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ノート:幻視芸術

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このページは一度削除が検討されました。削除についての議論は「Wikipedia:削除依頼/ヴィジョナリーアート」をご覧ください。 このノートページは一度版指定削除されています。削除に関する議論は「Wikipedia:削除依頼/ノート:幻視芸術」をご覧ください。

過去ログ

ヴィジョナリーアートの呼び方は定着していない

ウィリアム・ブレイクなど古いですが、

  • 『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術』(2010年) Sacred Mirrors : The Visionary Art of Alex Gray, 1990.
  • 『ジャン・コクトー : 幻視芸術の魔術師』(1995年)
  • 「幻視芸術」『ウィリアム・ブレイク』(牧神社、1977年)

といった著書があります。またヴィジョナリーアートを書名に持つ著作はありませんでした。--タバコはマーダー会話2017年4月1日 (土) 17:18 (UTC)[返信]

上の三者は画家(ブレイクは詞でも)として知られていますが、幻視芸術ではなくても「幻視」として言及されています。
  • 『ブレイクの世界―幻視家の予言書』(1978年)
  • 『ジャン・コクトー―幻視の美学』(2003年)
  • 『世界美術家大全』日東書院 p.190.では、ブレイクは幻視者とありますが、ブレイクについて幻視、幻視者と言及する著作は見つけやすいでしょう。--タバコはマーダー会話2017年4月21日 (金) 06:31 (UTC)[返信]
年号を追加。--タバコはマーダー会話2017年6月26日 (月) 00:46 (UTC)[返信]

ウィキペディアの複雑なルールには精通していませんが、口語の言葉をどう解釈するかは小さな問題ではないと思います。無数の人々が口語的に頻用し、ツイッターなどで使用し、なおかつ書物にはなっていないような言葉が多数あると思います。それはスラングやジャーゴンといったもので、例えば「ヤンキー」であるとか「オタク」とか「中二病」といったものが口語的な現象としてまずあり、あとで書物になるというケースがあると思います。そのへんの扱いは、よりルールに精通したウィキペディア利用者に訊ねたいところであります。--Basicsur会話2017年7月27日 (木) 16:14 (UTC)[返信]

再三案内していますが、Wikipedia:信頼できる情報源というガイドラインがあります。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 09:27 (UTC)[返信]

ブレイクの幻視については1970年代より言及があるようです。

  • R.カスナー 著、春山清純 訳「幻視芸術」『ウィリアム・ブレイク』牧神社、1977年。 
  • Kenneth Clark (1973). Blake and visionary art. University of Glasgow Press 
  • Lambert, Moira, The visionary artist, 1980, http://hdl.handle.net/10962/d1006113.

--タバコはマーダー会話2017年8月1日 (火) 11:53 (UTC)[返信]

記事に出典として用いらているすべての日本語の資料に「幻視」という共通する訳語が含まれているかと思います。--タバコはマーダー会話2017年8月11日 (金) 11:21 (UTC)[返信]
だいぶ下の、Basicsur氏本人の言で「1994年に国内で開催された展覧会「現代パリの幻想画家たち」のカタログではこのヴィジョネールという言葉が幻視芸術と訳され幻想芸術との比較をふくむ論考が掲載されています」ということです。
比較をふくむのではなく、はっきりと区別しているんですね。エルヴェ・セランが幻想芸術(ファンタスティック)、幻視芸術(ヴィジョネール)と書いています。--タバコはマーダー会話2017年11月27日 (月) 11:07 (UTC)[返信]

改名

Wikipedia:記事名の付け方には、日本語での正式名称、信頼できる情報源において最も一般的といった基準があります。日本語には上の節に挙げた書籍がありますし、ヴィジョナリーアートでは英語直ですし自己出版のようなものしか見つからず信頼性が低いという理由で、Wikipedia:ページの改名#改名前にすべきこと「明らかに、ページ名が記事名の付け方のガイドラインに沿っていないとき」におけるただちに改名ケースとして改名します。--タバコはマーダー会話2017年4月4日 (火) 07:07 (UTC)[返信]

「幻視芸術」も「幻想芸術」と比較すると国内では使用頻度が低い

幻視芸術は国語辞書にも掲載されておらず、Visionary Artの和訳を「幻視芸術」とすべきかどうか議論や同意がまだ確認されていません。Visionary Artは60年代にアメリカで使用され始めた英語であり、ある程度、対応する日本語が「幻想芸術」以外まだ存在しないため、現状ではカタカナ英語でヴィジョナリー・アートおよびビジョナリー・アートとするのが適切であると考えます。 日本国内において,Visionary Art=ヴィジョナリーアートという言葉を本来の意味で使用した美術館、展覧会は現実に存在しており、それは明確に60年代以降の芸術の動向を受け継いでいるものです。今の段階でVisionary Artを「幻視芸術」という使用頻度が極めて低い言葉に和訳することには慎重になるべきだと思います。 そもそもこのヴィジョナリーアートの記事は国外の芸術運動の動向を扱ったものであり、国際的に「幻視芸術」という言葉がほぼ皆無である以上、ヴィジョナリーアートという記事名に変更することを提案します。--以上の署名のないコメントは、Basicsur会話投稿記録)さんが 2017年4月20日14:31‎ に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:記事名の付け方に従っていません。そもそもWikipedia:独自研究は載せないが理解されていないように思います。
#ヴィジョナリーアートの呼び方は定着していない」にありますように、幻視芸術という言葉は使われています。ですが、ヴィジョナリー・アートという言葉は文献に見つけられませんでした。
信頼できる情報源ではないので、強い根拠とはできませんが。
  • 国際幻想芸術展-幻想と幻視芸術(Fantastic & Visionary art)」フライヤーに日本語が記載されている2011年の展覧会が開催されたことがあるようです。その解説文でも主が「幻視芸術」となり括弧して「ヴィジョナリーアート」とされている。これは国際的なものであり、専門家のコンセンサスと無関係とは言えないかと思います。
  • 「VISIONs-21世紀の幻視芸術展(Contemporary Visionary Art In The 21st Century)」という8名の画家の展覧会も2009年に開催されております。
  • 幻視-屋久島」という2009年の展覧会は、屋久島の精霊との対話を描いた4名の画家によるもので、幻視芸術を指しているものと思われます。言葉が使われているのであれば、こちらの方が日本語です。
「幻視芸術という言葉の使用頻度が極めて低い」ということを裏付ける資料などもまったく提示されておらず、「ヴィジョナリー・アート」という言葉を使った美術館・展覧会の存在は、当方による検索の上でまったく確認できません。「アウトサイダー・アート」のように、信頼できる情報源、そうでなくてもなんらかの資料にて、カタカナ語が頻用されていることが確認できないということです。--タバコはマーダー会話2017年4月21日 (金) 04:40 (UTC)[返信]

アウトサイダーアートには、幻視を芸術したものが含まれるということは確認できます。以下では Visionary が、空想・ファンタジーだとは確認できず、および、ヴィジョナリー・アートというカタカナ語だけの使用は確認できません。
  • 『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』 1993年10月。ISBN 978-4-473-01301-9
上記翻訳書は、ロサンゼルス・カウンティ・ミュージアムの展覧会の著作で、1993年に世田谷美術館がアウトサイダーアートの展覧会を開いたのに合わせて翻訳された著作です。ここでは例えば章のタイトルに「幻視的美術」が使われており、そして原著と照合すると Visionary Art の英単語が元です。
対応する日本語が幻想芸術だともちょっと確認できません。--タバコはマーダー会話2017年5月4日 (木) 05:08 (UTC)[返信]

省略(Basicsurさんが、動画検索で「ヴィジョナリーアート」の用語で検索できると述べましたが、Wikipedia:信頼できる情報源についての指摘が寄せられました―完全な議論

ヴィジョナリーアートに関する日本国内最初の論考

一部まとめ:完全な議論は「ヴィジョナリーアートに関する日本国内最初の論考

Basicsurさんが、mixi上のコミュニティを挙げ日本国内最初の論考として挙げましたが(2017年6月24日15:45 UTC)、タバコはマーダーさんが翌日、そのサイトは自己公表資料のガイドラインがあるので使えないこと、既に出典が上がっていることを返答しました。以下は続く議論から自己公表の議論を省いたものです。--タバコはマーダー会話2017年11月29日 (水) 07:03 (UTC)[返信]

