流線形車両
流線形車両(りゅうせんけいしゃりょう、流線型車両とも)は、空気抵抗を減らすために流線デザインを採用した車両である。1930年代から1950年代にかけて開発された車両に対してよく使われる言葉[要出典]であり、それ以降の車両でも流線形は一般的である。「ストリームライナー」という語は、流線型の乗り物のいくつかのカテゴリを指して使われ、厳密な定義は特に無い語であるが、鉄道車両では20世紀後半に一般的になるよりも前の、未来派の影響を受けたそれを指すことが多い[要出典]。
流線形車両という語は自動車に対しても用いられるが、現代の自動車設計は、空気抵抗係数(CD値)を極限まで小さくしつつ、相反する要素である揚力係数(CL値)を可能な限り抑えるため必要に応じて適度なダウンフォースを与えるなど、空力特性に留意されているため、見た目としての流線形は取り立てて強調する特徴ではなくなっている。
流線形鉄道車両
第二次世界大戦前
この時代は外見上の流線形外被をかぶせただけのものも多く、抵抗軽減の効果が認められないうえ整備に支障を来たし[2](イギリスのLNER A4形のように科学的に空気抵抗減少を検討したのもあるが[3])、「気流の乱れのせいで排煙が車体に絡みつく(サザン鉄道マーチャント・ネイビー級[4])」、「ゴミが上部に溜まってトンネルに入るたびに舞う(ニュージーランド国鉄Ka型)[5]」といったトラブルを引き起こすものもあった。
ヨーロッパ
ドイツで最初の高速流線形車両は、1930年に製造されプロペラ推進を取り入れた実験的な車両であるシーネンツェッペリンである。1931年6月21日、シーネンツェッペリンはベルリン - ハンブルク間の走行で、230.2 km/hの速度記録を達成した。1932年にはプロペラが撤去され、液体変速機による駆動方式となった。この方式のシーネンツェッペリンは1933年に180 km/hを達成した。
シーネンツェッペリンの経験を受けて、電気式ディーゼルのSVT877フリーゲンダー・ハンブルガーが開発された。この列車は2両編成で定員98名、最高速度は160 km/hであった。1933年5月15日から定期運行が開始され、ベルリン - ハンブルク間の286 kmを138分間で走行し、平均速度は124.4 km/hとなった。SVT877は、高速気動車(Schnellverkehrs-Triebwagen・SVT)と総称される車両群のプロトタイプとなった。量産型のSVTは1935年に製造開始され、やはり急行運用に用いられた。試運転中、「ライプツィヒ様式」編成(Bauart Leipzig) は1936年に205 km/hを達成した。SVTによる定期運行で最速だったのはハノーファー - ハムを結ぶ平均速度132.2 km/hのものであった。この運行は1939年8月22日まで実施された。
ドイツは蒸気機関車でも流線形を採用し、1934年に03形の1両に流線形カバーを取り付ける改造を行い、1935年には流線形を全面的に採用した05形が製造された。高速試験機に指定された05 002は1935年7月26日に195.7 km/h、1936年5月11日には200.4 km/hの速度記録を達成した。05形はその後ベルリン - ハンブルク間の特急列車牽引に充当された。続いて流線形タンク機関車として61形と60形が製造され、流線形の専用客車を牽引、もしくは推進する形でベルリン - ドレスデン間やハンブルク - リュベック間などで運用された。1939年には01形や03形の増備車を改設計した01.10形と03.10形が流線形車体で製造されたが、第二次世界大戦の勃発により01.10形は55両、03.10形は60両で製造を中止した。このほかにも06形や19.10形といった流線形蒸気機関車が試作されたが、第二次世界大戦の影響もあって充分な成果を出さずに終わった[6] 。
イギリスでは流線形列車の開発は1934年にグレート・ウェスタン鉄道(GWR)が比較的低速のレールカーを導入したことや、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)が流線形のA4形蒸気機関車の牽引する「シルバー・ジュビリー」の運転を開始したことに始まる。この目的で製造されたA4形蒸気機関車4468号機「マラード」は、1938年に203 km/hで走行し、蒸気機関車としての世界最高速度記録を達成した。GWRもLNERへの対抗から1935年にキング級とカースル級の各1両を流線形に改造したが、改造が応急的であったこともあり短命に終わった。同じくLENRに刺激されたロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道(LMS)も1937年に流線形のプリンセス・コロネーション級蒸気機関車を導入している。サザン鉄道(SR)は1941年にマーチャント・ネイビー級、1945年にはウェストカントリー級(1946年以降の製造分はバトル・オブ・ブリテン級)と流線形蒸気機関車を製造したが、その流線形は空気抵抗の削減より客車用の洗浄機で洗車を行うことを目的とした特異なものであった[7] 。
