ヒッピー
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ヒッピー(英: Hippie, Hippy)は、1960年代後半にアメリカ合衆国に登場した、既成社会の伝統、制度など、それ以前の保守的な男性優位の価値観を否定するカウンターカルチャー (en:Counterculture) の一翼を担った人々、およびそのムーブメント。ヒッピーは1950年代のビートニクスの思想を継承した。
ヒッピーの思想、哲学
ヒッピーは、搾取的だった一部のキリスト教教派に批判的であり、「ヒューマン・ビーイン」に代表されるような、新しいムーブメント、哲学、宗教や魂(スピリチュアティ)の体験をもとめて、インドなどのヒッピーの聖地やフェスティバルを訪ね歩いた。
ヒッピーの一部は、インドなど東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、左翼思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。またサマー・オブ・ラブ、ベトナム反戦運動[1]や、公民権運動[2]、カウンター・カルチャーとしてのロック、野外フェス、性解放、フリーセックス、大麻等のドラッグ解禁、男女平等、各種差別の廃止、のちのヴィーガニズムへとつながる有機野菜の促進などを主張し、主流とは異なったオルタナティブな社会の実現を目指した。社会変革と同時に、精神世界を重んじ、ダイバーシティ(多様)な価値の尊重を訴えた。
日本においても、新しい世界的同世代の価値感への共感と同時に、自然にやさしいコミューンへの回帰や、都市のヒッピーの登場がみられた。欧米発のムーブメントでありながら、自らのルーツでもある東洋への回帰的な関心という点でわかりやすく、インドや中国などの再評価やエコロジー運動のさきがけともなった。
概要
ヒッピー(HIPPY)という言葉はもともと「ヒップスター(HIPSTER[3])」に由来し、ニューヨーク市のグリニッジビレッジとサンフランシスコのヘイトアシュベリー地区に移住したビートニクスたちを意味していた。 サンフランシスコ・クロニクル紙のジャーナリストであったハーブ・カーン(Herb Caen[4])によってひろめられた[5]。
また、冒頭部の「HIP」とはその語源がたしかではないが、一説によると、1940年代のアフリカ系アメリカ人のあいだで流行したJive[6](ジャイブ)ダンスを踊る若者のスラングから転用されたものという説がある。当時、HIPは「飛んでいる、完全に最新のもの」という意でもちいられており、それをビートニクスが採用し一般化するようになった。初期のヒッピーはビートニクスの言葉や価値観をひきついでいた[7]。
作家ノーマン・メイラ―は1961年4月27日付の雑誌The Village Voice[8]の記事「J・F・ケネディとカストロへの公開書簡」上において、ヒッピーという言葉を使って、ケネディの行動に疑問を呈した。 1961年のエッセーのなかで、詩人ケネス・レックスロス[9]は、「ヒップスター」と「ヒッピー」という言葉をブラック・アメリカンやビートニクのナイトライフに参加している若者を指すのにつかった。マルコムXの1964年の自伝によると、1940年代のハーレムのヒッピーという言葉は、「黒人より黒人らしく行動した」特定のタイプの白人を表現するためにつかわれていた。 アンドリュー・ル―グ・オールダムは、1965年発表のローリングストーンズのLP「ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!」のライナーノートの中で、黒人ブルース/ R&Bミュージシャンをひいて 「シカゴのヒッピーたち」と称した[10]。
1967年、サンフランシスコ、ゴールデンゲートパークでの「ヒューマン・ビーイン」集会がおきる。それは同年の夏の爆発的なムーブメント「サマー・オブ・ラヴ(Summer of Love[11])」へとつながる。以降、ヒッピー文化は急速に普及し、1969年、有名なヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル(Wood stock festival[12])」が開催された。1970年、英国では約40万人の観衆と共に巨大なロックの祭典「ワイト島フェスティバル(Isle of Wight Festival [13])」、チリでは「ピエドラ・ロハ・フェスティバル(Piedra Roja Festival[14])」。1971年、30万人ものメキシコのヒッピーたち(ヒピテカス(Jipitecas)[15])はメキシコ中部の湖畔アバンダロでのロックフェスティバル[16]につどった。 1973年、オーストラリアでは東部の田舎町ニンビン[17]で「アクエリス・フェスティバル(Aquarius Festival[18])」と大麻法改革大会、またニュージーランドでは、キャンピングカーに乗って旅をするヒッピーたちが「ナンバサ・フェスティバル(Nambassa festival)[19](1976-1981)」を催し、オルタナティブなライフスタイルを実践し、持続可能なエネルギーをプロモーションした。
こうした北米、南米、英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける一連のヒッピーとサイケデリックな文化は、自由への憧れとして、東ヨーロッパの鉄のカーテン諸国において1960年代から1970年代初頭の若者文化に強い影響をあたえた[20]。
当初、アメリカにおいて、彼らの多くはベトナム徴兵を逃れた学生たちであり、そのため主流社会の軍事覇権主義に反対し、父親世代の第二次大戦や原子爆弾への無条件支持の姿勢、ベトナムでの米軍の圧倒的なテクノロジーによる暴力や虐殺などに対して、音楽や麻薬、非暴力によって対抗(カウンター)しようとした。結果、自然と愛と平和とセックスと自由、巡礼の旅の愛好家として社会にうけとめられた。かれらは当時、西側の若者の間で流行したマオイストや、コミューンの形成、環境運動や動物愛護、自然食、LSD、マジック・マッシュルーム、マリファナ擁護にくわえて、ヨガ、インド哲学、ヒンズー教、禅、仏教などの東洋思想に関心をよせた。これまでの欧米の思想にはない概念を東洋からみちびきだすことによって、より平和で調和に満ちたユートピアを夢みた。
実社会のなかで、ユートピアはおとずれることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーにとどまらず、欧米の主流文化のなかでより一般化されたものとなった。アップルをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロックや美術、文学、舞踏、アニメといった大衆文化、ヴィーガニズム、菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。
ヒッピーの歴史
ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジの聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌ、プルースト、不条理作家カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド[21]、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デビッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマン、「ホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トル―キン、20世紀においてはビートニクスのギンズバーグやバロウズ、ケルアック、また画家ではピカソ、デ・クーニング、ベン・シャーン、レジェ、コクトーなどがヒッピーに好まれた[22]。
19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー、「ワンダーフォーゲル」は、当時の社会や文化クラブに対するカウンター・カルチャー的な側面をもっていた。また保守的・伝統的なドイツのクラブの形式に反して、民族音楽や歌を愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。
20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。若いアメリカ人の中には、ドイツ移民の思想の影響を受けた者もあらわれた。 「ネイチャーボーイズ」とよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ(Eden Ahbez[23])は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ(Gypsy Boots[24])からインスピレーションを受けNature Boy(1947)[25]という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった[26]。なお、21世紀の日本のワンゲル部は、体育会系の保守的なクラブとの見方もある。