「パラレル・ヴィジョン」はアウトサイダー・アートを扱ったものであり、別ページ項目であるアウトサイダー・アートが既に存在しておりそこで議論、編集すべきであると考えます。このページはアウトサイダー・アートとは峻別すべきである欧米のヴィジョナリーアート ムーブメントを扱ったものであり、日本語の幻視芸術および日本の幻視芸術家を説明するために設置されたものではありません。「パラレル・ヴィジョン」を論拠にするのであればアウトサイダー・アートのほうで自由に編集することを薦めます。--Basicsur会話2017年7月17日 (月) 16:31 (UTC)[返信]

「パラレル・ヴィジョン」展のカタログに幻視芸術という訳語を見つけることができません。幻視芸術を論考する資料としては脆弱なものです。「現代パリの幻想画家たち」のカタログには多数の幻視芸術という言葉があります。このカタログで意味している幻視芸術はアウトサイダー・アートではありません。ジェラール・ディマシオを中心としたパリの幻想画家達を意味する訳語として使用されています。--Basicsur会話2017年7月17日 (月) 16:31 (UTC)[返信]

Wikipedia:中立的な観点に従って、「パラレル・ヴィジョン」と「現代パリの幻想画家たち」はどちらかを絶対視しないでください。
#パラレルヴィジョン展の訳語に既に示しています。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 09:27 (UTC)[返信]

幻視芸術と和訳した人物が特定されていない

まとめ:完全な議論は「Visionary Artを幻視芸術と和訳した人物が特定されていない

Basicsurさんによる疑問は、Visionary Artの和訳を幻視芸術とすることは可能として、自己解決されたようです。「英語のVisionary art=ヴィジョナリーアートを国内で初めて幻視芸術と和訳した人物が誰なのか特定されていません」(2017年7月26日15:42 UTC)といった疑問が寄せられましたが、「リニューアルされたディマシオ 幻想美術館のホームページに写真が掲載されており、ディマシオ幻想美術館Di -Maccio Visionary Art Museum,The Forest Taiyoという英文がはっきりと刻まれています。(中略)Visionary Artの和訳を「幻視芸術」と見做して本ページを編集することは可能であると判断します」(2017年11月25日16:07 UTC)とされました。--タバコはマーダー会話2017年11月29日 (水) 06:33 (UTC)[返信]

幻視と幻想の区別が全く記載されておらず、日本語では同じ意味であるものが二つの記事に分裂している問題

日本語の辞書において幻想と幻視の意味は同じであり、「幻想芸術」の記事と「幻視芸術」の記事が併存している事態は矛盾、および同語反復であると思います。 言葉の本来の意味のほかに通常、慣習的に現実世界でどのような言葉が人々の間で交わされているかを念頭にいれて記事編集をすることを提案します。--Basicsur会話) 2017年6月25日 (日) 15:09 (UTC)——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月22日 (木) 14:52 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

まずWikipedia:独自研究は載せないを参照してください。独自研究を述べるのではなくて、そう述べている出典を探してください。
goo辞書で調べましたが、「幻視はないものが見えること」「幻想は現実にないことを描くこと」です。意味は違います。私は精神医学の文献も読んでいますが、幻視とは一般に視覚における幻覚であり、実際には存在しないけれど、本人にははっきりと見えているものです。典型的には草間彌生の作品なんかがそれに該当すると思います。上に示していますが、文献や実際の使用例でも幻覚における幻視をよく指しています。
幻想は、イメージしているだけであって、はっきりとまざまざと見えていないと思います。--タバコはマーダー会話2017年6月24日 (土) 13:02 (UTC)[返信]
草間弥生はアウトサイダー・アートにもヴィジョナリー・アートにも幻想美術にも属さない作家です。彼女はモダンアーティストでありインサイダー・アーティストであることは巨大な経済的支援の規模で明らかです。ドラッグによる幻覚や病的症例による幻覚なしにも芸術作品を産み出すノーマルな作家は多数存在します。幻視芸術=幻覚というレッテルを貼ることを避けるべきだと思います。--Basicsur会話2017年7月19日 (水) 15:37 (UTC)[返信]
再三案内しているWikipedia:独自研究は載せないを参照してください。日本のパラレル・ヴィジョン展では幻視者の芸術が含まれると紹介されており、#日本のアウトサイダー・アートに示しましたが該当するのは草間です。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 09:27 (UTC)[返信]
まずは我々の良識と常識、そして辞書が有効な出典

出典はまず我々自身の脳です。空が青いという事実に出典は必要でしょうか。「幻視はないものが見えること」「幻想は現実にないことを描くこと」どちらも無いものを有ると認知することであり同じ意味です。どちらも幻なのです。ところが visionary には明確な未来計画といった意味があります。fantasticにも素晴らしいという形容詞的意味があります。出典はすべて英語辞書、国語辞書で足ります。より言語に対して謙虚にのぞみたいものです。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:00 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

幻想と幻想絵画は違うものであり幻視と幻視芸術は違うものである

馬鹿真面目に言葉に拘ると見えなくなるものがあります。 印象主義芸術 と印象は違うものです。同様に幻視芸術と幻視は違います。芸術とは具体的に絵の具や粘土で活動するものであり、幻視があって作品になることもあれば幻視がなくても結果的に幻視っぽい作品になることもあります。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:25‎ に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:ノートページのガイドラインの「個人的な見解を開陳する演壇として用いられるべきではありません」をご理解ください。個人的な主張の議論を目的としたサイトではありませんので、典型的には出版された信頼できる出典を元に、そこからかけ離れた空想ではなく、忠実にどのように記述するのか議論していただきたいと思います。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 04:14 (UTC)[返信]
タバコはマーダーさん自体が個人的見解を展開しています。--Basicsur会話2017年7月17日 (月) 17:00 (UTC)[返信]
幻視芸術という言葉が国内で一般的であれば幻視芸術家も日本に存在するはずである(次のBasicsur氏の返信後ですが話題が分散しているのでここに纏めさせて戴きました

日本には幻視芸術家と名のる人物は一人も居ないはずです。幻視芸術家は日本国内では誰が居るでしょうか。ゼロです。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:48 に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

以下のような出版物があります。
  • 『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』 1993年10月。ISBN 978-4-473-01301-9
上記出典には既に示したところですが、Visionary artについて言及されています。これが翻訳されたときの世田谷美術館での「パラレル・ヴィジョン」展があります。
  • そのパラレル・ヴィジョン展資料、『日本のアウトサイダー・アート パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』という展覧会資料があります。
まえがきにあたる「あいさつ」は世田谷美術館と朝日新聞社が筆者となって書かれており、ひとつの文章に「精神に障害を負う人々や霊的能力に優れた幻視者たちの作品」と書かれており、これは英文も併記されていますが、幻視者にあたると思われる部分は visionaries の単語が使われています。30-31頁に8人の作者が紹介されていますが、山下清では知的障害でしょうし、そういう風に見ていくと、ここで紹介されている「幻視者」に該当しそうなのは、水玉模様の幻覚を見たと書かれる草間彌生ですし、12ページの紹介でも幻影にさいなまされたエピソードと、続いて草間へのインタビューで、絵を描きはじめたの経緯として、こうした映像が見え始めるとスケッチブックに移しはじめたとありますから。自称ではなく、他称での幻視者の作品だと認識されているということです。24年前の資料ですね。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 03:47 (UTC)ここまで、Basicsur氏の返信後ですが話題が分散しているのでここに纏めさせて戴きました[返信]

すみません。ウィキペディアをだいぶ離れていたので、返信の仕方に疎くなっていました。

巌谷 國士の「シュルレアリスムとは何か」の175ページにフランス絵画の一派が使用するヴィジョネールという概念が紹介されています。1994年に国内で開催された展覧会「現代パリの幻想画家たち」のカタログではこのヴィジョネールという言葉が幻視芸術と訳され幻想芸術との比較をふくむ論考が掲載されています。おそらくこれが「幻視芸術」という言葉が国内で公になった古い例の一つではないでしょうか。カタログの中で画商のエルヴェ・セランは幻視芸術あるいは幻視絵画の特徴を三つ出しています。

