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井出正雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
井出正雅
時代 江戸時代中期
生誕 寛文6年(1666年
死没 正徳4年(1714年)5月13日(49歳没)
改名 法名:了無
別名 通称:権八郎、源左衛門
主君 徳川家綱
氏族 井出氏
父母 父:井出正良、母:服部保定の娘
兄弟 大嶋彦右衛門某室
服部保昭の娘
正相、正辰(養子)
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井出 正雅(いで まさもと)は、江戸時代武士

出自

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井出正良の子で、曽祖父井出正次である。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によると、祖父の正員[注釈 1]は遠藤を称していたが、父である正良の代で井出姓に復している[1]

略歴

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『寛政譜』には以下のようにある[1]延宝7年(1679年)14歳の時に初めて徳川家綱に拝謁、貞享元年(1684年)12月に家督を継ぎ小普請となる。

貞享3年(1686年)2月には表右筆となり、元禄7年(1694年)11月には奥右筆となる。元禄9年(1696年)12月に精勤を賞され金30両を賜う。元禄12年(1699年)12月に100俵を加賜される。宝永3年(1706年)12月には奥右筆頭となりさらに100俵賜り、家禄は400俵となる。

宝永5年(1708年)12月には布衣を許される身分となる。宝永7年(1710年)12月には納戸頭の格となる。正徳4年(1714年)5月13日に死去。享年49。

奥右筆頭への昇格は『徳川実紀』宝永3年12月10日条に「この日奥右筆井出源左衛門正雅その組頭になり」とある[2]。宝永7年(1710年)4月、新井白石が起草した武家諸法度(宝永令)が発布され、またその註解である『新令句解』が頒布された。正雅はこの新令の作成に携わった功により、幕府より時服を賜っている[3][4]

また『徳川実紀』に「奥右筆組頭井出源左衛門正雅が子半七郎(中略)父死してその子家つぐもの八人」とあるように、正雅の死後約2ヶ月後の正徳4年(1714年)7月に子の井出正相(半七郎)が家督を相続している[5][1]

『御家人分限帳』によると、正雅42歳のとき家禄は400俵で、これらとは別に役料として200俵が与えられていたとある[6]

正雅は奥右筆組頭として伝統的な曽我流の書札礼[注釈 2]を伝受されていたとされ、寛政5年(1793年)の蜷川親贇『書札法式伝来私考』に「右筆組頭井出源左衛門正雅二傳フヘキ旨仰出サレ、コレヲ傳受ス」とあり、『職員私抄』には「下馬礼の式ハ井出源左衛門正雅に傳ふ」とある[7]

これらによると、徳川綱吉の命で当時奥右筆であった蜷川親熙に曽我流が伝受され、親熙により子の親英に伝受され、更に親英が徳川家宣に願い出て正雅へと伝受したとある。由緒通りであれば、正雅への伝受の時期は、綱吉死去の直後となる[8]

しかし『書札法式伝来私考』に「正徳4申年正月源左衛門正雅死去、同年7月彦左衛門親英モ死去、ココニ於テ本家ノ傳ハ断絶セリ」とあるように、曽我流を受け継いだ正雅および蜷川親英は死去し、本家の伝承に関しては絶えたと同書にはある[注釈 3]。一方でこれらとは別経路で曽我流書札礼自体は残り、社会の変化の中で徐々に規約化され、広く流布されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 井出正信の子である井出正員ではない
  2. ^ 曽我氏以降代々伝えられてきたとされる書札礼の流れ
  3. ^ また蜷川親熙から子の親和にも伝受され、更に同族の親雄に伝受されていたが、これも断絶したとある

出典

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  1. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第千百
  2. ^ 徳川実紀6 1999, p. 638.
  3. ^ 徳川実紀7 1999, p. 97.
  4. ^ 宮崎 1958, p. 15-17、40.
  5. ^ 徳川実紀7 1999, p. 388.
  6. ^ 御家人分限帳 1984, p. 87.
  7. ^ 小宮 1992, p. 42-43.
  8. ^ 小宮 1992, p. 48.

参考文献

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  • 宮崎道生『新井白石の研究』吉川弘文館、1958年。 
  • 鈴木寿『御家人分限帳』近藤出版社〈日本史料選書23〉、1984年。 
  • 小宮木代良「江戸幕府書札礼におけるいわゆる「下馬札」伝授について」『東京大学史料編纂所研究紀要』第3号、1992年、39-54頁。 
  • 黒板勝美『徳川実紀 第六篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。 
  • 黒板勝美『徳川実紀 第七篇(新訂増補国史大系)』吉川弘文館、1999年。