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牛久シャトー

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シャトーカミヤ本館(事務室)

シャトーカミヤは、茨城県牛久市にあるワイン醸造施設である。通称「牛久シャトー」であるが平成29年9月1日より正式名称を「牛久シャトー」に変更する[1]。「シャトー」は一貫生産醸造所に対する称号で、原料を生産するブドウ畑は大部分がなくなったが、極僅かに継続している。事務室(現・本館)など3棟の建物が日本国の重要文化財に指定されている。

沿革・概要

創設者の神谷伝兵衛(1856年 - 1922年)は、三河国(現・愛知県)出身の実業家。十代の時、横浜でフランス人の経営する会社に就職し、洋酒醸造場で働いたことがきっかけで、酒造業をめざすようになった。明治13年(1880年)、東京・浅草に「みかはや銘酒店」(神谷バーの前身)を開店。のち、日本国内産葡萄によるワイン醸造を国内事業化することを考え、養子の伝蔵をフランスボルドーに渡航させて、葡萄栽培やワイン醸造の技術を学ばせた。伝蔵は3年後に帰国。伝兵衛は茨城県稲敷郡岡田村(現・牛久市)に葡萄畑とシャトー用に広大な土地を購入。明治31年(1898年)には伝蔵がフランスから持ち帰った葡萄の苗木の栽培を始めた。

伝兵衛はワインの本場、フランス・ボルドー地方のワイン製造方法を採り入れようと、フランスのボルドー・カルボンブラン村醸造場を手本に、120町歩の神谷ぶどう園の中心にレンガ造りの牛久醸造場を建設した。建物は明治34年(1901年)から建設に着手し、明治36年(1903)に完成した。ブドウ栽培、醸造、瓶詰め、出荷まで一貫生産する日本初の本格的ワイン醸造所となった[2]

1996年、ビール製造の事前免許を取得したことを契機にシャトー内に地ビールレストランを建設、オープンし、ビールの醸造、提供を行うようになった[3]

シャトーカミヤの事務室(現・本館)、醗酵室(現・神谷傳兵衛記念館)、貯蔵庫(現・レストラン)の3棟は平成20年(2008年)6月、文部科学大臣から国の重要文化財に指定された。

現在は総合酒造メーカグループであるオエノングループ傘下の合同酒精の事業所(牛久ワイナリー)となっている。

レンガ造り本館(事務室)

国の重要文化財のシャトー本館(事務室)は、岡田工務所(軽井沢の旧三笠ホテル(重要文化財)を設計した岡田時太郎が代表者)が、フランスの醸造場をモデルにして設計したもので、明治36年(1903年)に完成した。フレンチ・ルネッサンスを基調とする2階建て洋風レンガ造りで、1階中央には半円アーチの開口部を設け、通路とする。かつては正面入口から裏側の醸造場を結ぶトロッコがこの通路を通っていた。屋根上の左右端にはマンサード屋根を上げ、中央やや右よりに時計塔がある。1階西側は事務所(現在の喫茶アベイユ)で、東側は和室になっている。2階には、西に大広間、東に貴賓室があり、当時の調度品や絵画等が残されている。大広間は、迎賓館としても使われ、板垣退助榎本武揚などの政財界の著名人達が招かれ、パーティが開かれていた。

旧醗酵室(醸造場)

旧醗酵室(醸造場)

ワインの醗酵室(醸造場)は、地下室付の2階建で、現在は「神谷傳兵衛記念館」になっている。明治中期のレンガ造り建築としての価値と、当時の醸造方式を理解する上で産業技術史での価値が高いことから2008年6月に文部科学大臣から「最初期の本格的ワイン醸造施設」として本館・貯蔵庫と共に国の重要文化財に指定された。

醗酵室2階は、ぶどうを機械でしぼり、果汁を1階におろす作業場である。2階中央部分の大きな開口部分には手動式の小型起重機があり、トロッコで運ばれたぶどうを入れていた。2階床面にはトロッコのレールの跡と、ぶどう果汁を1階におろすための大小の落し口が多数残っている。

醸造場1階には大樽が並べられて、2階からぶどう果汁を直接注ぎ込み、醗酵させていた。現在も当時の大樽が並んでいる様子を見ることができる。

地下室は、ぶどう酒を詰めた小樽が当時のまま横置きに並べられている。全体として、当時のワイン醸造の工程を知る上で貴重な遺構として良く残されている。

旧貯蔵庫

シャトーの旧貯蔵庫は、昭和51年(1976年)にレストランに改築された。昭和17年(1942年)に撮影された写真では、建物の入口部分が木造になっているが、この部分はレンガ造りにリフォームされた。

