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ヌエバ・エスパーニャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ヌエバ・エスパーニャ副王領
Virreinato de Nueva España
1519年 - 1821年
ヌエバ・エスパーニャの国旗
(国旗)
国の標語: Plus Ultra
ラテン語: 更なる前進
国歌: 国王行進曲
ヌエバ・エスパーニャの位置
ヌエバ・エスパーニャの位置
公用語 スペイン語(その他にナワトル語マヤ語などアメリカ・インディアン諸語が口語として話された)
首都 メキシコシティ
スペイン国王
1535年 - 1556年 カルロス1世
1813年 - 1821年フェルナンド7世
スペイン副王
1535年 - 1550年アントニオ・デ・メンドーサ
1821年7月21日 - 9月28日en:Juan O'Donojú
人口
1519年2000万人
1810年650万人
変遷
創設 1519年
解体1821年
先代次代
トラスカラ王国 トラスカラ王国
アステカ アステカ
クスカトラン王国 クスカトラン王国
トトテペク王国 トトテペク王国
タラスカ王国 タラスカ王国
マヤ文明 マヤ文明
トンド王国 トンド王国
セブ・ラージャ国 セブ・ラージャ国
マニラ王国 マニラ王国
フランス領ルイジアナ フランス領ルイジアナ
メキシコ第一帝政 メキシコ第一帝政
フロリダ準州 フロリダ準州
フランス領ルイジアナ フランス領ルイジアナ
en:Spanish West Indies :en:Spanish West Indies
キューバ総督領 キューバ総督領
プエルトリコ総督領 プエルトリコ総督領
スペイン領東インド スペイン領東インド
フィリピン総督領 フィリピン総督領

ヌエバ・エスパーニャ副王領(ヌエバ・エスパーニャふくおうりょう、スペイン語: Virreinato de Nueva España)は、1519年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海太平洋アジアにおけるスペイン帝国副王領を指す名称。現地の言葉でニュー・スペイン (New Spain) という意味。

江戸時代の日本では、「ノビスパン(濃毘数般)」、「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」などと呼ばれた。

概要

ヌエバ・エスパーニャは、1521年にスペインによるアステカ帝国の征服(1519-1521年)が完了した際に設立された。アメリカ大陸に設立された4つのスペイン副王領の中で最初に設立された(残り3つは南アメリカを管轄した)。その領土は、メキシコ中央アメリカアメリカ合衆国南西部中部、およびフロリダ、そしてフィリピン、マリアナ諸島およびカロリン諸島に渡った。1635年以降は、スペイン王によって任命されるニュー・スペイン副王が統治者する植民地となった。首都はメキシコシティであった。こうして、スペインによってヨーロッパ〜アメリカ〜アジアを結ぶ広大な貿易網が確立された。これらの地域にはローマ・カトリックが強制的に布教された。インディアンの反乱や、イギリスやフランス、アメリカなどの列強によって一部領土が奪われることがあったものの、メキシコを中心とするそのほとんどの領土はメキシコ独立まで保たれた。1821年にメキシコ帝国が独立し、ヌエバ・エスパーニャは解散された。

歴史

メキシコおよび中央アメリカへの入植

スペイン人によってまずはカリブ海の島々に植民都市が形成された。これらの都市はアメリカ大陸征服の拠点とされた。1521年にアステカ帝国の征服が完了すると、中央メキシコではアステカの首都テノチティトランがヌエバ・エスパーニャの主要な入植地に転換され、メキシコはスペインのアメリカ大陸植民活動の重要な拠点であり続けた。初期のヌエバ・エスパーニャのスペイン系入植都市は次のようなものがある[1]

スペイン人による小さな港町ベラクルス(1519年)とメキシコ・シティ(1521-24年設立)の間にはプエブラ・デ・ロサンジェルス(1531年)やColima(1524年)が設立された。メキシコ・シティの北では、ケレタロ(1531年頃)が設立され、バヒーオ英語版と呼ばれた広大な農地となった。メキシコ市の北西にグアダラハラ(1531–42年)が設立され、この地域の主要なスペイン系都市となった。メキシコ・シティの西にはValladolid(1529年、Michoacan)が設立された。メキシコ・シティの南ではアンテケラ(1526年)がオアハカの中心となった。サンティアゴ・デ・グアテマラ英語版(1524年)メリダ(1542年)、 カリブ海の小さな港としてカンペチェ(1541年)がユカタンに設立された。カンペチェとベラクルスの間には海上貿易が行われていた[2]。副王領が設立されるまでの最初の20年間、いくつかの現在でも重要な位置を占める都市が設立された。北のサカテカス(1547年)は後に銀鉱で栄えた。ここはどう猛な遊牧民のチチメカ族のエリアであり、チチメカ戦争英語版などのスペイン人との争いが起こった[3][4]

