森広三郎
森 広三郎(旧字体:森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日[1][2])- 1939年(昭和14年)7月13日[3])は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔[1]。
経歴
[編集]越前国今立郡稲寄村[1][4](福井県[3]今立郡稲寄村、国高村稲寄[1]、武生市[1][4]を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた[1][2]。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した[1][2]。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが[1][4]、ついに父の意思に従い中退して帰郷した[1]。
今立郡会議員に就任[1][4]。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され[1][2][3][4]、1905年(明治38年)5月まで在任し[1]、同参事会員も務めた[2][3]。1904年(明治37年)6月、福井県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し[5][6]、1911年(明治44年)9月28日まで在任[1][3]。1925年(大正14年)に再度互選され、同年9月29日[7][8]から1932年(昭和7年)9月28日まで2期在任した[1][3][4]。この間、研究会に所属した[3]。その他、村会議員にも在任した[1]。
実業界では、越前電気社長、日野川水力電気社長、福井銀行取締役、第五十七銀行取締役、福井貯蓄銀行取締役、越前製瓦取締役、大同肥料監査役、新発田貯蓄銀行取締役、東洋化学工業取締役などを務めた[1][2][3][9]。その他、三国電灯、武岡鉄道、福武電気鉄道、鯖江撚糸織物、福井絹糸倉庫、福井人絹倉庫、南越染織、旭精工、大同肥料、日満繊維鉱業、満州豆稈パルプなどの企業の創設などに参画し、産業振興に尽力した[1][4]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 福井県議会史編さん委員会編『福井県議会史 議員名鑑』福井県議会、1975年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。