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GHQ草案手交時の脅迫問題

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GHQ草案手交時の脅迫問題(じーえっちきゅーそうあんしゅこうじのきょうはくもんだい)とは、1946年2月13日にGHQ草案(マッカーサー草案)が日本側に手交された時、ホイットニー(GHQ民政局長コートニー・ホイットニー)が「この草案を呑まなければ天皇を戦犯裁判にかける」といったような重大な脅迫[1][2][3][4][5][6]をしてGHQ草案を押しつけた[注 1]という問題、ホイットニーが白洲次郎に対して「我々は原子力の日光を楽しんでいるところだ」と原爆の使用を想起させる恫喝的言辞を用いた問題[1][7][8]を指す。

As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of your Emperor against increasing pressure from the outside to render him subject to war criminal investigation.[1]

It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks "were ashamed of the methods employed" by Whitney, in particular, his "threats against the Emperor - against the man - not just the institution - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution."[9]

At 10:00 o'clock General Whitney and the undersigned left the porch and went out into the sunshine of the garden as an American plane passed over the house. After about fifteen minutes Mr. Shirasu joined us, whereupon General Whitney quietly observed to him: "We are out here enjoying the warmth of atomic energy".[1]

As he mumbled apologies for keeping us waiting, I replied with a smile: "Not at all, Mr. Shirasu. We have been enjoying your atomic sunshine." And at that moment, with what could not have been better timing, a big B-29 came roaring over us. The reaction upon Mr. Shirasu was indescribable, but profound.[7]

概説

1946年2月13日は、『日本国憲法成立史』の著者佐藤達夫が「この日こそは、”日本国憲法受胎の日”とも言うべき歴史的な日である」[10]と言っているように、日本国憲法にとり特別な日であった。というのは、2月13日は、日本政府の予期に反し、GHQ草案を手交される日になってしまったからである。本来この日は、2月8日に、日本政府が 連合国総司令部(GHQ)に渡しておいた「憲法改正要綱」(松本甲案)とその説明書の英訳への回答があるはずの日であった。

その日、GHQから回答を受けるため、外務大臣公邸に 吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣、白洲次郎終戦連絡事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官の4人が待機していた。そこへ、午前10時きっかりに、GHQ民政局長のホイットニー准将を先頭とする4人のアメリカ人-他にケーディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐-が訪れ、松本案への回答があるとばかり考えていた吉田ら4人に対し、ホイットニーは開口一番「日本案ハ全然受諾シ難キニ付自分ノ方ニテ案ヲ作成セリ」と述べ、GHQ草案を配ったのである[11]

その後、ホイットニーは日本側に検討する時間を与え、一読した松本は「貴案ハ我方ノ考ト余ニ懸離レ居ル為」「充分検討ノ上更ニ御相談致シ度シ」[2]と述べた。次いで、ホイットニーの説明が開始された。日本側の記録によれば、ホイットニーは、本案は日本側に押し付ける考えはないが、マッカーサー元帥が米国内部の反対を押し切り、天皇を擁護するためにこれならば大丈夫と思う案を作ったものであり、しかも日本民衆の意識にも合致したものだと述べた[12]。説明の後、松本は一つだけ質問したいと言い、通訳を介して[13]憲法案が一院制を定めているのは何か特別の理由があるかと尋ねた[14]。すると、ホイットニーから「日本には米国のように州がない。従って上院を認める必要はない」という返答があった。その理由の単純さに驚いた松本が、二院制の由来やチェック・アンド・バランスの意義をごく簡単に説明した。すると、アメリカ人たちは初めて知ったような顔で、「うんうんというような顔をしてみんなただ感服していた」[15]。松本はその様子にただ驚き、そして「こういう人のつくった憲法だったら大変だ」と思った[16]。一院制についてのやり取りのあと、更にホイットニーは、改正案はあくまでも日本側の発意に出たものとして発表されるのが望ましく、時期は総選挙前に発表するのが適当だと述べた[17]。会談は、GHQ側の記録によれば午前11時10分に[18]、日本側の記録によれば午前11時30分に[19]終了している。

