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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
北海道札幌市生まれ。父親は[[静岡県]]出身で、元々は[[北海道庁]]で[[測量]]の仕事に従事していたが、[[渋沢栄一]]の[[十勝地方]]の開拓事業に参加し、上川郡清水町に転居<ref name="zaikaijinkokki"/>。その関係で、庸一は幼少期を十勝の大自然の中で育った<ref name="zaikaijinkokki"/>。小学校6年の時に札幌に戻り、[[北海道札幌南高等学校|北海道庁立札幌第一中学校]]を経て、[[1931年]]に[[中央大学]]経済学部を卒業し、同年に北海道製酪販売組合連合会(のちの[[雪印乳業]])に入会(入社)した{{sfn|興信データ株式會社|1987|loc=や258頁|ref=jinji-34-ge}}<ref name="zaikaijinkokki"/><ref name="rakunohyakunenshi"/>。北海道製酪販売組合連合会への入会は、創業者の佐藤善七・[[佐藤貢|貢]]父子と旧知の間柄だったことによる<ref name="zaikaijinkokki"/>。[[1956年]]に取締役に就任し(後に関西事業所長も兼務)、[[1963年]]に常務、[[1971年]]5月に専務を経て、[[1973年]]5月に社長に就任{{sfn|興信データ株式會社|1987|loc=や258頁|ref=jinji-34-ge}}<ref name="zaikaijinkokki/><ref name="rakunohyakunenshi"/>{{sfn|産経新聞取材班|ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、c三菱自動車事件の深層|角川書店|2001|pp=77-81|ref=brandhanaze1}}。雪印では小売業界での流通基盤を固めるなど、営業面での功績が大きく、同社を業界のトップメーカーに育て上げた<ref name="brandhanaze1">産経新聞取材班「ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」角川書店、2001年、pp=77-81</ref>。その反面、会社を守る立場から、社内における道内の酪農業関係者の権限を縮小するなど、ワンマン的な部分もあり、創業以来密接な関係のあった[[ホクレン農業協同組合連合会|ホクレン]]との一時的な断絶や、それに伴う[[よつば乳業]]の成立などのきっかけを作った<ref name="brandhanaze2">産経新聞取材班「ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」角川書店、2001年、pp=63-69</ref>。
北海道札幌市生まれ。父親は[[静岡県]]出身で、元々は[[北海道庁]]で[[測量]]の仕事に従事していたが、[[渋沢栄一]]の[[十勝地方]]の開拓事業に参加し、上川郡清水町に転居<ref name="zaikaijinkokki"/>。その関係で、庸一は幼少期を十勝の大自然の中で育った<ref name="zaikaijinkokki"/>。小学校6年の時に札幌に戻り、[[北海道札幌南高等学校|北海道庁立札幌第一中学校]]を経て、[[1931年]]に[[中央大学]]経済学部を卒業し、同年に北海道製酪販売組合連合会(のちの[[雪印乳業]])に入会(入社)した{{sfn|興信データ株式會社|1987|loc=や258頁|ref=jinji-34-ge}}<ref name="zaikaijinkokki"/><ref name="rakunohyakunenshi"/>。北海道製酪販売組合連合会への入会は、創業者の佐藤善七・[[佐藤貢|貢]]父子と旧知の間柄だったことによる<ref name="zaikaijinkokki"/>。[[1956年]]に取締役に就任し(後に関西事業所長も兼務)、[[1963年]]に常務、[[1971年]]5月に専務を経て、[[1973年]]5月に社長に就任{{sfn|興信データ株式會社|1987|loc=や258頁|ref=jinji-34-ge}}<ref name="zaikaijinkokki" /><ref name="rakunohyakunenshi"/>{{sfn|産経新聞取材班|ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、c三菱自動車事件の深層|角川書店|2001|pp=77-81|ref=brandhanaze1}}。雪印では小売業界での流通基盤を固めるなど、営業面での功績が大きく、同社を業界のトップメーカーに育て上げた<ref name="brandhanaze1">産経新聞取材班「ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」角川書店、2001年、pp=77-81</ref>。その反面、会社を守る立場から、社内における道内の酪農業関係者の権限を縮小するなど、ワンマン的な部分もあり、創業以来密接な関係のあった[[ホクレン農業協同組合連合会|ホクレン]]との一時的な断絶や、それに伴う[[よつば乳業]]の成立などのきっかけを作った<ref name="brandhanaze2">産経新聞取材班「ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」角川書店、2001年、pp=63-69</ref>。


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2024年6月11日 (火) 01:35時点における版

山本 庸一(やまもと よういち、1909年1月19日 - 1987年12月23日 )は、日本の経営者雪印乳業社長を務めた。北海道札幌市生まれ[1]上川郡清水町出身[2][3][注 1]

来歴・人物

北海道札幌市生まれ。父親は静岡県出身で、元々は北海道庁測量の仕事に従事していたが、渋沢栄一十勝地方の開拓事業に参加し、上川郡清水町に転居[2]。その関係で、庸一は幼少期を十勝の大自然の中で育った[2]。小学校6年の時に札幌に戻り、北海道庁立札幌第一中学校を経て、1931年中央大学経済学部を卒業し、同年に北海道製酪販売組合連合会(のちの雪印乳業)に入会(入社)した[1][2][3]。北海道製酪販売組合連合会への入会は、創業者の佐藤善七・父子と旧知の間柄だったことによる[2]1956年に取締役に就任し(後に関西事業所長も兼務)、1963年に常務、1971年5月に専務を経て、1973年5月に社長に就任[1][2][3][4]。雪印では小売業界での流通基盤を固めるなど、営業面での功績が大きく、同社を業界のトップメーカーに育て上げた[5]。その反面、会社を守る立場から、社内における道内の酪農業関係者の権限を縮小するなど、ワンマン的な部分もあり、創業以来密接な関係のあったホクレンとの一時的な断絶や、それに伴うよつば乳業の成立などのきっかけを作った[6]

1986年4月に勲二等瑞宝章を受章[1]

1987年12月23日腎不全のため、社長在任中に死去[6][7]。78歳没。

脚注

注釈

  1. ^ 木村勝太郎「北海道酪農百年史: 足跡と現状及び人物誌」では、出生地も清水町としている

出典

  1. ^ a b c d 興信データ株式會社 1987, や258頁.
  2. ^ a b c d e f 綱淵昭三「財界人国記—北海道編・東北編・関東編」サンケイ出版、1978年、pp16-17
  3. ^ a b c 木村勝太郎「北海道酪農百年史: 足跡と現状及び人物誌」樹村房、1984年、p97
  4. ^ 産経新聞取材班, ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、c三菱自動車事件の深層 & 角川書店 2001, pp. 77–81.
  5. ^ 産経新聞取材班「ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」角川書店、2001年、pp=77-81
  6. ^ a b 産経新聞取材班「ブランドはなぜ堕ちたか 雪印、そごう、三菱自動車事件の深層」角川書店、2001年、pp=63-69
  7. ^ 1987年 12月24日 日経産業新聞 p23

参考文献

  • 興信データ株式會社『人事興信録 第34版 下』興信データ、1987年。 
先代
児玉由一
雪印乳業社長
1973年 - 1987年
次代
正野勝也