夏侯湛
夏侯湛(かこう たん、243年 - 291年)は、西晋時代の政治家・文学者。字は孝若。譙国譙県の人。『晋書』に伝がある。
略歴
[編集]父に当たる夏侯荘は魏の元勲夏侯淵の四男・夏侯威の子。夏侯湛は夏侯淵の曾孫に当たる[1]。夏侯湛の母は羊徽瑜(司馬師の妻)の従姉妹。夏侯湛の姉妹の夏侯光姫も東晋元帝・司馬睿の生母で、夏侯湛は魏皇族でありながら晋皇室とも縁の深い人物であった。太子舎人・尚書郎・野王県令・中書郎・南陽王の相を歴任し、恵帝の時、散騎常侍に上った[2]。
幼い頃から才気を発し、文章は豊かで、造語をよく作った。また大変な美形で、潘岳と仲がよくいつも連れ立っていたため、「連璧」の異称を得ていた[3][4]。
西晋時代一流の文化人でもあり、多くの書・伝記を残した。夏侯湛が作成した『周詩』は、潘岳に「温雅なだけでなく、孝悌の念も見受けられる」と称賛されている[5]。夭折した羊秉に捧げた『羊秉敘』の筆致は、東晋の皇帝である司馬昱を唸らせるほどだった[6]。
また、魏の歴史書である『魏書』を完成させてもいる。曽祖父にあたる夏侯淵の子孫の事跡が、皇室以外の同時代の著名人よりも克明になっているのも、夏侯湛の『魏書』による所が大きい。しかし陳寿によって編纂された魏志(三国志)を見ると、自身の『魏書』を引き破り、それきり筆を折ってしまったという[7]。
元康元年5月壬辰(291年6月23日)、病により没した。享年49歳[8]。夏侯湛は豪族の一門であったため贅沢好きで、豪奢な衣食を好み、美食や珍味を求めた。しかし臨終に至った際には薄葬にするよう命じ、封樹も不要と遺言した[9]。潘岳は夏侯湛の死に応じて、彼を偲ぶ誄文『夏侯常侍誄』を作成した。
作品
[編集]- 『抵疑』
- 『長夜謡』
- 『秋可哀』
- 『昆弟誥』
- 『周詩』
- 『辛憲英伝』
- 『張平子碑』
- 『管仲像賛』
- 『東方朔画賛』
- 『魏書』
注釈
[編集]- ^ (中国語) 『世説新語』文学篇71注引『文士伝』, ウィキソースより閲覧, "湛字孝若,譙國人,魏征西將軍夏侯淵曾孫也。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻55夏侯湛伝, ウィキソースより閲覧, "湛幼有盛才,文章宏富,善構新詞,而美容觀,與潘岳友善,每行止同輿接茵,京都謂之「連璧」。"
- ^ (中国語) 『世説新語』容止篇66, ウィキソースより閲覧, "潘安仁、夏侯湛並有美容,喜同行,時人謂之「連璧」。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻55夏侯湛伝, ウィキソースより閲覧。
- ^ (中国語) 『世説新語』文学篇71, ウィキソースより閲覧, "夏侯湛作《周詩》成,示潘安仁。安仁曰:「此非徒温雅,乃別見孝悌之性。」"
- ^ (中国語) 『世説新語』言語篇65, ウィキソースより閲覧, "羊秉爲撫軍參軍,少亡,有令譽。夏侯孝若爲之敘,極相讚悼。羊權爲黃門侍郎,侍簡文坐。帝問曰:「夏侯湛作《羊秉敘》絶可想。是卿何物?有後不?」權潸然對曰:「亡伯令問夙彰,而無有繼嗣。雖名播天聽,然胤絶聖世。」帝嗟慨久之。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻82陳寿伝, ウィキソースより閲覧, "[陳壽]撰魏、吳、蜀《三國志》,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。夏侯湛時著《魏書》,見壽所作,便壞己書而罷。"
- ^ (中国語) 『夏侯常侍誄』, ウィキソースより閲覧, "春秋四十有九,元康元年夏五月壬辰,寢疾卒于延喜里第。"
- ^ (中国語) 『晋書』巻55夏侯湛伝, ウィキソースより閲覧, "湛族為盛門,性頗豪侈,侯服玉食,窮滋極珍。及將沒,遺命小棺薄斂,不修封樹。"