コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

右田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。58.183.44.41 (会話) による 2011年5月15日 (日) 18:12個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: '{{日本の氏族 |家名 = 右田氏 |家紋 = |家紋名称 = 唐花菱 |本姓 = 多々良氏 |家祖 = 右田弘俊 |種別 = 武家 |出身地 = ...')であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
右田氏
唐花菱
本姓 多々良氏
家祖 右田弘俊
種別 武家
出身地 周防国
主な根拠地 周防国佐波郡右田
著名な人物 右田隆量
御郷康政
右田隆次
支流、分家 御郷氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

右田氏(みぎたし、みぎたうじ)は、日本氏族。著名な一族として下記の右田氏が挙げられる。


多々良姓右田氏

平安時代の末期に周防国の在庁官人であった大内盛房の弟、大内盛長佐波郡右田を所領として分家したことに始まる。鎌倉時代後半の当主、大内弘俊が初めて右田氏を称した。南北朝時代に入ると右田弘直大内義弘に従い、石見国守護代に任じられた。

戦国時代に入ると大内氏は勢力を伸ばしたが、天文20年(1551年)の大寧寺の変で当主の大内義隆が自害し、天文24年(1555年)の厳島の戦いでは義隆を弑逆した陶晴賢毛利元就によって敗死。同年末から始まる防長経略によって最後の当主大内義長も自害した。右田隆量は、山口陥落前に毛利氏に降伏して、その家臣となった。隆量は毛利元就の七男、天野元政を養子に迎え、右田氏を継承させた。

隆量の実子康政は毛利氏に仕え、右田の名字を御郷へと改めた。この康政は萩藩閥閲録によると大内義隆の子、大内義教であったとされる。子孫は三田尻御舟手組として江戸時代を過ごした。

系図

大内貞成
  ┣━━━━━━━━━━━┓
 盛房          盛長
  ┣━━┳━━┳━━┓  │
 弘盛 長房 盛保 盛綱 盛綱
  ┃           ┣━━┓
 満盛          盛俊 俊貞
  ┃           ┃ 
 弘成         右田弘俊(右田家祖)
  ┃           ┣━━━━━━━━┓
 弘貞          重俊       弘賢 
  ┃           ┣━━┳━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
 弘家          重貞 貞弘 盛氏            高俊
  ┃           ┣━━┳━━┳━━┓          ┣━━┳━━┓
 重弘          直重 英山 弘房 弘直         義俊 房俊 高職
  ┃           ┃     ┣━━┓          ┣━━┓
 弘幸          弘直    貞勝 重氏         家俊 貞範
  ┃           ┃     ┃             ┣━━┳━━┳━━┓
 弘世          盛直    貞俊            俊弘 澄俊 弘理 家盛
  ┣━━┳━━┓     ┃     ┣━━━━━━━━━━┓  ┃
 義弘 盛見 弘茂    弘貞    貞安         弘篤 重次
  ┣━━┓           ┏━━╋━━┳━━┓    │  ┃
 持世 教弘          弘量 弘如 弘高 正忠   弘房 興俊
     ┃           ┃             ┃  ┣━━┳━━┓
    政弘          興量            弘詮 隆次 隆俊 光俊
     ┃           ┃          ┏━━┫  ┃
    義興          興安         隆康 興就 之俊
     ┃           ┃          ┣━━┓
     義隆          隆量         隆弘 元弘
  ┌──╋━━┳──┐     ┣━━┳──┐
  晴持 義尊 義教 義長    隆俊 隆秀 元政
                 ┃
                 元幸
                 ┃
                 茂政
                 ┃
                 義政
                 ┃
                 義全

参考資料

  • 萩藩閥閲録
  • 防府市史

関連項目