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滝沢喜平治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日弘化3年2月13日[1]〉 - 1916年大正5年〉7月16日[2])は、明治から大正時代前期の政治家実業家銀行家貴族院多額納税者議員

経歴

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滝沢武平の長男として[1]下野宇都宮藩塩谷郡桜野村(栃木県塩谷郡氏家町を経て現さくら市氏家)に生まれる[3]。父は穀問屋を営んだ[3]1868年(明治元年)庄屋となり、以後戸長を経て[3]1879年(明治12年)栃木県会議員に当選する[4]。ついで塩谷郡会議員、氏家町長を務めた[5]。氏家きっての大地主で、明治新政府の殖産興業に呼応し、荒地の開墾や多くの会社、銀行に出資し経営に参画した[5]1872年(明治5年)氏家、上野原を開発・植林し、約600ヘクタールの山林を造成[5]。同年鬼怒川に12ヘクタールの桑園を開き、養蚕伝習所を設立して養蚕の普及に努めた[5]1880年(明治13年)印南丈作矢板武らと那須開墾社を設立[5]。さらに同年、県令の鍋島幹、矢板武らと共立物産を創立し良質な肥料の普及に尽瘁した[5]

実業界では、1878年(明治11年)第四十一国立銀行の創立に参画し、のち頭取を務めた[5]。その他、氏家銀行取締役、鹿沼町製麻、下野綿布、下野紡績、下野銀行、栃木県農工銀行各取締役、東海銀行、鹿沼銀行、黒羽銀行、今市銀行、白河商業銀行各監査役[6]、矢板銀行、日本製麻各取締役、宇都宮起業、金町製瓦各監査役、益子銀行、下野印刷、下野新聞各顧問、宇都宮商業会議所特別議員[1]などを歴任した。

1901年(明治34年)栃木県多額納税者として補欠選挙[7]で貴族院議員に互選され、同年5月10日[8]から1904年(明治37年)9月28日まで在任した[2]

親族

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⚫︎妻: かね ( 君島五郞左衞門二女)[9]

⚫︎長男:武七 ( 1863年生まれ、妻 いと は 黑崎利兵衞三女)[10]

⚫︎孫:民 (1885年年生まれ、武七長男、氏家銀行頭取 )[11]

⚫︎孫の妻:ため( 1891年生まれ、鹿沼銀行副頭取 金子太平 三女)

⚫︎孫娘:スヅ ( 1888年生まれ、武七長女)

⚫︎孫の夫:君島鳳吉 (1883年生まれ、片岡銀行取締役、君島彦四郎長男)

⚫︎孫娘:カド (1897年生まれ、武七娘)

⚫︎孫の夫:君島一郎 ( 1887年生まれ、朝鮮銀行副総裁)

⚫︎曾孫:竹内れい子 ( 法学士竹内悌三妻、娘は文化功労者石井幹子)

⚫︎孫娘の義父:君島五郎 (1866年生まれ、栃木県議会議員、塩原電車取締役)

⚫︎孫娘:ノブ (1900年生まれ、武七娘)

⚫︎孫娘の夫: 安居憲一郎 (1889年生まれ、東京府士族、東京府多額納税者、地主)

脚注

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  1. ^ a b c 人事興信所 1915, た142頁.
  2. ^ a b 衆議院、参議院 編 1960, 202頁.
  3. ^ a b c 栃木県歴史人物事典編纂委員会 編 1995, 374頁.
  4. ^ 衆議院、参議院 編 1960, 201頁.
  5. ^ a b c d e f g 栃木県歴史人物事典編纂委員会 編 1995, 375頁.
  6. ^ 衆議院、参議院 編 1960, 201-202頁.
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、11頁。
  8. ^ 『官報』第5354号、明治34年5月11日。
  9. ^ 人事興信録 初版 512
  10. ^ 人事興信録 初版 512
  11. ^ 人事興信録 初版 512

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995 
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034963 
  • 栃木県歴史人物事典編纂委員会 編『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。ISBN 4882860643