルタク・スームィ 48 (8)
1970-1972 ソビエト連邦の旗 ゾリャ・ルハーンシク 59 (1)
1972-1979 ソビエト連邦の旗 ディナモ・キエフ 173 (0)
代表歴
1972-1976 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 24 (0)
監督歴
1979 ソビエト連邦の旗 フルンゼネツ・スームィ
1980-1985 ソビエト連邦の旗 ディナモ・キエフ(インストラクター)
1985-1986 ソビエト連邦の旗 デスナ・チェルニーヒウ
1987 ソビエト連邦の旗 クルィヴィーバス・クルィヴィーイ・リーフ
1987-1990 ソビエト連邦の旗 グリア・ランチフチ
1990-1991 イラクの旗 アル・ラシード
1991  イラク
1991-1992 ウクライナの旗 アヴトモビリスト・スームィ
1993 ウクライナの旗 ディナモ・キエフ
1994 ウクライナの旗 ヴェレス・リヴネ
1994  ギニア
1994-1996 ウクライナの旗 CSKAボリソフェン・キエフ
1996-2000 ウクライナの旗 メタリスト・ハルキウ
2000-2001 ウクライナの旗 CSKAキエフ
2001-2002 ウクライナの旗 メタリスト・ハルキウ
2003 ウクライナの旗 メタルルフ・ザポリージャ
2003-2005 ウクライナの旗 メタリスト・ハルキウ
2005 ウクライナの旗 スパルタク・スームィ(副会長)
2005-2008 ウクライナの旗 タフリヤ・シンフェロポリ
2010-2011 ロシアの旗 サリュート・ベルゴロド
2012-2016  ウクライナ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ミハイロ・イヴァノヴィチ・フォメンコウクライナ語: Михайло Іванович Фоменко1948年9月19日 - 2024年4月29日)は、ウクライナの元サッカー選手、サッカー指導者。元ソビエト連邦代表選手[1]。元ウクライナ代表監督[1]。選手時代のポジションはDF

クラブ歴

1965年に選手となった。1972年にFCディナモ・キーウに加入すると1975年の四冠に貢献した[1]

代表歴

ソビエト連邦代表として、モントリオールオリンピックに参加した。

監督歴

1979年にモスクワの監督養成学校を卒業し監督となった。1989年にFCグリア・ランチフチソビエト連邦サッカーリーグに昇格させた。1993年にディナモ・キエフの監督を務めた時にはリーグ、カップの二冠を達成したほか、敗れはしたもののUEFAチャンピオンズリーグ 1993-94ヨハン・クライフ監督がジョゼップ・グアルディオラロナルド・クーマンらを擁して臨んだFCバルセロナ相手に2戦合計で4-5という健闘を見せた(なおバルセロナは準優勝)。2001年にはCSKAキエフウクライナ・カップ準優勝に導いてクラブ史上最高成績を収めた。

2012年12月26日に2年延長オプションつきの1年契約でウクライナ代表監督に就任[1]ハリー・レドナップスヴェン・ゴラン・エリクソンに断られたために巡ってきた仕事であった[1]2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選グループHで6勝をあげて2位。2014 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選プレーオフに進出してホームでフランス代表に2-0で完封勝利を収めたが、アウェーで0-3の敗北をし、2014 FIFAワールドカップ本戦出場は惜しくも叶わなかった。その後もウクライナ代表監督としての契約が2015年末まで延長された[2]UEFA EURO 2016予選を通過したため契約が再び延長されUEFA EURO 2016で指揮を執った。しかし本戦では優勝したドイツ代表に0-2で敗れた他、格下の北アイルランド代表相手にも0-2と完封されて早々に脱落、同杯終了を以て解任された。

2024年4月29日に死去。75歳没[3]

タイトル

選手

クラブ

ディナモ・キエフ

監督

ディナモ・キエフ

参考文献

外部リンク