岡田時太郎
岡田時太郎 | |
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生誕 |
1859年9月13日 (旧暦安政6年8月17日) 肥前国唐津(現・佐賀県唐津市) |
死没 | 1926年6月5日(66歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 大坂境造幣寮付属日進学校 |
職業 | 建築家 |
所属 | 岡田工務所 |
建築物 |
シャトーカミヤ 旧三笠ホテル |
岡田 時太郎(おかだ ときたろう、1859年9月13日(安政6年8月17日) - 1926年(大正15年)6月5日)は、日本の建築家。同郷でもある辰野金吾の門下生で[1]、茨城県牛久市にあるシャトーカミヤ[2][3]や、長野県軽井沢町の旧三笠ホテル[4][5](いずれも国の重要文化財)の設計を手がけた。
现沈阳市东北中山中学建立
生涯
[編集]唐津藩下に、辰野金吾生家のすぐ近くで生まれ育つ[4]。1872年(明治5年)、唐津藩が設置した英語学校である耐恒寮に入学し、3年間英語を学ぶ[4][6]。
1875年12月に大阪の英学校へ進学、翌1876年3月に造幣寮附属日進学校に入学した[6]。日進学校では4年英語を勉強する[6]。在学中の1876年5月に造幣寮に入官し、文書課詰となる[6]。1877年10月に造幣局(この年1月11日に造幣寮より改称[注釈 1])貯蔵掛に移る[6]。
1879年2月に造幣局を依頼免職し、官設鉄道(当時は工部省鉄道局)の試験に合格、工技生として神戸鉄道局機械工場詰となる[6]。同年5月、汽車掛(機関士)のイギリス人ヘンリー・フォスターに付く汽車火焚運転技術見習い(機関助士)となった[4][6]。
1880年5月、大阪梅田停車場建築課の所属となり[6]、近畿地方の官設鉄道土木工事に携わる。1882年11月から、長谷川謹介が率いる[要出典]柳ヶ瀬トンネル建設に従事する[7]。トンネルが竣工すると、1884年4月に敦賀金ヶ崎駅建築課の所属となった[8]。1885年6月に淀川洪水が起きると、7月に線路修築係に移り、ポーナルの指導を受けた[8]。11月2日に官設鉄道を依願退職する[6]。
上京し、11月14日に東京大学の雇員となり、山口半六のもとで理科大学化学実験場の新築工事に従事した[4]。1886年2月19日、辰野金吾建築事務所に開設と同時に入所[6]。岡田は事務所で唯一の所員だった[9]。『工学博士辰野金吾伝』(1926年)によると、化学実験場の建設現場で、隣接する工科大学の建設に携わっていた辰野と再会し、「俺の方に加勢に来ぬか」と招かれたという[4]。3月11日には文部省会計局化学実験場新築担任兼帝国大学工科大学建築掛となる[10]。
1888年8月、文部省を依願退職後、日本銀行本店の建築調査に渡欧する辰野金吾に同行して日本を出発[6]。12月にロンドン大学造家学科に聴講生として入学した[10]。土木建築請負会社ウィルヤム・キュービットに入り工事の研修を受ける[6]。1889年6月、ロンドン大学造家学科を終了し、同年10月帰国した[6]。
帰国後の1890年9月に日本銀行本店の建築技師となる(1895年12月まで)[6]。日銀本店建築技師を離れた後は、個人の建築技師として岡山市共立絹糸紡績工場(1896 - 1897年)、小名木川綿布会社の建設に関わる[10]。1898年8月には再び文部省の嘱託として、帝国図書館(現・国際子ども図書館、1903年竣工)、東京帝国大学医科大学医院内科外科教室及び病室の改築に携わる[10]。
1899年2月、自身の事務所である岡田工務所を東京で開設する[6]。1900年に、文部省総務局建築課付として高等師範学校の改築に関わり、1903年にシャトーカミヤ、1905年に軽井沢の三笠ホテルを手がけている[4][5]。1904年から1905年まで、河村組の建築部長も兼任した[6]。