フェッロヴィーエ・デッロ・スタート(イタリア国鉄)では3両編成のETR200を流線形電車として開発した。開発は1934年に始まり、1937年から運行された。1937年12月6日、ローマ - ナポリ間の走行中、カンポレオーネとチステルナの間で201 km/hを達成した。1939年にETR212は203 km/hを出した。ボローニャからミラノまでの219 kmの距離を77分で走行し、平均速度は171 km/hに達した。
オランダ鉄道では、流線形の34型電気式ディーゼルカーを3両編成で1934年に導入した。これの電車方式である36型は1936年に運行を開始した。34型を基礎に、1940年にはDE5型が最高速度160 km/hの5両編成の電気式ディーゼルカーとして完成した。試運転では、DE5型は175 km/hを達成した。この年、これに似た電車である40型も初めて製造された。
アメリカ合衆国
世界恐慌による急激な売り上げ減少に直面して、アメリカの鉄道は軽量材料で製造された流線形車両に目を向けることになった。速度を出すために流線形にし、蒸気機関車ではなく内燃機関を使うことを考えた[8]。アメリカの初期の流線形車両としては、ユニオン・パシフィック鉄道のM-10000形(リトル・ジップの愛称があり、シティ・オブ・サリナとして1934年から1941年まで営業運行した)と、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道のバーリントン・ゼファーがある。ゼファー(後に他のゼファーと区別するためにパイオニア・ゼファーと名づけられた)の設計の方が先に始まったが、電気式ディーゼル推進システムの先進的な設計のためにM-10000形にくらべて製造に長く時間がかかった。M-10000形は石油蒸留物という灯油に似た燃料を使い点火プラグを使用したエンジンで走行していた。ゼファーはステンレス鋼で、M-10000形は航空機にも使われるジュラルミンでできており、当時の蒸気機関車と一般的な客車にくらべてかなり軽かった。両者とも、1933年から1934年にかけてのシカゴ万国博覧会での目玉であった。
1934年5月26日に、デンバーからシカゴへの走行でゼファーは速度記録を達成した。この間を13時間で走行し、最高速度は112.5マイル毎時(181.1 km/h)、平均速度は77.6マイル毎時(124.9 km/h)に達した。この走行で消費した燃料は14.64ドル分であった(当時1ガロンあたり4セント、同様の走行を2004年に行ったならば550ドルから650ドル程度)。
各種のゼファーは、バッドによって製造されていた。パイオニア・ゼファーの投入後は、ツイン・シティーズ・ゼファーと名づけられた同様の設計の2編成が、シカゴとミネアポリス・セントポール(ツインシティ)の間を結んでいた。この2本の列車は導入時に、広告戦略目的で2本の並行した線路で双子を乗客として乗せてミネソタ州へ運転された。数年後、ゼファーはわずかに異なる設計の列車に置き換えられた。
ガルフ・モービル・アンド・ノーザン鉄道のリベル(Rebel)は軽量編成の流線形車両であったが、連接車ではなかった。オットー・クーラー設計により、アメリカン・カー・アンド・ファウンドリーが電気式ディーゼルの機構を製造して、1935年7月10日に運行を開始した。
ステンレス鋼を使用した列車のスタイルの成功は、まだ蒸気機関車に拘っていたほかの鉄道にも影響した。この時期、旅客にアピールするために多くの蒸気機関車が流線形にされたが、こうした機関車では効率を改善する効果は薄かった。にもかかわらず、こうした機関車の中には非常に高速で走ったものもあり、定期運行で120マイル毎時(193 km/h)に達したものもあるといわれている。ニューヨーク・セントラル鉄道の20世紀特急やエンパイア・ステート・エクスプレスに使用されたハドソン型蒸気機関車や、ミルウォーキー鉄道がハイアワサを牽引するために専用に製造した機関車、ペンシルバニア鉄道のデュープレックス機関車であるT1形やユニオン・パシフィック鉄道のフォーティー・ナイナー牽引機などが挙げられる。
日本
流線形の流行は日本にも影響した。 1929年 (昭和4年)に鉄道省(国鉄)は、C51形のうちの1両であるC51 61を半流線型に試験改造、1934年(昭和9年)にはC53形のうちの1両を流線形に改造することを決定しC53 43が選ばれた。しかしC53形の改造を担当した島秀雄は、当時の日本の列車は最高でも100 km/hを超えることがないため、空気抵抗を減らす実質的な効果はほとんどないと考えていた。そのためこの機関車は、排気を上にそらすような空気流を作り出すことを考えて設計された。改造された機関車は燃料消費や牽引力や除煙効果の比較試験はされなかった[9]。