1 霊的な奥行き 2無時間性 3完璧な技法

Visionary Artの 英語版 ウィキペディアの記述でも「霊的な」Spiritual という言葉があったと思います。幻視芸術の説明に「霊的」という言葉があっても良いのではないでしょうか。

カタログにおける巌谷 國士の文章を要約すると「幻想芸術」はそもそもファンタスティック・アートの訳としては不適切としながら、1979年に出版されたミシェル・ランドンの『ヴィジョネール美術』を引用し幻想芸術と幻視芸術との違いを紹介しています。重要な資料ですが、もし『現代パリの幻想画家たち』が手に入りにくければ 資料をそちらへ送る手段もあります。

「伝統的な美術の外側であるアウトサイダー・アートの定義と同様にして、幻視に由来するものであり、精神障害から幻視者までを含む[1][4]。または幻想芸術を指していることもある。」

形容詞として幻視的、幻想的としたときに本来の外国語の意味が出てくるので、幻視も幻想も日本語の名詞としてはポジティブな意味がそれほどありません。説明文では的を使用し、幻視芸術という言葉においては幻視が形容詞的に使われているという含みの自覚が必要かもしれません。さらにそれらが外国語の翻訳であるという記述が必要です。

改善案として、伝統芸術の外にアウトサイダー・アートが位置づけられているという記述はどうしても納得できません。フォーマル、公式という意味は教育を含んでおり、教育の外がアウトサイダーであるとするほうが自然だと思います。日本の美術教育は伝統的なデッサンを重要視しており欧米の美術教育は技術よりも現代的なコンセプトを重視しています。欧米の美術教育は伝統的ではないと聞いています。 アウトサイダー・アートを伝統芸術の外側にしようとするなら、日本には適合しますが欧米には合いません。欧米の美術教育はそもそも伝統芸術の外側に出ようとして展開してきたからです。考案した定義は以下のものです。

「幻視芸術とはフランス語のラール・ヴィジョネール および英語のヴィジョナリー・アートの和訳である。公式な美術教育の外側で展開されているアウトサイダー・アートもまた幻視的要素を含むものであり、精神障害者が造り出す芸術や幻視的能力を持った芸術家の作品まで幻視芸術と呼ぶことができる。またファンタスティック・アートの和訳としての幻想芸術を指すこともあれば、違うものとして比較されることもある。」    より良い定義についてご意見を伺いたいと思います。

『現代パリの幻想画家たち』中の重要な幻視芸術家として ジェラール・ディマシオがいますが、彼の美術館が北海道に存在しアルファベットのVisionary Artが表看板に使用されています。さらにカタカナのヴィジョナリーアートを使用した国内最初のグループ展が2009年に銀座のギャラリー アートポイントで開催されていたことはすでに御存知だと思います。Basicsur会話2017年6月25日 (日) 15:09 (UTC)  [返信]

ぐちゃぐちゃに議論するのではなく議論しやすい形にしていただけますと助かります。どの文章表現に対して、どういう裏付けをもとに、どう表現した方がよいのか、このように絞って書かれることを望みます。あまり独自研究に脱線させてほしくはありません。その際にWikipedia:信頼できる情報源を参照し、単なる個人ブログなどは、個人的な経験など、基本的に信頼できる情報ではないとして除外されるものと考えてください。
幻想芸術と幻視芸術との違いがないような主張から、一転して区別しだしておられますが、区別がついたなら議論を終了してください。つまり、1994年「現代パリの幻想画家たち」資料で、「ヴィジョネール」が「幻視芸術」と訳され、幻想芸術と比較されている(むしろ、どう比較されているんでしょうか)。その展示会での、重要な「幻視芸術家」として(「幻視芸術家」として認知されている?)、ジェラール・ディマシオがおり、北海道に存在しアルファベットのVisionary Artが看板に使用されている(信頼できる情報源ではない)。ヴィジョネールという概念が紹介されている(どのように?区別がされているということですけど)。「霊的」という言葉があってもよいのでは(なぜ?新たな議論の追加)。
幻視芸術、幻視的芸術などで資料に確認がとれていますね。Wikipedia:記事名の付け方Wikipedia:信頼できる情報源を参照してください。
アウトサイダー・アートについては、資料に基づいて改定すべきであり、延々と独自研究の議論をしたくはありません。「公式な美術教育の外側」でもいいんですが。ウィキペディアは、「日本の美術教育は」といった持論や「と聞いています」という不確かな情報を反映させるものではないです。
「○○とは、何語の和約である」これは定義になってないですね。説明になっておらず、言葉の意味がわからないです。こういう書き方は一般的でないです。Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)を参照してください。
  1. 霊的な Spiritual をどう解釈されているのか分かりませんが、そちらの言うものは現在既にすべて含まれており、あなたの言うスタイルマニュアルにない「定義の仕方」、独自研究・伝聞的な「公式」などの表現の仕方に議論の焦点があります。
  2. 霊性の領域の幻視(ウィリアム・ブレイクの様な啓示、観想の眼、通常の知覚を超越した、またはサイケデリックやシャーマニズムであり、宗教学、神学などに近いですね)アレックス・グレイからのものでしょう。
  3. 病的な領域の幻視(精神障害、上を厳密に区別すると霊的ではない)アウトサイダー・アートとしての『パラレルヴィジョン展』
  4. 幻想芸術と区別のない用法(俗な言葉の用法、ファンタジーですね)ただ幻視芸術を含んで区別しているようである『幻想芸術展』
確認をお願いします。
  • Wikipedia:信頼できる情報源とは、出版された書籍・論文が優先され、名もなき個人のブログや個人の経験は除外されることを理解した(はい・いいえ)
  • 幻視芸術、幻視的芸術のような「幻視」を含む訳語は信頼できる資料に登場するようだと認識できているか。(はい・いいえ)
  • Wikipedia:記事名の付け方において、信頼できる資料によく使われ、また日本語の正式名称が記事名としてふさわしいと理解した(はい・いいえ)
  • ヴィジョナリー・アートという表現は、まだ上の意味での信頼できる資料が元となっておらず、また確認できても少数派の表現だろう(はい・いいえ)
  • Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)にて、原語など別名が定義として説明されることは一般的でないことを確認した(はい・いいえ)
--タバコはマーダー会話2017年6月26日 (月) 02:23 (UTC)[返信]
  1. 出版とはpublishのことでありネット上の情報公開も含むと捉えるなら、独自研究よりも事実の出版情報のほうがはるかに信頼できるのは当然です。
  2. 幻視芸術の訳語の根拠は否定され拒否されている状態です。
  3. ヴィジョナリーアートは欧米の口語、Visionary Artをローマ字読みしたものであり、欧米において膨大な口語が存在している以上それを否定する資料は存在してません。そして国際的には多数派であることは疑いえない事実です。
  4. についてはより説明を求めます。「幻視芸術」は国内では一般的ではありません。誰がその訳語を承認し国内で一般化したのかが不明です。内容が正しければ認めますが。信頼に足る資料が明示されていません。こちらで明示しても拒否される状況です。--Basicsur会話2017年7月17日 (月) 17:00 (UTC)[返信]
タバコはマーダーさんの日本語を何度も読んでも理解できず、こちらの日本語も理解されないことがこちらで確認できましたので、以後このページに情報提供することを当分、停止することに決めました。
編集ごくろうさまです。頑張ってください。できれば幻視芸術そのものを鑑賞し体感し言葉にし、芸術鑑識の向上に役立つページになるよう期待してこの場を去ります。後はよろしくお願いします--Basicsur会話2017年6月26日 (月) 14:40 (UTC)[返信]
>巌谷 國士の「シュルレアリスムとは何か」の175ページにフランス絵画の一派が使用するヴィジョネールという概念が紹介されています。
上記のBasicsur氏の主張についてです。
巌谷國士の『シュルレアリスムとは何か』は1996年の最初に出版された方を参照しましたが、幻想と訳されることがあるファンタスティックの原語の語感について奇妙なものが現れるとかそういう意味だと述べた後に、
141ページに2、3行程度で、「ヴィジョネール(幻視)〔ママ〕」という、見えないものを見るという新たな傾向の芸術があると説明しているのみです。
そもそも幻視と幻想の区別がついていますし、2行程度のこの説明では他に資料がある状態では記事本文には使えないレベルだと判断します。--タバコはマーダー会話2017年6月26日 (月) 23:28 (UTC)[返信]
二行とはいえ、それが示唆したカタログ自体には巌谷さん自身の長大な文章が寄せられています。重要な資料を無視しないほうが良いと思います。--Basicsur会話2017年7月17日 (月) 17:00 (UTC)[返信]
幻視芸術と幻想芸術の言葉の区別は国内ではほとんど問題になっていません。その価値観の差はほぼ同じです。「現代パリの幻想画家たち」ではvisionary かfantasticかというつまり国外問題の和訳として国内で顕在化しているのです。国内で日本語の幻視芸術と幻想芸術の違いが問題になったことがない以上両者はほぼ同語となります。つまり外国語の訳語であるという前提が必要なのです。
国内においてもっとも普及し汎用される言葉は「幻想美術」であると考えます。幻想美術という項目がトップにあれば、幻視芸術や幻想絵画やカタカナのヴィジョナリーアートやアウトサイダーアートや江戸時代の奇想の画家や、アメリカのローブローアート、ヨーロッパのシュルレアリスム、マニエリスムなど、包括的に扱うことができます。日本人が「幻想美術」と呼んでいるものは世界ではどのように扱われているのか、という包括的な視点を提供できると思います。論争を回避できると思います。しかしそれには多大な労力が必要で、今後の野心的な執筆者に期待したいところです。多くの人々がこのページに意見を投ずることを願います。いずれは現存している「幻想絵画」というページと「幻視芸術」というページが一本化されることが理想であると考えます。--Basicsur会話2017年7月22日 (土) 15:41 (UTC)[返信]

