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フェルディナント・ポルシェ

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フェルディナント・ポルシェ
フェルディナント・ポルシェ(1942年)
生誕 (1875-09-03) 1875年9月3日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
死没 (1951-01-30) 1951年1月30日(75歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
職業 自動車技術者
署名
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フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche, 1875年9月3日[1] - 1951年1月30日[2])は、オーストリア工学技術者自動車工学者。

ダイムラーのメルセデス(ベンツとの合併後はダイムラー・ベンツ、現メルセデス・ベンツ)の古典的高性能車群、ミッドシップエンジン方式を採用した画期的レーシングカーのアウトウニオン・Pヴァーゲン、史上最も成功した大衆車といわれるフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)など、1900年代から1930年代にかけて自動車史に残る傑作車を多数生み出した設計者として知られる。

さらにティーガー戦車(軍には採用されず、試作のみに終わる)、超重戦車マウス(こちらは試作二両のみであり、一両は戦闘に参加した)、エレファント重駆逐戦車といったドイツ国防軍戦車や、150tに及ぶ軍用トラクター、風力発電機も手がけた多才な人物であった。

口癖のように「技術的問題を解決するためには美的観点からも納得のいくものでなければならない」と言っていたという[3]

その傑出した業績から、後年の自動車評論家たちによって「20世紀最高の自動車設計者」に選出されている。

経歴

生い立ちと自動車業界入り

ローナーポルシェ(1900年)

ポルシェという姓はスラヴの男子名ボリスラフから派生したと思われるが、東部開拓時代にドイツ家族に取り入れられた可能性もあり、その家族がスラヴの血を引いているとは限らない[1]

高祖父はヴェンツェル・ポルシェといい、現在チェコ領である北ベーメンで領主の小使いをしていた[1]。その後一族は大工作り、仕立て屋織工ブリキ細工屋などといった職人をしており、中には領主お抱えの者もいた[1]

父アントン・ポルシェは1845年にアルトハルツドルフに生まれ[1]、年季奉公を済ますとオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった北ボヘミアリベレツ近郊の町マッフェルスドルフ [1][4]Maffersdorf)、現在のヴラティスラヴィチェ・ナド・ニスウ[4]Vratislavice nad Nisou )でブリキ細工職人[1]となり、1850年生まれ[1]のアンナ・エールリヒ[1]1871年に結婚[1]した。

フェルディナント・ポルシェはマッフェルスドルフで兄アントン・ポルシェ[注釈 1]、姉ヘートヴィヒ・ポルシェに続く次男[1]として生まれた[注釈 2]。父アントンの仕事を継ぐはずだった兄アントンが徒弟奉公中に機械に巻き込まれて早世した[1]ため若い頃から父親の仕事を手伝っていた[1]が、子供の頃から電気に興味を持って独学で実験を行なうなど単なる職人に留まらない好奇心を見せていた[1][4]。亭主関白であった父親は最初頑な態度を取り、ブリキ細工に関係ないことは全て禁じた[1][4]が、フェルディナントは一日12時間という厳しい労働の合間を縫って屋根裏で実験を続けた[1][4]。母親はこれを黙認していた[1]

ある日父アントンはフェルディナントの計略を見破り、実験室になっていた屋根裏に押し入ったが、その際硫酸の入ったバッテリーを踏みつぶして長靴や肌をヤケドし、余計に腹を立てて厳しく罰した[1]。母はウィーンの学校にやることを主張したが、父は妥協案としてライヒェンベルク国立工業高校の夜間部通学を許した[1]。それでも父親は金属細工の仕事を継がせるつもりでいた[1]が、自力で電源設備を製作し街で初めて[1]または2番目[4]に自宅に電灯を点したポルシェを見てその才能を認め、ウィーンに出ることを認めた[1]。家業は弟で父アントン・ポルシェの4番目の子オスカー・ポルシェが継いだ[1]

1894年、首都ウィーンに出たポルシェは、電気機器会社ベーラ・エッガー(Béla Egger、現ABBグループ)で働く傍ら、ウィーン工科大学の聴講生として熱心に学んだ。ベーラ・エッガーでは実習生でありながら技術的課題に対して第六感があると評され、また常に新しい自己独自のアイデアを持っていたため瞬く間に昇進、4年後には検査室長になった[5]。すでにこの頃から自動車への関心を持ち始めており、モーターについての特許を1897年末に申請している[5]