この機関車は一般から大変な好評を博し、つづいて国鉄はC55形21両を流線形で製造することを決定した。また、EF55形電気機関車、キハ43000形気動車、モハ52形電車も流線形で製造された。当時日本の支配下にあった南満洲鉄道(満鉄)でも、流線形のパシナ型蒸気機関車が設計され、これと統一した設計による客車を用いて特急「あじあ」が運転されたほか[9]、ジテ1型、ケハ6型、ケハ7型といった流線形気動車も導入された。また私鉄でも名鉄3400系電車や京阪1000型電車 (2代)が登場している。
流線形蒸気機関車は覆いが付けられているため、検査や修理に多大な手間がかかった。第二次世界大戦の勃発後、労働力の不足によりこの問題は深刻化し、ついに覆いは取り外された状態で運行されることになった[9]。
第二次世界大戦後
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国では、自動車や航空機による旅行が広まったために、流線形列車やそれの後継となる高速鉄道はほとんど消滅した。州際通商委員会による1951年の決定の後、自動列車停止装置・自動列車制御装置・車内信号などの装備が無い列車は79マイル毎時(127 km/h)の速度に制限されることになった[10]。政府の規制により、鉄道会社側の言い分ではほとんど利益を上げることが不可能な長距離路線であっても、旅客営業を続けなければならなかった。こうした規制や、政府が高速道路建設計画に大きな投資をしていたことが、より問題を悪化させたと主張する人もいる。1971年以降、アメリカにおける旅客営業のほとんどはアムトラックにより運行されるようになった。その後、高速鉄道としてアセラ・エクスプレスがボストンとワシントンD.C.を結ぶ北東回廊に導入された。アメリカ合衆国全体でも多くの地域で新しい高速鉄道の建設が検討されているが、ヨーロッパや日本に比べるとアメリカでは鉄道の利用はあまり一般的ではない。
パイオニア・ゼファーは26年間にわたり300万マイル(480万 km)におよぶ営業運行を終えた後、シカゴ科学産業博物館に収蔵された。M-10000形は他の初期の列車の多くと同様に解体処分となった。1942年に廃車され、そのジュラルミンは軍用機に再利用された。3番目に完成した流線形車両であるフライング・ヤンキー(Flying Yankee)は、運行可能な状態での修復作業が進められている。これは最初のゼファーとわずかだけデザインが異なるものである。
ヨーロッパ
ヨーロッパでは第二次世界大戦後、再び流線形車両の流行があった。ドイツでは、高速気動車(SVT)が戦前よりは低速であったが再度運用された。SVTのうち「クルッケンベルク」編成に基づいて設計されたVT11.5型(後に601型に改称される)がTEEとして国際高速列車に使用された。ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、VT18.6型がやはり国際優等列車用に製造された。1965年から、西ドイツ国鉄は流線形の103型(当初はE03型)電気機関車を開発、定期の高速列車運用に投入した。1973年からは403形を開発、運用を開始した。403形は4両編成の動力分散式の電車で、ボルスタレス台車を装着し車体傾斜機構を備えていた(ただし営業運転ではこの機構は使用されていない)が、当時のドイツ国鉄の輸送事情には適合せず、量産は実施されなかった。1991年からICEが高速鉄道として開業し、ICE1が投入された。
スイス連邦鉄道(スイス国鉄)とオランダ鉄道は、RAm TEEI形(スイス形式)、DE-IV形(オランダ形式)をチューリッヒ - アムステルダム間およびアムステルダム - ブリュッセル - パリ間に投入するために開発した。この列車は1977年にカナダのオンタリオ・ノースランド鉄道(Ontario Northland Railway)にも売却され、トロントとムースニーを結ぶノースランダー(Northlander)に使用された。スイス国鉄は1961年から、4電源方式のRAe TEEII形電車(SBB-CFF-FFS RAe TEE II)をTEEに投入した。
フランス国鉄(SNCF)は鉄軌条式鉄道での当時の世界記録となる最高速度331km/hを1955年3月29日に達成するなど、200km/h超での高速運転の研究に熱意を持って取り組んでいた。しかし、この時期には高速車両への流線形採用に対する関心は薄く、1971年より就役を開始したETG・RTG(チュルボトランと称する一連のガスタービン動車シリーズ)で傾斜角のついた前面デザインを採用、さらに250km/h以上の速度域での運用をねらったTGV001(1972年)以降、本格的な流線形デザインの高速鉄道車両の製作を行うようになった。以後、最新のAGVまでフランスでは流線形車両の開発が継続している。