初期ヒッピー/メリー・プランクターズ、サイケデリックなど
それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。—ボブ・スタッブス、『Unicorn Philosophy』
メリー・プランクスターズ
1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家ケン・キージーとそのサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ(陽気な悪ガキども)」がカリフォルニアで共同生活をはじめる。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、ニール・キャサディ、スチュワート・ブランド、ケン・バッブス(Ken Babbs[27]) らがふくまれていた。その生活は作家トム・ウルフの「The Electric Kool-Aid Acid Test[28]」にまとめられた。
1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちにグレイトフル・デッドは「メリー・プランクスターズ」のバス旅行について、“That's It for the Other One[29]”という曲をかいている。
このあいだ、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「フォークソング」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ、「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月、「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜おこなわれる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端のサイケデリック体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアの孤立した旧鉱山街の「レッド・ドッグ・サルーンーRed Dog Saloon[30]」でのパフォーマンスも後援した。
サイケデリック・ロック
1965年夏、ラフリン3世は伝統的なフォークとサイケデリック・ミュージックの融合をさらに推しすすめる若くオリジナリティあふれる才能を募集した。彼とその仲間はそれまで聞いたことのなかったグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレーン、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、ザ・シャーラタンズなどレッド・ドッグ・サルーン的で、実験精神に満ちたバンドたちを見いだした。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム(Bill ham[31])による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆のあいだでの明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(またはアメリカ先住民族)の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初のサイケデリック・ロック・バンドとなった。
「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる、「サイケ・ロック」、「コスチュームダンス」、および「ライトショー」が組みあわされたライブをおこなった。ジェファーソン・エアプレーンをはじめ、グレート・ソサエティ(The Great Society[32])、マーブルズ(The Marbles[33])が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日~23日、サンフランシスコの「ロングショアマン・ホール[34]」で、「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。ケン・キ―ジ―やスチュワート・ブランドらが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。
1966年2月までに、「ファミリードッグ」は主催者チェット・ヘルムスのもとで「ファミリードッグ・プロダクション」となり、のちに有名なプロモーターとなるビル・グレアム(Bill Graham[35])との共同作業をはじめ、「アバロン・ボールルーム[36]」、「フィルモア・ウエスト[37]」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーンソン(Ralph.J.Gleason[38])は、「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。
最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価なビクトリア朝アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレーン、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、ザ・シャーラタンズらはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて、「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「ディガーズ―Diggers[39]」を中心におこなわれた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。
サンセット・ストリップ・ライオット
1966年10月6日、カリフォルニア州はLSDを規制薬物と宣言し、この薬物を違法にした。サイケデリックスの犯罪化に対応して、サンフランシスコのヒッピーたちは、ゴールデンゲートパークで「ラブ・ページェント・ラリー」とよばれる集会をひらいた。サンフランシスコ・オラクルの共同設立者であるアラン・コーエン(Allan Cohen[40])によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも精神病患者でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。超越意識、宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。
1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「ヒッピー暴動(The Sunset Strip curfew riots)[41]」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は、「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ジャック・ニコルソンやピーター・フォンダなどの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「Riot on Sunset Strip」のモチーフとなり、バッファロー・スプリングフィールドの名曲「For What It's Worth[42]」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった[43]。
1967年/サマー・オブ・ラブとサンフランシスコ
1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン(Michael Bowen[44])が企画したゴールデン・ゲート・パークでの野外フェス「ヒューマン・ビーイン」は、サンフランシスコのゴールデンゲートパークに3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日の「イースター(復活祭)」にあわせた「セントラル・パーク・ビーイン(The Central Park Be-In[45])」が催され、ルー・リード、イーディ・セジウィックらのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。
6月16日から6月18日まで開かれたモントレー・ポップ・フェスティバルでは、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「サマー・オブ・ラブ」のはじまりとなった。スコット・マッケンジーが歌うジョン・フィリップスの曲「花のサンフランシスコ」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「フラワー・チルドレン(花の子供たち)」とよばれるようになる。