電気自動車を手がけ始めていたウィーンの元・馬車メーカーのヤーコプ・ローナーの電気自動車がモーターの修理で入庫したのをきっかけに、1898年[6][4]ヤーコプ・ローナー[注釈 3]に引き抜かれて自動車開発を手がけることになった[1]。この時わずか23歳であった[6]

ヤーコプ・ローナー時代

車輪のハブモーターを搭載した電気自動車「ローナーポルシェ」を考案し、1900年パリ万国博覧会[6][4][注釈 4]にも出展された。この発想は現代の電気自動車や一部の電動アシスト自転車に用いられるインホイールモーターの先駆である。

1905年にオーストリアのエンジニアを表彰するペティング賞を受けた[1]

アウストロ・ダイムラー時代

自分の研究開発が進まないのはローナーの会社規模が小さいからだと感じ[5]1906年[2]にアウストロ・ダイムラーに技術部長[7]として移籍し、初めて白紙からスポーツカーを設計する機会を得て1909年4気筒SOHC5,700ccエンジンを搭載した「28/30HP マヤ」を設計、プリンツ・ハインリヒ・トライアルで1から3位を占めた。この時1位の車両を運転していたのはポルシェ自身であった[2]。また翌1910年にもさらに軽量化と空力改善を進めた「27/80HP」でまたしても1から3位を占めた[2]。この2年の勝利で設計者としてもレーサーとしても名声を得ただけでなく、ランチアのヴィンチェンツォ・ランチア、ブガッティエットーレ・ブガッティボクスホールのローレンス・ポメロイ、タトラのハンス・レドヴィンカなど当時の一流設計者と親交を結び、技術的な討論を交わす機会を得、特にレドヴィンカとは終生友人として交際した[2]

自動車だけでなく各種の航空エンジンを開発し、1910年には最初の航空機用エンジンが出荷され、この時にはオーストリアにはまだ飛行機は1機もなかったが、ポルシェは飛行機の将来性に気がついておりエンジン開発を継続するよう主張、第一次世界大戦前ダイムラーの航空用エンジンの優秀性はすでに世界に知れ渡った[7]。重量軽減のため薄い鋼鈑をシリンダーバレルの周囲に溶接しシリンダージャケットとする手法は後にダイムラー・ベンツで設計したスーパーチャージャー付エンジンに採用されただけでなく、彼がダイムラー・ベンツを去った後もV型12気筒エンジンDB 601や、メルセデス・ベンツ・300SLR直列6気筒エンジンにも見られる[2]1912年から彼は空冷エンジンに切り替えた[2]。最初の空冷航空エンジンは水平対向4気筒OHVで、当時傑作と認められ航空先進国だったイギリスのビアードモアでも生産されるほどであった[7][2]。このエンジンはイギリスのサイエンス・ミュージアムに展示されているが、これを見ると驚く程フォルクスワーゲンのエンジンと似ているという[2]1918年にはプロペラ回転の隙間を縫って弾が発射されるよう設計していた[7]

これらの業績からアウストロ・ダイムラーの総支配人となり[7]、オーストリア皇帝よりフランツ・ヨーゼフ十字勲章[7][4]と軍功労十字勲章[7]を、1917年ウィーン工科大学から名誉博士号[7][注釈 5]を授与された。叩き上げの技術者で大学を卒業していないポルシェが「博士」の敬称で呼ばれているのは、自動車工学の実践的側面への傑出した功績を称えて授与されたこの名誉学位に由来する。

ポルシェは自分の設計したエンジンが装備された飛行船のテスト飛行にも参加し、危うく大事故に巻き込まれそうになりながらも自ら機械を修理して何とか生還した[7]

1918年第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国が解体され国民が窮乏したのを見てポルシェは今後価格も維持費も安い小型車が市場に受け入れられると感じ、経営陣に対して小型車の開発をたびたび提言したが受け入れられなかった[2]。しかし友人のサッシャ・コロウラート伯爵が小型高性能車開発のアイデアに共感して全ての研究開発費を援助することとなり、4台の小型スポーツカーが製作された[2]。ボアφ68.3mm×ストローク75mmの直列4気筒[3]1,100ccSOHC[3]45hpエンジンを積んだこのスポーツカーは出資者の名を取り「サッシャ」と名づけられてタルガ・フローリオに出場、1,100ccクラスで1、2位を獲得した[2][3]。2,000cc以上クラスに出場した1両も当時無名だったアルフレート・ノイバウアーの運転により平均速度55.5km/hで6位[3]または7位[2]に食い込んだ。この年だけで「サッシャ」は51のレースに出場、43の1位と8の2位を獲得しポルシェとアウストロ・ダイムラーの名を全ヨーロッパに轟かせた[2]。ポルシェは「スポーツでの成果により車名が知られ、それにより自動車が売れる」旨主張したが、重役会は「資金が掛かりすぎる」旨を主張しこれに懐疑的であった[3]

