永円
えいえん 永円 | |
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天元3年 - 寛徳元年5月20日または5月22日 980年 - 1044年6月18日または6月20日 | |
尊称 | 平等院大僧正、平等院宮大僧正 |
宗派 | 天台寺門宗 |
寺院 | 園城寺、三井平等院 |
師 | 余慶、慶祚 |
弟子 | 円信、快誉、覚助 |
永円(えいえん、天元3年(980年) - 寛徳元年5月20日(1044年6月18日)または5月22日(6月20日))は平安時代中期の天台寺門派の僧侶。致平親王の第二子で一身阿闍梨。三井平等院(円満院)初代院主で[1]、平等院大僧正[2][3]、平等院宮大僧正[4]と呼ばれる。
概要
[編集]致平親王の第二子で、母は源雅信の女[5]。余慶(919-991)に入室し、慶祚に天台宗を学んだ[2][3]。長保3年(1001年)に出家した源成信と同一人物だとする説がある [6][7]。
寛弘5年(1008年)2月26日、勝算に従い灌頂[3]。8年(1011年)4月27日に大僧都済信の譲りを受けて権律師となる[8][2]。同年7月、一条天皇の葬送の定文にて、百僧の中に入っている[9]。
長和4年(1015年)10月25日、藤原道長五十賀の法会に引頭をつとめた[10][11]。5年(1016年)2月27日、後一条天皇の即位慶賀のため参入した[10]。
寛仁元年(1017年)、十社御読経の定文にて、平野神社を任されている[12]。2年(1017年)8月29日、東宮敦良親王を加持した[10]。3年(1018年)9月27日、受戒のため東大寺に向かう藤原道長の前駆を務める[13]。
万寿元年(1024年)5月28日、車に乗って鴨川を渡っていたところ、増水して車が押し流された。永円は車からはなれて、水に入ったところを付近で畠を作っていた法師に救助された[13]。
万寿3年(1026年)1月19日、藤原彰子の出家に請用され、彼女の御頂を剃った[14]。閏5月28日、皇后藤原威子が懐妊したため(章子内親王)、御祈のため三井寺で般若御読経をした[15]。10月10日、そのお産のための五壇法で大威徳明王法を修した[16]。12月、四壇法を修した[17]。
万寿4年(1027年)9月16日、藤原妍子の葬儀にて、藤原頼任が御骨を持ち木幡に向かうのに付き添った[18]。12月28日、妍子の四十九日で七僧を務めた[13]。
長元元年(1028年)11月4日、藤原道長の一周忌で七僧を務めた[13]。3年(1030年)8月21日、彰子の御堂供養で唄師を務め、法印位を給わった[13]。7年(1034年)9月23日の一切経供養の定分にて、呪願を任されている[19]。
長元9年(1036年)4月22日、後一条天皇の遺体を上東門院に遷す際、遺体を乗せた車の後ろに伺候した[15]。5月19日より後一条天皇の葬儀で念仏した[15]。
長暦2年(1038年)6月18日、大僧正を辞し、弟子の円信を権律師に申任した[2]。4年(1040年)1月27日、後朱雀天皇の法成寺行幸により、封戸75戸を賜った[2][20]。『僧綱補任』・『扶桑略記』によれば寛徳元年(1044年)5月20日に、『寺門伝記補録』よれば同月22日に、65歳で入滅した。
僧歴
[編集]『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』による
- 寛弘5年(1008年)2月26日:灌頂。時内供奉[3]
- 寛弘8年(1011年)4月27日:権律師[8]
- 寛仁元年(1017年)12月26日:権少僧都[21]
- 治安元年(1021年)5月または4月:辞退
- 万寿2年(1025年)6月27日:権大僧都[15]
- 長元3年(1030年)8月22日:法印大僧都[22]。見法成寺別当[3]
- 長元4年(1031年)12月27日:僧正[23]。日付不詳:園城寺長吏[3]
- 長元6年(1033年)12月22日:大僧正
- 長暦2年(1038年)6月18日:辞退僧正・園城寺長吏[3]
- 長暦4年(1040年)1月27日:賜封戸75戸
- 寛徳元年(1044年)5月20日[24]または22日[25]:入滅
- 時期不明:一身阿闍梨、三井平等院院主[3]
弟子
[編集]- 円信(えんしん、1004年 - 1053年)