タバコはマーダーさんの日本語は独特であり解読に骨がおれるので分かりやすい日本語でお願いします。解釈と翻訳を試みます。

>霊的な Spiritual をどう解釈されているのか分かりませんが、そちらの言うものは現在既にすべて含まれており、あなたの言うスタイルマニュアルにない「定義の仕方」、独自研究・伝聞的な「公式」などの表現の仕方に議論の焦点があります。

  1. 霊性の領域の幻視(ウィリアム・ブレイクの様な啓示、観想の眼、通常の知覚を超越した、またはサイケデリックやシャーマニズムであり、宗教学、神学などに近いですね)アレックス・グレイからのものでしょう。
  2. 病的な領域の幻視(精神障害、上を厳密に区別すると霊的ではない)アウトサイダー・アートとしての『パラレルヴィジョン展』
  3. 幻想芸術と区別のない用法(俗な言葉の用法、ファンタジーですね)ただ幻視芸術を含んで区別しているようである『幻想芸術展』

・あなたがSpiritualという英語をどう解釈しているのかが分かりません。あなたが言う霊的という概念は今のところ私が書いた記述に既に含まれているのでさらなる提案は不要です。あなたの記述の仕方はウィキペディアのルールである独自研究や伝聞的な内容を避けることに抵触しており、これが今の中心議題です。公式、フォーマルを「伝統的な美術」に置き換えるべきだという提言はルール違反だと思うのです。」

こんな解釈でよろしいでしょうか。

一行目を、かろうじてこのように解読しました。なるべく分かりやすい日本語で書いていただければさらにウィキペディアのルールにも合致してくると思います。よろしくお願いします。いろいろ事情がおありと思います。時間不足、疲労など。二行目以降はギブアップしましたすいません。

それでも頑張って翻訳します。

・霊的な世界を幻視したのはウィリアム・ブレイクであり、彼を参照していれば霊的という意味は含まれることになります。これは宗教学や神学も含んでいますから。さらにアレックス・グレイも霊的ということを重視しており彼の画像や記事がある以上、霊的という意味はすでに含まれています。

・さらに病的な世界の幻視、たとえば精神障害による幻などは厳密には霊的ではないです。(「上」は何を意味するのでしょうか?)アウトサイダー・アートを扱った『パラレルヴィジョン展』は霊的ではありません。

・幻想芸術と同一視される、いわゆるファンタジーは、幻視芸術の意味を含みつつ区別している内容が『幻想芸術展』にあることを確認しました。

はなはだ心もとない解釈ですが、違っていたら教えてください。--Basicsur会話2017年7月23日 (日) 15:49 (UTC)[返信]

この記事内で話題になった太陽の森 ディマシオ美術館ですが、http://dimaccio-museum.jp/ ホームページの英語バージョンのトップにVisionary Artという英語は現在使用されていませんでした。前言を訂正します。いずれにせよ、ヴィジョナリーアートおよび幻視芸術を代表する作家なのでここで扱う意義はあると思います。--Basicsur会話2017年7月28日 (金) 13:55 (UTC)[返信]
最初の1234について。
そもそもあなたは、『「幻視はないものが見えること」「幻想は現実にないことを描くこと」』どちらも無いものを有ると認知することであり同じ意味です』と、出典で異なっているのに、あなたが同じだと言い張っている状態で。さらに「1994年に国内で開催された展覧会「現代パリの幻想画家たち」のカタログではこのヴィジョネールという言葉が幻視芸術と訳され幻想芸術との比較をふくむ論考が掲載されています」と比較されている、区別されていることを認識しているじゃないですか。
>二行とはいえ、それが示唆したカタログ自体には巌谷さん自身の長大な文章が寄せられています。重要な資料を無視しないほうが良いと思います。
誰も無視しておりません。巌谷國士の『シュルレアリスムとは何か』は2、3行しか言及がないので「ヴィジョネール(幻視)〔原文ママ〕という、見えないものを見るという新たな傾向の芸術がある」としてしか書けませんし、これは具体性が薄いので書く必要はないと思いますね。
>幻視芸術と幻想芸術の言葉の区別は国内ではほとんど問題になっていません。
当方は出典の通りに書いているだけですので、そうした解釈が生じているのであれば出典をご用意くださったうえで、独自研究の開陳をお控えください。

解釈は合っております。おそらくあなたは「霊」という言葉を独自研究で使っていたのかもしれませんが、当方は既に紹介している『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術』(Sacred Mirrors : The Visionary Art of Alex Gray, 1990)とか、『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』1993年10月、ISBN 978-4-473-01301-9)に基づいてです。独自研究は反映できません。
  1. 『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術』では、「静観(contemplation)の目、霊的、超越的な世界を明らかにする目」について魂と霊の世界を露わにする目について言及し、「神秘的で幻視的(visionary)な絵画」について言及しています。瞑想や苦行によって到達できるとしています。
  2. 『パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート』では、「精神障害者の美術と独学の幻視者による美術―まとめて言うならば強迫的幻視者の美術〔ママ〕」(あいさつより)についてですし、「序文」にあるようにその前に同美術館で「芸術における霊的なもの」展が開催されていますからそこでは「神秘」「霊性」「神秘主義者」に焦点が当てられたが、今回のパラ展では強迫的幻視者の美術、時に精神障害を持っているということで、パラ展で焦点としている幻視的美術は霊性よりも精神障害に焦点を当てたものだと解釈できます。上は1を意味しますが。
  3. あなたが『幻想芸術展』においては、幻視芸術と幻想芸術は区別があまりないとおっしゃるなら、そうした定義も存在するのでしょう。
ディマシオについては、「幻視芸術を代表する作家なのでここで扱う意義はある」と表現されており、Wikipedia:大言壮語をしないを参照くださった上で、出典での表現などについてご確認下さい。当方の見た資料には登場しませんでした。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 09:27 (UTC)[返信]
『現代パリの幻想画家たち』では、全3人の筆者の論考があり幻想芸術と幻視芸術を区別しており、p140のインタビューでも幻視画家と幻想画家の会合などと区別されており、幻視と幻想が違いがないといった主張は出典に確認が取れませんでした。巌谷國士もウィリアムブレイクに言及し、幻視では宗教画としての長い歴史があるとし、他の2人も宗教に言及がありました。そして幻視を反映した作品であることも確認が取れました。
エルヴェ・セランは、幻視的作品を幻想的な作品やシュールレアリスムの作品やサイエンスフィクションから区別することができない者から、安易に幻想芸術と混同されている(言いたいことは本来は異なるということでしょう)と述べている。吉村良夫は幻想美術の基盤が不十分なフランスなので、こうした(幻視の)画家に注目が集まったという趣旨です。--タバコはマーダー会話2017年8月11日 (金) 10:20 (UTC)[返信]