ポルシェはさらに2,000ccと3,000ccのエンジンを積むスポーツカーを試作し、生産の準備に入っていたが、1922年秋モンツァにおけるイタリアGPで「サッシャ」のワイヤーホイールの材質の問題からクラッシュしてドライバーが死亡する不幸な事故があり、アウストロ・ダイムラーの経営陣はこの事故の責任を全てポルシェに押しつけ、レースを禁止してしまった[3]。これに憤慨したポルシェは即日辞表を提出し退職した[3]

ダイムラー・モトーレン時代

1923年[4]4月、本家ともいうべきダイムラー・モトーレン[4][2]に主任設計者[2]として迎えられ技術部長兼取締役[2][4]に就任し、家族とともに[2]ヴァイマル共和政下のドイツシュトゥットガルト[2][4]に移った。片腕であったオットー・ケラーとテストドライバーであったノイバウアーがアウストロ・ダイムラーからポルシェに従って転職して来た[2]。最初の仕事は前任であったパウル・ダイムラーが開発途上で放棄したレーシングカーの継続開発であり、ポルシェの改良により2,000cc4気筒OHCスーパーチャージャーエンジンは120hp/4500rpmを発揮、このレーシングカーは1924年のタルガ・フローリオで平均速度66.081km/hを記録し優勝した[8][2]。この勝利はスポーツカー界のみならず学界からも高く評価され、1924年7月4日にシュトゥットガルト工科大学から名誉工学博士を受けた[2][8]

また1924年から「メルセデス」、1926年ダイムラーがベンツと合併しダイムラー・ベンツとなった後は「メルセデス・ベンツ」ブランドで高性能乗用車やレーシングカーを多数手がけた。中でも1927年から生産されたスポーツ・モデルのSシリーズは、1928年には「SS」「SSK」という古典的高性能スポーツカーに発展、これらはレースフィールドでも大成功を収めた。

その傍らでポルシェは小型大衆車の開発にも意欲を見せていたが、第一次世界大戦後の不況下で着手は困難であり、更に不況対策のため合併したベンツ系の重役陣からは大反対を受けた。元々頑固な性格のポルシェは経営陣との軋轢も多く、彼らの意向で開発現場から外される見込みになったことから「SS」が世に出た1928年にダイムラー・ベンツを辞職した。

シュタイア時代

ダイムラー・ベンツを辞職すると早速チェコのタトラ、オーストリアのシュタイア(現シュタイア・ダイムラー・プフ)から声がかかった[2]1929年1月シュタイアの主任設計者となり、その後わずか10週間で2,000cc6気筒エンジンを積んだ車両「30」の設計を完了した[2]。この車は1935年頃まで多少の改良を続けながら生産され、シュタイアの大黒柱となった[2]。次いで8気筒5,300cc100hpのエンジンとオーバードライブ、ブレーキサーボなどの新鋭機構を搭載した大型車「シュタイア・オーストリア」を設計、自ら運転して1929年のモンディアル・ド・ロトモビルに参加し、非常な人気を得た[2]

しかしシュタイアの業績は傾きつつあり、ついに銀行管理を経てアウストロ・ダイムラーに吸収されることになった。かつて意見衝突から退職に至った経営者の元で働く気にはなれず、シュタイアも辞職することとなった[2]

独立、「Pヴァーゲン」と「フォルクスワーゲン」の開発

1931年[4][9]、シュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行なうポルシェ事務所(Dr. Ing. h.c. F. Porsche GmbH, Konstruktionen und Beratungen für Motoren und Fahrzeugbau )を設立した[2]。社員にはかつての同僚や、ボッシュで徒弟期間を終えて来たばかりの息子フェリー・ポルシェらがいた。

最初の仕事はヴァンダラーからの注文で、2,000cc級中型車の設計だった[2]。ポルシェ事務所は設計について通し番号で呼ぶことにしたが、この最初の作品は依頼者に危惧を与えないようタイプ1でなくタイプ7とした[2]