1967年6月、前述のジャーナリスト、ハーブ・カーン(Herb Caen[46])はなぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine[47]」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた[注 1]。
7月7日、タイム紙(TIME[48])は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している[注 2]。
「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」
1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」、「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。
夏のおわりまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードでヒッピーの「死」を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに、「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。ビートルズのジョージ・ハリソンはヘイト・アシュベリーをおとずれ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDをあきらめるようにうながした。
結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで「道徳的パニック」を助長することとなった[49]。
1960年代末/ヒッピーの反戦思想
1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。とくに人口の多い「ベビー・ブーマー」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)にすんでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが、当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーのあいだに深いつながりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でもおなじであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。
新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「状況のステレオタイプ」を描いている。たとえば、ラブイン、サイコアウト、トリップなどの映画、それ以外のより誠実で評判の高い「イージーライダー」や「アリスのレストラン」もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル「ヘアー」は1967年に発表された。
一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」(Youth International Party)とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の復活祭に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークのグランド・セントラル駅を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者アビー・ホフマン(Abbie Hoffman[50])とジェリー・ルービン(Jerry Rubin[51])は、1967年10月のベトナム戦争抗議デモで、「立ち上がり、きしょいミートボールをやめようぜ!(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンをかかげ、花をくばり、儀式によって「ペンタゴンを空中浮遊[52]」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者の「ピガサス氏(Pigasus[53]―本物のブタ)」を指名し、広くメディアにとりあげられた。
英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部とみなされはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題にかんする幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国でおもに使用された用語だった。
1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ひとびとの公園-people's park」が国際的な注目をあつめた。カリフォルニア大学バークレー校は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m2)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、ロナルド・レーガン知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーのいたるところに花を植えた。
1969年8月、ニューヨーク州のベテルでロックの大祭典「ウッドストック・フェスティバル―Wood stock festival」が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、リッチー・ヘヴンズ、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、グレイトフル・デッド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、クロスビー・スティルズ・ナッシュ・アンド・ヤング、カルロス・サンタナ、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジミ・ヘンドリックスなど当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でおこなわれ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想をひろめる上で重要な役割をはたした。
1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は「ウッドストック・イースト―Woodstock West」と名づけられ、正式名称は「オルタモント・フリーコンサート―Altamont Free Concert」とよばれた。ローリング・ストーンズやクロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤング、ジェファーソン・エアプレイン[注 3]らをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族のヘルス・エンジェルスは、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした。結果、18歳の黒人メレディス・ハンター(Meredith Hunter)は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打ののち、刺殺されしまう。
1970s - 現在/ベトナム戦争の終結
ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たち、いわゆる「時代の精神医たち」は1970年代にはいると衰えたかのように見えた。
オルタモント・フリーコンサートの殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月にはチャールズ・マンソンと彼のファミリーによってシャロン・テート殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、クイックシルバー・メッセンジャー・サービスの曲「What About Me?[54]」にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「Ohio」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。
ヒッピースタイルの多くは、1970年代初めにはアメリカ主流社会に組みこまれていた。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェア、マジックマウンテンミュージックフェスティバル[55]、モントレーポップフェスティバルを経て、1968年の英国ワイト島フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していたニクソンは後に失脚する。
