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延齢君

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延齢君
各種表記
ハングル 칭호:연령군
추존:효헌
자:문숙
漢字 称号:延齢君
諡号:孝憲
字:文叔
発音: シンホ:ヨルリョングン
チュソン:ヒョホン
チャ:ムンスク
日本語読み: しょうごう:えんれいぐん
ごう:こうけん
あざな:ぶんしゅく
各種表記(本名)
ハングル 이훤
漢字 李昍
発音: イ・フォン
日本語読み: り・けん
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延齢君(연령군、ヨルリョングン、1699年 - 1719年)は李朝後期の王族。字は「文叔」、諡号は「孝憲」、本名は李昍(이훤、イ・フォン)。父粛宗と母榠嬪朴氏の長男である。ちなみに粛宗六男で末子であったが、最愛の寵愛を受け、たった五歳で延齢君に封爵された。従来の規則では六歳以上でなければ爵位を封爵することはできなかったが、これは粛宗が母榠嬪朴氏を寵愛していたことによる。1704年7歳で宗親府堂上官となった。この事もあって、現在では延礽君の王位継承権をも譲歩させられたのではないかとの見方も強い。だが粛宗の晩年に21歳で死去してしまう。系図上四世孫に興宣大院君がいる。

生涯

出生と家系

1699年粛宗と榠嬪朴氏との間に出生する。粛宗の六男であり末子であった。朝鮮には末子を溺愛する傾向があるため粛宗もその例に漏れなかった。延齢君は出生期からかわいがられ最愛の寵愛をうけることになる。これには粛宗が榠嬪朴氏を寵愛していたことに見られる。榠嬪朴氏は禧嬪張氏や淑嬪崔氏以前に承恩尚宮に封じられ10年たって延齢君を出産したことにより淑媛の地位を与えられ、その翌年端宗復位式の際淑儀に昇格し、1701年(粛宗27年)旧暦3月23日貴人に、翌年仁元王后入内の際に嬪となった。ところが翌年死亡してしまう。延齢君はこの年で五歳であった。粛宗は幼い延齢君を見て、母の喪主となる事ができるよう、君号を封爵することを画策する。臣下達は一同揃って反対するが、逆に大臣を罷免してまで封爵式を施行し延齢君に封爵する。しかし王子君[1]に冊封してしまった為批判を受ける。延礽君ですら従二品君[2]であった事を思考すると格差が大きかった。実際封爵式粛拝の際趙道彬を罷免した。

璿派人時代

粛宗から最愛されていた延齢君は王世子や延礽君を超える寵愛を受けていた。1704年7歳で宗親府堂上官に着任し、1707年9歳で、金東弼の娘と嘉礼をあげる際数万両ほど使った。この事は問題となり、老論派は延礽君の出宮費用に二千両ほどしか使わなかったことを指摘され、粛宗は事態収拾のために延礽君に200間建ての大邸宅を下賜した。実は延礽君に下賜した邸宅は1707年に購入を禁止させていたものであった。これは延齢君の別邸として配置させておく計画であったが、やむなく延礽君に譲歩させた。また1711年天然痘を患っていた。1718年五衛都摠府都摠管に任官された。この頃になってくると粛宗は病を患っていたので粛宗の介護を手伝っていた。

急死

1719年10月2日21歳の弱齢で突然急死した。粛宗は死の知らせを聞くと嗚咽しながら、延齢君の邸宅に出向こうとするが、臣下達一同が遮り、行くことができなかった。だが王世子は強行して見舞いに行った。王世子は尊賢閣で擧哀を行い、祭文を作った。内容は「呼んでも、返事は戻ってこない、漠然としずけさが残るだけである」とある、延齢君は王世子や延礽君を抜き出しにしていたが、実際は兄弟仲は良好のものであった。ちなみに粛宗は延齢君の承襲者がいないことを残念に思い、昭顕世子の嫡孫にあたる密豊君の次男尙大を養子に迎え入れた。また延齢君は遺言らしきものを残しており、母の墓の近くに埋葬してほしいということで、衿川県樊塘里に埋葬される。

系図

家系

  • 粛宗(숙종) 李焞(이순) 1661年9月8日~1720年7月13日
  • 母 榠嬪朴氏(명빈박씨)
  • 正妻 商山郡夫人金氏(상산군부인김씨)
  • 養子 商原君(상원군) 李糿(이공) ? - 1733年旧暦6月21日 -- 後に離縁
    • 養孫 達善君(달선군) 李泳(이영) 1731年 - 1748年 -- 後に離縁
  • 養子 洛川君(낙천군) 李縕(李縕) 1720年 - 1737年
    • 養孫 恩信君(은신군) 李禛(이진) 1755年旧暦1月11日~ 1771年旧暦3月29日

注釈

  1. ^ 王の庶子に封号される。位階は無位。ただし位階相当がある爵位よりは上位にあたる。ただし出自は両班出身でなければならない、榠嬪朴氏自身は承恩尚宮を経ているため中人以下であることが分かる。そのため異例でもある。
  2. ^ 通常は王の庶子であれば王子君に冊封されるが、淑嬪崔氏の身分相当にあわせているため、賎民出身の場合爵位は四品降格となる。王子君>正一品君>従一品君>正二品君>従二品君となる。