南アメリカへの拡大

1532年にインカ帝国を征服した後、広大な南アメリカへのさらなる遠征活動が始まった。1540年に、ヌエバ・エスパーニャに次ぐ第二の福王領であるペルー副王領が設立された。南アメリカ植民地化はさらに拡大し、ヌエバ・グラナダ副王領(1717年)、リオ・デ・ラ・プラタ副王領(1776年)も後に設立された。

北アメリカへの拡大

16世紀を通して、中央アメリカおよび北アメリカに数々のスペイン人の町が建設された。1568年から1587年の間に、スペインは現在のアメリカ合衆国南部ジョージアサウス・カロライナへのキリスト教宣教活動を行なっている(これらの地域は17世紀にイギリスのジョージア植民地サウスカロライナ植民地となる)。これは現在のフロリダでは一部成功し、セントオーガスティン(1565年)が設立された。これは、現在のアメリカ合衆国の中ではヨーロッパ人によって最も古くに設立された街である。

さらに領土を拡大するため、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドによるアメリカ合衆国南西部の探検(1540–1542年)、フアン・ロドリゲス・カブリリョによる太平洋岸の探検(1542–1543年、この探検では初めてヨーロッパ人としてカリフォルニアを見つけた)、そしてルイ・ロペス・デ・ビリャロボスによるスペイン領東インドの探検(1542–1543年)が行われた。これらのエリアは、ニュー・スペイン副王の直轄地となった。スペイン人はさらにヌエボ・メヒコ州の領土拡大を行い、主要な都市としてサンタフェ(1607年)が設立された。

宣教活動と軍事力による北アメリカの入植は、スペイン人による都市建設の原動力となった。

太平洋への拡大

東インドアメリカ大陸の間の貿易を確立するべく、太平洋を渡ってミゲル・ロペス・デ・レガスピはフィリピンにスペインの最初の入植地サン・ミゲル(1565年、現在のセブ)を建設した。アンドレス・デ・ウルダネータはフィリピンからメキシコへ黒潮に乗って、効率よく航海するルートを発見した。1571年、マニラスペイン領東インドの首都となった。こうして、マニラ=アカプルコ・ガレオン船によるアメリカとアジアの貿易が始まった、主な貿易品は絹、香辛料、金・銀、陶器などであった。フィリピンはヌエバ・エスパーニャの中で、一つの行政区画、フィリピン総督領となった[5]。アジアからの貿易品は、太平洋を渡りアカプルコに送られ、そして陸路でベラクルスへ、インディアス艦隊によって大西洋を渡りスペイン本国へ送られた。

北アメリカの領土争い

17世紀になると、フランスやイギリスがスペインに遅れて北アメリカに入植地を建設し始めた。1776年には東海岸のイギリスの13植民地がアメリカ合衆国として独立し誕生する。こうして18世紀になると、カリブ海の島々、現在のアメリカ合衆国南西部フロリダネブラスカルイジアナなどの領土を巡って、これら強国の間で争いが起きる。

フレンチ・インディアン戦争では、イギリスがスペインよりマニラバハマを奪った。この戦争の結果、領土を取り決める1763年のパリ条約では、スペインはルイジアナの西半分を得て、ヌエバ・エスパーニャは北アメリカのミシシッピ川から太平洋に至る領土を保有した。しかし、この時、イギリスが奪ったマニラバハマの返還と引き換えに、イギリスはスペインよりフロリダを得た。アメリカ独立戦争時には、イギリス軍とアメリカ軍の戦闘の隙をついて、セントルイスや最北ではミシガンナイルズ英語版までを探索した。この戦争の結果、領土を取り決める1783年のパリ条約でフロリダはスペインに返還された。

1769年より、21度のアメリカ北方への遠征活動(現在のカリフォルニアへの宣教活動)がカリフォルニアエル・カミーノ・レアル沿いで行われた。ヌエバ・エスパーニャは北アメリカ西海岸の全領土を主張しており、この地域でのイギリスとロシアとの衝突が始まった。ロシアは18世紀半ばよりアラスカで毛皮交易を始めており、イギリスもジェームズ・クック船長が太平洋を探検して以来、西海岸で毛皮交易を始めるようになっていた。 西海岸からロシアとイギリスの勢力を追い払うため、1774年と1793年にスペインはメキシコから多くの戦力を投入し、アメリカ北西部の遠征を行なった。これによってスペインが長らく主張し続けていた、西海岸の航海権が強化され、バンクーバー島フレンドリー・コーヴ英語版に(1789年)に砦フォート・サン・ミゲル英語版と入植地サンタ・クルス・デ・ヌカ英語版(または単にNuca)が建設された。これはヨーロッパ人による初めてのブリティッシュコロンビアへの入植であり、スペイン人による最初で最後のカナダへの入植であった。