イタリアは大戦前からの車両を運行すると共に、ETR300型「セッテベロ」、ETR401型、ETR450型、ETR600型(ペンドリーノ)、ETR500型などを開発した。
イギリスでは、第二次世界大戦の勃発と共に流線形列車の運行は終了した。戦争中は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道とロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道の流線形蒸気機関車は、保守作業のために流線形部品を取り外して運用されていた。1940年代末から1950年代初めにかけて、戦争の被害と遅れていた保守作業が回復するにつれて鉄道の状態が回復し、本線は高速走行が可能な状態となった。
イギリスでの流線形気動車による最初の実験は「ブルー・プルマン」こと251・261形によって1960年に始まり、1973年に運用から撤退した。この列車は90マイル毎時(140 km/h)で豪華なビジネス向けサービスを提供したが、一般的な列車にくらべてわずかに速いだけで、限定的な成功しか収めなかった。ブルー・プルマンはその後の流線形・振り子式列車の研究につながり、最終的にイギリス全体を運行するインターシティー125の実用化をもたらした。
ドイツで403形が開発され、フランスでTGV001が試作されていた1970年代初頭から、イギリスでもAPTと呼ばれる次世代高速鉄道車両の研究開発プロジェクトが推進されていた。このプロジェクトは台車、ブレーキシステム、車体、車体傾斜制御など各要素技術について斬新な要素が盛り込んで開発が推進された。その過程で、試作ガスタービン動車のAPT-E、そして動力集中式電車のAPT-Pが製作され、これらはいずれも特徴的な流線形の前頭部を備えていた。もっともこのAPTプロジェクトは流体ブレーキシステムに致命的な問題を抱えていて実用化には至らず、このプロジェクトで開発された車体傾斜制御技術がイタリアに売却されペンドリーノの実用化に貢献したに留まった。
日本
第二次世界大戦後、日本の鉄道は本線においても動力分散方式の列車を選択するようになった。1949年(昭和24年)に日本国有鉄道(国鉄)は80系電車を送り出し、電車としては初めて長距離列車に使用された。1950年(昭和25年)以降に製造された80系電車の先頭車は流線形を採用していた。1957年(昭和32年)には、小田急電鉄が3000形電車を送り出した。外観の設計は航空機用風洞が用いられた。小田急3000形は当時の狭軌における世界最高速度記録である、145 km/hを達成した。電車は、国鉄の80系により長距離運用に適することが示され、小田急3000形により高速走行性能も示した。この経験が最初の新幹線である0系につながった。0系の設計は小田急3000形に強く影響を受けており、同様に風洞を用いて開発された。0系の先頭車はジェット機のDC-8を参考に開発された。200 km/hの速度では0系の空力的な設計は空気抵抗の低減に本質的な影響があったといえる[11][12]。
現代の高速列車
すべてではないが、今日の世界中の高速列車は流線形となっており、その速度は次第に向上している。特に、250km以上で走行する高速鉄道車両は、全て流線型デザインを採用している。
流線形の自動車
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1920年代には多くの技術者が空力的な設計を自動車の形に取り入れようとし、その中には実際に生産を開始したものもあった。そうした自動車の中で最初とされるのが、涙滴形で車体の内側に車輪を備えた、ルーマニアの技術者Aurel Persuによる設計のものであったとされる[13]。これは抗力係数(Cd値)0.22という驚異的な値を示した。
フォルクスワーゲン・タイプ1(初代ビートル)は、その滑らかな曲線にもかかわらず、抗力係数は0.48で、トラックやSUVなどと同等のものであった。一方、多くの空力的なスタイリングは風洞実験による空力最適化のフィードバックを受けたもので、今日ではコンピュータによるモデリングも使われる。特徴としては、先端の涙滴形の鈍い曲線、後方の傾いた車体、丸みを付けられた角、車体の滑らかな推移、後輪を覆うスカート、ボンネットの飾りやミラーなど突出したものの撤去などが挙げられる。
流線形のバス
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1930年代には多くのバスがスタイリッシュな外観を採用し[14]、実験によればこれは燃料費を抑える効果があることが示されていた[15]。