「伝統芸術」という言葉の曖昧性

「伝統芸術」が何を指すのかが曖昧なまま幻視芸術およびアウトサイダーアートの定義に用いられています。検討を提案します。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月22日 (木) 15:14 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。[返信]

伝統芸術という言葉は使用されていませんが、本文では正式な訓練がなかったという文章に続きますし、アウトサイダー・アートの記事でも私が編集したのでもなく以前からそのような感じであり、定義はおかしなものではないと思われます。--タバコはマーダー会話2017年6月24日 (土) 13:02 (UTC)[返信]
伝統芸術は国によって意味が違う

まず言うまでもない常識に照らせば、欧米の伝統芸術は具象美術であり、それを破壊したのがアメリカの抽象的現代美術です。現代美術はアメリカによってメジャーになりその外側にアウトサイダーアートがあります。 伝統芸術の外側にアウトサイダーアートがあるという表現は正確ではありません。「伝統」よりも「公式」という言葉が妥当だと思います。「定義はおかしなものではないと思われます。」とありますが物凄く変です気付いてください。 そのために出典を要求しないでください。常識だからです。もっと勉強してください。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:08 に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ノートページのガイドラインの「個人的な見解を開陳する演壇として用いられるべきではありません」をご理解ください。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 04:14 (UTC)[返信]
あなたは、幻視芸術(2010年4月26日08:54)にて、引用していますが、以下の出典にも引用記述があり同一の文章を元としているかと思います。
この文章では、traditional fine art system とあり、traditional 伝統ですね、formal とかではないですね。
アウトサイダー・アートでも、当方が編集したのではないですが、伝統の用語が使われていますよね。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 05:11 (UTC)[返信]

ここには非常に興味深い問題が含まれています。たしかにアウトサイダーアートは伝統的なファインアート システムの外にありますが、伝統的なファインアートを引継ごうとしていたウィーン幻想派はなぜアウトサイダーアートとは別物でありなおかつ欧米でVisionary Artと呼ばれているのでしょうか。簡単には結論がでない問題です。伝統的なファインアートとは欧米ではセザンヌや印象派以降のつまり教科書にのっているような美術史の流れを形成するものです。アメリカのみならずヨーロッパでも伝統を破壊する流れが伝統になってきたというシステムなわけです。

これらをふまえると、アウトサイダーアートは伝統美術の外、とは簡単には言えません。もっと言葉を尽くさないと説明できない問題なのです。「伝統の外がアウトサイダー」という表現に危険を感じたのはそういう意味です。--Basicsur会話2017年7月22日 (土) 16:23 (UTC)[返信]

traditional fine art systemを「伝統的な美術」と訳すことには大きな問題があります。traditionalはfine art systemを修飾しているのでありfine art systemとはfine art を流通させ宣伝させ価値を与える 欧米に広く行き渡っているsystem、それは教育、美術館、美術批評、出版、画廊、もろもろの社会システムのことであると思います。日本語で一般的に連想させる美術や工芸のことではないのです。 さらにここでのtraditionalとは国や民族の一部としての伝統料理や伝統音楽を意味するときの用法ではなく、英英辞書における2番目の意味、following ideas and methods that have existed for a long time, rather than doing anything new or different (=conventional) つまりconventional,因習的、型にはまったという言葉と同意語なのです。意訳は難しいですが、traditional fine art systemとはファイン アートのみに拘りその他のものを受け入れない芸術界の仕組み、システム、といったものとして解釈すべきだと思います。

さらに重大な問題があります。アウトサイダーと方向性を異にするウィーン幻想派とそれを引継ぐヴィジョナリーアート(ここで言う幻視芸術)もまたtraditional fine art systemの外側にあるのです。ローブローアートLowbraw Artも外側にあります。

したがって、より事実に近い記述をすると 幻視芸術もアウトサイダーアートも因習的なファインアート システムの外側にある、というような表現にならざるをえず、「伝統美術の外」という言い方では両者の区別が定義づけられていないことになります。

ファインアートとその外側の問題に関しては、キッチュという概念もあります。'KITCH MORE THAN ART'という英文の本を リアリズムの画家、オッド・ネルドルムが出版しており国内でも入手できますが、これらの情報に眼を通すと、キッチュもまたtraditional fine art systemの外側にある典型的な美術用語であることが見えてきます。アウトサイダー アート以外にもtraditional fine art systemに受け入れられない価値観、分野が多くあることが見えてきます。外に弾かれる美術の特徴はリアリズムであり具象であるということです。この具象芸術の危機とも呼べるような問題は国内ではなかなかピンときません。定義の改善を応援したいと思います。非常に時間のかかる作業になるはずです。

たとえば蔑称として「イラストレーション」と言う場合、これもtraditional fine art systemの価値に組しないという意味になるでしょう。

さらに不思議なのはアウトサイダーアートばかりが現代美術メディアで日本でも欧米でも取り上げられるということです。ひょっとするとアウトサイダーアートはもはやtraditional fine art systemの内側に取り込まれたのかもしれません。--Basicsur会話2017年7月23日 (日) 13:58 (UTC)[返信]

因習的でもいいんじゃないですかね。出典が提示されない独自研究の開陳は不要ですので、とりあえずあなたが使っている言葉である「因習」に変更します。アウトサイダーアートに関するそのような論考は既にいくつか論文になっていますので、Wikipediaであなたのお考えを公表することはお控えください。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 09:27 (UTC)[返信]
こんにちは、タバコはマーダーさん。traditional fine art system の訳が「伝統的な美術」から「因習的な美術」へ変更されたことを見て、とても嬉しいです。雪解けの春のような気分です。意見が一つでも通ることは素晴らしいことです。「因習的」という言葉はほんとはまだ適確ではないのですが、少しでも意見を受け入れてもらったことに感謝します。では、削除依頼審議が上手くいくことを願います。--Basicsur会話2017年7月31日 (月) 16:00 (UTC) (以上のコメントは、タバコはマーダー会話)による節の移動を経たものです)[返信]
その後、文献にあたっていましたが、伝統の訳で問題がないですね。因習の訳はみられず独自研究ではよくありません。
  • Kyoichi Tsuzuki編『ArT RANDOM 50巻 Outsider Art from the Outsider Archive, London』京都書院、1989年。ISBN 4-7636-8538-4 の「history or the tradition of fine art」に対応する「美術の歴史も伝統も」の翻訳。
  • ヴェラ・L.ゾルバーグ、ジョニ・マーヤ・チャーボ「アウトサイダー・アートの社会学」『Collage』第2号、1999年4月、20-23頁。  繰り返される「伝統的な芸術の営み」の訳語。
  • デイヴィド・マクラガン 著、松田和也 訳『アウトサイダー・アート―芸術のはじまる場所』青土社、2011年。ISBN 978-4-7917-6593-5 の繰り返される「伝統」の言葉の使用、特にp66の「伝統的かつ学術的な芸術」の訳語。
--タバコはマーダー会話2017年8月11日 (金) 08:27 (UTC)[返信]

Basicsur氏が、要約欄に参考をあげ、「トラディッショナル ファインアートは伝統的美術のことではありません」と述べて、「伝統的な美術」を「保守的なファインアート」に訳し変えましたが、英語の文献であり訳の参考になりません。説明をお願いします。--タバコはマーダー会話2017年11月29日 (水) 05:33 (UTC)[返信]

Visionary という英語は幻視や幻覚を意味していない

Visionary の英英辞書の定義は以下の二つです。

 訳はこちらでしました。

「幻視」の辞書定義は

これだけです。どの辞書を見ても「幻覚の一つ」という定義しか見つかりません。

幻覚の英語はhallucinationであり、この単語がVisionary art を語る上で全面的に強調された例を見つけたことがありません。

ビジョナリー・ビジネスという言葉が国内にありますが、Visionaryには 病的症例としての幻覚、幻聴、幻視、といった意味はありません。ポジティブな意味合いしかないため好まれて使用されているのではないでしょうか。

