コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

高橋資祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。220.0.228.47 (会話) による 2014年5月17日 (土) 11:56個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (124.25.170.112 (会話) による ID:51505810 の版を取り消し)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

高橋 資祐(たかはし もとすけ、1941年1月11日 - 2007年11月8日)は、宮城県石巻市出身の男性アニメーターアニメーション演出家である。

経歴

1959年3月に宮城県石巻高等学校卒業後、石巻市役所に就職。美術を学ぶため、日本デザインスクールに入学するも1963年に同校を中退。第一広告(現・I&S BBDO)、文珠デザインスタジオの商業デザイナーを経て、草月アニメフェスティバルでアニメに興味を持ち、1966年8月に新聞の社員募集広告に応募して竜の子プロダクション(タツノコプロ)へ入社。

同プロでは笹川ひろし吉田竜夫らの下で『おらぁグズラだど』『昆虫物語 みなしごハッチ』などの原画・演出を担当した他、作画チーフも務めた。

1975年に竜の子プロを退社した後は、しばらくフリーランスの立場でキャラクターデザイナー・作画監督・演出家として活躍。長浜忠夫の下で『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『闘将ダイモス』『未来ロボ ダルタニアス』といった日本サンライズ(現・サンライズ)制作のロボットアニメの作画・演出を経験し、1977年には『超スーパーカー ガッタイガー』でチーフ・ディレクターに初就任した。

1979年頃に作画スタジオ「スタジオドオタク」を結成して代表者を務め、1980年代からは、タツノコプロ時代以来の仲間が設立したスタジオぴえろ(現・ぴえろ)作品に多く参加した。中でも高橋留美子作品との縁は深く、ぴえろが制作した『うる星やつら』のテレビシリーズには1981年の開始当初からドオタク所属の遠藤麻未・山本直子らとともにローテーションで参加した他[1]OVA『るーみっくわーるど』シリーズの『炎トリッパー』『ザ・超女』『笑う標的』の監督も務めた。押井守曰く、スタジオぴえろの切り札的存在であった[2]

その後も長くフリーの演出家・作画監督として活動の拠点をぴえろに置いて活躍していたが、『劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸』の制作に参加していた最中の2007年11月8日、肺癌のため66歳で死去した。同作品上映時には、最後に高橋への追悼メッセージが映し出された[3]

スタジオドオタク

スタジオドオタクは、日本サンライズの仕事で高橋が出会った遠藤麻未と山本直子との3人で、1979年頃に結成された。ドオタク内での高橋の呼称は「社長」。1983年当時は東京都西東京市田無駅近くのマンションの1室を借りてスタジオにしていた。スタジオ名の由来は、「動画の宅」と銅鐸。メンバーを3人以上に増やさないこと、スタジオぴえろの仕事を中心にして、他社の仕事をまずしないことを方針としていた[4]

代表作

テレビアニメ/OVA

劇場版アニメ

脚注

  1. ^ 宮崎駿が高橋の『うる星やつら』「竜之介登場! 海が好きっ!!」での波の作画に感心したというエピソードもある(宮崎駿「動機付づけと思い入れ 対談者/押井守」『出発点 1979~1996』徳間書店、1996年、p328)
  2. ^ アニメージュ編集部編『ロマンアルバム イノセンス押井守の世界 PERSONA増補改訂版』2004年、徳間書店、p.42
  3. ^ 小原篤のアニマゲ丼「冬休みアニメぜんぶ見たasahi.com 2007年12月17日
  4. ^ 「知られざる個性派集団3 『うる星やつら』の中核をになうスタジオ・ドオタク」『アニメージュ』1983年6月号、pp.134-135

参考文献

関連項目