コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原敦家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 敦家
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 長元6年(1033年
死没 寛治4年7月13日1090年8月11日
官位 正四位上伊予守
主君 後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 藤原北家道綱流
父母 父:藤原兼経、母:藤原隆家の娘
兄弟 基家顕綱敦家時経、行源
藤原兼子藤原顕綱の娘)、藤原良貞の娘
敦俊敦兼藤原俊忠室、定円
テンプレートを表示

藤原 敦家(ふじわら の あついえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族雅楽家藤原北家道綱流、参議藤原兼経の子。官位正四位上伊予守

経歴

[編集]

後冷泉朝にて、右近衛少将を経て、康平5年(1062年左馬頭に任ぜられる。治暦4年(1068年)4月に後冷泉天皇が重態となる中で蔵人頭に任ぜられるが、任官僅か3日ほどで後冷泉天皇は崩御し、敦家は蔵人頭を辞した。

白河朝から堀河朝初頭にかけて、加賀守備前守近江守伊予守と地方官を歴任する。この間の寛治元年(1087年)六条殿被仰勧賞により正四位上に至る。寛治4年(1090年)7月13日に金峰山で頓死。最終官位は伊予守正四位上。享年58。

人物

[編集]

「管絃得名楽道之名匠」と評され[1]神楽朗詠今様に堪能であったとされる[2]和邇部用光に学び、秘曲「臨調子」を伝授されたという[3]。特に篳篥の腕前は素晴らしく「本朝篳篥一芸相伝棟梁」と評された[1]

金峰山での頓死についても[4]、「敦家、こゑめでたくて御嶽に召しとどめられて御眷属となり」といわれた[5]

官歴

[編集]

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『尊卑分脈』
  2. ^ 『相承次第』政長左注
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  4. ^ 『尊卑分脈』。『相承次第』政長左注は、亡くなった場所を「熊野」とする。
  5. ^ 『梁塵秘抄口伝集』巻第10
  6. ^ 『康平記』
  7. ^ 『近衛府補任』
  8. ^ 『蔵人補任』
  9. ^ 『御遊抄』
  10. ^ 『水左記』(柳原本)
  11. ^ 『後二条師通記』
  12. ^ 『仙洞御移徙部類記』
  13. ^ 『天皇御元服諸例』
  14. ^ 『華頂要略』では14日

出典

[編集]