1970年代半ばには、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争終結と兵役徴集の終わりにともない、アメリカ建国200周年記念 (en:United States Bicentennial) に関連した愛国的感情が高まった。アメリカはゆっくり様変わりしていった。やがて、ロンドンやマンチェスターでパンクが出現し、ニューヨークとロサンゼルスでは主流メディアがヒッピーへの関心を失った。同時に、モッズのリバイバル、スキンヘッズ、テディーボーイズ、ゴシック(ゴス)などの新しい若者文化が登場して、センセーショナルな話題を振りまいた。アシッド・ロックは、プログレ、ヘビメタ、ディスコ、パンクにまでつながった。ヒッピーの理想は、パンクのアナーキズムやそののちの若者のサブカルチャー、特に「セカンド・サマー・オブ・ラブ」に大きな影響をあたえた。
ヒッピー運動の理想を生きようとしたヒッピー・コミューンは社会の流れとは別のところですこしづつ豊かになった。西海岸オレゴン州にはかなりの数のコミューンに住む人々がおり、幾人かは消え去り、幾人かはまだかたちをかえながらもコミューン生活を続けている。多くのヒッピーは長期的なライフスタイルへの取り組みをおこなっていたが、ヒッピーは1980年代に「売り切れ」になり、物質主義的消費文化の一部となったと主張する人もいる。実際、ヒッピーの文化は一度もちゃんと人々の目に見えていなかったが、ヒッピーやネオヒッピーは大学のキャンパス、コミューン、集会や祭りで見かけることがある。その多くは、平和、愛、そして地域社会の価値観に適応している。もしかすると、ヒッピーは世界中のボヘミアンの養護施設でも見つかるのかもしれない。
20世紀の終わりに向かって、1960年代のサイケデリックなカウンターカルチャーの特質のいくつかを取り入れた 「サイバーヒッピー」の傾向が浮かび上がった。ヒッピー・サブカルチャーはインドのゴア州から生まれたサイケデリック・トランスにもリンクしている[56]。
ヒッピーの特徴
サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーにつどい、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[57])はヒッピー文化の大きな貢献は、「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く、冷笑で冷たかった。
ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。
初期には、その彩り豊かなファッションをつうじて、たがいにたがいを認識し、その個性を尊重しあった。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずにあらわし、社会の「まっすぐさ」と「硬さ-スクエア」から距離をおいて、「利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力」という価値を重んじた。
やがて、多くの思慮深いヒッピーは、特にチャールズ・マンソンのようなカルト宗教のリーダーが表面的にヒッピーファッションを取りいれはじめたり、警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ。」と聴衆に忠告した[58]。
アートとファッション
アート
1960年代のサイケデリック・アート運動の主役は、リック・グリフィン、ビクター・モスコソ、ボニー・マクリーン、スタンリー・マウス&アルトン・ケリー、そしてウェス・ウィルソン[要リンク修正]など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターはアールヌーボー、ヴィクトリアン様式の美術(ビアズレ―など)、ダダイスムやポップアートからインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年のあいだ人気を保った。
彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気をかもしだした。
また、「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックスはそのオリジナルのひとつであり、ロバートクラム、S・クライ・ウィルソン、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン、ロバート・ウィリアムスらの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトンの『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。
彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンクのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、ユニセックスだった。 ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。
ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。
男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー、「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。
また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた[59]。
ラブ&セックス―アメリカのセックス革命
ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは、「フリー・セックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは平和のためのベッド・イン、ラブ・インで、反戦平和を主張した。 1966年、研究チーム「マスターアンドジョンソン(Masters and Johnson[60])」によってセックスの臨床研究「ヒューマン・セックス・レスポンス(Human Sexual Response[61])」が出版された。しばらくの小康状態をへて、1969年、精神科医デビット・ルーベン(David Reuben[62])が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。 1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル「性のよろこび―The Joy of Sex[63]」が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらくまえから進行中だった。
ヒッピーたちは、ビート・ジェネレーションから性や愛情に関するさまざまなカウンターカルチャー的見識と実践を受け継いだ。ビートニクスの著述はヒッピーに影響をあたえ、より開かれたセックスをし、罪悪感や嫉妬の感情を減らそうと試みた。当時、登場したヒッピーのスローガンの1つは、「もしそれが気持ちが良ければ、それをやろう!」だった。それは多くの場合「あなたがうれしいときはいつでも、あなたが喜べる人とは誰とでも、自由に愛してもかまわない」という意だった。
このスローガンは自発的な性行動やその実験をうながした。グループセックス、野外セックス、公共の場でのセックス、ドラッグを服用しての同性愛、それ以前にはタブーだったさまざまなセックスの実験がおこなわれた。彼らはストレートなセックスや一夫一婦制を認めないわけではなかった。 むしろそれを認めていながらも、オープンな恋愛関係はヒッピーのライフスタイルに受け入れられた。
一人の主要パートナーと恋愛関係をもつことができるが、別の異性の存在が彼、彼女を引きつけた場合、彼、彼女は暴力や嫉妬になやまされることなく、べつの恋愛関係を探求することがゆるされた。つまり「フリーセックス」と「フリ―ラブ」(性愛の自由)である。
ヒッピーは、以下のような、古い時代の急進的な社会改革者が唱えた「FREE LOVE[64]―自由恋愛主義」のスローガンを受け入れていた[65]。
「自由な愛がすべての愛をつくる。恋愛、結婚、セックス、出産のパッケージは時代遅れのものとなった。愛はもはや一人だけに限られたものではなく、あなたはあなた自身が選んだ人を愛することができる。実際、愛はセックスパートナーだけとのものではなく、だれとでも分けあうことができるものだ」
旅
