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1921年に帰国し、懐徳堂で勤務。同時に、[[大阪高等学校]]や[[龍谷大学]]でも講義を持った。1923年、[[東北大学#沿革|東北帝国大学]]に法文学部が新設されると、教授として[[仙台市|仙台]]に赴任し、支那学第一講座([[中国哲学]])を開設した<ref name=":0">東北大学『[https://www.sal.tohoku.ac.jp/jp/research/pub/booklet.html 考えるということVol.7]』2012年,15頁.</ref>。1928年、[[京都大学|京都帝国大学]]に博士論文『老子原始』を提出して[[文学博士]]号を取得<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/500000490931 CiNii(博士論文)]</ref>。1942年には[[帝国学士院]]会員に選出された<ref>[https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/bukko/t_gyo.html 物故会員(日本学士院)]</ref>。大学では、1946年に退官するまで、学部長や図書館長などをの役職も務めた<ref name=":0" />。 |
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東北大退官後は名誉教授となった。また、[[東宮職]]御用掛をつとめ、皇太子[[明仁親王]]に[[倫理]]([[修身]])を講じた。また、[[名古屋大学]]文学部講師<!--新制の非常勤か?-->などでも教鞭をとった。1966年に逝去。享年80。 |
東北大退官後は名誉教授となった。また、[[東宮職]]御用掛をつとめ、皇太子[[明仁親王]]に[[倫理]]([[修身]])を講じた。また、[[名古屋大学]]文学部講師<!--新制の非常勤か?-->などでも教鞭をとった。1966年に逝去。享年80。 |
2024年4月29日 (月) 00:06時点における版
人物情報 | |
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生誕 |
1886年6月9日 日本 三重県内部村小古曽 |
死没 | 1966年6月3日(79歳没) |
出身校 | 京都帝国大学 |
両親 | 武内義淵 |
子供 | 武内義範 |
学問 | |
時代 | 20世紀 |
研究分野 | 中国哲学・考証学 |
研究機関 | 東北帝国大学 |
指導教員 | 狩野直喜 |
主な指導学生 | 金谷治 |
学位 | 文学博士 |
称号 | 帝国学士院会員 |
主な受賞歴 | 文化功労者 |
武内 義雄(たけうち よしお、1886年(明治19年)6月9日 - 1966年(昭和41年)6月3日[1])は、日本の東洋学者・中国哲学研究者。字は「誼卿」、「述庵」。東北帝国大学名誉教授。戦後の皇太子明仁親王に倫理(修身)を教えた。
経歴
出生から中国留学まで
1886年、三重県内部村小古曽(現四日市市)に真宗高田派の学僧・武内義淵の子として生まれた。第三高等学校で学び、京都帝国大学文科大学(現在の京大文学部)に入学。狩野直喜による「清朝学術沿革史」講義に深い感銘を受け、在学中はその指導を受けた。1910年、京大文科・支那哲学史講座を卒業。
卒業後は一度帰郷するが、勉学の志のため大阪に出て、大阪府立図書館に勤務。西村天囚と知り合い、漢文愛好者による修練会「景会」に加わった。景会には石濱純太郎など関西圏の様々な人物が集まっており、交遊を持つことになった。同じころ、懐徳堂講師となった。1919年春、懐徳堂より中国に派遣され、北京に留学[2]。1921年初めに帰国するまで、北京で同時代の最新の研究に触れると同時に、臨淄など戦国時代に残る遺跡など華北各地を旅行した。
帰国後、東北帝国大学時代
1921年に帰国し、懐徳堂で勤務。同時に、大阪高等学校や龍谷大学でも講義を持った。1923年、東北帝国大学に法文学部が新設されると、教授として仙台に赴任し、支那学第一講座(中国哲学)を開設した[3]。1928年、京都帝国大学に博士論文『老子原始』を提出して文学博士号を取得[4]。1942年には帝国学士院会員に選出された[5]。大学では、1946年に退官するまで、学部長や図書館長などをの役職も務めた[3]。
東北大退官後は名誉教授となった。また、東宮職御用掛をつとめ、皇太子明仁親王に倫理(修身)を講じた。また、名古屋大学文学部講師などでも教鞭をとった。1966年に逝去。享年80。
受賞・栄典
- 1960年:文化功労者として表彰。
業績
清代考証学(特に王引之)の影響を受けた「訓詁学」、および「校勘学」「目録学」、富永仲基・内藤湖南の「加上の説」を踏まえた疑古的文献批判などを併せ、中国古代思想史研究の方法を確立、特に『論語』『老子』研究の権威となった[6]。
同窓の京都帝大教授小島祐馬が思想の背景にある社会経済史を重視し、社会思想史的な中国学を志向したのに対し、武内の方法はあくまで緻密な文献学批判を重んじるオーソドックスなものだった[7]。
『支那思想史』(戦後『中国思想史』と改題)は最もよく知られ、武内の思想史研究のエッセンスを盛り込んだハンディかつ高水準の概説書として、現在でも改訂再刊され広く読まれている[8]。本書は、従来の個別の思想書の体系を列伝式に記述した「中国思想史」と異なり、思想そのものの発展プロセスを明らかにしようとした点、また儒教中心に片寄っていた従来の著作に対して仏教・道教にも光をあてた(特に宋学に対する仏・道二教の影響を明らかにした)点で、画期的であると評価されている[8]。
家族・親族
主な著訳書
著書
訳注書
- 『論語』 岩波文庫 1933年 - 各・文庫は旧注解版
- 新版 筑摩叢書 1963年
- 『老子』 岩波文庫 1943年、復刊 1988年
- 『孝経・曾子』坂本良太郎と共訳、岩波文庫 1940年、復刊1988・1997年
武内義雄に関する参考文献
- 「武内義雄博士略歴及著作目録」『文化』20-6, 東北大学文学会, 1956年.
- 金谷治「武内義雄」『東洋学の系譜』江上波夫編、大修館書店、1992年。ISBN 4469230871。
- 「誼卿 武内義雄先生の學問」金谷治『懐徳』37号, 73-84頁.[10]
- 『東方学回想 Ⅳ 先学を語る〈3〉』刀水書房、2000年、ISBN 4887082495(座談会での関係者達の回想・附略歴、初出1979年)