幻視芸術がVisionary Artの和訳であり、用語、タームとして使用されるのは仕方がないことですが、芸術と切り離された単なる「幻視」は国語辞書の定義に倣うべきです。辞書定義を逸脱した使用は 好みで言葉選びをする文学やエッセーであれば可能だとしても、ここでは慎重になるべきです。幻視を幻覚の一つとして解釈し、ノートに確認できる、草間弥生の芸術も幻視芸術に該当するという意見は完全な誤解に基づいています。

よって 「幻視芸術とは幻視で見たこと、あるいはそれを基とした芸術である」という一節は定義として採用されるべきではありません。間違っています。

さらに注意しなくてはならないのは、芸術ジャンルの呼称から芸術の本質を推測するのは危険だということです。 キュビスムはキューブに基づく芸術である、立体派は立体に基づく芸術であると解釈するような愚を犯しかねないのです。独自研究を避けるための処方として意見提示します。--Basicsur会話) 2017年7月26日 (水) 16:14 (UTC)--Basicsur会話2017年7月26日 (水) 14:50 (UTC)[返信]


いちおう、英和辞書の定義も出しておきます。辞書は誰でも見ることができ、いちいち辞書定義をここで確認するのはナンセンスなのですが、辞書の無視、および曲解の状態が眼に余るので仕方なく提示します。

形容詞 

  1.  (人が)先見の明がある、予見力がある
  2.  (人が)空想にふける、思弁的な
  3. (計画、考えなどが)非現実的な、実行不可能な、観念的な、架空の、
  4. (物・事が)幻の(ような)幻想的な

名詞

  1. 先見性がある人、空想家、夢想家、
  2. 幻を見る人、神秘家

英語が日本語体系に入って来ると、意味の数が変わるのは当然ですが、「幻」という一字の場合、「幻の名馬」という言い方のように存在を疑うような珍しいものという用法もあります。

とにかく英英辞書の定義に遡ると、Visionary Artを幻想芸術と訳しても間違いではなく、むしろ幻覚と関連づけされ誤解を生む幻視芸術よりもベターなのではないかと思えてきます。---Basicsur会話2017年7月31日 (月) 02:17 (UTC)[返信]

既に出典が上がっていますので、#ヴィジョナリーアートの呼び方は定着していない#「幻視芸術」も「幻想芸術」と比較すると国内では使用頻度が低いをもう一度確認の上、再三案内しているWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ノートページのガイドラインの「個人的な見解を開陳する演壇として用いられるべきではありません」をご理解ください。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 10:14 (UTC)[返信]
Basicsur氏の発言の辞書の転載部分を除去しWikipedia:削除依頼/ノート:幻視芸術を提出しました。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 12:27 (UTC)[返信]
ここでもタバコはマーダーさんは勝手にVisionaryの英英辞書定義を削除しています。削除しても全ての人が辞書を読めるのですから無駄なあがきです。間違いを認めてこそ成長があります。--Basicsur会話2017年7月31日 (月) 17:42 (UTC)[返信]

ヴィジョンには視覚的にも見えるものがあります

ヴィジョンが「見えない」というのは違うでしょう。『現代パリの幻想画家たち』をよく読んでください。まず幻視的光景がヴィジョンの訳語ですね。p152を見てください、ランデにとって、映画のフラッシュのようにひらめき、ランデは見たし、その幻視的光景を模写したと説明しています。『聖なる鏡』p12でも、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン#ヒルデガルトの幻視体験についてが自らのヴィジョンを図示・彩色したとあります。幻覚剤を用いたパブロ・アマリンゴなどは、幻覚というヴィジョンをキャンバスに描いています。当人には見えているものです。例えば、夢は、視覚ではありませんが鮮明に見えていますが、カルアナの説明はdreamという言葉を使っていますから、この例えでおかしくないでしょう。パブロ・アマリンゴなどは、視覚が変容していることはハクスリーの『知覚の扉』を参照すれば想像可能で、特に朝日出版社版の『知覚の扉』には、LSDを使用した日本人画家の絵が挿絵にありますから分かりやすいです。--タバコはマーダー会話2017年11月27日 (月) 22:52 (UTC)[返信]

定義とは定まった義理のためではない、コミュニケーションをするための明確な指標を模索するものである

日本人でウィキペディアにのめりこむタイプが居るとするならdefineを定義と捉え、定まった義理と解釈する場合があると思います。なぜ定義が必要かというと人々が言葉の意味を明確にしコミュニケーションをするためであって、その目的のためにウィキの定義編集は存在すると思います。——以上の署名の無いコメントは、Basicsurノート履歴)さんが 2017年6月24日 (土) 16:40 に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Wikipedia:独自研究は載せないを参照してください。出典に確認のできない定義は、それは独自研究です。--タバコはマーダー会話2017年6月25日 (日) 03:47 (UTC)[返信]
議論は再開しました。しばらく停止した理由は、タバコはマーダーさんに考える時間を提供する必要があると判断したからです。物凄く難しい問題をこのヴィジョナリーアートおよび幻視芸術ページは扱っています。再開した議論に関しても回答は早急に求めません。何年かかってもいいのでじっくり考えて返答してください。どういう意図であれ、このテーマに関心をもった執筆者に対して一貫して深い敬意を払うつもりです。--Basicsur会話2017年7月23日 (日) 16:16 (UTC)[返信]

定義の問題

「観想の眼」というケン・ウィルバーの造語が幻視芸術の定義に使われている問題

定義にある「観想の眼」の出典が明記されておらず、ケン・ウィルバーの造語であることを特定しました。何を意味するのか分からないので書籍で確認したところ、『統合心理学への道』というやたら分厚い本の130ページにいくらか説明がのっています。簡単に言うと、西洋において特徴的な二元論的な矛盾の統合は「観想の眼」なるものを開けば解決されるというのですが、何が正しく何が間違っているのかをほとんど指摘できないような、分析されること回避するかのような、ややこしい構造の文章と用語が並んでいます。しかも英語の原文が入手できないので「観想の眼」がそもそも何なのかが和訳の書籍によっても確認できませんでした。  幻視芸術という一般には耳慣れない言葉の説明のためにさらに理解困難な「観想の眼」を使用することには問題があります。「観想の眼」の定義がさらに必要となり、しかもケン・ウィルバー本人の文章の和訳は理解し難い抽象的なものです。トランス・パーソナル心理学やニューエイジのような真偽の判断がつかない思想問題と関連させると、我々の手にあまる作業になるはずです。思想よりも実際に産み出された客観的な芸術作品そのものの取り扱いを記事にするほうが穏当であると思います。--Basicsur会話2017年7月28日 (金) 13:40 (UTC)[返信]

ページ上の出典リンクを確認しました。「観想の眼」の英語はeye of the soulのようですが、いずれにせよ日本の利用者にとっては不親切な語彙になると思います。アメリカの思想から距離をおくロシア正教会に属するヴィジョナリー・アーティスト、オレグ・コロレブのような存在など考慮すると、アメリカの思想だけでは全てをカバーできないのが今日のヴィジョナリー・アートムーブメントだと思います。--Basicsur会話2017年7月28日 (金) 16:35 (UTC)[返信]

英語はeye of the soulではなく、eye of the contemplationですね。そのサイトの著者はDrinking Lightning: Art, Creativity and Transformationの著者であり、サイトでもケン・ウィルバーを引用しており、#定義に示した通り『聖なる鏡―アレックス・グレイの幻視的芸術』の書籍に登場する「静観(contemplation)の目」と矛盾しませんし、定訳は観想の眼かと。つまり、この手の絵画の解釈にあたって、ケン・ウィルバーの理論はその2つの著作で扱われているので重要ですし出典があることになります。独自研究を理由に除外される情報とはならないでしょう。
観想の言葉は、仏教や哲学で使われますので造語ではないです。観想の目となるとウィルバーの言い回しかもしれませんが。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 10:14 (UTC)[返信]
ヴィクトル・I・ストイキツァ 著、松井美智子 訳『幻視絵画の詩学』三元社、2009年。ISBN 978-4-88303-237-2 
以上に登場するように、「観想」は神学的な絵画の歴史に関わる重要な語であり問題はないと思います。静観よりは観想の語が一般的です。--タバコはマーダー会話2017年8月11日 (金) 09:24 (UTC)[返信]