流線形のトレーラー
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大型トラック、トレーラーにおいては、ルイジ・コラーニによる設計の元、メルセデス・ベンツ社製の大型トラックをベースとした流線形のコンセプトトラックが2000年に発表された。また、ウォルマート社によるWAVE等、コンセプトカーとして流線形の車両が幾度か提案されている。
キャンピングトレーラーにおいては、エアストリーム社製の車両が流線型スタイルである。このスタイルの車両は1930年代初めから製造されており、同社のアイデンティティとなっている。
流線形の船
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流線形は、車両ではないが1930年代のアール・デコ様式の自動車・旅客フェリー「カラカラ」(MV Kalakala) にも採用された。
脚注
- ^ この機関車は流線形機関車として1938年に青と銀の塗装で製造され、アメリカ合衆国にわたり3,000マイルにわたる展示走行と1939年のニューヨーク万国博覧会への出品を経て、1942年にイギリスに戻った。流線形カバーは1947年に保守作業の容易を図って撤去された。2009年に再度流線形化され、ヨークのイギリス国立鉄道博物館に保存展示された
- ^ このため戦争中に覆い(特に足回り)を撤去されたものも多い
(『ビジュアル図鑑 世界鉄道全史』、スタジオタッククリエイティブ、2019年、ISBN 978-4-88393-853-7、p.150-151「ヨーロッパの流線形蒸気機関車」) - ^ デイヴィット・ロス『世界鉄道百科図鑑』小池滋・和久田康雄訳、悠書館、2007年、ISBN 978-4-903487-03-8、p.163-165「A4型 4-6-2(2C1)」
- ^ 『ビジュアル図鑑 世界鉄道全史』、スタジオタッククリエイティブ、2019年、ISBN 978-4-88393-853-7、p.272。
- ^ 齋藤晃『狭軌の王者』イカロス出版、2018年。ISBN 978-4-8022-0607-5、p.156。
- ^ 前里孝「ドイツの流線形蒸気機関車」『とれいん』1982年8月号 P.68-71
- ^ 植松宏喜「英国の流線形蒸気機関車」『とれいん』1982年8月号 P.66-68
- ^ “American Experience: Streamliners (Transcript)”. PBS.org (2000年). 2010年8月7日閲覧。
- ^ a b c 島秀雄・高田隆雄・吉村光夫「てい談 流線型時代を語る」『鉄道ピクトリアル』第426巻、電気車研究会、1984年1月、pp.10 - 15。
- ^ “Ask Trains from November 2008”. Trains Magazine (December 23, 2008). December 29, 2009閲覧。
- ^ 生方良雄「わが国における流線型電車・気動車の50年」『鉄道ピクトリアル』第426巻、電気車研究会、1984年1月、pp.16 - 22。
- ^ 田中眞一「新幹線車両の流線型 その生い立ち」『鉄道ピクトリアル』第426巻、電気車研究会、1984年1月、pp.29 - 31。
- ^ “Streamline power vehicle”. European Patent Office. 2011年6月11日閲覧。
- ^ Streamline bus is like a dirigible on wheels. (April 1935). 487 2010年8月7日閲覧。
- ^ Wind-tunnel tests show streamline bus saves fuel. (August 1936). 185 2010年8月7日閲覧。
参考文献
- 『とれいん』1982年8月号 No.92 特集:流線形
- Streamliners: America's Lost Trains - The American Experience
外部リンク
- Pioneer Zephyr - シカゴ科学産業博物館
- The Lost Promise of the American Railroad. - The Wilson Quarterly
- Streamlined Transportation in the Art Deco Era - 1930年代の自動車・列車・飛行機の流線形
- Streamlined Locomotives of the Swing Era
- Streamlined Bonair Oxygen trailer
- 幻の「流線形電気機関車」、67年前の設計図見つかる…東海道新幹線0系車両に技術活用 (読売新聞オンライン2022年10月20日掲載記事)