この日の会談(以下「2・13会談」ということがある)の記録として、今日、日本側3、アメリカ側1の計4つの記録が知られている。日本側は松本烝治 「二月十三日会見記略」、白洲次郎「白洲次郎手記[20]、長谷川元吉「二十一年二月十三日ノ日米会談録」[21]、アメリカ側は、ケーディス、ラウエル、ハッシーが連名で書きホイットニー宛てに報告した長いタイトルの記録[注 2]である。つまり、2・13会談の当事者8人のうち7人の手になる計4つの記録が知られている。吉田茂の記録だけは知られていない。しかし、後に高柳賢三をとおし証言を残している。

アメリカ側の記録が翻訳公表されたのは、GHQ草案手交から20年後の1966年のことであった[22]。それが、一般書となって世に出るのは、26年後の1972年のことである[23]。また、白洲と長谷川の記録が外務省により公開されたのは、GHQ草案の手交から数えて30年後の1976年のことであった[24]

1976年5月1日に、白洲次郎と長谷川元吉の記録が第1回「外務省外交記録公開」により、ようやく日の目を見ることになった。これは、2・13会談から数えて、実に30年ぶりの公開であった。

外交記録公開は、学界、国会からの外交記録の公開を求める声、特に戦後史や占領行政史への関心の高まりを受けて、外務省が1975年12月に決定したものであった。戦後の外交記録を欧米諸国の例にならい、いわゆる30年ルールにより公開する基本方針が決定され、白洲と長谷川の記録は、1946年からちょうど30年経っているため、第1回で公開された。第1回の公開内容は「連合軍司令部来信綴・往信綴、連合軍側と日本側との会談集、帝国憲法改正関係一件(研究資料)」である[25]

白洲手記

(一九四六年二月十三日付)

一、日本政府案ハ全然「アクセプタブル」ノモノデナイ

二、司令部ニテ案ヲ作成セリ

本案ハ聯合国ニモ司令部ニモ「アクセプタブル」ノモノナリ

三、本案ハ強制的ニ押シ付ケルモノニアラズ

四、本案ハ日本国民ノ要望スルモノト信ズ

五、司令部ハ 天皇ヲ支持シ来タリ、本案ハ 天皇制ヲ支持シ 天皇反対者連中ヨリ 天皇ヲ護ル唯一ノ方法ナリ 

六、日本ノ保守派ノ人々ハウント左ニ行クコトガ良イノダ

七、日本ノ国民ガ政治意識ヲ得テクレバコノ案ヲ必要トスル

八、本案ハ原則ヲ示シタモノデ、形式内容ニ変更ノ余地アリ

九、本案ニ依テ日本ガ国際間ニ進出スル手段トナル — 「白洲次郎手記」[26]より

ケーディスの”告白”

ケーディスは、白洲と長谷川の記録公開を受け、1989年、『日本国憲法制定におけるアメリカの役割』[3][9]を書き、次のように2・13会談と憲法調査会の渡米調査の聞き取りにおける新事実を明かした。

ホイットニーの言葉を記憶していた人々は、ホイットニーが採った方法を恥ずかしく思っていると述べた。その方法とは、ホイットニーが天皇制ではなく、「天皇個人の処遇について脅迫的言辞を弄した」ことであった。特に、ハッシーは、1958年に、ケーディスとラウエルに対し、日本の憲法調査会にはこのことをまだ秘密にしておきたいと言った。 — ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」[6]より。

 2・13会談に立会したアメリカ人が恥ずかしく思ったホイットニーの「脅迫的言辞」とは、かつて宮沢が指摘した、「この憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になる」という発言だと推測される。

GHQ草案が手交された1946年2月13日の場面において、それを「手交された日本側の心理状態」(憲法調査会委員の共同意見書)にスポットを当て、それが「押し付け憲法」の重要な根拠とされてきたが、そこには従来言われてきた「勧告」や「警告」だけではなく、「脅迫的言辞」が存在したことを、他ならぬアメリカ側が証言したのである。

