藤原敦家
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 長元6年(1033年) |
死没 | 寛治4年7月13日(1090年8月11日) |
官位 | 正四位上、伊予守 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流 |
父母 | 父:藤原兼経、母:藤原隆家の娘 |
兄弟 | 基家、顕綱、敦家、時経、行源 |
妻 | 藤原兼子(藤原顕綱の娘)、藤原良貞の娘 |
子 | 敦俊、敦兼、藤原俊忠室、定円 |
藤原 敦家(ふじわら の あついえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・雅楽家。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の子。官位は正四位上・伊予守。
経歴
[編集]後冷泉朝にて、右近衛少将を経て、康平5年(1062年)左馬頭に任ぜられる。治暦4年(1068年)4月に後冷泉天皇が重態となる中で蔵人頭に任ぜられるが、任官僅か3日ほどで後冷泉天皇は崩御し、敦家は蔵人頭を辞した。
白河朝から堀河朝初頭にかけて、加賀守・備前守・近江守・伊予守と地方官を歴任する。この間の寛治元年(1087年)六条殿被仰勧賞により正四位上に至る。寛治4年(1090年)7月13日に金峰山で頓死。最終官位は伊予守正四位上。享年58。
人物
[編集]「管絃得名楽道之名匠」と評され[1]、神楽・朗詠・今様に堪能であったとされる[2]。和邇部用光に学び、秘曲「臨調子」を伝授されたという[3]。特に篳篥の腕前は素晴らしく「本朝篳篥一芸相伝棟梁」と評された[1]。
金峰山での頓死についても[4]、「敦家、こゑめでたくて御嶽に召しとどめられて御眷属となり」といわれた[5]。
官歴
[編集]- 康平4年(1061年) 7月21日:見右近衛少将[6]
- 康平5年(1062年) 3月12日:左馬頭[7]
- 時期不詳:正四位下
- 治暦4年(1068年) 4月16日:蔵人頭[8]
- 承保元年(1074年) 11月23日:見加賀守[9]
- 承暦4年(1080年) 2月15日:見備前守[10]
- 応徳3年(1086年) 10月5日:見近江守[11]
- 寛治元年(1087年) 8月28日:正四位上(六条殿被仰勧賞)[12]
- 寛治3年(1089年) 正月5日:見近江守[13]
- 時期不詳:伊予守
- 寛治4年(1090年) 7月13日:卒去(伊予守正四位上)[1][14]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。