タイプ7は成功し、ヴァンダラーはより大型かつ高性能な自動車の設計を発注して来たので、8気筒OHVスーパーチャージャー付き3,250ccエンジンを積んだタイプ8が設計され試作された[2]。このタイプ8にはシュトゥットガルト大学のカム博士が当時珍しかった風洞実験を行なった結果到達した流線型ボディーがロイター(現レカロ)の製作により架装されていたが、ヴァンダラーがアウトウニオンの結成に参加したため生産には至らなかった[2]。このカム博士の流線型理論は後のフォルクスワーゲンのボディー形状に影響を与えている[2]

ドイツ国内外の主要メーカーからの委嘱によって自動車設計を手がける一方、当時の技術における理想的なレイアウトのリアエンジン式・流線型小型大衆車の開発を試みるが、提携先メーカー各社の充分な協力が得られず、資金不足により頓挫した[2]。この時設計したタイプ12がのちのフォルクスワーゲンの原型となった。

ポルシェは設計者としての能力は傑出していたものの新技術の開発自体はあまり多くなかったが、この時代には横置きトーションバーを上下2段に配置して2本のトレーリングアームで車輪を支持する、前輪向けのコンパクトな「ポルシェ式独立懸架」を考案している。フォルクスワーゲンなど自らの開発するモデルに利用したほか、アルファロメオシトロエンボクスホールモーリスなど多数のメーカーが特許料を払ったり、直接ポルシェに設計を依頼してこの方式を用いた。

この頃、ソビエト連邦からの招聘を受けてヨシフ・スターリンと面会し、スターリンはソ連で自動車開発のために働くことを提案した。当時のソ連はフォードから旧式モデルのツールをプラントごと購入するなどして国産自動車の開発に邁進しており、ドイツとも密かに関係を結んで戦車開発を進めていたのである。このためスターリンはポルシェにも好条件のオファーを示し、ポルシェ本人も相当苦しんだと述懐しているが、「ロシア語の壁は、56歳の自分にはとても乗り越えられない」として辞退した。

1933年に、ドイツの覇権を握った独裁者アドルフ・ヒトラーから歓喜力行団を通じて、国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)の設計を依頼された。ようやく理想の小型大衆車開発を実現したポルシェは、3年後の1936年には流線型ボディ・空冷リアエンジン方式の1,000cc試作車を完成、1938年には計画通りの量産化に着手している。この際、車名はヒトラーにより「KdF-Wagen」(歓喜力行車)とされた。後の、「かぶと虫」(独: Käfer、英: ビートル)の愛称で世界的に親しまれ名車フォルクスワーゲン・タイプ1である。当記事では以降「フォルクスワーゲン」とする(企業名と混同せぬよう注意)。

またこれと並行し、やはりヒトラーの後援を受けたアウトウニオンの依頼で、ミッドシップ方式のレーシングカー「Pヴァーゲン」を1934年に開発。同時期に開発されたライバル「メルセデス・ベンツ・W25」シリーズと並ぶ高性能レーサーであり、両車はヨーロッパの多くのレースを席巻した。1936年にはヴィルヘルム・エクスナー・メダルを、1938年にはノーベル賞に対抗してナチス・ドイツが制定したドイツ芸術科学国家賞を受賞した。当時モーリスにいたアレック・イシゴニスはこの車両に強い感銘を受け、アウトウニオンのシャシをスケールダウンとともに簡略化したような構造の750ccスプリントカーを製作した程であった。

フォルクスワーゲンとアウトウニオン・レーサーは、いずれもポルシェの開発能力だけでは成立し得ず、ヒトラーの意向による国家的後援があっての存在であった。廉価で高性能なフォルクスワーゲンはヒトラーが大衆政策として開発を指示したものであり、銀色のアウトウニオンは、国威発揚のための宣伝の具であった。その他第二次世界大戦直前から戦争中にかけてポルシェは風力でプロペラを回す風力発電機、フォルクスワーゲンエンジンを流用したサーチライト用エンジン、5気筒星型エンジンをアンダーフロアに搭載したバス、新型ラバーサスペンション、V16エンジンをミッドシップし横掛け3人乗りのPヴァーゲンなど多様なデザインをこなした[2]。その中でも特筆すべきは速度記録車T80である。

純粋な技術者で政治に関心のなかったポルシェは、ヒトラーに対しても「総統閣下」などの敬称を用いずに「ヒトラーさん」と一般人同様の呼び方をしていた[10]。しかしポルシェの才を買っていたヒトラーは気にせず受け入れ、開発資材も潤沢に与えた。