『パラレル・ヴィジョン』には「幻視芸術」という日本語の用語が一つも無いという致命的問題 と 資料記事を曲解する問題

333ページある『パラレル・ヴィジョン』を全ページ精査してみました。取りこぼした部分はあるかもしれませんが、用語、タームであるのかどうかに気をつけますと「幻視芸術」という用語は見つけることができません。もっとも近いのは「幻視的芸術」および「幻視的芸術家」がそれぞれ一つだけです。しかし、これらはタームの実例ではありません。「幻視」に関してもっとも頻用度があるのが「強迫的幻視者」というもので全体で14回ほど使用されていますが、これもタームではありません。タームであるのはアールブリュットおよびアウトサイダー・アートあるいはシュルレアリスムであり、300ページに幻想芸術というタームが5回でてきますが、これはニューヨーク近代美術館で開催された「幻想芸術,ダダ,シュルレアリスム」という名称の展覧会の略称であり、アウトサイダー・アートのことを意味しているのではありません。  この精査作業を通して確認できたのは、「幻視芸術」という日本語の用語がアウトサイダー・アートを意味した例はなく、あるとしても見つけるのが難しいほど全面的には使用されていないということです。日本語の幻視芸術はアウトサイダー・アートを意味していないことを証明する書籍として『パラレル・ヴィジョン』は役に立っています。

 しかしパラレル・ヴィジョン展が開催されたのは1992年であり、かなりの歳月がたっているため、インターネット上で幻視芸術とアウトサイダーアートを関連させた記事を検索してみると、なんと!このウィキペディア記事しか無いのです。国内にほとんど皆無な解釈、「幻視芸術=アウトサイダー・アート」がウィキ内のみにある事態を見過ごして良いのでしょうか。  『パラレル・ヴィジョン』を精査したことで以下の記事の問題も発見しました。


1972年にアウトサイダー・アートという言葉を用いて、(主に障害者の作品を集めたデュビュッフェの提唱した)それまでのアール・ブリュットを定義しなおしたロジャー・カーディナル(英語版)は、後に適語を探した時のことに言及しており、アウトサイダー・アート、フォーク・アート、ヴィジョナリー・アート(『パラレル・ヴィジョン』訳書では「幻視する美術」に読みとしてふられている)などこれまで用いられてきた用語を挙げている[4]。アメリカ合衆国メリーランド州のボルチモアに所在するアメリカン・ビジョナリーアート・ミュージアム(英語版)における幻視芸術の定義は、以下のようになっている[1]。この定義においては、伝統的な美術の外側であるアウトサイダー・アートの定義と同様である[1]。


実際の書籍の記事では、ロジャー・カーディナルが様々な過去の適語の8つの候補を上げてゆくなかでその一つに「幻視する美術」が登場してきます。カーディナルの言葉を引用すると

「創造者の社会的もしくは精神的な状態を暗示する、多くの用語が用いられてきた。孤立した美術、異端の美術、局外者の美術、民俗芸術、幻視する芸術、霊感による芸術、分裂病的美術、私たちが識別しようとしているすべての創造者が、社会的、心理的カテゴリーに直ちに当てはまるとは限らないように、これでは不十分に思える。作り手の異常さや風変わりな点を強調するような仕方で、作品を分類することは、関心の的を美的インパクトから作者の経歴へと逸らしてしまいがちであると、私は強く感じている。」 まだ続きますが、カーディナルによる記述が意図しているものは、さまざまな用語で分類してゆくことへの疑義であり、最後に「けれども、これらのどれ一つとして充分に鋭く射抜いてはいないのである。」

と言っていることで彼の疑義は明らかです。ここには幻視芸術という纏まった用語じたいが見いだせないどころか、むしろ用語化への批判文章がカーディナルによるものなのです。

さらに太字の本記事には重大な間違いがあります。ビジョナリー・アートの定義とアウトサイダー・アートの定義が同様であると言っているのです。とんでもない誤解と曲解です。引用先の記事はアメリカン・ビジョナリー・アート・ミュージアムの定義が適切なのかどうかを論じている記事なのです。ビジョナリー・アートをあたかもアウトサイダー・アートであるかのよう定義しているミュージアムへの疑義なのであり、そのためにミュージアム側の定義を引用しているのです。ちゃんと正確にご理解いただけたでしょうか?--Basicsur会話2017年7月30日 (日) 15:14 (UTC)[返信]

あなたの引用部分と意見との解離があるためよくわからないのです。
>ヴィジョナリー・アートをあたかもアウトサイダー・アートであるかのよう定義しているミュージアムへの疑義なのであり
あなたも同じように読み取れていますから、Wikipedia:中立的な観点があるので2種類の定義があるので、中立に観点を示して紹介されます。
>ここには幻視芸術という纏まった用語じたいが見いだせないどころか、むしろ用語化への批判文章がカーディナルによるものなのです。
まず引用されたWikipedia記事本文に幻視芸術という用語がないですよね。「ヴィジョナリー・アート(『パラレル・ヴィジョン』訳書では「幻視する美術」に読みとしてふられている)」とそのままですね。
あなたがご自分でご確認されたように、『パラレル・ヴィジョン』では、「局外者の美術」にアウトサイダーアート、「幻視する美術」にヴィジョナリー・アートの振り仮名があり訳語であることが確認できますし、それらが似たような芸術を分類する言葉のひとつであったが、最終的に定着しているのはアウトサイダーアートだというのはその書籍でもそうなっているから周知のことです。
もう一つの登場箇所は「幻視的芸術」ではなくて、#訳語で原著の情報で確認し、5月から述べている通り174ページ「幻視的美術」でありこれは、Visionary Artの訳語ですよね。この174ページは「1960年代中央における幻視的美術」の章のはじまりであり、内容はその時期場所のアウトサイダーアートへの言及ですよね。書籍内にて訳語が統一されていない以上、もう少し統一性が確認できる#ヴィジョナリーアートの呼び方は定着していないを参考にするのはWikipedia:記事名の付け方の通りですね。
定義については、ヴィジョナリー・アート・ミュージアムの定義についての文献と『パラレル・ヴィジョン』とを出典として、2出典がアウトサーダーアートに同類の言及をしている以上、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:出典を明記するに従って記述することができます。
>国内にほとんど皆無な解釈、「幻視芸術=アウトサイダー・アート」がウィキ内のみにある事態を見過ごして良いのでしょうか。
あなたの独自ルールに該当するガイドライン等はありません。
>タームの実例ではありません。
意味が分かりません。タームという言葉の意味を勝手に使っていらっしゃるので。強迫的幻視者が14回あるならこの書籍の中での重要な用語ですし、現に記事中に反映しています。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 10:53 (UTC)[返信]
強迫的幻視者、強迫、幻視といった言葉は以下の文献でも書かれており重要な用語です。そして、パラレル・ヴィジョン展自体が『美術手帖』2017年2月号「特集アウトサイダーアート」でも言及のある出来事です。
  • 川口幸也「カヴァリング・アウトサイド-アウトサイダー・アートの政治学」、『Collage』第2号、1999年4月、 2-7頁。
  • 世田谷美術館編 『アウトサイダー・アートを考える : パラレル・ヴィジョン・シンポジウム』 世田谷美術館、1994年。
ご確認の通り、幻想芸術の言葉は『パラレル・ヴィジョン』においては最終章で他の展覧会に言及しているだけで無関係です。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 11:37 (UTC)[返信]

Visionary Artには二つの定義がある

前出のVisionary ArtとOutsider Artを同じ定義のもとに同じものと看做した誤解曲解記事の問題を受けたレポートです。問題の記事は以下の英文を含むサイトを引用先としていますが、in this context, the definition of Visionary Art is similar to Outsider Art,のここだけを根拠にしているようです。しかし、‘but without the specificity of that term.’からビジョナリー・アートミュージアムとは別のもう一つの定義が提示されています。エルンスト・フックスに学んだローレンス・カルアナによる定義です。以下に翻訳しました。