ヒッピーは旅好きだった。お金、ホテルの予約、その他の旅行の必需品を持っていくかどうかはあまり心配せず、気ままに旅をした。彼らはファミリーネットワークをもっており、突然の一晩宿泊客を歓迎したので、さまざまな場所への自由な移動が可能となり、お互いのニーズを満たすために協力しあった。このような生活様式は、レインボーファミリー(Rainbow Family)グループ、ニューエイジ・トラベラー、そしてニュージーランドの「ハウス・トラッカー(移動住宅生活者)たちのあいだでは今でも見られる。
この「フリー&フロー(Free&Float)」なスタイルでの旅行は、一部のヒッピーたちのトラックとバスに派生した。1974年に出版された「Roll Your Own: Complete Guide to Living in a Truck, Bus, Van or Camper」に記述されているように、彼らは遊牧民(ノマド)的な生活習慣を実践するため、トラックやバスの車体を手作りの「移動住宅」に改造した。これらの移動住宅の中には、ベッド、トイレ、シャワー、調理設備を備えた非常に凝ったものもあった。
西海岸では、フィリリスとロン・パターソン(Phyllis and Ron Patterson)が1963年に組織したルネッサンス・フェア―ズ(the Renaissance Faires[66])で独自のライフスタイルが生まれた。夏と秋のあいだは家族全員が移動住宅トラックとバスで一緒に旅し、カリフォルニア南部と北部の開催地につどい、1週間ものあいだ工芸品を製作、週末はエリザベス風のコスチュームを着用してパフォーマンスに参加、それから会場のブースにて製作したハンドメイドの工芸品を売った。多くの若者たちはこれまでにない特別なハプニングを体験した。このライフスタイルのピークは、1969年8月15日から18日にかけて、ニューヨークのベテル近郊のウッドストックフェスティバルで、40万〜50万人が集まった。
ヒッピーの道
1969年から1971年の間に数十万人のヒッピーがおこなった旅行は、「ヒッピー・トレイル(ヒッピーの道)」と言われた。ほとんど荷物を持たず、少額の現金で、だいたいみんな同じルートをたどった。ヨーロッパを越えてアテネとイスタンブールに行き、つぎにトルコの中心部からエルズルムを経由して列車で、バスでイランへ、タブリーズ経由で、テヘランからマシュハドへ、アフガニスタンとヘラート、南アフガニスタンからカンダハル経由、カブール経由、キーバー・パス経由でパキスタンへ、ラワルピンディとラホール経由でインドのフロンティアに到着した。インドでは、ヒッピーは多くの異なる目的地へいったが、トリヴァンドラム(ケーララ州)のゴアとコバラムのビーチに大量に集まったり、国境を越えたネパールのカトマンズで数ヶ月過ごしたりした。カトマンズでは、ほとんどのヒッピーたちがカトマンズ・ダルバール広場の近くにまだ存在するフリーク・ストリート(Freak Street)という静かな環境の中で時を過ごした[67]。
精神と宗教
多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教、ヒンズー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。
なんにんかのヒッピーはネオ・ペイガニズム(復興異教主義)、特に多神教的魔女崇拝の一派「ウイッカ」を信仰していた。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアリスター・クローリーをヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。
1991年、宗教学者ティモシー・ミラー(Timothy Mille[68])はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」のなかで、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教とおなじように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めをおこなうための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。
「ヒッピーの旅(The Hippie Trip[69])」の著者ルイス・ヤブロンスキー (Lewis Yablonsky)は、ヒッピーたちのあいだでもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のステファン・ガスキン(Stephen Gaskin)教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまでふくらみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えからみちびきだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1,500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。
ティモシー・リアリーはアメリカのハーバード大学の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、LSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟(League for Spiritual Discovery[70](LSD))」を設立した。信仰の自由にもとづいてLSDや他のドラッグを瞑想などにもちいるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、ビートルズのアルバム「リボルバー」のジョンレノンの曲「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「ヒューマン・ビー・イン」に招待され、そこで有名な「ターンオン、チューンイン、ドロップアウト―Turn on,Tune in,Drop out[71]」というフレーズを唱えた。
英国のオカルティスト、悪魔崇拝のアリスター・クローリーは、およそ10年ものあいだロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のカバースリーブの登場人物の一人として彼をえらんだ。1970年代のハードロック・バンド、レッドツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーションアルバム「13」の裏表紙でジム・モリスンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている[72]。
ヒッピー時代の思想家
- ティモシー・リアリー
ティモシー・リアリーは60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。ジョン・レノンが作曲したビートルズの曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。
- ラルフ・ネーダー
ラルフ・ネーダーは環境問題や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。
- ヘルベルト・マルクーゼ
ユダヤ系ドイツ人のヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse[73])は1934年ナチス台頭によって、アメリカへの亡命を余儀なくされた。ドイツでフランクフルト学派だったマルクーゼはニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとり、資本主義分析と批判を展開し、「エロス的文明」(1955)、「一次元的人間」(1964)などの著書を出版した。彼の思想は、現代工業社会は人間の「リビドー」や欲望の昇華、性的な本能を低下させ、それらを身体性の残りの部分として鋳型にいれてしまっている。人間の原始的なエロス、欲望や本能、身体性を取りもどさなくてはならないというものである。なお、マルクーゼが影響を与えたのは新左翼であって、ヒッピーに対する影響は小さい。60年代にマルクーゼに影響を受けた人物にはアンジェラ・デイヴィス、アビー・ホフマン、ノーム・チョムスキーらがいた。彼の考えは「セックス革命」と、欧米のカウンターカルチャーに影響をあたえた。
- セオドア・ローザック
シカゴで1933年に生まれた歴史学者セオドア・ローザック(Theodore Roszak[74])は「カウンター・カルチャー」の名づけ親となった。1969年、「カウンターカルチャーの誕生- The making of Counter culture[75]」を出版した。この本でローザックは若者がおかれている状況、伝統的なセックス観にしばられた状況などを分析した。さらに「サイケデリック体験」はちがった意識を「行動の冒険」によって具体化させるものだとし、LSDなどの幻覚剤はこの目的にたいして有用であると考えた。彼は平和主義者、反ベトナム戦争、環境運動、セックス革命などそれまで散在していた多様なグループが、カウンターカルチャーのなかで合流していることを分析し、指摘した。若者は、「平和」や「正義」や「自由」の議論をするために大学のキャンパスを占拠し、上から下のコントロールを否定し、これが「カウンターカルチャー」となった[76]。