昭和40年代に撮影されたシャトーの航空写真を見ると、当時の旧貯蔵庫は2連に拡張されていた。貯蔵庫の前には、高い煙突があったが、昭和40年代の写真にはなくなっている。

明治38年(1905年)頃の写真では、貯蔵庫の外壁には小さな丸窓が連続しているが、レストランへの改造の時に大きな窓に作り変えられた。

旧貯蔵庫は、昭和51年(1976年)にレストランとして改築した時に、一部改変が加えられたが、全体として建設当時の状態が良く保存され、国の重要文化財に指定された(内装は指定対象外)。  

神谷ぶどう園

かつてぶどう園のあった場所は女化原と呼ばれる広大な原野の北のはずれに位置していた。シャトーが建設された頃には、シャトーから遠く離れた女化神社の木々が見えたと言われており、広々とした低木と草地の原野だった。

明治維新の後、新政府の大久保内務卿は、政府御雇い外国人として農業の専門家のD.W.ジョンズから助言を得て、茨城県と千葉県の18か所の原野を開拓する決定をした。日本で最大規模(合計3千町歩)のアメリカ式開拓は、元陸軍少将であった津田出が引き受けたが、開拓は思ったように進まず、やがて女化原の農場は転売されることになった。女化原の内、南側の500町歩(現在の女化地区)は、開拓農民たちに払い下げられ、北側の120町歩は、神谷伝兵衛に払い下げられた。

神谷伝兵衛は、明治30年(1897年)に津田出から購入した120町歩の農地にフランス産ぶどう苗6000本を植え付けて(大正9年には13万本が植えつけられていたと記録されている)神谷ぶどう園と呼ばれるようになった。ぶどう園は、後に160町歩に広げられて、周囲には土手が築かれ、シャトーを中心に北側と南側のぶどう畑と牛久駅までのトロッコ道が作られた。

神谷ぶどう園は北端が国道6号の柏田町の「カスミ」の手前で、南端が「神谷小学校」の手前までの範囲に当り、南北総延長1.9kmになる。その後大部分が現在住宅地に、1990年代まであったところの大半は駐車場になっている。その一部には「神谷」の地名が付されている。

トロッコ道

神谷ぶどう園には、収穫したぶどうを運ぶために、シャトーの南と北にトロッコ道が敷設(総延長4.8Km)されていた。 また、シャトーから牛久駅にもトロッコ道が敷設され、ぶどう酒が駅まで運ばれた。シャトーが建設されたのと同時期に鉄道が開通し、牛久駅にはぶどう酒の積込みのための専用ホームが作られていた。 シャトーの醸造場跡にある「神谷伝兵衛記念館」には当時のトロッコが展示されている。また、シャトー正面の駐車場の中程から、南に向かってまっすぐの道がある。この道と駐車場は、生垣で切られているが、ここには神谷ぶどう園の中央を南北に結んだトロッコ道が敷設されていた。

神谷伝兵衛記念碑

神谷伝兵衛が死去した後、神谷ぶどう園の中に墓がつくられた。シャトーから神谷小学校へ行く途中(歩いて10分位)にあり、この墓は、その後、神谷家の墓がある東京谷中の墓地に移されたが、現在も神谷伝兵衛記念碑として残されている。 神谷伝兵衛記念碑の近くには、シャトーの稲荷社や競馬場があり、シャトーからトロッコがここまでつながっていた。

牛久ブリュワリー

主な製品[4]

2016年のワールド・ビア・カップではハーブ&スパイスビール部門で「桜満開ラガー」が金賞を獲得している[5]

ラ・テラス・ドゥ・オエノン

ラ・テラス・ドゥ・オエノンはシャトー内に設置されている直営ビアレストラン[4]。上記の牛久ブリュワリーで醸造されている地ビールと和洋折衷料理が楽しめる[4]

アクセス

所在地:茨城県牛久市中央3-20-1

参考文献

脚注

  1. ^ シャトーカミヤ (公式)のツイート
  2. ^ 「近代化産業遺産群33」経済産業省
  3. ^ 『Discover Japan 2015年7月号 Vol.45』エイ出版、2015年、170頁。 
  4. ^ a b c d 地ビールを極める本. ぴあ. (2014). pp. 43 
  5. ^ ワールド・ビア・カップ2016受賞ビール速報 日本のブルワリーは9社が入賞”. 日本ビアジャーナリスト協会 (2016年5月7日). 2017年2月15日閲覧。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度58分42.6秒 東経140度8分50.8秒 / 北緯35.978500度 東経140.147444度 / 35.978500; 140.147444