ケーディスが、このように自分たちに不利な事実を敢えて発表したのは、白洲、長谷川という英語に堪能な二人が「天皇に対する-個人に対する-脅迫について記し損ねたとはまったく信じられない」からであり、したがって、二人の翻訳は「2月13日の面会のアメリカ側の見解を完全に裏打ちしている」と確信したからである[27]。ケーディスは、歴史的事実を明らかにしながら、ホイットニーの言辞の真の意味を次のように述べている。

このとき〔1946年2月13日に〕ホイットニーが知っていて、日本側が恐らく知らなかったことは、1945年11月30日、統合参謀本部が、極秘の海外電信で、天皇が起訴されることを免れないとマッカーサーに伝えたという事実である。(略)さらに、ホイットニーが知っていて、日本側が恐らく知らなかったことは、面会の2週間前の1月25日に、統合参謀本部への秘密電信で、マッカーサーが、天皇を裁判にかけることに強い反対の立場をとったという事実である。ホイットニーが知っていて、これはおそらく日本側も知っていたことは、ジョージア州出身の有力な上院議員リチャード・ラッセルが、「日本のヒロヒト天皇を戦犯として裁くことが合衆国の方針である」と宣言し、上院に、共同議案を提出したという事実である。ホイットニーの言辞は、天皇を「戦犯裁判」にかけようとする海外からの絶え間のない圧力についての情報を要約し、日本側に伝えるものであった。つまり、ホイットニーは、たとえていえば、弁護士が依頼人に、もし彼の助言を拒否すれば、依頼人が陥ってしまうであろう重大な危険性について助言するように、日本側に忠告していたのである。 — ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」[28]より。

「呑まねば極東軍事裁判に天皇を出廷させる」脅迫の背景

マッカーサーは、1945年9月20日、藤田尚徳侍従長を介して、天皇の「ポツダム宣言を実行するとの御決意」を伝えられ[4]、同月27日、第1回天皇会談を行った。以来、占領統治の円滑化のため、天皇を戦犯として追訴しない決意を固めている[29]。さらに、翌46年1月22日、米国参謀本部(JCS)より、オーストラリアがロンドンの連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)に、62名の戦犯リスト(天皇を含む)を提出した旨の電報に接すると、同月25日、アイゼンハワー米陸軍参謀総長に「天皇を戦犯として追訴すべきではなく、追訴したなら100万人の軍隊と数十万の行政官が必要である」という内容の有名な電報を送っている。この返答により、米国の政策は天皇不起訴に決したといわれる[5]

GHQが憲法改正を急いだ理由は、極東委員会の干渉を避けるためであった[30]。すなわち、1946年2月下旬に開催される極東委員会が「ただちに日本の憲法問題を採りあげることは必至」という情勢において、マッカーサーは「先手を打って、既成事実を作ってしまおう」と事を急いだのである[31]

しかし、当時の日本は、極東国際軍事裁判を控え、1945年9月11日の第1回逮捕令(東条英機ら)以来、A級戦犯容疑者に対し次々と逮捕令が発出され、逮捕者続出という世相であった。同年12月3日には皇族として初めて梨本宮(元伊勢神宮祭主)に対し逮捕令が出された。さらに、12月6日には天皇に最も近い位置にあった木戸幸一近衛文麿に対しても逮捕令が出された。このことは、GHQの戦争責任追及の手が、いずれ天皇にも及ぶのではないかという観測を生んだ[32]。また、清瀬一郎(極東国際軍事裁判で東条英機の主任弁護士)の眼には、「キーナン検事も場合によっては、天皇を喚びたいという情勢は見えており」「2月13日頃は、やはり憲法の草案を拒否するのであるならば、〔天皇を〕証人くらいに喚んで脅かそうというときだったろう」と映った[33]

脚注

注釈

  1. ^ 高柳賢三・大友一郎・田中英夫編著『日本国憲法制定の過程』I(有斐閣)1972年、「序にかえて」ⅸ、ⅹ頁。この中で高柳は、日本国憲法の基礎になった案が日本側の案ではなく、GHQ草案であり、したがって、日本国民の意思のみによったものではないという意味で「押し付け憲法」というのなら何ら問題はない。しかし、「押し付け憲法」論争はこのようなものではなく、この案を日本政府が呑まなければ天皇を戦犯裁判にかける、といったような重大な脅迫によって、この案を日本政府に押し付けたのかどうかが争点であった、と述べている。また、最近(2015年)のものとしては、「識者が語る「私の"日本国憲法論"」【2】【憲法学者・古関彰一】『押し付け』説はどこから生まれたか?」も参照のこと
  2. ^ これには、「1946年2月13日最高司令官に代わり〔ホイットニー民政局長が〕外務大臣吉田茂氏に新しい日本国憲法草案を手交した際の出来事の記録」というタイトルがついている。 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、323-333頁