18世紀のスペインによる西海岸の領土の主張。

サンタ・クルス・デ・ヌカは1795年に第三次ヌートカ協定英語版によって放棄されることとなった。サンタ・クルス・デ・ヌカに変わる新しい前哨基地(Fucaと呼ばれた)がファンデフカ海峡の南側のニーア湾(スペイン人はBahía de Núñez Gaonaと呼んだ)に一部建設された。これは1792年に完成を見ることなく放棄された。そこに駐在した人々、家畜、兵器などはNucaへ移送された[6]

終焉

1800年の第三次サン・イルデフォンソ条約でルイジアナがフランスに返還された(1803年にはアメリカに売却される)。1819年のアダムズ=オニス条約で現在のフロリダとテキサス東部がアメリカ領土となった。1821年にメキシコ独立が起こり、スペインはアメリカ大陸の領地を失った。しかし、キューバプエルトリコスペイン領東インドマリアナ諸島フィリピンを含む)は、1898年の米西戦争までスペイン王室領の一部であった。

領土

ヌエバ・エスパーニャの領域は、当初はパナマ地峡以北の新大陸のスペイン領土すべてを含み、1565年に新たに占領されたフィリピンも管轄下に置かれた[7]。北の境界はブリティッシュコロンビア州アラスカ州までを主張した。

歴史的にヌエバ・エスパーニャ副王領の領域であった地域は以下の通り。

行政区分

ヌエバ・エスパーニャは、メキシコシティに首都を置く副王(virrey)によって統治された副王領(virreinato)である。下に示す行政区分に分けられていた。

ヌエバ・エストレマドゥーラスペイン語版英語版(Nueva Extremadura)
ヌエバ・エスパーニャ北部。ヌエボ・メヒコ(Nuevo México, 主に現在のニューメキシコ州)やコアウイラ・イ・テハス州コアウイラ州テキサス州)を含む。名前はエストレマドゥーラ州にちなむ。
ヌエバ・ガリシア(Nueva Galicia)
スペイン本国のガリシア地方にちなんで名付けられた。18世紀後半には、グアダラハラの管轄庁(Intendencia)になった。
ヌエバ・ビスカヤスペイン語版英語版 (Nueva Vizcaya)
もともとサカテカス州北部の開拓地から、現在のチワワ州ドゥランゴ州一帯と、シナロア州ソノラ州ラス・カリフォルニアスアルタ・カリフォルニアバハ・カリフォルニア)の一部を含んだ。名前はビスカヤ県にちなむ。スペイン領フィリピンにも同名の区分があった。
ヌエボ・サンタンデールスペイン語版英語版 (Nuevo Santander)
現在のタマウリパス州テキサス州南部。名前はスペインの都市サンタンデールにちなむ。
ヌエバ・ナバラスペイン語版英語版
ヌエボ・レオンスペイン語版英語版

その他、グアテマラキューバサント・ドミンゴフィリピンには総督府(Captainía General)が置かれた。

グアテマラ総督領
(→中央アメリカ連邦共和国
ユカタン総督領スペイン語版
キューバ総督領
フロリダ州 (ヌエバ・エスパーニャ)
(→アメリカ合衆国フロリダ準州
ルイジアナ州 (ヌエバ・エスパーニャ)スペイン語版英語版
フォンテーヌブロー条約 (1762年)からサン・イルデフォンソ条約 (1800年)までスペイン領だった。(→フランス領ルイジアナ
サント・ドミンゴ総督領スペイン語版
イスパニョーラ島西部→フランス領サン=ドマング
プエルトリコ総督領
(→アメリカ合衆国プエルトリコ
ベネズエラ総督領スペイン語版
(→ベネズエラ第一共和国英語版
チリ総督領スペイン語版
(→1810年Patria Vieja→1814年en:Reconquest (Chile)→1817年Patria Nueva/チリ→1823年→1830年en:Conservative Republic→1861年Liberal Republic→1891年Parliamentary Era→1925年Presidential Republic→1973年Military government→1990年民政移管
フィリピン総督領

その他、州が設置された。

サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ
es:Provincia de Costa Rica
es:Provincia de Nicaragua y Costa Rica
es:Territorio de Nutka
オレゴン・カントリー

統治体制は秀でていたものの、実際には副王の権限の行使は、下位区分の総督やアウディエンシアの独立性に阻まれ、副王の権限はおおまかにメキシコの中部と南部、北はサン・ルイス・ポトシから南はテワンテペク地峡までに限定された[7]

関連項目

脚注

  1. ^ Lockhart & Schwartz (1983), pp. 61–71
  2. ^ Lockhart & Schwartz (1983), p. 86, map. 4
  3. ^ Lockhart & Schwartz (1983), pp. 86–92
  4. ^ Altman, Cline & Pescador (2003), pp. 65–66
  5. ^ Haring (1947), p. 79
  6. ^ Tovell (2008), pp. 218–219
  7. ^ a b "Viceroyalty of New Spain." Encyclopadia Britannica. 2008. Encyclopadia Britannica Online. 2012年4月24日.

参考文献

  • 増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史I メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
  • 池端雪浦編『東南アジア史II 島嶼部』山川出版社、1999年