ユートピア社会主義としてのヒッピー
フランスの歴史家ロナルド・クレア(Ronald Creagh[77])はヒッピー運動を「ユートピア社会主義」の最後の壮大な復活と考えた。
クレアはヒッピーの特徴を、これまでのような「政治的な革命」や「国によって推し進められた改革の行動」ではなく、現行のシステムのなかで、社会主義的な人格がカウンターカルチャーのクリエーションをつうじて「社会の変容」を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会のなかで理想的なコミュニティをつくりあげようとする欲求だとした[注 4]。
「ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちのあいだでポピュラーになった。ヒッピーはたいていは平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」(Youth International Party)にいたるまで幅広かった。
公民権運動のリーダーでありブラックパンサ―の共同設立者ボビー・シール(Bobby Seale)はイッピーズのリーダーのひとりジェリー・ルービン(Jerry Rubin)とイッピーとヒッピーの違いを議論した。ルービンは、ヒッピーがまだ政治的になる必要性を感じていないので、イッピーズがヒッピームーブメントの「政治的な翼」だとし、ヒッピーの政治活動に関して、「彼らの多くは「石」を選択するが「平和」をのぞんでおり、この選択をおわらせたい思っている」と述べた。非暴力的政治デモにくわえて、ヒッピーのベトナム戦争への反対には、戦争に反対する政治的なグループの組織化、軍隊ではたらくこと、ベトナムの歴史とより大きな戦争の政治的背景を大学キャンパスで教えることなどの「拒否」がふくまれていた。
1967年の、スコット・マッケンジーの歌う「サンフランシスコ(花のサンフランシスコ)」はそれ以降にサンフランシスコへ帰国したヴェトナム戦ベテラン兵士たちの帰国歌となった。マッケンジーはベトナムの退役軍人に「サンフランシスコ」という、逆転した意味でのアメリカ市民の思いを捧げ、2002年にはベトナム退役軍人記念館の献辞20周年を祝った。 ヒッピーの政治的表現は、しばしば彼らがもとめていた変化を実行するために、社会的な「ドロップアウト」のかたちを見せた。
ヒッピーに動機づけられ、ささえられた政治運動は、1960年代のバック・トゥ・ザ・ランド―Back to the land movement[78](農村回帰)運動への企業協力、代替エネルギー、自由出版運動、有機農業などだった。ディガーズ(Diggers[79])として知られるサンフランシスコのグループは、現代の大衆消費社会へラジカルな批判をくわえた。株式をすて、無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、お金を払って、無料の音楽コンサートを組織したり、政治芸術のパフォーマンスをおこなった。彼らは、中世英国のディガーズ(Diggers(1649-50))からその名を借りて、お金と資本主義のない「小さな社会」を創造しようとした。
これらの運動は、反権力主義的で非暴力的な手段によっておこなわれた。 観察者は「ヒッピーは独自のやり方で、彼らの「平和、愛、自由」という目標に辛辣で抑圧的な階層や権力構造に対抗した。彼らは自分たちの信念を他に強制することはなく、かわりに自分たちの信念を通じて世界をかえようとしたのだ」と言う。
ヒッピーの政治的理想は、アナルコ・パンク、レイヴやニューレイヴ・カルチャー、エコロジー政治、マリファナ文化、ニュー・エイジムーブメントなどに影響をあたえた。実際、アナルコ・パンクバンド、クラスのリーダー、ペニー・ランボー(Patny Rimbaud[80])はインタビューやエッセーのなかで、自らを「最後のヒッピー」と呼んでいる。クラスは1967年にコミューンとして設立されたダイアル・ハウスにそのルーツをもっていた。
なんにんかのパンクスは、ヒッピーの動きに関係していたクラスに批判的だった。クラスのようにヒッピーに影響をうけたデッド・ケネディーズのジェロ・ビアフラ(Jello Biafra[81] )はヒッピーに批判的な歌をかいたが、実際、彼の政治的行動と思想に大きな影響を与えたといわれている[82]。
ドラッグ
ビートニクスにつづいて、多くのヒッピーは大麻(マリファナ)を使用し、「楽しく良性」であると考えた。彼らは魂の薬学としてペヨーテやLSD、サイロシビンキノコ、DMT(ジメチルトリプタミン)などの幻覚剤に使用を拡大し、しばしばアルコールを放棄した。
ハーバード大学の教授ティモシー・リアリー(Timothy Leary[83])、ラルフ・メッツナー(Ralph Metzner[84])、リチャード・アルパート(Ram Dass[85])らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。
西海岸では、作家のケン・キ―ジ―(Ken Kesey[86])がLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」とよんでいた。キージーはサイケデリック集団「メリー・プランクスター」とともにアメリカ大陸をツアーしメディアの注目をあつめ、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。グレイトフル・デッド(元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は、「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。彼らは「世界を変えるビジョン」を持っていた。コカイン、アンフェタミン、ヘロインなどのより効果のきついハードドラッグが使用されることもあった。しかし、これらの薬物は有害で中毒性が強かったため、ヒッピーのあいだではしばしば蔑まれていた。
それから―より多様な社会へ向かって
現在では、一般にすべての年齢の未婚のカップルは、社会的に批難されることなく、自由に一緒に旅行し、一緒に生活することができる。カジュアル・セックスはより一般的になり、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちの権利や自分をある枠のなかだけに分類しないことを選択する人々が増えた。宗教的、および文化的な多様性がより受け入れられるようになった。
協力的な企業や創造的な地域生活の取りきめも以前よりも受け入れられている。 1960年代と1970年代に小さかったヒッピーの自然食品店の中には、ヴィーガニズム、薬草、サプリメントなどの栄養補助食品への関心が高まっている現在、大規模で収益性の高い企業になった店もある。 1960年代と1970年代のカウンターカルチャーはある種の「グルーヴィー」な科学技術を取り入れた。例としては、サーフボードの設計、再生可能エネルギー、水産養殖、および助産師、出産、女性の健康などのクライアント中心のアプローチがあげられる。作家スチュワート・ブランドとジョン・マルコフ(John Markoff )は、パーソナルコンピュータとインターネットの発展と普及のなかに、ヒッピー文化によって促進された反権力主義の精神を見つけだすことができると主張している。
彩り鮮やかな外見と服装もまたヒッピーからのじかの影響のひとつだ。 1960年代から1970年代にかけて、綿毛、ひげ、長い髪の毛(ロン毛)がひろまってゆき、服装はよりカラフルとなり、いろいろな民族服がファッション界を席巻した。そのとき以来、ヌードをふくむ、より幅のある個性があらわれ、多様な選択肢と衣服のスタイルがよりひろく受け入れられるようになった。それらすべてはヒッピー時代以前は珍しいものだった。ヒッピーはまた、1950年代から1960年代初頭にかけて男性にとって避けがたいネクタイなどのビジネス衣料品の人気を低下させた。さらに、ヒッピーのファッションそのものは、1960年代から衣服やアクセサリー、とりわけ「平和のシンボル」として長年にわたって普及してきた。
占星術は真剣な研究から個人的な性格に関する気まぐれな娯楽までヒッピーの文化にとってなくてはならないものだった。 1970年代の世代は、ヒッピーと60年代のカウンターカルチャーから影響をうけた。ニューヨークのミュージシャンや観客は、女性、同性愛者、黒人、そしてラテン系のコミュニティにいたるまで、こぞってヒッピーとサイケデリックのいくつかの特色を採った。それらには爆音、フリースタイルな踊り、奇妙な照明、カラフルな衣装、そして幻覚剤が含まれていた。チャンバーブラザーズ(Chambers Brothers[87])やとくにスライ&ザ・ファミリーストーン(Sly&The Family Stone[88])のようなサイケデリック・スピリットのグループは、アイザック・ヘイズ(Isaac Hayes[89])、ウィリー・ハッチ(Willie Hutch[90])、フィラデルフィア・ソウル(Philadelphia Soul[91])のようなオリジナル・ディスコ・ムーブメントに影響を与えた。さらに、ヒッピーの皮肉のないポジティブさや熱心さは、M.F.S.B.のアルバム「Love Is the Message[92]」のような原ディスコ音楽をかたちづくった。