出典

  1. ^ a b c d Charles L. Kades, Milo E. Rowell, Alfred R. Hussey, Record of Events on 13 February 1946 when Proposed New Constitution for Japan was Submitted to the Prime Minister, Mr. Yoshida, in Behalf of the Supreme Commander
  2. ^ a b 長谷川元吉の手記より。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179頁
  3. ^ a b 翻訳は『法律時報』1993年(65巻6・7号)に「上」「下」が掲載されている。なお、竹前栄治・岡部史信『憲法制定史』(小学館文庫)2000年、311頁以下にも、論文が抄録されている。
  4. ^ a b 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店)2015年、78頁
  5. ^ a b 粟屋憲太郎『東京裁判論』(大月書店)1989年、198、9頁
  6. ^ a b 『法律時報』65巻6号、35頁。竹前、前掲書、328頁
  7. ^ a b Major General Courtney Whitney, MacArthur: his rendezvous with history, Newyork: Alfred A. Knopf, 1956, p.251
  8. ^ 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、40頁 産経新聞古森記者とケーディスの対談において原子力文言の確認
  9. ^ a b Charles L. Kades(1989), The American Role in Revising Japan's Imperial Constitution, Political Science Quarterly,  Vol. 104, No. 2 (Summer, 1989), pp. 229
  10. ^ 佐藤達夫「日本国憲法成立史」〔2〕『ジュリスト』第82号(有斐閣)、1955年5月16日号、13頁。佐藤達夫著・佐藤功補訂『日本国憲法成立史』第3巻(有斐閣)1994年、47頁
  11. ^ 古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)2009年、151頁
  12. ^ 長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179頁
  13. ^ 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、329頁
  14. ^ 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁
  15. ^ 東京大学占領体制研究会『松本烝治氏に聞く』(憲法調査会事務局)1960年、28、9頁。なお、これは1950年11月23日に採録したものである。
  16. ^ 松本烝治『日本国憲法の草案について』(自由党憲法調査会)1954年9月、12、3頁
  17. ^ 長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁
  18. ^ 高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I、333頁
  19. ^ 長谷川手記。江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180頁
  20. ^ 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、180-181頁
  21. ^ 江藤淳編集『占領史録第3巻憲法制定経過』(講談社)1982年、179-180頁
  22. ^ 高柳賢三・田中英夫「ラウエル所蔵文書」〔連載第21回〕『ジュリスト』第357号(有斐閣)1966年11月1日号、85-85頁
  23. ^ この書は、高柳・大友・田中編著『日本国憲法制定の過程』I及びII(有斐閣)1972年である
  24. ^ 1976年5月1日の第1回「外務省外交記録公開」のうち「帝国憲法改正関係一件(研究資料)」。ケーディス「日本国憲法制定におけるアメリカの役割」(上)(『法律時報』65巻6号)1993年5月号、36頁
  25. ^ 外務省公開外交記録
  26. ^ 江藤淳『もう一つの戦後史』(講談社)1978年、431、2頁
  27. ^ 『法律時報』65巻6号、35頁。竹前、前掲書、329頁
  28. ^ 『法律時報』65巻6号、36頁。竹前、前掲書、330、1頁
  29. ^ 粟屋憲太郎『東京裁判論』(大月書店)1989年、198頁
  30. ^ セオドア・マクネリー「管理された革命」『日本占領の研究』(東京大学出版会)1987年、164頁
  31. ^ 豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店)2015年、34頁
  32. ^ 粟屋憲太郎『東京裁判論』(大月書店)1989年、204頁
  33. ^ 『憲法調査会第5回総会議事録』(憲法調査会)1957年11月6日、44頁

外部リンク