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アッコ包囲戦 (1189年-1191年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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アクレ攻防戦
第三回十字軍

アッコン包囲戦の様子(c. 1280)
1189年8月28日 – 1191年6月12日
場所アッコン
北緯32度55分39秒 東経35度04分54秒 / 北緯32.9275度 東経35.0817度 / 32.9275; 35.0817座標: 北緯32度55分39秒 東経35度04分54秒 / 北緯32.9275度 東経35.0817度 / 32.9275; 35.0817
結果 Crusader victory
衝突した勢力

アンジュー帝国
フランス王国
イェルサレム王国

ピサ共和国
シチリア王国
教皇領
神聖ローマ帝国
キリキア王国
デンマーク王国
ジェノバ共和国
アイユーブ朝
指揮官
戦力
合計: 59,000人[1][2]
102 ships[3]
序盤: 7,000–10,000人[4]
後盤: 25,000人[5]
トレビュシェット11機

45,000-50,000人

  • 守備兵: 5,000-10,000人[6]
  • 救援部隊: 40,000人[7]
    ガレー船50隻[8]
被害者数
19,000 dead[1][9]

守備兵: 5,000-10,000戦死

救援部隊: 甚大な被害


アクレ攻防戦 (Seige of Acre) とは、1189年8月、イェルサレム王国国王であるギー・ド・リュジニャン率いる十字軍が、アイユーブ朝初代カリフであるサラディン率いるイスラム軍に反撃したことで起きた戦闘であり、これはのちに知られる第三回十字軍において非常に大きな意味を持つことになった戦いとして知られる。この戦闘は十字軍が勝利し、サラディンの十字軍国家壊滅計画は一時失敗することとなった。

背景

十字軍の逆襲1

1190年、地中海東側における第三回十字軍の進軍経路・拠点

戦場の舞台となったアクレの港はハイファ半島の湾内に存在した。アクレ市の東部にあった町の古い部分には開けた海に守られた港があり、町の西側と南側は強固な防壁に守られていた。また半島自体は二重の防壁と防御塔で防衛されていた。またアクレはサラディン配下の守備兵数千によって守られており、イスラム側の兵站基地・戦術的な結節点としての役割を担っていたことから非常に重要な地点であった。
 その頃アクレ近郊には、かつてハッティーンの戦いでサラディンに散々に打ち負かされ自国イェルサレム王国を奪われてしまった国王ギー・ド・リュジニャンは残存していたキリスト教軍(7,000〜9,000の歩兵部隊と400〜700騎の騎士からなる[4])を率いてうろついていた。本国失い、多くの騎士を失ったはずのギーは、ヨーロッパからレバントにやってくる多勢のキリスト教徒の軍勢を配下に従え、兵力を増やしていたのだった。

 戦闘序盤、ギーはアクレの城壁に攻撃を仕掛け、アクレ守備兵を驚かし戦意を喪失させようとしたものの失敗し、アクレ城壁の外に陣を張り、ヨーロッパから来訪し始めていたキリスト教徒の援軍を待つことにした。まず初めにデーン人フリジア人らの艦隊が到着し、先に本国に撤退していたシチリア王国の艦隊らと交代した。(シチリア王ウィリアム2世が亡くなったことによる。)これに続いて、アヴェーヌ領主のジェームズバル公ヘンリー1世ロベール2世やその弟でありボーベ司教のフィリップらが率いるフランク人フランドル人らの軍団や、テューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世ゲルデルン公オットー1世らが率いるドイツ人らの軍団、またラヴェンナ大司教ヴェローナ司教らが率いるイタリア人らの軍団が続々と集結した。またルートヴィヒ3世は彼の母の従兄弟であるモンフェラート侯コンラート1世を説得し十字軍を派遣させることに成功し、キリキア王レオ1世もアルメニア人部隊を率いて参戦し、この包囲戦に一役買った[10]。十字軍の再集結を聞きつけたサラディンは配下の軍勢を集めてアクレに進軍し、9月10日、ギーの野営地を襲撃したが、失敗に終わった。

戦闘開始

10月4日、サラディン率いるイスラム軍はアクレ市の東側に移動し、ギーの野営地の前に立ちはだかった。ギー率いる十字軍は9月の終わりまでに、歩兵部隊30,000、騎馬隊2,000にまで膨れ上がっており[3]、最低でも102隻のキリスト教徒の海岸が海からアクレ市を包囲していたとされる[3]。一方イスラム軍は、エジプトトルキスタン、そしてメソポタミアからの軍勢で構成されていた。

 イスラム軍は街の東側に陣取り、半円状に広がって布陣して十字軍を待ち受けた。十字軍はそれに向かい合って二列に布陣。1列目には軽装のクロスボウ兵、2列目には重装騎兵が隊列を組んだ。アルスフの戦い以降、十字軍は体系だった作戦をもとに遠征を進めていたのだが、この戦いは、イスラム軍左翼部隊とテンプル騎士団が互いに指揮系統を外れて勝手に戦闘を始めたことで幕が下された。十字軍らの攻撃は成功し、イスラム軍は他の部隊から右翼部隊に援軍を差し向けなければならなくなった。十字軍は白兵戦の準備をしたクロスボウ兵からなる中翼部隊をそのまま前進させ、大した抵抗を受けることもなく、サラディン軍を敗走させることに成功した。

 しかしこの勝利は戦場の各地に散らばってしまっていた。戦闘がひと段落付き、自身の野営地に戻ろうとする十字軍兵を見たサラディンは敗走している配下のムスリム軍を再び集結させ、その中の軽装騎兵を撤退中のキリスト教徒軍に差し向けた。

脚注

  1. ^ a b Hosler 2018, p. 72.
  2. ^ Tyerman, page 436
  3. ^ a b c Hosler 2018, p. 19.
  4. ^ a b Hosler 2018, p. 12.
  5. ^ Tyerman, page 449: "There may have been only a few thousand fighters within Acre by then, while Saladin's army, despite regular reinforcement, cannot have matched the gathered strength of the Christians, whose army may have numbered by this time 25,000 men."
  6. ^ Hosler 2018, p. 34.
  7. ^ Hosler 2018, p. 54.
  8. ^ Hosler 2018, p. 45.
  9. ^ Hosler 2018, p. 107.
  10. ^ M. Chahin (1987). The Kingdom of Armenia: A History. Curzon Press. p. 245. ISBN 0-7007-1452-9