- 源道方の子。万寿4年(1027年)阿闍梨[26]。長暦2年(1038年)8月16日権律師。永承5年(1050年)12月30日権少僧都。天喜元年5月16日(1053年6月5日)入滅。享年50歳[27]。弟子に公覚、孫弟子に公伊[28]。
- 快誉(かいよ、1036年 - 1112年)
- →詳細は「快誉」を参照
- 雅円(がえん、1005年 - 1060年)
- 源高雅の子。永円と勧修の弟子。花林房始祖。千手院。内供[29]。長暦2年(1038年)3月18日、文慶に従い灌頂。永承4年(1049年)12月28日、菩提樹院の検校と御塔供養の賞により法橋。天喜元年(1053年)6月15日、源倫子の御入棺に奉仕する[30]。康平3年6月19日(1060年7月19日、『寺門伝記補録』)または8月18日(9月15日、『僧綱補任』)入滅。享年56歳[31][32]。
- 覚助(かくじょ、1013年 - 1063年)
- →詳細は「覚助 (僧)」を参照
- 明行親王(めいぎょうしんのう)
- 平等院。『寺門伝記補録』によれば三条天皇の第六子・無品敦元親王。行尊の師。永承7年(1052年)12月11日、明尊に従い灌頂[33]。
- 頼範(らいはん、1004年 - 1081年)
- 藤原知章の子。東林坊始祖。長暦2年(1038年)3月3日、行円に従い灌頂。延久元年(1069年)5月25日、護持僧の労により権律師[34]。延久3年(1071年)12月30日、護持僧の労により権少僧都。承保元年(1074年)12月27日、権大僧都。3年(1076年)12月辞退。永保元年8月26日(1081年10月1日、『僧綱補任』)または28日(10月3日、『寺門伝記補録』)入滅。享年78歳[35][36]。弟子に行勝[37]。
伝記
[編集]- 『寺門伝記補録』巻13
参考文献
[編集]- 山中裕編『古記録と日記上』, 思文閣出版 , 1993, p. 78
- 『栄花物語』, 小学館日本古典文学全集, 1995, p. 122p
- 摂関期古記録データベース
- 平林盛得・小池一行『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』, 2008, 笠間書院, pp. 10-11
- 『園城寺伝記・寺門伝記補録』,「大日本仏教全書」
脚注
[編集]- ^ 圓満院
- ^ a b c d e 『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』
- ^ a b c d e f g h 『園城寺伝記・寺門伝記補録』pp. 215-216
- ^ 『小右記』万寿3年閏5月5日
- ^ 『尊卑分脈』。『扶桑略記』 寛徳元年5年5月20日
- ^ 小学館 1995, p. 122.
- ^ 『永円』 - コトバンク
- ^ a b 『権記』
- ^ 『権記』寛弘8年6月25日
- ^ a b c 『御堂関白記』
- ^ 思文閣出版 1993, p. 78.
- ^ 『小右記』寛仁元年10月25日
- ^ a b c d e 『小右記』
- ^ 『小右記』、『左経記』、『権記』
- ^ a b c d 『左経記』
- ^ 『小右記』万寿3年10月9, 10日。『左経記』万寿3年10月10日
- ^ 『左経記』万寿3年12月13日
- ^ 『小右記』万寿4年9月17日
- ^ 『左経記』長元7年8月27日
- ^ 『春記』
- ^ 『左経記』。『僧綱補任』では25日
- ^ 『小右記』。『僧綱補任』では21日
- ^ 『小記目録』、『左経記』、『園城寺伝記・寺門伝記補録』p. 215。『僧綱補任』では26日
- ^ 『僧綱補任』・『扶桑略記』
- ^ 『寺門伝記補録』
- ^ 『小右記』万寿4年7月19日
- ^ 『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』 pp. 27-28
- ^ 『園城寺伝記・寺門伝記補録』p. 61
- ^ 『左経記』長元9年5月19日
- ^ 『定家朝臣記』
- ^ 『園城寺伝記・寺門伝記補録』p. 246
- ^ 『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』 p. 33
- ^ 『園城寺伝記・寺門伝記補録』p. 265
- ^ 『土右記』
- ^ 『五十音引僧綱補任 僧歴綜覧』 p. 321
- ^ 『園城寺伝記・寺門伝記補録』p. 247
- ^ 『園城寺伝記・寺門伝記補録』p. 255