文公 (秦)
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文公 | |
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秦 | |
第2代公 | |
王朝 | 秦 |
在位期間 | 前765年 - 前716年 |
都城 | 西垂 |
姓・諱 | 康 |
諡号 | 文公 |
生年 | 不詳 |
没年 | 前716年 |
父 | 襄公 |
陵墓 | 西垂 |
文公(ぶんこう、? - 紀元前716年)は、秦の第2代公。襄公の子。竫公の父。
生涯
[編集]襄公12年(前766年)、襄公が薨去したため、文公が立って秦君となった。
文公元年(前765年)、西垂に住んだ。
文公3年(前763年)、兵700人を引き連れて東方で狩りをした。
文公4年(前762年)、汧水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。
文公10年(前756年)、初めて鄜畤(ふじ)[1]を作り、三牢の犠牲を供えて祭った。
文公13年(前753年)、初めて史官を置いて記録をとらせた。民の同化する者が多かった。
文公16年(前750年)、兵を率いて戎を討ち、戎を敗走させた。その余民を収めて自国の民とし、岐山を境として岐山以東を周に献上した。
文公20年(前746年)、初めて三族を罰する法律を制定した。
文公23年(前743年)、南山の大梓・豊・大特[2]を討伐した。
文公48年(前718年)、文公の太子が卒去し、竫公と諡した。文公は竫公の長子を太子とした。
文公50年(前716年)、薨去し、西垂に葬られた。太子が立ち、寧公となった。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 『史記』(秦本紀第五)