1936年のアメリカ旅行

すでにアメリカ合衆国でも自動車の大家として知られていたが、この時は秘書のみを伴い、短期間アメリカ合衆国へ旅行した[10]。この時はパッカードV型8気筒エンジン搭載車を現地購入しそれを乗り回して移動した[10]。帰路予めブレーメンで帰国することになっていたが、ブレーメンが大西洋を渡る2日前に当時世界最大の船舶で就航したばかりのクイーン・メリーが渡ることをニューヨークで知ったポルシェはそれに乗って帰ると言い出した[10]。当時すでにドイツ人に対する外国為替制限は非常に厳しくなっており、旅行が間もなく終わる時でアメリカドルはほぼ使い果たしていたので、そのままであればドイツマルクが使えるブレーメンで往復するしかなかった[10]。秘書はブレーメンの切符を払い戻し外国為替で返金してもらうよう北ドイツ・ロイド社に問い合わせたが、外国為替法違反になるという理由で断られた[10]。ロイドから許可を申請してもらうようドイツ政府に話をしたが、断られたようだったという[10]。秘書はその旨話したがポルシェは納得せずクイーン・メリーに乗れる方法を考えて欲しいとのことだったので、秘書はキュナード・ホワイト・スター・ラインの事務所を訪れ、無料で特等室を使う許可を貰い、ポルシェは無一文で大西洋を渡った上に食費として数ポンド受け取った[10]。船長は有名人を乗せたことで満足していたが、ポルシェは持ち前の好奇心からエンジンルームも見たいと言い出した[10]。当時外国人をエンジンルームを見せることは原則禁止されていたので断られたが、ポルシェは特別の許可を出して欲しい旨話をし、結局その特別の許可を出すためにロンドンに問い合わせて許可を出す羽目になった[10]。ポルシェは気づいた疑問点を技師に全て聞き、技師は喜んでそれに答えた[10]。船は台風に遭い非常に揺れたが、ポルシェは1日1度気晴らしに船を一周する習慣を止めず、大きく傾いたブリッジに行き技師に「何度傾くと船が転覆するのか」尋ねた。技師は「ブリッジが水に浸かるまで大丈夫だがブリッジにはもう来ないように」と話した[10]。しかしポルシェはどれだけ傾いているか写真に収めた[10]サウサンプトンに船が到着した時、新聞記者が台風の中で撮影した写真を欲しがっており、ポルシェの撮影した写真が日刊紙に掲載された[10]。その後オースチンハーバート・オースチンに招かれて工場を見学するため2-3日イギリス滞在した[10]

1937年のアメリカ旅行

この旅行は前回のような私的なものではなく、フォードヘンリー・フォードと国民車の問題を長い間討議したが、フォードはモデルTの成功の夢から抜け出せておらず、非常に保守的であったため成果はなかった[10]。ポルシェはフォードをドイツに招待したが、もうすぐ戦争が始まるであろうことを理由に断られた[10]

軍需への転換

自社のハンドルを前に(1940年)

第二次世界大戦中にはアドルフ・ヒトラーの意向により、フォルクスワーゲンをベースとした軍用車両(キューベルワーゲンシュビムワーゲン)やティーガー戦車等の戦闘車両の設計に携わった。

戦争末期はローナー以来の発電駆動式を採用したVK4501(P)戦車や、超重量級戦車マウスなど、相当に誇大妄想的な兵器の設計を行なっている。これらの兵器はカタログスペックこそかなりの性能を有しており当時絶望的な戦局を逆転させる超兵器への願望が強かったヒトラーにはいたく好評でお気に入りの作品だったと言われている。現実の軍用車両としては運用性・機械的信頼性・耐久性・生産性に多くの難点を抱えており、兵器としての根本的実効性は著しく疑問の持たれるものであった。しかし生産性の低い横置きトーションバーと比較して、能力は低いが生産性の高い縦置きトーションバーサスを開発したり、進む戦車の重量の増大に対して、サスペンションの対応を考慮して変速機を廃止するためのモーターの採用など、機械的な改革を軍部にも積極的に進言・採用させるよう努力している部分もあった。