文学におけるヒッピーの遺産には、ケン・キ―ジ―の「Electric Kool-Aid Acid Test[93]」のようなヒッピー体験を反映した長く人気を保つ本がふくまれる。音楽ではヒッピーの中でも人気のあるフォーク・ロックやサイケデリック・ロックは、アシッドロック、ワールド・ビートのようなジャンルに進化した。サイケデリック・トランスは、1960年代のサイケデリック・ロックの影響を受けた電子音楽の一種だ。ヒッピー音楽フェスの伝統は1965年のケン・キ―ジ―の「アシッド・テスト」にはじまった。グレイトフル・デッドはLSDのトリッピングを体験して、サイケデリックなジャミングをはじめた。その後数十年間、多くのヒッピーやニューヒッピーがデッドヘッズ(デッドの熱狂的ファン)コミュニティの一員となり、米国全土の音楽フェスや芸術フェスに参加した。グレイトフルデッドは、1965年から1995年のあいだ、ほとんど中断することなく連続してツアーをおこなった。ロックバンド、フィッシュ(Phish)とそのファン(フィッシーヘッドともよばれる)は、1983年から2004年のあいだに同じように連続してバンドをツアーしてまわった。ヒッピーフェスティバルで演奏する現在のバンドは、1960年代のオリジナルのヒッピーバンドによく似た長いインストを演奏するので、いわゆる「ジャムバンド」とよばれている。
グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめてしまったこと[注 5]によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりをみせている。いちばん大きなものは、2002年にはじまった「ボナルー・ミュージック&アーツ・フェスティバル [注 6](Bonnaroo Music & Arts Festival[94])」である。「オレゴン・カントリー・フェア(Oregon Country Fair[95])」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。1981年に創設され、毎年開催される「スターウッドフェスティバル(Starwood Festival[96])」は、メインではない宗教や世界観を探求し、ヒッピーのスピリチュアルな探求を表現する7日間にわたるイベントであり、様々なヒッピーやカウンターカルチャーについての公演や授業を提供している。
「バーニングマン(Burning Man[97])」は1986年にサンフランシスコのビーチパーティーで始まり、ネバダ州リノの北東に位置するブラックロック砂漠で開催されている。バーニングマンはヒッピーフェスそのものではないが、ヒッピーの初期イベントと同じ精神でオルタネイティブ・コミュニティーの現代的な表現をしている。この集会は、入念な区画、ディスプレイ、デコラティブな車などからなる一時的な街(2005年には36,500人、2011年には50,000人)になった。大勢の参加者があつまる他のイベントにはレインボー・ギャザリング(Rainbow Family Gatherings[98])ザ・ギャザリング・オブ・ザ・バイブス(The Gathering of the Vibes[99])、平和フェスティバル、復活したウッドストックフェスティバルなどがある。
英国では、そとからはヒッピーとして見られている多くの「ニュー・エイジ・トラベラー」がおり、彼らは彼らは自身のことを「平和コンボイ(the Peace Convoy[100])」とよんでいる。彼らは1974年に「ストーンヘンジ・フリーフェスティバル」をはじめたが、1985年に自然環境保護機関であるイングリッシュ・ヘリテッジはフェスティバルを禁止し、「ビーンフィールドの戦い( the Battle of the Beanfield)[101]」がおきた。現在ではストーンヘンジは祭りの場として禁止されており、毎年グラストンベリ・フェスティバル(Glastonbury Festival[102])で新しい時代の旅行者があつまる。今日、イギリスのヒッピーは各地域に散っているが、夏になると田舎の野外フェスにあつまる。
ニュージーランドでは、1976年から1981年にかけて、ワイヒとワイキーの周辺の大規模な農場でひらかれたフェスティバルに数万人のヒッピーがあつまった。「ナンバサ」と名付けられたこのフェスティバル(Nambassa festival[103])は、「平和」、「愛」、「バランスの取れたライフスタイル」に焦点を当てている。フェスと同時に、オルタネイティブなライフスタイル、自給自足、清潔で持続可能なエネルギーと持続可能な生活を提唱する実践的なワークショップと展示がおこなわれた。
英国とヨーロッパでは1987年から1989年のあいだ、かつてのヒッピームーブメントが大規模に復活した。このムーブメントは、主に18歳から25歳の人々で構成され、「愛、平和、自由」という初期ヒッピーの理想をたたえた。 1988年の夏は「セカンド・サマー・オブ・ラブ( the Second Summer of Love)」として知られた。その音楽は現代のエレクトロニックミュージック、特にハウスミュージックとアシッドハウスだったが、レイブの「チル・アウトルーム」ではオリジナルヒッピー時代の曲を聞くことができた。
2002年、フォトジャーナリストのジョン・バセット・マクレリー(John Bassett McCleary)は、650ページの6,000項目もの省略されていないスラング辞書「ヒッピー辞書(The Hippie Dictionary[104])」を出版した。これは1960年代から1970年代の文化的百科事典でもある。この本は改訂され、2004年に700ページに拡大された。マクレリーは、ヒッピーの言葉の多くはビート・ジェネレーションにその源をもち、それをみじかくして使用法を普及させることによって、英語にかなりの数の単語を追加したと考えている[105]。
50年後のウッドストック
1969年のウッドストックフェスティバルから50年後の2019年、ウッドストックのオーガナイザーのひとりはメモリアルフェスティバルを企画した。しかし、医療体制や食や水の問題、さらには米国内で頻発する大量銃撃事件に関連して、会場探しが難航し、結局中止となった。1960年代の牧歌的なヒッピーの夢はより暴力的な傾向を強める社会状況という現実に直面せざるをえない状況になっている。
長年警備にたずさわってきたニューヨーク市警の元巡査部長は社会構造の変化にともない、フェスティバルのユートピア感覚は失われ、「60年代を知る人々が、同じ経験をすることはもうないだろう」と述べた[106]。
日本のヒッピー
1960年代後半の日本においては、オリジナルのヒッピーという呼び名のほかに、新宿を中心に呼ばれた「フーテン」という呼称もあった。
ただし、自らフーテンであったと自称する作家の中島らもは、「ヒッピーとフーテンは違う[107]」との自説を述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し、「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[107]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に、「自由ほど不自由なものはないんだよ[107]」と述べ、ヒッピーの思想自体に懐疑的な立場を表明している。
ヒッピームーブメントに関連する項目
地名
- 北米
- ニューヨーク グリニッジ・ヴィレッジ
- カリフォルニア(アメリカ西海岸) - 現在でもヒッピーが多い。
- サンフランシスコ - 米国におけるヒッピームーブメントの中心地。
- ヘイト・アシュベリー(Haight-Ashbury) - 1960年代にヒッピーが多く集まった街。
- サンフランシスコ - 米国におけるヒッピームーブメントの中心地。
- ヨーロッパ
- オセアニア
- アジア(日本以外)
- カトマンズ(ネパール) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ。
- カーブル(アフガニスタン) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ。
- ゴア(インド西海岸) - 俗にヒッピー三大聖地の一つ、バックパッカーの沈没地、レイヴ、ゴアトランスでも有名。
- カオサン通り(タイ) - 重慶大厦とおなじくバックパッカーの聖地として有名。
- パンガン島 - Full Moon Partyが行われ、ヒッピーの聖地とされている。
- 重慶大厦(香港) - バックパッカーの聖地として知られる。
- 日本
- 長野県諏訪郡富士見町 - 日本のヒッピー文化の発祥の地
