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小笠原政登

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小笠原 政登(おがさわら まさなり、1685年貞享2年) - 1769年10月5日明和6年9月6日))は、江戸時代中期の紀州藩士江戸幕府旗本清広高天神小笠原氏当主。

紀州藩士・小笠原政尚の子。初名は政庸(まさつね)。通称は壱岐助、玄蕃、弥之助、善五右衛門、平右衛門。妻は紀州藩士成田氏義の娘。子に政方、政尹(政尚養子)、長儀(小笠原長賢養子)、政孝、娘(戸田定候の妻)、養女(小笠原政方の娘、松平常唯の妻)らがいる。

生涯

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藩主・徳川吉宗小姓を務め、1716年享保元年)に吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任するに伴い、江戸に移り幕臣として仕える。同年安房国朝夷郡安房郡の内に1000石を拝領し、従五位下、石見守(致仕後は安房守)に叙任される。1725年(享保10年)、上総国望陀郡市原郡に500石を加増される。1728年(享保13年)、吉宗の日光社参に供奉し、1729年(享保14年)、新番の頭役となる。1732年(享保17年)小姓組の番頭となり、奥の務めを兼ねる。1735年12月6日(享保20年10月22日)より御側御用取次に任ぜられ、下野国都賀郡に1000石を加増される。1736年元文元年)より取次の諸事を執啓する。

1745年延享2年)、吉宗の将軍辞職に伴い、江戸城西の丸に移り、1749年寛延2年)下総国香取郡に3000石を加増され、都賀郡の知行分は香取郡に差し替えられる。1751年(寛延4年)吉宗の逝去により、菊間の広縁に移るとともに、長年の勤仕を労され、時服5領を賜る。1755年3月31日宝暦5年2月19日)に致仕し、隠棲料として、廩米300俵を賜る。1769年(明和6年)、享年85にて没する。法名は高然。駒込の蓮光寺に葬られた。家督は長男の政方が相続した。

1746年(延享3年)に中風を患い後遺症が残った吉宗の症状や介護の様子を『吉宗公御一代記』全64冊に1747年(延享4年)より1750年(寛延3年)にわたって書き記した[1]

出典

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参考文献

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