アンティオキア
アンティオケイアは、セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、後にローマ帝国の各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオケイアが有名。
シリアのアンティオケイアは、古代の西シリア地方、オロンテス(現アシ川)河畔に建設された都市。ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都で、現在はトルコ共和国ハタイ県の県庁所在地アンタキヤ(Antakya, 人口13万7千人)となっている。シルクロードの出発点として知られ、ラテン語名のアンティオキアで呼ばれることが多い。
セレウコス朝シリア王セレウコス1世が、父アンティオコスを記念して建てた16の都市のうちの1つだが、セレウコス朝の首都となり、最も栄えたヘレニズム都市となった。
セレウコス朝がローマに滅ぼされた後も、ローマ、アレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三の都市として栄えた。初期キリスト教の時代には、パウロの異邦人布教の拠点となった都市であり、キリスト教がギリシア文化の影響を受けて発展した地でもある。使徒行伝によればクリスチャン(クリスティアニン)の呼称はこの街で初めて用いられ、マタイによる福音書は、西シリアで成立した説がある。
後にはキリスト教が、ローマ帝国に公認されるようになって以降はアンティオキア総主教座がローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、エルサレムと並ぶ五大総主教座となり、シリア地域の政治・経済・宗教・文化の中心地して栄えた。
しかし、526年5月29日の大地震で壊滅的な打撃を受け、25-30万人にも上る犠牲者を出した。 その後再建はなされたものの、かつての偉容は甦らず、ササン朝ペルシアに度々攻撃されるなどしたために衰退がはじまった。7世紀に東ローマ帝国がイスラム帝国に敗れてシリアを喪失した後には、北シリアの地方都市となった。
969年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が奪還するが、1084年に再びムスリム(イスラム教徒)の王朝セルジューク朝に征服された。1096年に派遣された十字軍はアンティオケイアを征服し、この地にアンティオキア公国を建設するが、1268年にマムルーク朝に奪われた。
1516年、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしてこの町を征服すると、オスマン帝国アレッポ州の一地方都市となった。第一次世界大戦後フランス委任統治領シリアに編入されたが、トルコ系住民がシリアからの分離運動を起こし、1939年に住民投票を行ってトルコ共和国に編入された。