右田弘量
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時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
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生誕 | 寛正2年(1461年)[注釈 1] |
死没 | 明応7年11月7日(1498年12月19日) |
別名 | 弥三郎[1] |
官位 | 右馬助、左馬助[1] |
主君 | 大内義興 |
氏族 | 多々良姓右田氏 |
父母 | 父:右田貞安 |
兄弟 | 弘量、弘如、弘高、正忠 |
子 | 興量 |
右田 弘量(みぎた ひろかず)は、室町時代から戦国時代の周防国の武将。大内氏庶流の右田氏当主。右田貞安の子、右田石見守貞俊の孫、子に興量がいる[1]。右馬助と称した。
大内義興に仕えた。明応7年(1498年)11月7日、豊後国玖珠郡青内山において軍を率いて戦うが敗れ戦死[1]。死亡した時の年齢は『大内系図』によると37歳。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大内系図』より享年から逆算
出典
[編集]参考文献
[編集]- 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345。NDLJP:780384