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共公(きょうこう)は、秦の第11代公。康公の子。
康公12年(前609年)春、康公が薨去したため、子の稲(とう)が立って秦君(以降は共公と表記)となった。
共公元年(前608年)冬、晋が秦の同盟国である崇に侵攻した。
共公2年(前607年)春、秦軍は前年の報復として晋を攻撃し、焦(晋の邑)を包囲した。9月、晋の趙穿が主君の霊公を殺した。
共公3年(前606年)、楚の荘王が強盛となり、北上して周都の雒(洛邑)へ進軍し、周の鼎(かなえ)の軽重を問うて天下を乗っ取ろうとはかった。
共公5年[1](前604年)春、薨去し、子の桓公が立って秦公となった。
- ^ 『左伝』では宣公4年(前605年)に死去したとあるが、『史記』では在位5年(前604年)に死去したとあるので、『史記』に依る。
- 『春秋左氏伝』(文公十八年、宣公元年、二年、四年)
- 『史記』(秦本紀第五)
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君 |
- 非子 前900-前858
- 秦侯 前857-前848
- 公伯 前847-前845
- 秦仲 前844-前822
- 荘公 前821-前778
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公 |
- 襄公 前777-前766
- 文公 前765-前716
- 憲公 前715-前704
- 出子 前703-前698
- 武公 前697-前678
- 徳公 前677-前676
- 宣公 前675-前664
- 成公 前663-前660
- 穆公 前659-前621
- 康公 前620-前609
- 共公 前608-前604
- 桓公 前603-前577
- 景公 前576-前537
- 哀公 前536-前501
- 恵公 前500-前491
- 悼公 前490-前477
- 厲共公 前476-前443
- 躁公 前442-前429
- 懐公 前428-前425
- 霊公 前424-前415
- 簡公 前414-前400
- 恵公 前399-前387
- 出公 前386-前385
- 献公 前384-前362
- 孝公 前361-前338
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