- 新宿 - 1960年代にヒッピーによく知られた喫茶店風月堂が新宿東口に存在した。
- 国分寺 - かつてヒッピーコミューンが存在し、「ほら貝」という店は国際的拠点でもあった。現在でもナチュラル系の店舗が多い。
- 西荻窪 - 短期間に終わった国分寺コミューンの崩壊後、ヒッピーらは主に中央線沿線各地に散らばっていった。その拠点のうちの一つに西荻窪の「ほびっと村」がある。
- 滋賀県高島郡朽木村 - かつてヒッピーコミューンが存在し、2010年代の現在でもかつてのヒッピー文化を彷彿とさせるイベントが開催されている。
- 京都 - ゲーリー・スナイダーら欧米からのヒッピーが多く居住し、ほんやら洞、京都大学西部講堂、磔磔などヒッピー文化の本拠地が多くあった。
- 鹿児島県諏訪之瀬島 - 山尾三省、ななおさかきやゲーリー・スナイダーら、コミューン「部族」が集団移住し、1960年代末~1970年代にかけてヒッピーの聖地とされた。
- 鹿児島県大島郡宇検村 - 諏訪之瀬島に住んでいたヒッピーが1973年、東亜燃料工業(後の東燃ゼネラル石油)による宇検村の技手久島の石油備蓄基地建設計画を知り、反対運動に加わるため作ったコミューン「無我利道場」が1989年まで存在した。
文化・芸術・思想・サブカルチャー
- アメリカン・ニューシネマ
- カウンターカルチャー
- ナチュラリズム、エコロジー、オルタナティブ
- ヒンドゥー教、東洋思想、瞑想、ヨーガ、ガイア仮説、シタール、ニューエイジ
- サイケデリック、サイケデリック・ロック
- ビート・ジェネレーション(ビートニク)、デカダンス、レトロヌーボー
- アンダーグラウンド (文化)
- サマー・オブ・ラブ、フラワーチルドレン
- ウッドストック・フェスティバル、モンタレー・ポップ・フェスティバル
- 前衛芸術、前衛音楽、前衛映画、前衛美術
- 自由恋愛主義、フリーセックス
- ホームレス、ホーボー
- ヴィーガニズム
- 吟遊詩人、ジプシー、ボヘミアン、ボヘミアニズム
- フェミニズム、LGBT、ベジタリアン、菜食主義、有機農業、生協
- ヒッピー・トレイル、バックパッカー、ヒッチハイク
- ネオ・ヒッピー、トラヴェラー、レイヴ
- ドラッグ、マリファナ
- 快楽主義
- 新左翼
政治運動
人物・グループ(文化人、思想家)
この項目では、ヒッピーとして行動した人、ヒッピー・ムーブメントに関わったか、影響を受けた人々、グループを記述している。
- アビー・ホフマン - 68年シカゴデモ
- アレン・ギンズバーグ - 詩人
- ウィリアム・バロウズ
- アンジェラ・デイヴィス
- ウィリアム・ブレーク
- ウォーレン・ベイティ
- オルダス・ハックスレー
- ケン・キージー - 小説家
- ゲーリー・スナイダー - 禅ヒッピー
- J・D・サリンジャー - 小説家
- ジェリー・ルービン - 68年シカゴデモ
- ジェーン・フォンダ - ベトナム反戦運動に参加。
- ジッドゥ・クリシュナムルティ - 俗にヒッピーたちの3大グルの一人(本人はグルであることを否定し、弟子や信奉者になることの危険性を説き続けた)
- ジャック・ケルアック - 小説家
- ジョージ・マクガバン - 民主党の反戦候補
- ジョン・シンクレア - 詩人。マリファナで逮捕され、ジョン・レノンらが解放を求めるコンサートを開いた。
- ジャン・リュック・ゴダール
- スティーブ・ジョブズ - アップル共同創業者
- ティモシー・リアリー - サイケデリックの教祖として知られる思想家、元大学教授)
- チャールズ・マンソン - ファミリーを組み殺人事件を起こしていった。シャロン・テート殺人事件の主犯。
- デニス・ホッパー - 俳優。後に共和党員。
- ニール・キャサディ - ビートニクスと交流
- ピーター・フォンダ - 俳優。イージー・ライダーに出演。
- マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー - 俗にヒッピーたちの3大グルの一人
- ユージーン・マッカーシー - 民主党の反戦候補
- ラルフ・ネーダー
- 寺山修司
- 植草甚一
- 大島渚
- 若松孝二
- 小田実
- 今野雄二
- 芹明香 - アングラ劇団出身
- 竹中労
- 松田英子 - 天井桟敷出身
- 山尾三省(屋久島)
- 横尾忠則
- 横山リエ
- 天井桟敷 - アングラ劇団の一つ。寺山修司が主宰した。
- ベ平連
- ななおさかき(ナナオサカキ)
人物・グループ(音楽)
- ジョン・レノン
- ニール・ヤング
- ジェリー・ガルシア
- グレイトフル・デッド(ヒッピー・バンド)
- インクレディブル・ストリング・バンド(本物のヒッピー・バンド)
- オノ・ヨーコ
- カントリー・ジョー&フィッシュ
- クイックシルヴァー・メッセンジャー・サービス
- クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング
- ゴング_(バンド)
- ジェファーソン・エアプレイン
- ジャニス・ジョプリン
- ジョージ・ハリスン
- ジョニ・ミッチェル
- ジョン・セバスチャン
- スコット・マッケンジー
- デヴィッド・ピール - ジョン・レノンの友人
- ドアーズ
- ドノヴァン
- バフィー・セント・メリー
- ザ・ビートルズ
- ファグズ
- ボブ・ディラン
- ホーリー・モーダル・ラウンダーズ
- ママス・アンド・パパス
- メラニー
- モビー・グレイプ
- ラヴィン・スプーンフル
- ラヴ
- 萩原健一
- カルメンマキ
- 南正人
- 岡林信康
- 遠藤賢司
- 忌野清志郎
- 加藤和彦
- 加川良
- 頭脳警察
- 高田渡
- テンプターズ
- 仲井戸麗市
- フォーク・クルセダーズ
人物(個人のトラヴェラー、その他)
ヒッピーに関連する主な作品
- 映画
- ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間
- 俺たちに明日はない
- イージー・ライダー
- いちご白書
- 砂丘(ザブリスキー・ポイント)
- モア
- マッシュ
- モントレー・ポップ・フェスティバル
- ワイト島音楽祭
- バニシング・ポイント
- 白昼の幻想(ザ・トリップ)1968年
- バングラデシュ救援コンサート
- フレンズ
- ふたりだけの恋の島 - ヒッピーが登場
- ハルーシネイション・ジェネレーション 1967年
- ライオット・オン・サンセット・ストリップ 1967年
- ザ・ラブ・インズ67年
- Psych-Out68年
- ワイルド・イン・ザ・ストリーツ 1968年
- ザ・ビッグ・キューブ69年
- アイ・ドリンク・ユア・ブラッド 1970年
- ヘアー
- ローリング・ストーンズ・ハイドパーク・コンサート
- ラスト・ワルツ
- ウッドストックがやってくる!
- 小説
- 演劇
- ヘアー
- オー・カルカッタ
薬物
関連項目
- ヒップ (スラング)、スクウェア
- 1960年代のカウンターカルチャー
- 五月革命
- イッピーズ(Youth International Party)
- ヤッピー (1980年代の拝金主義者)
- 公民権運動
脚注
注釈
- ^ カーンのこの認識は住民と若者の認識の「ズレ」や「ギャップ」のようなもので、当然どこの国にもある問題だとおもわれる。
- ^ この倫理規定にはある程度「ニューエイジ思想」の価値観と通底したものがみられる。
- ^ 「あなただけを」「ホワイト・ラビット」などがヒットした。
- ^ これは1968年のフランスの五月革命と同様の精神(68年精神)であり、いわゆる「男性型」のハードな革命ではなく、「女性型のソフトな変容、ソフトな革命としてとらえるべきなのだろう。
- ^ グレイトフル・デッドはバンドのギターリストでカウンターカルチャーの象徴的な存在だったジェリー・ガルシアが1995年に死去したこと、フィッシュは2004年に突然の解散を宣言したことによる。
- ^ テネシー州で毎年おこなわれている野外フェス。日本からは2004年に「東京スカパラダイスオーケストラ」が参加している。
出典
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- Summer of Love. A film part of PBS´s American Experience series. Includes the film available to watch online and other information on the San Francisco event known as the Summer of Love as well as other material related to the hippie subculture
- Hippie Society: The Youth Rebellion. A Canadian program by the CBC public network on the hippie rebellion including videos to watch
- UK Hippy