岡田は日露戦争中の1905年6月から満洲軍倉庫嘱託を務め、同年10月に岡田工務所を閉鎖した[10]。日露戦争後の1906年4月に満洲軍嘱託を辞すると、5月に日本の租借地となった関東州大連市に改めて岡田工務所を設立した[10]。この満州進出は、三井財閥とのつながりによるものと推測されている[10]。
1908年に辰野金吾、曽禰達蔵の推薦[11]により建築学会正会員へ入会した。1914年(大正3年)東京市芝区へ拠点を戻し、1916年(大正5年)に大連へ移している[12]。
大連においては大連牛乳株式会社取締役、東洋石材株式会社取締役、大連土木建築株式会社社長、関東木材株式会社社長、大連澱粉株式会社取締役、庶民銀行の理事を務めた[6]。1926年6月5日、大連で死去[4][6]。
栄典
[編集]- 1908年(明治41年)4月:明治三十七八年従軍紀章
主な作品
[編集]設計
[編集]建造物名 | 現況 | 年 | 所在地 | 指定 | 備考 |
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第三国立銀行松江支店 | 旧現:かげやま呉服店 | 1902年(明治35年) | 島根県松江市 | ||
旧牛久醸造場 事務室 (本館)・発酵室・貯蔵庫 | 現:シャトーカミヤ | 1903年(明治36年) | 茨城県牛久市 | 重要文化財 | |
旧三笠ホテル | 1905年(明治38年) | 軽井沢町 | 長野県重要文化財 |
現場監督
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 西澤の出典では「造幣寮」のままだが誤記とみなす。
出典
[編集]- ^ 辰野金吾 - 唐津市(旧唐津銀行展示解説シート)
- ^ シャトーカミヤについて - オエノンホールディングス
- ^ 以下の人物についてわかる資料はないか - レファレンス共同データベース
- ^ a b c d e f g h 岡田時太郎 唐津が生んだもう一人の建築家 - 洋々閣(『東京駅の建築家 辰野金吾伝』の引用を含む)
- ^ a b 旧三笠ホテル - 文化遺産オンライン
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 西澤泰彦 1993, p. 189.
- ^ 西澤泰彦 1993, p. 190.
- ^ a b 西澤泰彦 1993, pp. 189–190.
- ^ 西澤泰彦 1993, p. 187.
- ^ a b c d e f g 西澤泰彦 1993, pp. 188–189.
- ^ 『建築雑誌』、1908年[要文献特定詳細情報]
- ^ 『建築雑誌』、1914年[要文献特定詳細情報]
参考文献
[編集]- 白鳥省吾『工学博士辰野金吾傳』辰野葛西事務所、1926年。doi:10.11501/1020294。 NCID BN05701631。全国書誌番号:43052251 。
- 『工学博士長谷川謹介伝』長谷川博士伝編纂会、1937年
- 『建築雑誌』1908年、1914年[要文献特定詳細情報]
- 西澤泰彦「建築家岡田時太郎の中国東北地方進出について : 20世紀前半の中国東北地方における日本人の建築組織に関する研究 その2」『日本建築学会計画系論文報告集』第452巻、日本建築学会、1993年、187-196頁、CRID 1390282679755881600、doi:10.3130/aijax.452.0_187、ISSN 09108017。
関連文献
[編集]- 東秀紀『東京駅の建築家 辰野金吾伝』講談社、2002年
- 中野茂夫, 斎藤英俊, 中島伸「シャトーカミヤの建設経緯と建築的特徴」『日本建築学会計画系論文集』第73巻第629号、日本建築学会、2008年、1617-1624頁、doi:10.3130/aija.73.1617、ISSN 13404210。
- 『日本の大学キャンパス成立史』九州大学出版会, 1989年