戦後の混乱

終戦の時ポルシェはツェル・アム・ゼーにいた[11]。ポルシェ自身はナチス党の政治理念には反対であったが、ヒトラーと極めて密接な関係にあったこと、事実として枢軸側の戦力に多大な貢献をしたことからドイツ敗戦後の1945年6月に戦争犯罪人としてアメリカ合衆国軍によりヘッセン州に連行され、有名人戦犯容疑者収容所となっていた古城に収容された[11]アルベルト・シュペーアによればポルシェは「政治と全く関わりがなかったのだから収容は無意味だ」とされ、丁重に扱われてある程度の自由が許されており、また数週間後には釈放され、ツェル・アム・ゼーに戻ることになった[11]。その帰り道、進駐軍により差し押さえられていたツッフェンハウゼンの自分の工場に寄って自分の工場を見せてもらうように指揮官に頼んだが、断られた[11]

フランスでの国民車構想計画について「フォルクスワーゲンの設計者の助言を得たい」とフランスから招待されて義理の息子アントン・ピエヒや秘書を伴いバーデン=バーデンに赴き、交渉に臨んだ[11]。当初交渉は和やかな雰囲気で具体的に進んだが、フランス国内の政変により情勢が急変、「ポルシェは、戦争中フランスの工場を接収し、フランスの労働力を搾取したことに対して責任がある」などと全く根拠のない非難が吹聴され、息子とともに逮捕されて2-3週間後にパリに連行された[11]

パリではルイ・ルノー宅の門衛所に寝泊まりした[11]。この時試作中のリアエンジン小型車「ルノー・4CV1941年設計開始、1946年発表)」の設計完成への助言を求められて与えている[注釈 6][11]

まもなくディジョンの刑務所に移され、ここで1年7か月厳しい生活を送ったが、ベネディクト会のヨハネス神父の尽力により何とか生き存えられた[11]

晩年

息子フェリー・ポルシェチシタリア・グランプリレーサーの設計費用として100万フランを得、これを保釈金としてポルシェは1947年8月1日に釈放された。しかし長い収監で健康を害しており、その後は健康状態が優れなかった。

自動車の設計やポルシェAGの運営の大部分はフェリー・ポルシェが取り仕切ったが、戦後の1945年から本格的な生産を開始したフォルクスワーゲンと、1948年から生産を開始したポルシェ・356の成功を見届けた。1950年6月3日に行われた75歳の誕生日会には、ヨーロッパ各地から50台の356が集まってポルシェを祝福したが、同年11月に脳梗塞を発症し、翌1951年1月30日に死去した。75歳没。

死後、自動車殿堂1987年)、及び国際モータースポーツ殿堂1996年)入りしている。

子孫

息子らにより復興したポルシェ家と、その女系にあたるピエヒ家の両家併せて、現在までフォルクスワーゲン・グループを支配している。総資産は40億ドル以上[1]とされる。

脚注

注釈

  1. ^ 父と同姓同名である。
  2. ^ 『あっぱれ技術王国ドイツ』p.142は『三男』としている。
  3. ^ 『あっぱれ技術王国ドイツ』p.143は『ルートヴィヒ・ローナー王立自動車製作所』としている。
  4. ^ 『世界の自動車-5 ポルシェ』はパリサロンとしている。
  5. ^ 『あっぱれ技術王国ドイツ』p.145は『ウィーン技術高等学校の名誉博士』としている。
  6. ^ 4CVはフォルクスワーゲンの影響下で設計されたが、この時シャシの寸法と重量配分の点で満足が得られていなかったものの、すでに試作車が何台か完成しており、ポルシェが設計したとの説は間違いである。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.13-16「ポルシェの生いたち」。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『世界の自動車-5 ポルシェ』pp.5-22「ポルシェ前史 最初の電気車からVWまで」。
  3. ^ a b c d e f g h 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.35-42「第1次世界大戦後 ザッシャ車」。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『あっぱれ技術大国ドイツ』pp.131-190。
  5. ^ a b c 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.17-22「ヤーコプ・ローナー社 混成動力車」。
  6. ^ a b c 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.7-12「パリ万国博 電気自動車」。
  7. ^ a b c d e f g h i 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.23-34「アウストロ・ダイムラー社 スポーツレース」。
  8. ^ a b 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.46-51「タルガ・フローリオ クリスティアン・ヴェルナー」。
  9. ^ 『世界の自動車-5 ポルシェ』p.15。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.91-95「アメリカ旅行」。
  11. ^ a b c d e f g h i 『F.ポルシェ その生涯と作品』pp.108-136「第2大戦後 チシタリア」。

参考文献

外部リンク