藤原朝元
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 長元4年(1031年)10月 |
別名 | 朝光 |
官位 | 従四位下、陸奥守 |
主君 | 三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 藤原北家小一条流 |
父母 | 父:藤原実方、母:不詳 |
兄弟 | 朝元、こそぎみ、賢尋、貞叙、義賢、菅原定義室、行資(姓不明)室 |
妻 | 藤原通経の娘、源国挙の娘 |
子 | 定成、朝方、師任、師経、実時、実任、定実、成尊、源俊房室 |
藤原 朝元(ふじわら の あさもと)は、平安時代中期の貴族。名は朝光とも表記される。藤原北家小一条流、左近衛中将・藤原実方の子。官位は従四位下・陸奥守。
経歴
[編集]寛弘8年(1011年)新帝三条天皇の六位蔵人に補される。当時の官位は正六位上・右兵衛尉。
従五位下に叙爵の後、長和4年(1015年)和泉守に任ぜられる。朝元は蔵人を辞したのち、わずか3年ほどで受領になっていることから、この任官は三条天皇の意向によるものと想定される[1]。在任中の寛仁元年(1017年)藤原教通が長谷寺に参詣した際、通過した国々では接待を受けたが和泉国のみ接待を受けなかった。そのため、教通の従者が守の朝元を責め立てると、朝元は山寺で籠もってしまったという[2]。
長元元年(1028年)9月の摂津守の除目で申文を提出するが任官は叶わず[3]、翌長元2年(1029年)正月に陸奥守に任ぜられている。位階は従四位下[4]まで昇り、長元4年(1031年)10月卒去。
官歴
[編集]- 時期不詳:正六位上。右兵衛尉
- 寛弘8年(1011年)6月13日:六位蔵人[5][6]
- 時期不詳:従五位下
- 長和4年(1015年)閏6月14日:見和泉守[7]
- 長元2年(1029年)正月24日:陸奥守[8]
- 長元4年(1031年)10月:卒去[4]
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 寺内浩「伊予守藤原為任 : 三条天皇・藤原道長と受領」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編 6』愛媛大学法文学部、1999年
- 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年