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藤原光忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原光忠
時代 平安時代後期
生誕 永久3年(1115年
死没 承安元年6月6日1171年7月10日[1]
官位 従二位中納言
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇
氏族 藤原北家大炊御門家
父母 父:藤原経実、母:藤原為房の娘
兄弟 経定隆通光忠懿子経宗先実通定、静経、公性、頼源、覚観
源信雅の娘
通忠、静雲、光全、藤原経家室、平維盛妾、藤原宗頼
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藤原 光忠(ふじわら の みつただ)は、平安時代後期の公卿藤原北家大炊御門家大納言藤原経実の三男。官位従二位中納言二条天皇の外伯父。

経歴

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大炊御門家の祖・藤原経実の三男として永久3年(1115年)に誕生。天治3年(1126年)に従五位下叙爵し、大治5年(1130年)に侍従に任官した。長承3年(1134年)20歳になって従五位上に昇叙。保延2年(1136年)には正五位下に進み、保延4年(1138年)に右近衛権少将に任ぜられる。

保延6年(1140年)に従四位下左近衛少将に叙任。康治元年(1142年)従四位上、久安4年(1148年正四位下と順調に昇進し、丹波介美作介備中介を兼帯した。久安6年(1150年)には左近衛中将に昇任し、保元元年(1156年)に参議に任ぜられて公卿に列した。保元3年12月(1159年1月)に従三位平治元年(1159年正三位に昇叙。

仁安元年(1166年)、権中納言に任ぜられ、翌仁安2年(1167年)には中納言に転じるが、同年中に辞退して民部卿に転任。同時に従二位に叙せられて、翌年には本座を聴された。承安元年(1171年)正月に民部卿を辞任。同年6月病のため出家するが翌日薨去。享年57。

官歴

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  • 天治3年(1126年)正月5日:従五位下に叙爵(無品禧子内親王給)。
  • 大治5年(1130年)10月5日:侍従に任官。
  • 長承3年(1134年)2月17日:従五位上に昇叙(皇后宮給。一切経供養賞)。
  • 保延2年(1136年)3月26日:正五位下に昇叙(大宮給。勝光明院供養行幸賞)。
  • 保延4年(1138年)11月17日:右近衛権少将に任官。
  • 保延5年(1139年)正月24日:讃岐権介を兼ぬ。
  • 保延6年(1140年)正月6日:従四位下に昇叙(労)。4月3日:左近衛少将に遷任。
  • 永治元年(1141年)12月1日:丹波介を兼任。
  • 康治元年(1142年)11月14日:従四位上に昇叙(主基)。
  • 久安3年(1147年)正月28日:美作介を兼任。
  • 久安4年(1148年)10月17日:正四位下に昇叙(皇太后宮給。行幸関白法性寺亭賞)。
  • 久安6年(1150年)正月26日:左近衛中将に昇任。
  • 仁平元年(1151年)2月2日:備中介を兼任。7月24日:右近衛中将に遷任。
  • 保元元年(1156年)9月13日:参議に任官。
  • 保元2年(1157年)正月24日:丹波権守を兼任。
  • 保元3年12月17日(1159年1月16日):従三位に昇叙。
  • 平治元年(1159年)11月22日:正三位に昇叙(大嘗会主基)。
  • 応保2年(1162年)正月27日:備前権守を兼任。
  • 仁安元年(1166年)8月27日:権中納言に昇任。
  • 仁安2年(1167年)2月11日:中納言に転任。8月1日:中納言を辞任。民部卿に転任して従二位に昇叙。
  • 仁安3年(1168年)正月14日:本座を聴す。
  • 嘉応3年/承安元年(1171年)正月18日:民部卿を辞任。6月5日:出家。6月7日:薨去。享年57。

系譜

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脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』。

出典

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  • 『公卿補任』(保元元年 - 承安元年)