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橋本喜造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

橋本 喜造[1](はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日[2][3])- 1947年昭和22年)2月7日[4][5])は、明治末から昭和前期の実業家政治家、長崎県多額納税[6]衆議院議員[1]長崎県会議員[1]。佐世保市会議員[6]。族籍は長崎県平民[3][6]

経歴

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小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村[7](現中津市[注 1]で、橋本半平の二男として生まれる[3][8][9]1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり[3]1898年(明治31年)1月に分家した[3]

長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業[4]。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ[7]

1891年(明治24年)から海運事業を経営し[5][7]、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市神戸市と転じた[5]。その他、長崎トロール取締役、佐賀紡績社長、堂島ビルヂング社長、長崎新聞社社長、日本タイプライター社長、龍王汽船社長、雲仙観光ホテル社長、佐世保商業銀行頭取、日本海運取締役、国際汽船取締役などを務めた[3][4][5][7]

政界では佐世保市会議員、長崎県会議員に選出された[4][5]。1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙で長崎県郡部から憲政会公認で出馬して初当選[4]。その後、1924年(大正13年)5月の第15回総選挙まで再選され、最後は新正倶楽部に所属して衆議院議員に連続3期在任した[4]。この間、憲政会総務などを務めた[4][5]

その他、港湾協会理事、日本船主協会理事、日本ホテル協会理事、大阪ビルヂング協会長、日本ビルヂング協会副会長などを務めた[4]

人物

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宗教は真宗[8][9]。趣味は書画骨董[8][9]。兵庫県在籍[8]。住所は長崎県佐世保市島瀬町[6]兵庫県神戸市神戸区山本通[8][9]

家族・親族

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橋本家

脚注

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注釈

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  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』501頁では長崎県出身。

出典

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  1. ^ a b c 『衆議院要覧 下巻』151頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年4月22日閲覧。
  2. ^ 衆議院『第三十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1917年、5頁。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』は70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月14日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』501頁。
  5. ^ a b c d e f 『兵庫県人物事典 中巻』84-85頁。
  6. ^ a b c d e f 『人事興信録 第6版』は81頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月15日閲覧。
  7. ^ a b c d 『新代議士名鑑』437頁。
  8. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第14版 下』ハ23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月14日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第13版 下』ハ23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月14日閲覧。
  10. ^ a b 『議会制度七十年史 第1』208 - 209頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月4日閲覧。
  11. ^ a b 『人事興信録 第5版』は85頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月14日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院要覧 下巻』衆議院事務局、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。
  • のじぎく文庫編『兵庫県人物事典 中巻』のじぎく文庫、1967年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。