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日展

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公益社団法人日展
設立 1958年昭和33年)
種類 公益社団法人
法人番号 2010505002083 ウィキデータを編集
本部 東京都台東区上野桜木2-4-1
会長 奥田小由女(理事長)
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日本美術展覧会(にほんびじゅつてんらんかい)は、公募美術展覧会の1つの名称である。通称は「日展」。公益社団法人日展が主催する。

概要

官展の流れを汲む総合美術団体で、最初期は「日本画」、「西洋画」、「彫刻」の3部門で、1926年から「美術工芸」が、1948年からは「」が加わった。毎年秋に国立新美術館公募展を開催。また地方都市で巡回展も開催されている。

系譜

  • 文部省美術展覧会(初期文展):1907年-1918年
  • 帝国美術院展覧会(帝展):1919年-1935年
  • 文部省美術展覧会(新文展):1936年-1944年
  • 日本美術展覧会(日展):1946年-
    • 2014年以降は「改組新」と題し開催回数がリセットされた。詳細は#不正審査問題を参照のこと。

官展の歴史

明治中期、日本画の組織として旧派の「日本美術協会」と新派の「日本美術院」の対立構造が明確化していた。さらに黒田清輝の帰朝によって、西洋画も旧派の「明治美術会」と新派の「白馬会」という対立が発生する結果となった。このように美術界の抗争が激しくなる中で、これを調停する目的から文部省が各派を統合する形で国家主導の大規模な公募展、すなわち官展として開始したのが文展こと「文部省美術展覧会」。「初期文展」とも呼ぶ。

しかし1907年(明治40年)に第一回展が開催されるものの、その審査員の選定が問題となり、火種はくすぶったままであった。1913年(大正2年)には洋画部門における評価と日本画同様の新旧二科でないことを不満とした一派が二科会として袂を分かち、「二科展」を開始している。そして大正3年に横山大観が審査員を外されたことを遠因として日本美術院が再興するが、これを契機として大正以降は美術団体が更なる乱立を見せた。

1916年(大正5年)、第10回に至って特選および推薦の制を設け、これに永久に審査を経ることなく出品し得る特権「無鑑査」を付与。

1919年(大正8年)には「帝国美術院」の発足にともなって、「帝国美術院展覧会」(帝展)と改称する。文展の「無鑑査」制も継承。しかし1935年(昭和10年)に時の文部大臣・松田源治が挙国一致体制強化のために制度変更を敢行し、これに伴う増員により美術界は紛糾(通称「松田改組」)、その結果展覧会そのものは芸術院より分離され再び「文部省展覧会」となった。こちらは初期文展に対して「新文展」と呼ぶ。敗戦後の1946年から現名称となった。

1923年1935年1945年を除き、ほぼ毎年開催されている。ただし、1940年1944年は、特殊な開催方式だった。

2006年まで上野の東京都美術館で開催されてきたが、老朽化のため同美術館の改修工事が行われたことと、より広い展示スペースを確保するため、2007年から六本木の国立新美術館で開催されている。展覧会期間中の11月12日(休館日や当該日が週末に当たる日はその前の平日)には無料開放されるほか、講演会も開催されている。

不正審査問題

石材などに文字を彫る「篆刻」の2009年度の審査を巡り、有力会派に入選数を事前に割り振るという不正が行われたことが、朝日新聞調査報道で分かった[1]。関係者によると、流派有力者(日展役員職の人物)や上位の師匠に手土産を持参して、入選者の一席に加えてもらうのは日常茶飯事だという[2]

また、書道以外の洋画や工芸の部門でも「事前指導」が慣行として行われ、事前指導を受けた作品が多数入選していたことが明らかになっている[3]。この影響により、2013年の日展は、直前になって日展側からの後援辞退の申し入れがあり、文化庁は後援を中止した。また、文部科学大臣賞の選出と副賞の賞金の支出についても取りやめになった。

2014年4月、幹部会員を減員(参事・参与・評議員を廃止)し、ピラミッド構造を改めるなどの改革を発表[4]

2014年9月、日展審査員の経験者を日本芸術院会員の新会員候補から除外するよう、文化庁が求めていることがわかった[5]

2014年12月、問題関与の指摘を受けた人物が、日展を退会[6]

これにより改組新として2014年に改めて第1回展覧会を開催したが、内閣総理大臣賞文部科学大臣賞の選出は取りやめとなった。2015年の改組新第2回展覧会で2つの賞が復活されるとともに、後援を取りやめていた文化庁の後援が復活した。

関連項目

脚注

  1. ^ “日展書道「篆刻」、入選を事前配分 有力会派で独占”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年10月30日). オリジナルの2013年10月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131030033559/http://www.asahi.com/articles/TKY201310290515.html 2013年10月30日閲覧。 
  2. ^ “「先生に手ぶらじゃ駄目」 日展、厳しい階級社会”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年10月30日). オリジナルの2013年10月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131030075524/http://www.asahi.com/articles/TKY201310300011.html 2016年1月18日閲覧。 
  3. ^ “日展審査員、自会派を事前指導 洋画と工芸、多数入選”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年11月20日). オリジナルの2013年11月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131120034742/http://www.asahi.com/articles/TKY201311190467.html 2013年11月21日閲覧。 
  4. ^ “「改組新日展」に名称変更 日展不正審査問題で”. 産経新聞. (2014年4月10日). http://sankei.jp.msn.com/life/news/140410/art14041021390006-n1.htm 2016年1月18日閲覧。 
  5. ^ “「日展の元審査員、芸術院の候補から外して」文化庁”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2014年9月9日). オリジナルの2014年9月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140909165003/http://www.asahi.com/articles/ASG9852H8G98UCVL00Z.html 2016年1月18日閲覧。 
  6. ^ “日展:顧問の書家が退会”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2014年12月27日). オリジナルの2015年1月1日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20150101014619/http://mainichi.jp/select/news/20141228k0000m040045000c.html 2016年1月18日閲覧。 

外部リンク