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藤原師家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原師家
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 万寿4年(1027年
死没 康平元年9月3日1058年9月23日
官位 従四位下右中弁
主君 後冷泉天皇
氏族 藤原北家中関白家
父母 父:藤原経輔、母:藤原資業の娘
兄弟 師家長房師基増誉師信家平、仁恵、珎覚、隆観、文時藤原忠家室、信子
藤原泰憲の娘、橘成任の娘
家範光家、勝覚、永仁
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藤原 師家(ふじわら の もろいえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族藤原北家中関白家権大納言藤原経輔の長男。官位従四位下右中弁

経歴

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後冷泉朝にて少納言を経て、永承3年(1048年右少弁五位蔵人に任ぜられる。左少弁を経て、天喜3年(1055年摂津守を兼ねるが五位蔵人を解かれた。康平元年(1058年従四位下・右中弁に叙任されるが、同年9月3日に卒去享年32。最終官位は右中弁従四位下兼摂津守。

逸話

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右少弁師家が以前通っていて仲が絶えてしまった女の家の前を通った所、女の家人に呼び止められたので、車を引き返して女の家に入った。すると、その女の様子がことのほか素晴らしかったので、師家は女を捨ててしまったことを後悔して弁解したものの、女はひたすら読経するばかりで、返事もしない有様であった。女はお経を唱える内に、法華経七巻の「即往安楽世界」というくだりを繰り返し誦んでいたところ、そのまま気を失ってしまい、師家や家の者が女を介抱したが、すぐに女は亡くなってしまった。師家は悲しんでしばらく山里に隠遁したところ、「世捨て人となった」と噂されたが、また出仕するようになったので、「かえる弁」と呼ばれたという[1]

官歴

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注記のないものは『弁官補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 今鏡』打聞 第10 敷島の打聞 358段 かえるの弁の事。『今昔物語集』巻31 第7 にも同様の説話があるが、女の死後師家も程なく病死したという結末となっている。
  2. ^ a b c 『蔵人補任』
  3. ^ 一説では家範の子とする。
  4. ^ 『中右記』承徳元年閏正月20日条

参考文献

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