「ヴィジョナリー・アーティストはあらゆる手段を使って良い。それが彼にとって多大な危険となろうとも、あらゆる異なる意識状態へとアクセスした成果とヴィジョンを表明するために。夢や恍惚状態あるいは変成意識などを通じて、ヴィジョナリーな芸術は我々の視界を超えたところに何があるのかを明らかにしようとする努力を表明する。芸術家は見えないものを見ようとし、通常の認識を超えたヴィジョナリーな地点へと到達しようとする。」

この第二の定義は第一の定義と違うものを主張するために書かれており、Visionary Artは一つの定義では説明できないことが明らかです。カルアナ以外にも様々な個人、多くは芸術家たちが定義を試みていますが、共通しているのはOutsider Artとは違うものであることを表明するために定義がなされている。つまりアウトサイダー・アートとの境界を明確にするためにやっているということです。いっぽうでアウトサイダー・アートとヴィジョナリー・アートの境界を無くしていこうとするような匿名ウィキ執筆者達はいったい何を目的としているのでしょう。彼らにとってなにか得になることがあるのでしょうか?

ミュージアムの第一の定義を一応訳すとこうなります。そのコントラストがはっきりすると思います。

「ヴィジョナリー・アートは独学の個人から産み出された、通常は正式な教育を受けていない個人の生得のビジョンからの芸術であり、何よりも創造的な活動そのものを第一に楽しむものである。」

"Visionary Art […] refers to art produced by self-taught individuals, usually without formal training, whose works arise from an innate personal vision that revels foremost in the creative act itself."1 --Basicsur会話2017年7月30日 (日) 15:03 (UTC)[返信]

ガイドラインにご理解がないことは再三判明していますが、Wikipedia:中立的な観点があるので複数の定義は中立に観点を示してそれぞれ紹介されます。また美術館の定義、もう一つの定義について記事中で紹介されています。第二の定義とされるものにほぼ似た文章は、カルアナの文献を出典に既に記事内に存在し、記事の未読とガイドラインの無理解が原因かと思われます。
#定義の他の出典に照らせば、「生得の」と訳すと矛盾が出てきますのでおかしいです。絵画技法であれ、瞑想修行であれ、精神障害であれ後天的ですね。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 10:14 (UTC)[返信]
Basicsur氏の発言の転載部分を減らしWikipedia:削除依頼/ノート:幻視芸術を提出しました。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 12:27 (UTC)[返信]
「生得の」「生まれながらの」という解釈で正しいです。これは後天的な教育の反語としてinnateなのであり、異論があるなら英語ユーザーに問い合わせをすることを薦めます。例えば、猫は後天的教育によってニャーと鳴くのではなく生得の本質としてそうなるわけです。自らの独自解釈を恐れる習慣を薦めます。--Basicsur会話2017年7月31日 (月) 17:02 (UTC)[返信]
そうするにしても、その個人の生誕と共に生じたビジョンのように読み取れるのはよくないでしょう。
あと、that は関係代名詞のthatと思われますので vision にかかっていないでしょうか(関係代名詞「that」の使い方)。--タバコはマーダー会話2017年11月28日 (火) 03:42 (UTC)[返信]

サイケデリック・アートへの批判的記事の一部分だけを根拠にしてVisionary Artが幻覚剤を必須としているかのように見せてかけている問題

前述したようにVisionaryには幻視、幻覚という意味はありません。「幻視芸術は幻視に基づく芸術である。」という安易な独自研究による定義を裏付けるためにそれっぽい一部分だけ引用して導入定義を捕足するという良く無いやりかたが見られます。資料を引用しても部分だけ抜き出して再構成すればいくらでも勝手な定義を捏造することができます。このメスカリンに関する記事は幻覚剤が芸術活動に必ずしも役に立つ訳ではないことを述べたものであり、オルダス・ハクスリーはメスカリン摂取後、7年目にアートのための幻覚剤使用に興味が無くなっているのです。ヴィジョナリー・アートと幻覚との必須関係を扱ったものではないのです。「幻視芸術は幻視に基づく芸術である」を主張したい匿名ウィキ編集者は他の記事にも同じ手法、部分だけ抜き出して独自の都合で組み合わせる作業をしていますが、とにかく今は他の部分は後回しにしてこの問題をまず指摘しておきます。

メスカリンを体験したイギリスの作家のオルダス・ハクスリーは、1953年に「幻視体験と幻視芸術」に関する一連の講義を行っている[7]

 幻覚剤はたしかにある部分の芸術家たちには何かのきっかけにはなっているようですが、引用先をちゃんと読みますと、幻覚剤には才能じたいを開花させる力は無いと見て取れます。「幻視芸術は、幻視で見たこと、あるいはそれを基とした芸術である。」という現在の定義がいかにいいかげんな虚構であるかがみなさんにもお分かりになると思います。

News about art produced in experiments gradually diffused to the general public. In 1953 Newsweek published an article about the use of mescaline in psychiatry entitled "Mescal madness." This featured surrealist composite photographs by German photographer Leif Geiges that simulated "the mental patterns described by mescal users."

(メスカリンの)実験によって生まれたアートに関するニュースが一般公衆の間に広まっていった。1953年にニュースウィークは「メスカリンの狂気」と題された精神医療のメスカリン使用に関する記事を書いた。この記事ではドイツ人の写真家Leif Geigesによるシュルレアルなコラージュ作品が紹介されており、「メスカリン使用による精神パターン」をシュミレーションしたものだった。

British novelist Aldous Huxley first took mescaline in 1953, under the supervision of Dr. Humphry Osmond. Huxley discussed mescaline and art while delivering the opening address-- "Visionary Experience, Visionary Art, and the Other World"--at the 1954 Duke University Lecture Series in North Carolina (La Barre 1975). Huxley regularly mentioned psychedelics in his lectures at scientific conferences and he informed the general public about them through his talks at universities, magazine interviews, and written works. Nevertheless, in 1960 Huxley expressed a lack of enthusiasm about using psychedelics for art:

イギリスの作家、オルダス・ハクスレーは1953年、医師のHumphry Osmondの指導のもとにメスカリンを試した。ハクスレーはメスカリンとアートに関する討論を行い、同時に「ヴィジョナリー体験とヴィジョナリー・アート」という講演会を開いた。(中略)  ハクスレーは常に科学者の会議においてサイケデリックス、幻覚剤について言及した。大学、雑誌インタヴュー、あるいは著作を通じて知識を伝えようとしたにも関わらず、1960年にはハクスレーはアートのための幻覚剤使用に興味が無くなったと表明している。

--Basicsur会話2017年7月31日 (月) 10:56 (UTC)[返信]

あなたがWikipedia:中立的な観点にご理解がないのでそう見えるのかもしれませんが、中立的にあらゆる言及を網羅しているだけですよ。
>引用先をちゃんと読みますと、幻覚剤には才能じたいを開花させる力は無いと見て取れます。
まずそのような言及が記事内にないですよね。
幻覚剤を使用したVisionary artについては以下の文献とで2文献は記事内に示されています。
Martina Hoffmann, Robert Venosa (2012). “Robert Venosa and the Visionary Art World” (pdf). MAPS Bulletin 22 (1): 22-23. http://www.maps.org/news-letters/v22n1/v22n1.pdf. --タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 11:09 (UTC)[返信]
Basicsur氏の発言の転載部分を減らしWikipedia:削除依頼/ノート:幻視芸術を提出しました。--タバコはマーダー会話2017年7月31日 (月) 12:27 (UTC)[返信]
あれ?オディロン・ルドンを扱ったノートの翻訳箇所が勝手に削除されています。そこには「幻覚剤には才能じたいを開花させる力は無いと見て取れます。」の根拠があるのに、タバコはまーだーさんが勝手に削除したのちに反論しています、日本には英語をすらすら解読するひとが無数にいるのですよ。--Basicsur会話2017年7月31日 (月) 16:19 (UTC)[返信]